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 イギリスの様子が、ちょっと変なんだよね。話があるから俺の家に遊びにおいでよ、と呼び出されたカナダが、さてどういう用事なの、とコーヒーを飲みながら問いかけて、返された言葉がそれだった。イギリスの様子が、ちょっと変なんだよね。言葉を何度か頭の中で転がして考え、カナダはむっと表情を不愉快なものにした。国家間での戦争は、とうに終結している。互いの国民感情も、戦争相手ではなく、隣国へ戻っていた。
 しかしそれで二人の微妙な不仲が解消されたのかと言われれば、決してそうではないのである。時の流れが無限に近いからこそ、個人的な感情の引っかかりを、『国』はひとより長く持ち続ける。それはそうなんじゃない、とコーヒーマグを机に叩きつけるように置き、カナダは首を傾げて言い放った。僕と同じような態度で、イギリスが君に接するとは思えないし。冷たい意思をはらんだ言葉に、アメリカはむっと唇を尖らせる。
 それは『国』同士の感情の交わり合いでありながら、まるきり兄弟喧嘩のリアクションだった。カナダもそのつもりで怒っているので、深刻な域にまで雰囲気は落ちていかない。二人はそれぞれの不満をぶつけ合いながらしばし無言で睨みあい、どちらも一歩も譲ろうとはしなかった。しかし、アメリカは分かっていないことがある。心の広いカナダであるが、ことイギリスに関してのみ、カナダの沸点は異常に低く設定されている。
 イギリス譲りのグリーンの瞳が、すぅと細くなった。
「アルフ?」
 アルフレッド。人としての名の、さらに愛称で呼びかけられて、アメリカはカナダの機嫌が最低のさらに下に存在することを悟ったらしい。崖っぷりから谷底に落ちたにも関わらず、そこからスコップで穴を掘って下に進むくらいのレベルだった。アメリカは大慌てで向い合せに座っていたソファから立ち上がり、違うよっ、となんの否定かも分からない声を上げる。
「俺はなにもしてないんだぞっ! イギリスが飲んでた紅茶をコーヒーにすり替えたりしてないし、書類に『ばーかばーかまゆげー!』とかも書いてないし、靴を片方隠したりもしてないし、その様子を影から見守って笑ったりもしてないし!」
「……君がそう言うなら、信じてあげるけど。イギリスさんの態度の、なにをして変なんて言ってるのさ」
 どうせまた好意のひとかけらもない視線で見られたとかそういうことなんだろう、と呆れ交じりの声で言われて、アメリカは言葉に詰まってしまった。独立戦争からこの方、公の場であうイギリスの表情は硬く、笑顔が浮かんでいたとしても礼儀以上のものを感じ取れないようなものばかりなのだ。今では悲しいことに慣れてしまったその仮面について、初めのころは『変、イギリスが変! すごく!』とカナダに大騒ぎしていたのだ。
 もう数十年は昔のことを持ち出されて、それもあるけどそうじゃなくて、とアメリカは視線をさまよわせながら口を開く。
「あの人、俺のことをなんだと思ってるんだい……?」
「……どういうこと?」
 うっすらと、恐怖に似た感情を覚えながらカナダは問い返した。その答えを半ば、胸の中に持ちながらも隠して。『可愛い過去のアメリカ』と『独立して裏切った今のアメリカ』を別物だと捕えて、そのことでやっと破綻しないでいるイギリスの意識が、どうか伝わっていないように、と。願いながら、祈りながら、問い返した。かつてはそれを伝えようとしたこともあったけれど、もう今は遅すぎて、どちらの傷をも深めてしまうだけだから。
 お願いだから、と神に祈るように尊い気持ちで言葉を待つカナダに、アメリカはうん、とためらいがちに頷いた。
「この間の会議の後に……思い出話を、したんだ。別にそうしたいと思ってじゃなくて、なにか……なにかの……話の、流れで」
 苦しげに、アメリカは言葉を紡ぎあげていく。決して楽しい時間ではなかったんだろうな、とカナダはその表情を見て考えた。独立戦争によって胸の痛みを得たのは、イギリスだけではない。アメリカもなのだ。庇護されていた分、甘えていた分、もしかしたらアメリカの負った痛みの方が、強く激しいものであったのかも知れない。カナダはそう思う。けれど今も昔も、カナダはそれを問うことをしなかった。兄弟のことだからだ。
 そしてカナダは未だ、イギリスの庇護の中に居るからだった。息をつめながら呟いて行くアメリカをやけに冷静に見つめながら、カナダはそっと目を伏せて相槌を打った。カナダも、痛みを覚えていない訳ではない。じくりと、心のどこかで血が流れた。
「うん」
「……忘れたって、言われた方が、よっぽどマシだったよ……あの人は」
 よく晴れた日の青空。突き抜けて高い天空のスカイ・ブルーが、混乱と恐怖に揺れていた。
「あの人は俺に、なにを言ってるんだ、って。そう、言ったんだ」
「……アメリカ」
 見開かれた紺碧の空。晴れ渡ることをなによりの喜びとするような瞳に、ぶわっと涙があふれてくる。それを嫌がって、アメリカは激しく首を振った。泣きたくない。見せたくない。言葉にならず泣き叫ぶような仕草に手を伸ばし、カナダは兄弟の頭を、そっと胸に抱き寄せた。ぽんぽん、と頭を撫でてやる。血を吐くような呟きが、断続的に落とされた。
「お前が……っ」
「うん」
 いたわるように手のひらを重ねれば、白く痛みを覚えるほどに握りしめられる。それでもカナダは痛いよ、とは言わなかった。血を吐くように言葉を紡ぐ、胸の痛みはどれ程だろうと、そればかりを思っていた。うん、とゆっくり、ゆっくり言葉を促せば、アメリカは寒さに震えるように顔色を悪くしながら告げる。こみあげる涙は溢れそうでも、一筋も頬に流れていなかった。
「お前が、俺の可愛いアメリカを連れていったくせに、って、言ったんだ……。それはお前の想い出じゃない、俺の可愛いアメリカのものだ。お前のじゃない。勘違いするな。語るな、って。あの人は……アーサーは、俺を、なんで……なんでっ!」
 ごく冷静に、イギリスはそれを告げたのだと。カナダに告げて、アメリカは胸をかきむしるように片手をやり、服を握り締めた。感情が爆発する。連れて行かないで。大切な思い出を、共に過ごした愛しさを。勝手に連れて消さないで、と。悲鳴を上げるように手を握り締めるアメリカに、カナダはそっと目を伏せた。ああ、気がつかれてしまった、と静かに息を吐く。気がつかれてしまう程、イギリスが隠せなくなって来てしまった、とも。
 自由な片手をあげてアメリカの頭をそっと撫で、カナダはごく柔らかな微笑みを浮かべて見せた。
「安心しなよ、アメリカ。イギリスは……アーサーは忙しすぎて疲れてて、ちょっと混乱してるだけなんだ」
 幸いカナダは、やさしい嘘をつくのは慣れていた。イギリスにもフランスにも通用しないので、あまり使いきれた試しはないのだが、これ程までに感情をむき出しにして叫び、弱っているアメリカならば貫き通せるだろう。そう思って重ねた優しい言葉は、傷ついたアメリカの目隠しになった。そうかな、と不安に揺れながらも信じたがる声に、カナダはうん、と自信を漂わせながら肯定する。
「大丈夫だよ……心配なら、僕がちょっと様子を見てきてあげる。それで、もう一回ゆっくり話せばいい」
 だからそんな、泣きそうな顔しないの。ヒーローでしょう、と苦笑するカナダに、アメリカは恥ずかしそうに笑って。じゃあ頼むよ、よろしく、とイギリスをカナダに託した。



 カナダから連絡があったのは、全部終わった後だったよ、とフランスは語る。ブルー・アメジストの優しくも美しい瞳を悲しげに伏せて、憐れみに似た感情を浮かばせるだけで表面的な感情を留めた。その深すぎる感情を誰かに伝わせるのを嫌がったようでもあり、イギリスとカナダに対する、フランスのささやかな独占欲の現れのようでもあった。そう広くもない部屋の中は、しんと静まり返っていて時計の音だけが響いている。
 誰も口を開けなかった。
「アルフレッドからアーサーの崩壊を……それが、明るみに出てしまったのを知ったマシューは、すぐイギリスへと向かった。そこで……そこでカナがなにを見て、なにを考えて、どういう結論を出したのか、本当のトコロ、お兄さんは知らないんだよ。カナはぼんやりしてるけど、あれで意思が強くてガンコなトコがあるからね。教えてくれたのは一欠片。今後必要なことと、好奇心で踏み込まれない為の、ほんのすこしの情報だけだ」
 フランスさん、とどこかしたったらずな甘い呼びかけが耳によみがえる。フランスさん、フランシスさん、と。『国』と、『個人』と。どちらの意思にも頼るように、すがるように、託すように呼びかけられたあの日の響きが。よみがえって、だから、フランスは言葉をなくしたアメリカをまっすぐに見つめた。受け止める方も辛いだろうが、告げる方も辛いのだ。それでも語らなければいけない言葉が存在する以上、フランスはためらいなく告げる。
「『だってイギリスに、アメリカを返してあげなきゃいけないでしょう』って、カナは言ったよ」
 カナはね、と。国名を呼ぶでもなく、人名を口にするでもなく、その中間の柔らかな愛称を甘く唇に乗せて。フランスはカナはね、とかつての愛し子、養い子の想いを語った。
「『そんなのは悲しすぎるでしょう? アメリカもイギリスも、アルフレッドも、アーサーも……国の具現としての痛みも、人という存在としての悲しみも、ずっとずっと続いてしまうなんて、大切な人たちがそういう風になるだなんて、僕は我慢できないんです。だからこれは、僕のわがまま。カナダであり、マシューである僕の……二人の家族に対する愛情の、ひとつの証なんです。二人を守る為の、そして……愛する為の』」
 ひどいですよね、と深く眠るイギリスを腕に抱いて、カナダは微笑んだ。フランスの思い出の中、鮮やかにその光景が蘇る。連絡を受けて駆けつけた一室で、カナダは微笑んでいた。薄い緑と淡い紫がゆらゆらと揺れながら入り混じる瞳に、『妖精との契約者』の証に、涙を浮かばせながら。頬に幾筋もそれを伝わせながら、そっと、微笑んだ。儚い恋を胸に抱き、それを成就させながらも、諦めてしまった者の表情で。



 休暇を取ったので尋ねます、とカナダが伝えることができたのは、イギリス本人にではなく、屋敷を管理する執事にだった。お待ちしております、と返された声はいつにもまして重々しく、カナダは電話口でもついた溜息を、重厚な屋敷を前にしてもう一度ついてしまう。イギリスの声が聞けなくて気落ちしていることもあるが、それだけではない。イギリスの状態が屋敷の住人に、なにより愛す国民に気取られるほどの状態だからだ。
 ためらいの時間は長くは続かず、カナダは見事に整えられた前庭を横切り、屋敷の扉を叩いた。出迎えてくれたのもやはり、イギリスに長く仕える老執事とメイド長で、表情はどちらも、明るいと言い難い。カナダはそんな二人に、優しく微笑みかける。
「……イギリスは、どこに?」
 カナダが来ることを知らせていなかった筈はないし、そうでなくとも、イギリスが来客を放っておくことはない。特別な例外として海を隔てた隣国が存在するが、それだって、時と場合によってはきちんともてなしさえする。招待した訳ではなくとも屋敷に来る者は、できる限り歓迎する。それがイギリスの流儀なのだ。それなのに、姿がない。だからこその問いかけに、メイド長はカナダの荷物を預かりながら、老執事へと目をやった。
 屋敷の全てを把握する主人想いの執事は、深く溜息をついてお部屋にいらっしゃいます、とそれだけを告げた。出てきません、とも。イギリスの拗ね方は、あれで案外こどもっぽい。立てこもって出てこないことなど、日常の一つなのだった。くす、と思わず笑ってしまいながら頷いて、カナダは穏やかな口調で大丈夫ですから、とささやいた。
「しばらく、近寄らないで……必要になったら、必ず、お呼びします。今は僕がなんとか出来るかも知れないってだけで、イギリスに必要なのは、貴方たちみたいな身の回りの世話をしてくれる人たちです。あなたたちは、英国民。『国』に、愛情を注いでくれる国民なんですから」
「……旦那様を、お願い申し上げます」
 深く、深く頭を下げて告げる執事に笑顔を向けて、カナダは見知った屋敷の中を一人で進んでいく。目を閉じて思い浮かべるほどに通ったことはないが、案内がなくても苦を覚えぬくらいには、屋敷の中を知っていた。イギリスの居室は、奥にある。立てこもっているのも、その部屋だろう。ふと目の前を横切る淡い光に目を瞬かせ、カナダは思わず柔らかな微笑みを浮かべて大丈夫だよ、とそれに囁きかけた。
「なにも悪いことなんかしないから。僕を信じて?」
 そっと伸ばした指先で光の玉をすくい上げ、口づけながら囁けば恥ずかしそうに明滅する。母国イギリスの精神が弱っているからなのか、普段なら姿をはっきり見られる妖精たちと、目を合わせて告げてやれないことが辛かった。姿を、はきと視認できない。気がつけば柱の陰にも廊下の端にも、いくつもいくつも、弱い気配やその残滓が漂っていて。苦しく息を吸い込み、カナダはイギリスを思った。この状態を、なんと思うだろう。
 愛しい妖精たちが英連邦の一員に、姿を見せることができない程に弱ってしまったことを。その状態でも愛しいイギリスを心配して、カナダの前にこうして姿を見せたことを。どんな風に悲しんでしまうのだろう。あの人はすぐ泣いてしまうから、と切なく目を細め、カナダは決意を新たにして足を速め、かたく閉ざされたイギリスの部屋の前に立つ。ノックは二回、ゆっくりと。間をおいて三回繰り返し、カナダはゆっくりと口を開いた。
「開けて」
 命令よりは弱く、懇願よりは強い『望み』に、妖精たちは見事に応えた。かしゃ、と鍵の開く音が響き、カナダはまっすぐに前を向いたままで感謝を口にする。どうもありがとう。イギリスの愛し子にして英連邦たちの兄役、そしてアーサーに捧げているカナダの言葉に、妖精たちは鈴鳴りに似た笑い声を響かせた。ふふ、と笑いの気配だけを後に残し、カナダはためらいなく扉を開けて。すぐ出会った強い眼差しに、足をとめた。
「イギリス……アーサー」
「なにをしに来た、カナダ」
 椅子にゆったりと腰掛けて足を組み、手のひらが柔らかに組み合わされている。会議の時のような、それでいてすこし砕けた姿に、カナダは静かに息を吸い込んだ。自然に背筋が伸びるのは、そうした姿に畏敬の念が浮かぶからだ。怒りかそれ以外の感情にか、暗がりの中でも輝く瞳は、なにより美しいセレスティアル・グリーン。神秘を宿す、森の瞳。そんなに睨んでも怖くないよ、と呟いて、カナダはうっとりと目を細めた。
「様子を見に来たんだよ。妖精たちがアーサーが大変って言うから、心配で」
「はっ。『あの』アメリカに言われたから、だろ?」
「僕の兄弟が悲しんでたから、だよ、アーサー」
 勤めて感情を込め、静かに人の名前を呼んだカナダに、イギリスの態度は変わらなかった。ますます固くなった気配をまとわせ、瞳の輝きが苛烈なものになる。息が苦しいと、錯覚してしまうほどの威圧感。アーサー、と呼んだカナダに、イギリスはゆっくり首を振った。
「カナダ。お前のアメリカは死んだんだ」
「……アーサー。僕の兄弟は、マシューの片割れは! アルフレッドは生きてるよ。アメリカ合衆国。彼が、そうだよ」
「お前まで、そう言うのか?」
 怒りより、突き落とされた悲しみが濃い声だった。
「お前まであれが……俺から独立した! あの男が! 俺のアルフレッドだって! 俺のアルフだって! アメリカ! 可愛かった、俺の……っ、お前まで! お前までっ!」
 だんっ、と力いっぱい肘当てをこぶしで叩いて、アーサーが叫ぶ。嫌だと、信じないと首を振りながら、現実を拒絶して泣き叫ぶ。
「独立なんて……させないっ! 許さないっ! 愛してるんだっ! 愛して……嫌だ、嫌だっ!」
「……っ! アーサー、やめて手から血がっ!」
「戦うなんて……ああ、あああっ! お前と、殺しあうなんてっ……独立、なんてっ! 嫌だっ! 嫌だ、嫌だいやだっ……国民が決めたら、俺はもう逆らえないのにっ! お前を敵だって、殺せって言われたら、どうするつもりなんだっ!」
 走り寄ったカナダが、叩きつけられるこぶしを手首をつかむことでやめさせる。皮膚が擦り切れて血がにじむ手のひらも、つかんだ手首も、悲しいくらいに痩せてしまっていた。肌も荒れてしまっている。アーサー、イギリス、と呼びかける間も熱に浮かされたように叫ばれる言葉に、カナダはなぜ、この存在があんなにも独立を拒絶し、受け入れていなかったかを知る。国の化身は、それぞれ『個』として独立した意識を持っている。
 それは『国』として国民の意思を反映するのとは違い、ひとつの存在としての意識であり、気持ちなのである。もちろん、国民の意識に引きずられてその時の趣味なり、好みの傾向が出ることは多い。けれど本当は、別物なのだった。二つ、別々にあるのだ。体の中には常に二種類の意識があり、切り離せずに入り混じり、時々ひどい混乱に見舞われる。あまり国民の意識に、『国』に引きずられないようにはしているのだけれど。
 スイッチを切り替えるように『国』と『個人』を分けられる時も、そうではない時もあって。今のイギリスは完全に、『国』の意識に飲み込まれてしまっている状態だった。だからこそ、『個人』の感情が泣き叫んでいるのだろう。ずっとずっと、そうだったに違いないのだ、本当は。アメリカに独立を告げられた日から、ずっと。混乱してしまって、飲み込まれてしまって、でもそれを覆い隠すことばかりが上手で『本当』を誰にも悟らせないで。
 カナダも、気がつくことができないで。触れ合うことも、癒すことも、できなくて。見つけることができなくて、限界まで隠されてしまって。そうしているうちに、もうどうしようもなく、イギリスの中で混乱と痛みは広がってしまっていた。暴れるイギリスを有無を言わさず抱きしめて、カナダは唇を噛んだ。声を殺して泣きながら、イギリスはカナダの腕の中に収まっている。誇り高いひとの瞳から、壊れた蛇口のように涙がこぼれた。
「お前も……」
「……え?」
 しゃくりあげる間に呟かれた言葉を聞き取れなくて、カナダはイギリスを見下ろした。泣き濡れた瞳がぼんやりと、カナダの姿を映し出している。血の気を失った唇が、声もなく動く。お前も、俺を。置いていくんだ、と。そこまで言わせてしまう前に、カナダはイギリスの唇を塞いでいた。重ねるだけ。熱を分け与えることもできずに重ねるだけのキスを何度も、何度も繰り返して、そうするうちにカナダの目からも涙がこぼれおちていく。
 どんな言葉をかけても、今のアーサーには届かない。いくら名を呼びかけても『カナダ』としか呼ばないイギリスには、どうしても気持ちが届かない。国なんて関係ないのに。愛おしくてただそれだけで、ひたすらに想っているだけなのに。その簡単な事実すら、今のイギリスには受け入れられない。裏切られた痛みが強すぎて、なにもかもを拒絶してしまっている状態では。言葉も口づけも、感情も、熱も、なにもかもが響かない。
 視界がにじむ。う、と情けない呟きが喉から漏れてしまえば、もう涙が止まらなかった。ぎゅっと目を閉じて泣いてしまっていると、カナダの頬を指先が撫でる。痩せてしまっても、血の気を失っていたとしても、変わらない優しさと仕草。目を開けば完全に理解できていないながらも、カナダを心配してどうした、と尋ねてくるイギリスがそこに居て。なんでもないよ、と告げる代わりに、カナダはそっと唇を重ねた。乾いた唇を濡らすキス。
 好きで好きで、好きで、好きすぎて。愛しているとは、上手く告げられなかった。
「……ねえ、イギリス」
 思い出す、思い出す。いつの日か夢に眠りに行く前に、イギリスが語った物語が耳によみがえる。知ってるか、アルフ、マシュー。妖精は優しくて可愛らしいけれど、時に残酷なこともする。愛した者の願いを叶える代わりに、一番大切なものを奪っていくんだ。妖精たちは悪くない。ただ彼女たちの愛し方がそうなだけだ。一番大切なもの。一番大切な思い出やきらめき、それを我が物とすることこそ妖精の愛情、愛し方なのだから。
 覚えておいで、妖精たちは悪くないこと。覚えておいで、神秘の力が世界にあること。
「イギリス、イギリス……アーサー」
「……マシュー?」
 たどたどしい呼びかけに、今度こそアーサーが応えた。ぼろぼろと涙をこぼすマシューの姿に、悲しんでいることに、戸惑いと苦しさを覚えた表情で。どうした、と問いかけてくるのに、マシューは愛おしく微笑んだ。
「大好きだよ。フランスさんの次に僕を育ててくれた人。喜びも悲しみも、あなたが居れば輝いた。僕に恋を教えてくれた……僕の恋を叶えてくれた大事な人。大好き……大好き」
 マシュー、どうした、と困惑に呼ばれる名から、感じるのは幸福だけだった。はぁ、と息を吐きながら、マシューはアーサーを抱きしめる。体温も感触も、ひとつ残らず覚えておきたかった。覚悟はもう、決めていた。
「大好きだよ。僕に家族をくれた人。僕に兄弟を、巡り合わせてくれた人……僕の幸せ」
「カナ?」
「……今、あなたに返します」
 言葉を、重ねるだけの幼いキスで封じ込めて。唇をわずかに離し、カナダは鋭く言葉を発した。
「妖精よ! 契約を望む!」
 カナダっ、と悲鳴交じりの叫びは暴風にかき消されて響かなかった。部屋の家具も小物にも影響せず、ただカナダとイギリスの体にのみ吹き付ける風は、妖精の体が放つ輝きと同じ色をしていた。イギリスはカナダ以上に、その現象の意味を知っている。妖精の神秘を、ひとが呼ぶ奇跡を、望んで喚びこんだからこその現象。影響は対象者にのみ現れる。契約をするのはカナダで、そしてその願いが向くのはイギリスだった。
 だからこそ恐怖にひきつった表情で目を見開くイギリスに、カナダはそっと微笑みかけた。そして、安心させる為の微笑みをそのままに、残酷な言葉を口にする。
「僕の、一番の望みを叶えて。妖精」
『いいの?』
 愛しいカナダ、可愛いカナダ。いいの、いいの、と妖精は問いかける。強い風に神秘の力、奇跡のかけらを散りばめて。あとは行使するばかりの張り詰めた力と静寂の中、鈴の音に似た声で問いかける。一番大切なものと引き換えに叶える願いを、あなたは本当に望むの、と。いいよ、と吐息に乗せて囁きながら、カナダは腕の中、可哀想なくらい硬直してしまっているイギリスを見つめた。この人のことが、なにより大切だった。
 それと同じくらいに、この存在を傷つけて去った兄弟を、愛していた。三人で過ごす時間が幸せで、かけがえない安らぎはその場所にあった。失われてしまったそれは、もう取り戻せないのだけれど。全部過去に置き去りにしてしまって泣き叫ぶ愛おしい人に、今、カナダの内側にあるきらめきを渡す。返そう。全てすべて、目の前の愛おしい人から貰ったものだから。イギリス、とカナダは呼んだ。アーサー、とマシューは囁いた。
「あなたに、僕のアルフレッドをあげる。僕の、アメリカをあげる。。僕、の大切な兄弟をあげる。……だから、アメリカを認めてあげて。アメリカ合衆国。彼は……彼が、アルフレッドだよ。あのアルフレッドが、アメリカ合衆国だ。あなたが育てた彼は、今もそこに、ちゃんといるんだよ。認めてあげて、分かってあげて……? あなたの苦しさも、あなたの悲しさも、彼の痛みや流せない涙も。それで、もう、終わるよ。終わるんだよ……!」
「マシュー。マシュー……カナダ?」
「僕の一番の望みは、貴方が笑うこと」
 晴れやかな誇り高い笑顔で、カナダは言った。イギリスの忠実なる長女とされる英連邦の一員として、胸を張って断言した。
「あなたの心が、笑うこと。……さあ、妖精。叶えて、叶えてっ!」
「カナ、カナダ……マシュー! 分かった、分かったから! ダメだ! やめろっ!」
「聞かない。……もう、遅いもの」
 砂時計の中で落ちていく、時の音を聞いていた。告げられた望みを契約として叶えるべく、妖精たちの力が行使される。その瞬間、カナダはなにを奇跡の代償として差し出したのかを理解した。どこか遠く、遠くで風が吹いている。ゆっくり大地を削るように、なにかが失われて行っている。カナダを見つめるイギリスの瞳に、不安と困惑がよぎった。失われて行っているのだ。今この瞬間も。カナダの一番大切なものが失われている。
 カナダを愛したイギリスが、消えていく。イギリスの中からどんどん、カナダの記憶がこぼれおちていく。歯を食いしばって『なにか』を耐える表情になるイギリスから、淡くグリーンに光る砂粒が零れては、消えていく。さよなら、とカナダは告げた。目を固く閉じて、心を閉じて。ごめんね、と謝りたい気持ちを封じ込めて。イギリスが覚えておける最後まで聞いていてほしいと、名を呼んだ。好きより、愛してるより、恋の言葉だった。
「イギリス」
 忘れない。あの優しい微笑み、美しい声。朝には額におはようのキスを、夜には頬におやすみのキスをくれた。
「イギリス」
 忘れない。転べば、立ち上がるまで待ってくれたこと。泣かなかったのを褒めてくれたこと。抱きしめてくれたこと。
「イギリス……アーサー」
 忘れない。春に咲く花の名前。夏には星座の話。秋にくれたマフラー。冬のミルクティー。
「アーサー、アーサー」
 忘れない。眠れない夜に手を繋いで、囁いてくれた妖精たちのおとぎばなし。火に照らされた横顔。
「アーサー」
 忘れない。海を見つめていた姿。一人きりのその背中。呼びかければ振り向いて、手を差し出してくれたこと。
「イギリス」
 忘れない。目を細めて囁かれる名前。愛されていると疑うこともなく、信じられていた響き。
「――カナダ。……マシュー?」
 忘れない。忘れない。最後の最後に、愛おしく呼んでくれた名前の響きだけは。絶対に。



 昏々と眠り続けるイギリスの顔色は、倒れた時と比べれば血の気がわずかに戻っていた。ほっと息をはいて胸をなでおろし、カナダはベットのすぐ横に寄せた椅子に腰をおろし、肘をついてイギリスの寝顔を見つめる。視線を感じても起きないのは、イギリスがただ眠っている訳ではないからだ。妖精との契約をはねのける程に強い意思で、一時的に思い出してしまったからこその、意識遮断現象。精神的な昏睡状態なのだ。
 あの時。妖精たちは確かにカナダの願いを叶えこそしたが、契約における代償は完全に支払われた訳ではなかった。カナダに問題があったわけではない。妖精たちが手心を加えたわけでもない。イギリスが抵抗して、完全に『カナダ』が消し去られる一瞬前に己の記憶、己の想いをガードしたのだ。さすがはブリタニアエンジェルを名乗って奇跡の力を行使できる、摩訶不思議老大国だ、とカナダは思い切り苦笑するしかない。
 イギリスはカナダを忘れたのではない。カナダを目の前にして、その認識が出来なくなっただけだった。目の前にして言葉で訂正したその一瞬だけ、イギリスはカナダを正確に認め、変わらぬ微笑みでもって接してくれる。その状態で恋を考え続けるのはさすがに無理があったのか、想いは認識と共に意識の奥深く、封じ込められているようなのだけれど。眠るイギリスの髪を撫でて、カナダはそっと微笑する。嬉しかった。
 心が、弾んだ。
「ありがとう」
 笑みが、こぼれた。
「アメリカを……アルフレッドを、認めてくれてありがとう」
 未だ、素直になれなくて口喧嘩が絶えない二人の仲だけど。それはイギリスが『昔のアメリカはあんなに可愛かったのに!』と主張するから起きるだけで、過去と現在がイコールで結ばれているなによりの証だ。カナダが差し出したアルフレッドが、イギリスの中で生きている証拠だ。望みが叶えられた証拠だった。今、イギリスは笑っている。ふふ、と幸福な笑みをもらしてカナダは眠るイギリスの手を取り、強く頬に押し当てた。
「……一瞬、でも。思い出してくれて、ありがとう」
 好きで。好きで、好きで、好きで仕方がなくて。いつの間にか愛してもいた人の名を、カナダは幸せな声で呟いた。
「ありがとう、イギリス。……アーサー」
 ゆっくり眠ってて、と言葉を落として手を離し、その指先が濡れているのを見て初めて、カナダは自分が涙を流していることに気がついた。顔に手を押し当てて深呼吸を繰り返し、気持ちを落ち着かせながら立ちあがる。そして最後に、身を屈めて眠るイギリスに、重ねるだけの幼い口づけを送った。そういえば、とくすくす肩を震わせる。イギリスの頬に、涙が散った。
「この先……教われなかったね」
 やり方くらいは、もう知っているのだけれど。残念です、と甘く苦笑して、カナダはイギリスから身を離した。イギリスが目覚めた時に、カナダが居るのはまずいからだ。また思い出してしまえば、イギリスの体にどんな負担がかかるか分からない。しばらくは会議でも、傍に寄らない方がいいだろう。遠くから見守るだけに、しなければ。大丈夫、大丈夫、と言い聞かせてカナダは部屋の扉を開け、音を立てないようにして出て行った。
 数時間後、目覚めて。誰もいない部屋の中、イギリスはそっと頬に手を押し当てる。
「……   ?」
 唇が綴ったその名は、けれどまだ、失われ。忘れられているままだった。

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