ミトンをはめた手でオーブンの取っ手を握り、マシューは一息にそれを開け放った。ぶわっと音が立つような勢いで熱気が吹き出し、むせかえるような甘い香りが空気に溶けていく。香ばしい小麦粉と、砂糖の溶けた甘いミルクの混じり合った幸せな匂い。生地にも塗り込み、表面にも薄くハケで塗ったメイプルシロップはうまい具合に焦げることなく、クッキーにしっとりと染み込んだようだった。生地はきつね色に焼きあがっている。
鉄板を取り出し、オーブンペーパーに均等に並んだクッキーをしげしげと眺め、マシューは満足げに頷いた。熱々なのでまだ味見はできないが、実に色良く形良く香り良く、焼き上げることができた。メイプルクッキー。その文字だけで幸せがこみあげてくるようなとびきりのお菓子は、マシューの気持ちをふわふわと浮き立たせた。鼻歌を囁きながらエプロンを外し、マシューは用意しておいたラッピング用品を手に、ふと時計を見る。
クッキーの焼きあがりを、張りついて見守っていなければいけない理由はどこにもなかった。しかし生地が熱でとろりと溶け、含まれた空気と卵によって膨らんでいき、それからじりじりと焼きあがって色を変えていく工程を見ているのがマシューはとても好きで、結局のところはいつも、オーブンに入れてから焼きあがるまでの十五分から二十分を、クッキーと一緒に過ごしてしまうのが常なのだった。時間は、飛び越えて過ぎる。
ようやく視線を向けられた時計は、カチコチと音を立てて秒針を進ませることで、マシューに無言の抗議をしているようでもあった。どうして、もっと早く見つめてはくれなかったのかと。マシューが希望していたより短針は傾いており、長針はぐるりと大きく回っていたようだった。ええと、と未だ十分は冷めないクッキーを前に、ラッピング用品を手にして首を傾げる。家を出る予定時間を、どう見ても過ぎているようにしか見えなかった。
マシューは考える。一応、マシューとて時間を計算して作業に及んでいたのだ。材料の軽量も、混ぜる工程も、生地を休ませて全体を落ち着かせる時間も。オーブンを温めるのも、生地を焼くのも、冷ます時間も。前日にきちっと計算して紙に書いて、はじめたのだ。うーんうーんと頭を悩ませ、マシューはひとつの結論に辿りついた。もしやその紙が見つからず、探すのに手間取ってしまった故の誤差ではないのだろうか、と。
甘い匂いに誘われたのか、クマ次郎さんがキッチンにやってくる。そして立ちつくすマシューを見上げ、クマ次郎さんは予想していた通りであると、そう言わんばかりに息を吐き、もふもふもふ、と飼い主の脚に手で触れた。くすぐったい、と笑いながらすぐにクマ次郎さんを抱き上げ、マシューはなぁにー、ととろけそうな甘い声と笑顔で首を傾げてみせた。愛すべき飼い主馬鹿にも慣れた様子で、クマ次郎さんは呆れ顔で口を開く。
『出カケルンダロ?』
「うん。でもねえ、もう遅刻しちゃってるんだよね……どうしようねえ」
困ったなぁ、とのんびりクマ次郎さんに頬ずりをするマシューに、そこで大慌てで支度をする、という選択肢は存在していないらしかった。出かける先は国外であるから、飛行機のトラブルがあった場合を想定して、相当余裕を持ったスケジュールになっている。一本や二本、フライトがずれたからと言って到着してからの待ち合わせには支障がないからこその落ち着きなのだろうが、それでもすこしくらい慌ててみればいいものを。
そう思って、クマ次郎さんは溜息をついた。
『行キタクナイノカ?』
「……そういうんじゃないよ」
そういうんじゃない、と繰り返し否定して、マシューは紫と緑の二色が揺れる幻想的な瞳を、切なげに細めてみせた。マシューが出かける前にクッキーを焼いていたのには、きちんとした理由がある。それを人づてに、アーサーに渡してもらう為だ。一緒に待ち合わせして出かける相手は『シーランド』だったが、それは英国で催される個人的な茶会から、逃げたいという英連邦の変則的な弟分たっての願いを聞き届けたからである。
それがなくとも、マシューはクッキーを焼いて、それをどうにかアーサーの元に届けただろう。英連邦は愛と結束の力でアーサーのスコーンを食べて体調を崩さない、という極めて有能なスキルを保持しているが、それは『他国』にあてはめられることではないからだ。アーサーが個人的に客を正体し、茶会を開くと聞くたびに、マシューはこっそりとクッキーを焼いては席に届けてもらう。時に、元育て親であるフランシスに頼んで。
時に、妖精にそれを託して。メイプルの甘いクッキーは食べた瞬間にその製作者を知るに十分な一品だったが、未だにアーサーは、それが『誰がつくったもの』かを判別できないでいるらしい。妖精の魔法と封印は絶対だ。時に綻びを見せたとしても、瞬く間に修復してしまう。先日のように。きゅぅと唇を噛み締めて、マシューはもう手に取れる程には冷めたクッキーに視線を向ける。そういうんじゃないよ、ともう一度、言葉が落ちた。
「……誰に渡してもらおうか、考えてただけ」
フランシスさんは、電話したらもう家に居なかったから。そうすると菊さんを空港で御待ちして渡すのが一番かな、とひっそりと呟いたマシューに、クマ次郎さんはなにも言わなかった。問いかけてそれに対する答えが正確に返ってこないのであれば、それをマシューが口にすることはない。ヤレヤレ、と内心で溜息をつきながらクマ次郎さんはマシューの首に腕を回し、珍しい甘えに体をすり寄らせた。ふふふ、と嬉しげな笑いが響く。
「なぁに、クマ次郎さん。寂しいなら、一緒に行く?」
『行カナイ。待ッテル』
帰リヲ待ッテル、と呟いて、クマ次郎さんはじっとマシューの目を見つめた。浮かんでいた悲しみの色は消えていて、今はほんのわずかな切なさと、微笑みの気配が漂う瞳。涙さえ浮かべない瞳。じっと見つめて、クマ次郎さんは行ッテラッシャイ、とたどたどしい発音で告げる。マシューの、眉が泣きそうに歪んだ。うん、とマシューは頷く。うん、うん、と何度も頷いて、唇を噛んで。行ってきます、と言ってクマ次郎さんを抱きしめた。
時計を見ると、出かける予定の三十分前だった。これだけ時間があれば、絡まれたとしても予定通りに家を出て、空港まで辿りつくことができるだろう。うん、と一人で頷き、ピーターはそぉーっと扉を開いた。音を立てないように扉を開いて行くのはピーターにしてみれば至難の業だったが、これが被害状況を左右するので、やってできないことはない。かくして頭ひとつ分だけ開いた隙間から、ピーターはひょこりと顔を覗かせる。
あらかじめ予想していたので咳き込むことはしなかったものの、ピーターは室内に漂うアルコールの匂いに、思い切り顔をしかめて口元に手を押し当てた。せめて換気くらいして欲しいと思いながら窓を見ると、意外なことに、すこしだけ開いている。妖精が気を利かせてくれたに違いなかった。それなのに室内に籠ってしまう酒臭さはいったいどれ程飲めばこうなるのかと呆れるが、その答えは当然、床にごろごろと転がっている。
まさしく足の踏み場すらない、と形容するに相応しく酒瓶がばらまかれる中、二人の大人は床に倒れるようにして眠っていた。もしかしたら本当に倒れた結果なのかも知れないが、その原因は飲み過ぎではないだろうな、とピーターは溜息をつく。保護者とその腐れ縁はなぜか一緒に飲むことを好むものの、それでいて仲が良いというわけではなく、酒が進むと九割以上の確率で喧嘩をする。じゃれあいの延長線としての喧嘩だ。
はじめてなし崩し的に二人の酒盛りに付き合わされた時、その光景を見たピーターは、オレンジジュースを飲みながらしみじみ思ったものである。決して、決して、こんな大人にはなるものか、と。こんな『国』になるのも止めるのですよー、とげっそりした息を吐きだし、ピーターは酒臭さに顔をしかめたまま、そっと息を吸い込んだ。この状態であれば放置して出かけても構わないのだが、それでも一応、言っておくのが礼儀だろう。
「アーサー……フランシスー……? 僕はお出かけしてくるのですよー」
別に朝起きて、突発的に外出予定を決めた訳ではない。数日前から決めていた予定であるので、ほとんど屍になっている保護者も、それを知っている筈だった。昨夜は酒盛りの隣で、出かける先の情報をパソコンで調べていたくらいなのだ。昨夜の記憶は八割方吹き飛んでいるだろうが、それでも脳内にはかすかに残っている筈で、忘れてしまっていても妖精が助けてくれる筈だ。駄目な保護者は、妖精に愛されている。
なんでこんなダメなのが好きなのですか、と呆れながら問いかけの目を向けると、妖精たちはくすくすと笑いながら舞い降りてきて、ピーターの頬にキスをする。
『じゃあ、あなたはどうしてアーサーが好きなの?』
「……うー!」
『可愛い海の子。道行きに幸福がありますように』
それは神秘の力を込められないただの祈りでしかなかったが、ピーターは確かに守護を得たように、明るく微笑んで頷いた。『国』にとって、祈りとは確かに力なのである。胸に灯った温かさを感じたがるように手を押し当て、ピーターは扉からひょい、と顔を抜いて閉じてしまおうとしたのだが。空気の動きか、はたまた養い子の囁きが意識を揺らしたのか、その時もそりとアーサーの頭が動く。うー、と頭の痛そうな呻きが響いた。
べつに起きなくてもよかったのですけれどー、と照れ交じりの表情で出ていくのを止め、ピーターはすこし迷ったあげく、部屋の中にするりと体を滑り込ませた。海上要塞の動きに、妖精たちはくすくすと笑いながら風を起こし、幼い存在が呼吸しやすいよう、室内の空気を入れ替えてやる。寝起きで、換気が寒さを呼び起こしたのだろう。ふるりと体を震わせながら体を起こし、アーサーはぼんやりとした様子でピーターを見つめた。
やけに幼い仕草で首を傾げられるのを見て、ピーターは酒瓶を避けてぴょんぴょん飛び上がりながらアーサー近寄りつつ、盛大に溜息をつく。その仕草ひとつで、なにを疑問に思っているのか分かってしまうから嫌だった。だってそんなことで理解してしまうだなんて、アーサーが好きすぎるようで、恥ずかしいではないか。ううぅ、と頬をほんのり赤くそめながらアーサーの前に辿りつき、ピーターはまず、胸を張って言い放つ。
「おはようございます、なのですよー!」
「……good morning. my dear.」
ぼんやりとした口調でもそもそ呟くアーサーは、二日酔いなのだろう。額に手を当てて沈黙してしまい、挨拶以外の言葉を出せないでいるようだった。全く予想通りの状態だったので同情することもなく、ピーターはちらりと酒瓶の無いテーブルの上に視線をやった。なぜかそこだけきちんと整えられているテーブルには、中身のたっぷり入った水差しと、コップが二つ置かれていた。レモンの輪切りも、ぷかぷかと浮いている。
二日酔い対策はバッチリできていた。二日酔いにならない程度に飲む、という選択肢が存在しないだけなのだった。どうしようもない大人ですよー、と息を吐きながら、ピーターは無言で頭痛に耐えるアーサーに告げる。
「ピー君は今日はおでかけなのですよー。マシューお兄ちゃんと水族館なのです! なので僕はもう出かけるのですよ。朝食は食べたです。……ほら、起きるですよアーサー。今日はお客さまが来るんじゃなかったですか?」
もう一人はすでに来てるので良いのかもしれませんが、とちらりとピーターの視線が倒れ伏して動かないフランシスに向く。その、かすかな時の隙間に起きたアーサーの動きは、劇的としか言いようがなかった。表情から眠気と二日酔いを瞬時に消したアーサーは、靴が床を踏むほんの僅かな音すら立てずフランシスに駆け寄り、ピーターが瞬きをしている間に男の体を腕一本で掴みあげる。その仕草で、男の運命が決まった。
一歩引いたピーターがおごそかな笑顔でフランシスのなんらかを祈っている数秒で、アーサーは奇声をあげて目を覚ましたフランシスの腹に膝を叩きこみ、二つ折りになった体を容赦なく回し蹴りで蹴り飛ばし、床に叩きつけられた背を爪先で転がし、ピンポイントで背骨に靴底を乗せてぎりぎりと体重をかけていく。どこぞの家で見た格闘ゲームにあんな技あった筈ですよー、と溜息をつくピーターの視線の先、叫び声が響き渡る。
「な、なにこの衝撃すぎる衝撃の目覚め! 痛い痛い痛い痛い! 全身が痛い! ちょっとなになになにすんのっ!」
「うるせぇ滅べ!」
「説明もなく言い切ったよこの坊ちゃんっ!」
どっすんがったんがこ、と痛そうな音が響くのを、ピーターは慣れた風に見つめていた。あの程度のじゃれあいは、昨日今日始まった訳ではないのである。三分が経過してようやく、アーサーの肩の関節を狙って放たれた蹴りによって距離を保つことに成功したフランシスは、ぜいぜいと大きく肩を上下させながら首を振った。嘆かわしい、と言わんばかりの仕草だった。今なら全世界の国民の同意が得られるであろう仕草だった。
「つまりなに? お前は寝坊を全部俺のせいにしたいわけね?」
「それ以外で俺が、菊との約束がある日に寝過ごす理由がないだろう」
「ちょっとなんでこのひと、俺の常識を問うような表情で言っちゃってんの? お兄さんにはもう理解できない……!」
嘆かわしすぎて泣きそうになっているフランシスの声を聞きながら、ピーターはちらりと置き時計に目を向けた。時計の針は、出発五分前を指し示している。溜息をつきつつ、ピーターはごろごろ転がっている酒瓶を避け、そーっと部屋を出ていった。背後でやけに痛そうな殴打音や舌打ち、品の無いスラングや悲鳴や、酒瓶の割れる音が響いているが、それもいつものことだ。ピーターは気にせず部屋を出て、ぱたんと扉を閉めた。
あんな大人には決してなるものか、と今日も思った。