お願いしてもいいでしょうか、と控えめに響く声は切なくも優しくて。ああ、こんなにも違うのだと、菊は改めてマシューの姿を見つめた。空港の、人種も年齢も国籍も様々な者たちの作りだすざわめきの中、背の高い姿が浮かび上がって見える。すらりとした立ち姿が、とても綺麗だった。涼しい朝の、雲一つない空を見上げた感動が胸によみがえる。高く飛ぶ一羽きりの鳥に、覚えた切なさが胸をさした。
マシューさん、と菊はその存在を繋ぎとめたがるように呼びかけた。アーサーの自宅へ向かう為に降り立った空港で、ただこの場で菊に会う為だけに待っていたのだと。そう告げたマシューの姿を、しっかりと見つめながら。
「……一緒に、行きませんか」
「いいえ」
勇気を持って誘えば、ハッキリと響く拒否で返された。気持ちは本当に嬉しいのだけれど、と穏やかに笑む表情はアーサーよりもフランシスに似ている。なんとも鮮やかな、華を感じさせる笑みだ。あでやかなフランシスのものと違って、マシューのそれはあくまで穏やかで控えめなものだったのだけれど。彼らの微笑みは、常に恋を秘めている。
「契約違反になってしまいますから」
妖精との契約。それを履行しなければ、アーサーの心がどうなってしまうか分からない。現在のアーサーのアルフレッドに対する認識は、途切れた道筋を力技で結びつけ、無理やり固定しているようなもの、なのだという。かなり強引に結んでしまったから、先日の会議の時のようにふとしたきっかけでずれることもある、不安定なものだ。それを十分理解した上で、マシューはそっと微笑むのだ。それでいい、と。
かつては薄い緑一色だった瞳に、不思議な紫の光彩を揺らめかせて。
「それに僕は、ひにちぐすりに期待していないわけでもないんです」
優しい、優しい声は雑踏に負けそうなのに、不思議にそれを包み込んで響く。ふぅわりと心地よく耳に届き、すぅ、と静かに消えて行く声。会議でもあまり発言がないのはアーサーが出席していて、なにが引き金になるのか分からないからだ、と唐突に菊は知る。もちろん『国』として大切なこと、決して譲れないことだけは毅然として貫き通してはいるので、全くなにも話さないで終える、ということもないのだが。
ひにちぐすり。その言葉を、宝物のように響かせて。尊く夢を語るような眼差しで、マシューは告げた。
「幸い僕たちは、人間よりずっと長くを生きます。百年かかって癒えない傷も、二百年過ぎれば痛みが和らぐかもしれない。血が……滲まなくなるかも、知れない。明日や明後日を願うよりずっと遠くまで、僕は待てます。そのことが……僕には苦ではないんです、菊さん」
だから今日を望みはしないのだと笑って、言葉を告げられなくなってしまった菊の手を取り、マシューは紙袋を握らせた。コーヒーショップのテイクアウトの袋に入れられたのは、温かな飲み物と砂糖。そして手作りに見えるクッキーだった。飲み物は道行きに、クッキーはお茶菓子にしてあげてください、と囁いて、マシューは苦笑いを浮かべた。
「スコーンの腕前、上達していないようですから。菊さんが持ってきたものなら、出してくれる筈です」
「……この為に、わざわざ?」
「馬鹿みたいだな、って思います。自分でも」
クスクスと肩を震わせて、幸せそうにほころんだ笑みで。マシューは、優しい目で菊を見つめた。東洋の気の良い友人の向こうに、愛おしい人を重ねて、見つめて。マシューはお願いしてもいいでしょうか、と挨拶の次に告げた言葉を、もう一度繰り返した。
「昔、アーサーが美味しいって言ってくれたクッキーなんです……一枚で構わないので、食べさせてきてください」
「……確かに、お預かりしました。必ず食べさせてみせますよ。報告はメールで、それともお電話しても?」
「うーん……携帯にメール、の方が連絡は付きやすいと思います。電話でもいいですが」
もしかしたら出られないかも、と考えながら告げられた言葉は、しっかりと発音し終わる前に驚きで語尾をはね上げさせた。人ごみもなんのその、するすると間を泳ぐようにかけて来た少年が、マシューの腕に勢いよくじゃれついたからだ。お迎えに来たですよーっ、ととびきり元気なはしゃぎ声が、特徴的な口調そのままに響き渡る。ぱちぱち、思わず何度も瞬きしてしまいながら、菊はセーラー服姿の少年を見た。
「シ……シーランド君?」
「違うのですよー! シー君は確かにシー君ですけど、今はピーター・カークランドなのですよー」
マシューの腕にからみつくようにしながらくるりと振り返り、ピーターは満面の明るい笑みでのんきに訂正した。ああ失礼しました、と反射的に謝ってから、菊は問いかけの目をマシューに向ける。仲のよさそうな二人の間に、上手く接点が見つけられなかったからだ。マシューは菊の視線に秘められた問いかけを正確に読み取り、はしゃぐピーターの頭を撫でながら言う。優しく動く手のひらに、ピーターは満足げだ。
「英連邦繋がり、です。……ピーターは、まあ、なんと言いますか、僕らの変則的な末っ子ですからね」
「ピーターはマシューお兄ちゃんと遊ぶのですよー! 菊はアーサーをよろしく頼むのですよー!」
「よろしくお願いします。ところでピーター、一人で空港まで来たの? 迷わず来れた? 誰か知らない人に声をかけられたり、食べ物もらったりしなかっただろうね?」
ピーターと手を繋ぎながら菊に目礼したマシューは、ごく心配そうに問いかけを重ねる。それで会話に区切りがついたとして、菊も無言で頭を下げて二人から離れた。気になって振り返ると、手を繋いで笑い合っている二人は確かに兄弟のようにも、年の近い父と息子のようにも見えた。微笑ましいと口元を和ませ、菊はアーサーの家に向かうべくタクシーを捕まえ、後部座席に体を預けてから、紙袋に手を伸ばす。
空気を甘く染め上げるメイプルの香りに食欲がわくがぐっと我慢して、菊はマシューの気づかいをありがたく飲むことにした。元は熱いくらいだったであろうテイクアウトのコーヒーは、もうすっかり温くなってしまっていて。酸味と雑味がやや目立つコーヒーを、菊は穏やかな気持ちで喉に通して行く。決して美味しい、とはいえない味なのだけれど。想いがとろりと溶け込んだ、めったにない素敵な飲み物だった。
穏やかな笑みのアーサーに通されたのは邸宅の一室ではなく、美しく整えられた中庭のティースペースだった。リビングから直接来ることもできるその一角は、古めかしい印象を与えるティーテーブルと華奢な椅子が三脚添えられていて、すっかりお茶の用意が整えられていた。テーブルに飾ってある薔薇と花の向きをちょいちょい、と手で整えながら振り返ったフランシスは、苦い表情のアーサーにウインクする。
「そんな顔すんなってアーサー。風で乱れたお嬢さんの服を、整えてやってたのさ」
「なんでお前はそういう言い方しか出来ないんだ……。菊、ごめんな。セクハラと一緒で」
「いいえ、大丈夫ですよ。こんにちは、フランシスさん。お待たせしてしまったようですね」
今日、アーサーの茶会に呼ばれたのは菊とフランシスの二名のみだ。空港で予定外の時間を消費してしまったが、それでも菊の到着は予定時刻ぴったりで、フランシスをそう待たせたとも限らないのだが。あえて告げたのは、フランシスが今さっき到着して、くつろぎながら菊を待っていたように見えなかったからだ。どう少なく見積もっても二時間か三時間くらい、だらだらと茶会の準備など手伝っていたに違いない。
それくらいの余裕と、風景に対する馴染みがあったからだ。フランシスはさすが、とでも言いたげに片眉をつりあげて器用に笑い、昨日から泊まってたんだよ、と種明かしをした。
「だから待ってはいないさ。で、菊。なに持ってきたんだ? 珍しい」
フランシスの視線は興味深く、菊の持つコーヒーショップの紙袋に注がれていた。茶会で菊がフランシスと顔を合わせることは多く、差し入れをよく持ってくることも知っていたから、なお珍しく感じたのだろう。普段の差し入れは、伝統美溢れるふろしきで包まれた重箱に入れられているから、差異が大きいのだろう。菊の座る椅子を引いて待ちながら、アーサーも首を傾げて不思議がっている。確かに、珍しい。
す、と和服をさばいて椅子に腰かけながら菊はわずかに振り返り、アーサーの胸に紙袋を押しつけた。
「頂き物のお茶菓子、ですよ。とても美味しそうなものなので、一緒に食べられたらなぁ、と思いまして」
「オスソワケ、ってヤツか? ……あ、クッキー」
ひょ、と紙袋を覗きながら呟いたアーサーは、じゃあ皿に移して持ってくる、と言って邸宅へ歩き出した。なんの警戒もない背中を見送りつつ、菊は苦笑するフランシスに気がつく。メイプルの甘い香りは、強い。かすかな動きで薄く風を染め上げたのに、鼻の良いフランシスが気がつかない訳がなかった。元気で居たか、とそれだけを問いかけられるのに菊は視線をフランシスに向け、心から微笑んで頷いた。
「ええ。空港まで、ピーター君がお迎えに来ていて……どこかに遊びに行くんでしょうね」
「動物園か水族館だと思うけど」
昨日ピーターがインターネットで色々調べてたから、と種明かしをして、フランシスは秀麗な眉を穏やかではなく歪めてみせた。なにか、と問う菊にんー、と気のないフランシスの返事。
「親馬鹿だ、と思われるとは思うんだけどね」
どっちも育ててはいませんよね、という突っ込みを、菊は笑顔に含ませるだけで口にはしなかった。まあ、カナダはフランスの元に居たこともあるので、その弟分としてのシーランドは彼の中で似たような扱いなのだろう。菊は視線を中庭に移し、色濃い緑の美しさにそぅっと目を細めた。天気はよく、珍しく光も強く降り注ぐ昼下がり。二人の居るティースペースには心地よい木漏れ日だけが降り注いで、静かだった。
「美人さんとかわいこちゃんだからさ……変質者に出会わないか心配になる」
性別ガン無視ですかそうですか、と内心で思いながら、菊は庭に咲く可憐な花々から目を離さず、穏やかな口調でフランシスを諭した。
「マシューさんもピーター君も、何かあれば自分の身一つくらい、守れると思います。ピーター君に若干不安がないかと言われれば、それもそうなのですけれど……マシューさんが一緒なのですから、大丈夫ですよ」
「……や、そうなんだけど。それもそうなんだけど、そうじゃなくて……マシューになにかあった場合っていうか、ピーターになにか起きた場合のマシューの切れっぷりのがお兄さん心配」
今日はクマ次郎も一緒じゃなかっただろ、と問われて、菊は思い出しながらも頷いた。そういえば国際会議の場ですら連れて歩く白クマを、マシューは珍しく腕に抱いていなかった。足元にも居なかったように思えるので、そもそも連れてこなかったのだろう。居ませんでしたねぇ、とのんびり答えれば、フランシスは若干顔色を悪くしながらお兄さんモードだからなぁ、と笑った。
「ピーターと手を繋ぐのに、両手が塞がってたらどうしようもないだろ?」
「ああ、そうですね。良いお兄さんですねぇ」
「『良いお兄さん』はピーターがちょっと不良にからまれたくらいで、全治二カ月にしたりしないと思うが」
お待たせ、とクッキーを乗せた白い皿をテーブルに置きながら、アーサーがしぶい顔で溜息をつく。思わず背筋を伸ばして姿勢を正してしまいながら、菊はおどろきより不思議が勝る信じられない気持で、は、と呟いた。
「全治二カ月。……に、したんですか? マシューさんが」
「ああ。その時のピーター、マジ泣き。『おにいちゃが、おにいちゃがああああっ』ってすげえ派手に泣きながら電話かかってきて、マシューが事故にでもあったと思うだろ? 病院に迎えに行ったら、国民がぼっこぼこにされててな……」
「む、迎えに、行ったんですかっ?」
それって大丈夫なんですか倒れなかったんですかっ、と悲鳴交じりの問いかけをなんとか飲み込めば、菊の視線の先、アーサーは紅茶の砂時計をテーブルに置く所だった。トン、と軽やかな音を立てて置かれた砂時計を見つめ、アーサーはきゅぅ、と目を細めた。明るさに驚いてしまった、猫の瞳のようだった。行ったけど、と落ち込んだことがありありと分かる、暗い口調でアーサーは続ける。
「ピーターには会えたけど、マシューには会えなかった……怪我の治療してるとか、上司が向かってて逃亡防止に部屋に鍵かけられてるとかで。後日、謝罪の手紙は来たけどな」
「そ……そう、だったんですか」
「……正当防衛と過剰防衛の境について、俺、ちゃんと教えたつもりだったんだけど」
菊の予想に反して、アーサーがしょげているのは主にそこらしい。ふわあああ、と口から魂が抜け出そうな奇妙な息を吐き出し、アーサーはへしょりとティーテーブルに頬を乗せた。
「なんでか皆、その辺りダメなんだよな……なあ菊、どうしてだと思う?」
「どうして、でしょうねぇ」
明らかに海賊時代の影響ですね分かります、と思ったことは態度にも出さず、菊はにっこりとアーサーに微笑んだ。そろそろ砂時計も終わりですよ、と囁けばアーサーはぱっと身を起こし、丁寧な仕草で紅茶をついでいく。見惚れるほど、優しい仕草だ。思わず息を吐いてしまう菊に、フランシスがそっと口を寄せた。
「俺が思うに」
「え?」
「マシューが過剰反応しちゃったのは、さ。家族を奪われる、傷つけられるってことに対して怯えきってるからだろうよ」
だから俺は注意だけして怒らなかった、と囁いて体を離し、フランシスはいぶかしげな視線で睨んでくるアーサーに投げキッスをした。見えない口づけを空中で叩き落とし、さらに丹念に踏みにじったアーサーは、キラキラの笑顔で菊に紅茶を差し出した。
「はい、菊。熱いから気をつけて」
「ありがとうございます、アーサーさん」
ソーサーの受け渡しで手と手が触れ合ってしまい、菊とアーサーはそのままにこ、と笑い合った。動揺もなく、ごく自然に受け取ってありがとうございます、という菊に、アーサーは触れ合った指先に視線を落とし、大切なものを噛み締めるようにいや、と呟く。なにその分かりやすいすごいひいきっ、とフランシスが叫ぶのに、アーサーは汚物を見てしまったような険しい視線を投げつけ、軽く鼻を鳴らす。
「贔屓とかじゃねぇよ、区別だ区別」
「お兄さん、とてもお礼に呼ばれたとは思えないよ……」
そもそも菊とフランシスが茶会に招かれたのは、先日の会議でアーサーが倒れてしまった時に、主に世話をしたとされたのがこの二名だったからだ。菊は日本としてイギリスが休める環境を整え、フランスは古い馴染みとして他国の動揺を静めてみせた、ということになっている。そこにカナダの名前は、なかった。菊もフランシスも、あえて隠したからだ。その決定を、菊は後悔していない。罪悪感も、持ってはいない。
けれど、もしかしたら。それは必要なかったのではないか、と菊は思ってティーカップを見つめる。ボーンチャイナの目に優しい白が、木漏れ日にけぶる葉の影を映し出していた。ひら、と目の前で指が揺れた。はっとして顔をあげると、アーサーが手を引きながら不安げに覗きこんでいる。あんまり気持ちの良い空間だから眠くなってしまいました、と微笑んでごまかし、菊はティーカップを持ち上げ、紅茶を飲んだ。
強く、それでいてつつましやかに、花の香が口中に広がる。舌の上に芳醇な甘さを残し、すっきりと喉を通って行った。おいしい、と思わず呟くとアーサーは咲きこぼれるような笑みを浮かべてはにかみ、うん、と小さく頷いた。仲良しな島国に見せつけられて、お兄さんもう嫌だ、とフランシスがげっそりした声を響かせた。
「だってここにお兄さんが存在している意味が分からないよ……帰っていいか、アーサー」
「だぁから、お礼だっつってんだろ。お礼、おーれーいー」
「お兄さんのキスを踏みにじって、目の前で可愛い仲良し具合を見せつけられるお礼とか、お前どんだけドエス……!」
ない、それはない、マジでない、と嘆かわしく首を振るフランシスは、それでも席を立とうとはしていなかった。日常のじゃれつきあいの延長で、茶会にはお決まりの台詞であるのだろう。アーサーは全く気にした様子もなくフランシスの為に紅茶を入れ、ほら飲めよ、と偉そうに言い放って前に置いてやった。フランシスはさめざめと泣く真似をしながら紅茶を飲み、ごく自然な一動作としてクッキーに手を伸ばす。
一枚をつまみあげて口に運び、フランシスはおぉ、と嬉しそうに目を和ませた。
「うま。アーサー、これ美味しいぞ。お前のその残念味覚でも美味しく感じられるくらい」
「俺は今世界の国々の為に、そのむっさいヒゲをむしってやろうか真剣に考えてる所だ話しかけるな。菊、どう思う?」
「そうですねぇ。暴れる気がしますから、両手足を縛ってからの方がいいのでは?」
ちょっとそこの島国なんの相談してんのっ、と本気で悲鳴をあげて椅子の上でのけぞるフランシスに、アーサーと菊は顔を見合わせ、にっこりと微笑みあった。
「どうやって抜くか、の相談だよな。菊」
「ええ。縛るならルートさんかギルさんお呼びした方がいいですよね、という打ち合わせですよね。アーサーさん」
「俺が悪かったです! だからSM大好き国家ズ呼ばないで!」
素直な謝罪に、アーサーの半ば本気の舌打ちが響き渡る。今日こそお前の顔をスッキリさせられると思ったのに、との毒づきに、菊は深く深く頷いた。
「そうですよ。ひげはちゃんと毎日そってください。だらしない」
「お兄さん、しぶ可愛い系を目指してる途中だから。その要求はちょっと受け入れられない」
「ドーバーに沈んで来いばぁか」
うんざりした風にアーサーは笑い、そのままクッキーに手を伸ばした。思わず息をつめて見つめてしまう菊の視線の先、アーサーはぽし、と唇でクッキーを折り、もぐもぐと口を動かして。眉を寄せて沈黙した。うわあああぁっ、と叫びたい気持ちになりながら椅子から腰を浮かせてしまう菊に、アーサーはとりあえず口の中のクッキーを飲み込んで、紅茶で洗い流してから口を開く。
「菊、これ……マシューのクッキーか?」
「へあぁっ!?」
「あああっ!? い、いやその、違うならいいんだっ! 忘れてくれごめんっ!」
奇声をあげて立ち上がった菊に、アーサーは大慌てで手を振り回して言いつのる。なんですかそのリアクション萌えるなぁっ、と内心で憤りに近く叫びながら、菊はいえその通りですちょっと待ってください、と告げて胸に手を当て、深呼吸をした。フランシスはそんな二人に、慈愛と悲しみの混じった目を向けた。お兄さんが菊みたいに叫んだらアーサーはまず間違いなく俺に向かって紅茶かける、と視線が語っていた。
たっぷり一分近くかけて落ち着いた菊は、取り乱しました、と言って椅子に座りなおす。それからずい、とアーサーに顔を近づけて、真剣な表情で尋ねた。
「……分かるんですか?」
「あ、ああ。だってこの味はマシューのだし……そ、それがどうかしたのか?」
「いえ……先ほども、思ったのですけれど。アーサーさんは、マシューさんと、その……プライベートな交流がおありなのかな、と思いまして。ほら、会議なんかですと、あまり親しくもなさそうと言いますか。意外に思えてしまったもので」
もぐもぐとクッキーを食べながら聞くアーサーに、目に見えて表れる異変はないようだった。あの日の会議のように、意識は揺れていないようだったし、それを隠している風でもない。まったく普通に菊の話を聞いていて、問われることを不思議だとさえ思っている節もある。どういうことなのだろう、と緊張する菊に、アーサーはさらりと告げた。だって英連邦、と。
「普通に交流はしてるよ。電話が苦手だっていうから、連絡とか会話は全部メールと手紙でやってるけどな。会議でそう見えるのは……俺にはちょっとよく分からないけど、仲が悪い訳じゃない。プライベートでは……そう言われりゃ、なんか会ってない気も、する、けど」
あれ、なんでだ、と考え込むアーサーが告げた言葉に、菊は真実を見つけだしていた。つまり、存在をリアルタイムで。本人を認識しなければいいのだ。例えば、本人を目の前にすること。例えば、電話口に相手として現れていること。それさえ慎重に避けてさえいれば、メールで連絡を取ることもできるし、手紙に想いを託すこともできる。人伝いにクッキーを託して、それが誰のものかを理解してもらうことさえも。
「……なんで会ってないんだ」
ぼそ、と落とされた呟きに、菊はハッとして顔をあげた。フランシスがどこか苦しげに見守る中、アーサーは己の内側から疑問を拾い上げ、無意識に言葉に出してしまっている。輝かしい緑の瞳は伏せられていて、そこからなんの表情も読み取れない。止めたほうがいいのか、見守ればいいのか迷ってしまって、菊は祈るようにマシューの名を胸で呼ぶ。こんな混乱を、きっと彼は望んだのではない筈だ、と。
ひにちぐすり、と愛おしげに口にした彼は、決して。
「忘れて……る? いや、でもそんな……そんな不自然」
「アーサー」
笑みがにじむ声で名を呼んだのは、フランシスだった。アーサーはどこかむっとした様子で唇を尖らせ、なんだよ、と吐き捨てる。気にした様子もなく、フランシスはアーサーに手を伸ばして頭に乗せ、ぽん、と軽く叩くようにして撫でた。
「マシューのクッキー、美味しかったか?」
「あ、ああ。久しぶりに食べたけど……懐かしい味っていうか、うまかった」
「うん、そっか。じゃあ、今はそれでいいじゃない。っていうか、お客様を置き去りに考え込むなっての」
ほら困ってるだろー、と言われて目配せをされ、菊は大慌てですこしばかり困った微笑みを浮かべ、あいまいに頷いてみせた。それこそ叫びだしそうな勢いでごめんっ、と告げてくるアーサーに、フランシスは紅茶も冷めちゃったしさー、とさりげなく言葉の誘導をする。淹れなおしてくるからっ、と言い残して屋敷に走って向かうアーサーの背を見送り、菊は証拠隠滅にティーカップの中身に口を付けた。
ぬるくはなっているが、飲みやすい温度で冷めてはいない。ちら、と視線を向けるとフランシスは苦笑して、同じように証拠隠滅に勤しみながら快挙だよ、とささやく。
「これが『マシューのクッキー』だって分かったの、あれから今日が初めてだ」
「……え」
「マシュー、泣くだろうな」
涙もろいんだ、わりと、とウインクされて、菊は大きく息を吸い込んだ。はい、と返した声は震えていて、恥ずかしくてティーカップに視線を落とす。今すぐ、あの優しくも悲しい国に、教えてあげたかった。
***
『件名:召し上がって頂けました。
マシューさん、こんばんは。ピーター君と水族館に行かれたと聞きました。楽しい一日だったようで、なによりです。
さて、クッキーですが。アーサーさん、お召し上がりになっていましたよ。『マシューのクッキー』だと、そう仰っておられました。フランシスさんいわく、はじめてそう言われた、とのこと。
ねえ、マシューさん。
私は思うんです。もしかしたら、と。
ねえ、マシューさん。
いつか、いつか。アーサーさんに夜明けが来る日に、私も一緒に喜ばせてくださいね。
それでは、おやすみなさい。良い夜を。 本田 菊』