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 4 楽園へは、まだ

 光を抱く薄闇と肌をひやす冷たい湿気に、マシューの本能が警鐘を鳴らした。空港では、ない。ピーターの魔法の杖によって行われた空間転移の影響で、視界はまだ白く塗りつぶされていた。それでも他の感覚は生きていたから腕を伸ばし、ピーターの体を腕の中に閉じ込めて守る。ふにゅあっ、とピーターの驚いた叫びがすぐ耳元で響くのは、マシューが片膝をついてしゃがみこんでしまっているからだった。
 視界はまだ白い。回復するまでには数十秒の時を要するようで、もどかしく思いながらマシューは動かないで、と囁いた。ピーターの魔法は、まだ不安定だ。アメリカにあるアルフレッドの自宅から、イギリスの空港に飛ぼうとして、目的地とはかなりずれた所に転移してしまったらしい。イギリス国内のどこか、であるのは間違いないのだけれど。思えば空港から水族館に行こうとして、マンハッタンの中心に出たのだ。
 ずれた前例があったのだから、覚悟してしかるべきだった。ごめんなさいですよぅ、としょんぼり告げるピーターも、まだくらくらしていて周囲の認識ができないらしい。マシューの腕にすがりつく手のひらは不安を表して、わずかに震えていた。周囲の気配を探りながら、マシューは大丈夫、と手探りでピーターの額にキスを落とす。危ない場所に出てしまった感じではない。落ち着いていて穏やかな、優しい空間だ。
 耳を澄ます限り聞こえてくる人の声はなく、近くに誰か居るようでもない。危ないことはなにもないよ、と笑いながら言い、マシューは目を瞬かせた。視界にかかっていた濃霧はゆっくりと晴れてきて、目の前の像が焦点を結ぶ。なによりも早くピーターの顔を見て、マシューはちいさな体をぎゅぅ、と抱きしめた。この幼子がなにより怖がっているのは、身に降り注ぐ危険ではなく、マシューに嫌われることだと知っている。
 告げずにごまかしたのは、ピーターの自尊心を優先したからに過ぎなかった。体温の高い体を、痛めないように強く抱きしめて。安心させてやりながら、マシューはピーターと頬をくっつけて笑う。
「ごめんね、ピーター。誤差が出るのは分かってたのに、びっくりしちゃって。怪我はないね?」
「ないですよー。痛いトコも、怖いコトもないのですよー、マシューにいちゃ」
「よかった。大好きだよ、ピーター。君になにもなくてよかった。……さてと、ここは」
 どこだろうね、と吐息に乗せて囁いて、ようやく回復した視界を周囲に向けて。マシューは大きく息を吸いこみ、衝動的な悲鳴を飲み込んだ。落ち着くと感じたのは当たり前のことだった。穏やかで優しい空間であるのも、ごく当然のことだ。昼過ぎの日差しは、外を明るく照らしているのだろう。遮光性の高い屋敷にはその残り香だけが舞って、眠りに誘うようにゆるく、薄墨のような色の空間がどこまでも広がっている。
 湿気をすこし感じるのに肌が冷たいのは、光が差さないせいで空気が冷えているからと、換気がしっかりされている証拠だった。家を支える柱はどれもしっかりとした太い木材で古く、琥珀や飴色に艶めいてそこにあった。柱は無数の傷を負い、優しく時を封じ込めている。乳白色の壁に飾られるのは、絵画ではなく手製の刺繍が精緻なタペストリー。薔薇の花と蔓で飾られたものが多く、アクレイギアや桜も見える。
 すこし埃っぽいじゅうたんは、けれど極上の肌触りで。屋敷の奥まった人が来ない場所では、お気に入りのお昼寝用敷き布団になることだろう。玄関近くの廊下だから、天井は二階の屋根まで吹き抜けになっていて、高い。ちいさな窓が一つだけあり、二人の前を四角く照らし出していた。拡散する光の帯に、眩暈がする。覚えがあった。この場所を、この家を、知っていた。知らない筈が、覚えていない訳が、ない。
 完全に動きを止めてしまったマシューの腕の中で、ピーターは恐る恐る顔をあげていく。ピーターは目の前の光景を純粋に不思議がって目を瞬かせ、息を吸い込むと唇を動かした。おうち、とピーターは言った。イギリス国内にあるアーサーの自宅、その一つだった。それも悪いことに、普段アーサーが生活している屋敷の内部に出てしまったらしい。つまりピーターの『家』であり、マシューが妖精と契約した現場だった。
 自体を悟ったピーターの顔から、音を立てて血の気が引く。にいちゃっ、と悲鳴交じりの呼びかけで腕を取られ、マシューは恐怖の横たわった瞳でピーターを見る。唐突すぎた驚きに思考は停止状態で、ピーターがなにを焦っているのかも上手く理解できない。ただ本当は、この場所に居てはならない筈だと、それだけをぼんやりと思った。立ってくださいですよ、とピーターは呆けてしまったマシューの腕をぐいと引く。
「だ、だだだだいじょうぶなのですよっ! まだ見つかってねーですよ! い、今のうちに逃げるのですよーっ!」
「逃げるって。どこへ……どこに、行くの? ピーター」
 ぼんやりと問いかけるマシューに、ピーターは泣きださないのが不思議なくらい歪んだ顔つきで叫ぶ。ここではない、どこかへ。今すぐ行かなければならない。その言葉に、マシューは静かに微笑んだ。呼吸から肺を差す切なさが、鼻を痛めて言葉を震えさせる。胸にある感情に、名前などつけられなかった。想いを言葉にする術すら、忘れたようだった。
「会っても……どうしたんだよアメリカ、って言うだけだよ。大丈夫。平気だよ、ピーター」
「なぁんにも平気じゃないのですよー! だめですっ! ダメ、です、マシューお兄ちゃんっ! ピーターは、ピーターはそんなこと認めないのですよっ! マシューにいちゃはマシューにいちゃで、アルフレッドのヤローはアルフレッドのヤローなのです。別物なのです。違う人なのですっ。僕はそれをちゃんと、ちゃんと知ってるのですよ。一緒じゃないのです。一緒にしちゃいけないのですよ……ダメなのですよぉ」
 諦めや、受け入れの上に築きあげた穏やかさで苦笑するマシューに、ピーターは激しく首を振った。いつの間にか腕を引いていた手は離され、硬く握り締められている。ひっ、と喉がしゃくりあげられて、涙が頬を転がり落ちていく。じだんだを踏みながら悔しがって泣き叫んで、ピーターはそんなこと許しちゃダメなのです、と言った。そんな恐ろしいことを。そんな悔しいことを。そんな悲しいことを、許してはダメなのだ、と。
「だって……だって、じゃあ、昨日、寝てる僕のほっぺにキスしたのは誰なのですか」
 二人分の祝福とぬくもりと、愛に包まれて眠っていた。絶対的な二人分の守護が、怖いもの全てを遠ざけてくれていた。一人だけでは遠慮して受け止めきれなかったものを、二人から惜しみなく与えられてくすぐったかった。
「マシューにいちゃと、アルフ兄ちゃんじゃないですかぁっ……!」
 否定しないで。否定、させないで。あるがままにある通りに、そのままでいて。もっと自分を大切にして欲しいという気持ちは、言葉にすればそれだけのことになってしまって。爆発的な胸の想いを託すには、あまりに足りなかった。
「ひとりじゃないのです! ふたりなのです! 僕のお兄ちゃんは二人居るのですーっ!」
 愛されていると、感じた分だけ悲しくて。声をあげて泣き出してしまったピーターに、どうしてやればいいのか、マシューは分からない。抱きしめようと持ち上げた腕はぎこちなく宙で止まってしまって、ぬくもりを引き寄せることにためらいがあった。これ以上、泣きはしないだろうか。安易に抱きしめてしまうことで、さらに傷つけてしまわないだろうか。ごめんね、と心から謝ったとして、疑いなく受け止めてくれるだろうか。
 長く生き過ぎたからこそのたくさんの事象、たくさんの出来事が、一番簡単な筈のことさえ鈍らせる。絡んだ鎖を解き放ったのは、泣きじゃくる英連邦の愛し末っ子だった。ピーターはなんのためらいもせず、中途半端に広げられたマシューの腕の中に飛び込んで、首にすがりついて体を寄せてくる。離れないよ、と声がする。ここに居るよ、傍に居るよ。嫌いにならないよ、大好きだよ。だから、どうか嫌いにならないで。
 大好きだよって。愛してるって、言って。声を限りに泣くピーターを強く抱きしめて、座り込んで投げ出した太ももの上に座らせて。ぐしゃぐしゃになった髪を手ぐしで整えながら、真っ赤になった頬や目尻、鼻先に順番にキスをして。すこしずつ落ち着いていくさまを、なにものにも代えられない幸福感で見つめて。耳元に、言葉を贈った。
「ごめんね、ピーター。ごめんね……僕は悪いお兄ちゃんだね。でも君のことを、本当に大切に思ってる。愛してるよ」
「んもおおおぉっ! マシューおにいちゃは本当ばかなのですよぉっ」
 むずがる叫び声をあげて、マシューの膝の上でもぞもぞと体を揺すって。涙にぬれたシーグリーン・アイズが、ゆらゆら揺れるマシューの瞳を睨みつける。びしっと指を突き付けられてひるんだマシューに、ピーターは胸を張って宣言した。
「悪いトコはいーっぱいありますけれど、それでもマシュー兄ちゃんは僕の『自慢の』お兄ちゃんなのですよっ!」
 だから自称の悪いお兄ちゃんだなんて認めてやらねーですよ、と軽くむくれて言い放ったピーターを、くすくす笑いながら抱きしめて。大きく息を吸い込んで、マシューは立ちあがった。さあ、屋敷を出なければ。ピーターの魔法は不安定である以上に、連続行使が身体に及ぼす影響は計り知れない。本人も一回使ったらしばらくはダメなのですよ、と言っているので、移動手段は徒歩しか残されていなかった。
 瞳に穏やかでいて、強い意思が戻ってくる。その様を満足げに見やって、ピーターはマシューと手を繋いだ。逃避行ってヤツですよ、とはしゃいだ声をあげれば、マシューは困りながらも笑ってくれる。幸い、玄関は数歩進んだ先にあった。奥からこそこそ移動する、えも言えぬ気まずさと恐怖を味合わなくてよかった、と思いながらマシューは一歩を踏み出そうとして。矢先、きしむ音を立てながら開いた扉を凝視する。
 最初に覗いたのは、枯れ草色のサマーベストと白いシャツ。続いてよく磨かれた革靴と、アイロンのきいたズボン。手には年季を感じさせる飴色の皮鞄が持たれていた。鼓動がはねる。太陽の光に透き通るような、純金の髪は短く整えられていた。目は伏せられていて、表情は読みとれない。ぱたんと扉が閉められて、わずかに向けられていた背が振り返る。朝焼けの鮮烈な光をともす、太古の森のグリーン・アイズ。
 世界で一番、きれいなみどり。この世で最も、いとしいひと。アーサー・カークランド。
「ピーター? お前、帰る前に携帯に連絡しろって言っただろ? ったく。……っと」
 凍りつくピーターを視線が一撫でして、その隣へ向けられる。ぱちん、と大きく、アーサーは瞬きをした。二人からは逆光になってしまっていて、アーサーの姿をよく見ることができない。それでも不思議そうな表情だけは、理解することができて。かすかに、マシューの指先が震える。期待なのか不安なのか、マシューにも分からない。ピーターがそっと、マシューを背にかばうように立ち位置を変えた時、声が響く。
「……アルフレッドじゃ、ない」
 その場に居る誰一人として、心の準備など出来ていなかった。真実と向きあう勇気も、真実を暴く覚悟も、持ってはいなかった。だからこそピーターはマシューと繋いでいた手を振りほどき、後ろ手に兄を押しやって早く、と叫ぶ。
「逃げてくださいですよ!」
 静寂を裂く声にこそ突き動かされて、マシューは動きを取り戻した。玄関から出て行くのが一番良いと知っていて、逆方向へ向かうのはアーサーの隣をすり抜けていくのが不可能だと知っていたからだ。どんなに隙をついたとしても、扉一枚分の幅を抜けていくには門番としてアーサーは優秀すぎる。次の手を考えながらも屋敷の奥へ行くマシューの背を追おうと、アーサーは動こうとして、ハッキリと阻まれる。
 奥に続く廊下は、一つきり。そこに背筋を伸ばしながら立って、ピーターはまっすぐにアーサーを見ていた。ついぞ見せたこともないような、浮かぶ感情のない静かな顔つき。ピーター、と相手を確かめるように名を呼ぶアーサーに、少年の唇がゆっくりと動く。行かせない、と追尾を阻む言葉はなく、代わりに問いかけの響きが現れた。
「どうして、にいちゃを追うですか」
 真昼の薄暗がり、すこしだけ埃っぽい空気の中で。問いかけの瞳が、恐ろしい程の輝きを放っている。光満ちた浅瀬のシーグリーン・アイズが、猫のように細まった。敵わない相手に、それでも襲いかかる獣のようだった。
「どうして、見逃そうとはしてくれないのですか」
 そこから退いてください、とピーターはアーサーを通り越し、その背に庇われるようにある玄関の扉を見た。屋敷唯一の、外への出入り口。もちろん、窓やテラスから無理矢理脱出して、庭を突っ切って出ることができないわけではないのだけれど。ここは英国、イギリスの家。古い魔法の息づく妖精たちの住処であり、彼らの世界との境界線のひとつ。契約を交わしたマシューが、心を無防備に出歩くには危険すぎる。
 大切なのは正式な手順。家の中に直接出てしまったことはもう仕方がないから、それを踏まえた上でも、マシューは『玄関』から『外』に出なければいけない。明りの届かない柱の暗がり、花瓶の横から、妖精たちがこちらを伺っているのがピーターには分かった。彼らは、彼女らは決して、アーサーやピーター、マシューに危害を加えようというつもりはない。けれどもそれは、彼らの基準によって下されることなのだ。
 不安ばかりが胸をさした。一緒に逃げてしまえばよかった、とピーターは思う。ピーターが一緒なら、すくなくとも妖精たちからマシューを守ってあげられた。この家の主に、妖精との契約とはいえど魔法をかけ続けるマシューのことを、よく思っていない者だって確かに居るのだ。ピーター、と問いかけの形に名を呼んでくるアーサーに答えず、首にかけていた鎖を引っ張り出し、小型化してあった杖をむしり取る。
 口の中だけで、魔術行使に必要な一連の句を囁いて告げると、杖が元の大きさに戻って手の中に現れた。手になじむ古木の感触にやや心を落ち着かせながら、ピータは杖をぎゅ、と握りしめて目の前に水平に持ち掲げる。
「The divine protection to a dear brother!」
『愛しき兄に加護を!』
 熱せられ過ぎたモーターがあげる悲鳴のような高音が響き、ピーターの杖と体に翡翠の光の帯が走る。電流のように激しい音を立てながら現れたそれは一瞬で消え、辺りは静寂が戻ってきた。ピーターは体に襲いかかる言葉にできない不快感をこらえながら、茫然と見つめてくるアーサーに目をやった。追いかけるのはなぜなのですか、ともう一度問いかけると、ひどく混乱した様子で視線が合わせられる。
「追い、かけるって……ピーター、お前、なにを」
「分からないなら、分からないで良いですよ。さっさとそこから居なくなって、紅茶入れて部屋にでも閉じこもってやがれです。全部終わったら呼びに行きますから、それまで関わってくるなです。……僕はにいちゃを探しに行きます。ついて来るんじゃねぇですよ!」
 未だに理解していない様子のアーサーに苛々して、つい口調が荒くなってしまう。仕方がないと分かっているのだ、ピーターも。先程、守護の言葉によって魔術を行使した瞬間、アーサーにかけられた契約の魔法の強大さと、その拘束力を目の当たりにしたのだから。例えるなら強固な鎖を幾重にも、幾重にも重ねて繋ぎとめて、目隠しをされている状態に似ている。檻の中の楽園で、傷が癒えるのを待っている。
 ピーターには分からない。かつてのアーサーが、どんな気持ちでアルフレッドの独立を迎えたのか。それを見ていたマシューが、どんな気持ちで育て親と兄弟の幸福を祈ったのか。愛する者を代償として支払ったのか。分からないからこそ、見えてしまった、己には到底太刀打ちできない強大さに悔しさが募る。なにも出来ない。アーサーはピーターにとっても大切な育て親で、保護者の一人であるというのに。
 己が未だに苦しんでいることすら忘れてしまった悲しさを、思い出させることすらしてやれない。泣くことだけはどうにか堪えて身を翻すピーターの腕を、ちいさくも力強い手が掴む。振り払おうと無言で暴れるピーターを真剣な目で見て、アーサーは廊下に膝を折ってしゃがみこんだ。ピーター、と温かな響きで名前が呼ばれる。それがあまりにもマシューの囁く、愛情に満ち満ちた囁きと似ていたから。動けなくなる。
 愛しさが胸を貫いて、涙になる。
「……マシューなのか?」
 顔を両手で覆ってしまったピーターの背を撫でながら、アーサーは静かな声で問いかけた。本人を目の前にして認識しなければ、正しく機能するからくりがアーサーを助ける。こくん、と頷いたピーターに、アーサーはきゅっと唇を閉じた。そうか、と吐息に乗せてささやく。不意に己の体を取り巻く妖精たちの気配が不安定になり、アーサーは物騒な気持ちで目を細める。なにが起きているのか、完全に理解は出来ない。
 それでも、自分の身になにか人知を超えた力が作用し続けていることと、マシューに関連性があることを理解する。そのせいで、ピーターが悲しんでいることも。にいちゃのトコ行く、にいちゃのトコ行く、とそれだけを呟いてむずがるピーターをひょいと抱き上げて、アーサーは溜息をついた。ピーターはもう、そこまで小さな子供ではない。ずしりと重い体をしっかりと抱きしめて撫でながら、ゆっくりと奥へ歩き出した。
「……マシューにいちゃのトコ行くですか?」
「ああ。まあ大体どの部屋に居るか分かるし……迷子のこどもは迎えに行かないとな」
「倒れても知らないですよ」
 可愛くないことを言いながらも、ピーターはアーサーを心配して抱きついてくる。はいはい、と背を撫でて甘えさせながら、アーサーは大きく息を吸いこんだ。迎えに行くと倒れるかも知れない。その因果関係が理解できないが、胸の中に一瞬、不快感が広がった。それは留まる事を許されないように不自然に消えて、アーサーは口元だけで笑みをつくる。なんとなく、理解した。恐らく、外側からの言葉は届かないのだ。
 魔法は主に期限を定められて行使されるが、その区切りがない場合は恒久的に効果が持続するような仕組みが組み込まれる。恐らくはピーターが、かけられた魔法の内容が特定できてしまう言葉を発した瞬間、その仕組みが起動してアーサーの意識は途絶えるだろう。同じく、アーサーがふとした瞬間に我が身に不自然を、違和感を感じ取った場合でも同様に。目覚めた時には、その不自然さえ忘れた状態で。
 口の中で低く、魔術に対抗する為の言葉を呟きながら、アーサーは考える。どこからおかしいのか。なにが変わってしまっているのか。そもそも会議中に倒れて意識不明になることなどあってはならないので、先日、菊とフランシスに迷惑をかけたとされている件もそれに違いないのだ。それほど派手で効果の大きい魔法は、並大抵の契約では行使されない。施したのが誰であっても、代償はかなり大きいだろう。
 ようやくアーサーはそれに気が付けて、ピーターを抱きしめて溜息をつく。もしも自分で自分に魔法をかけたのではないとしたら、そんなことをするのは一人だけだった。『彼』はアーサーの為になら、恐らくためらいもなく全てを投げだせる。奇妙にかすみがかった記憶こそ、その証拠。優しい気持ちを向けていた、大切な相手。愛おしかったという、記号的な言葉でしか表わすことのできない気持が、胸に残っていた。
「なあ、ピーター」
「なんですかー。僕いま怒ってるので眉毛の言うこと聞いてあげないですよー」
「……マシューはなんで逃げたんだ?」
 お前そんな可愛くないこと言ってると落とすぞ、と抱きしめた腕をそのままに溜息をつくと、ピーターは嫌、とも言わずに抱きついた腕に力を込めてくる。素直じゃない分、憎たらしくも大変可愛らしかった。苦笑しながら問いかけた言葉に、ピーターは当たり前じゃないですかっ、とアーサーの耳に直接吹き込むように言い放つ。
「ちゃんと名前を呼んで欲しいからに決まってるのです! マシューにいちゃはマシューにいちゃで、アルフレッドお兄ちゃんではないのですよー! 分かったですかボケ眉毛っ!」
「うっるせえええっ!?」
「ふふーんだっ。さあ答えるのですよ! アーサーは誰を探しにいくですかっ?」
 答えようとした瞬間、アーサーは視界が揺れるのを感じて顔を歪める。恐らくは意識が強制遮断されてしまうことを感じ取り、アーサーは手を拳にして思い切り壁に叩きつけた。精神操作に耐えられるのは、唯一、肉体の痛みのみである。ついでとばかり舌も噛もうとすれば、察したピーターが頬を思い切りつねってきた。お礼を言うのもアレなので半眼で見かえれば、ピーターはによによと楽しげに笑って首を傾げる。
「どうしたですか、アーサー。顔が怖いですよ」
「地顔だようるせぇな……。……分かってきた。つまり、そうか。そういうことか」
 す、と瞳を細めてアーサーは凄絶に微笑する。思いっきり怯えた顔になったピーターを横目で見ながら、アーサーは海賊時代を思い出して獰猛な気分になる。己を害す存在を許しはしない。それは『国』としての本能を、攻撃にのみ注ぎこんだ『イギリス』の臨戦態勢。見えないペンを回すように指を動かし、ブリタニアエンジェルの杖を呼び出して、アーサーはにっこりと笑う。妖精たちが、恐れ慄く気配が響いた。
 良い度胸だ、とアーサーは目を細める。
「退けっ!」
 空気を裂く雷のように響いた命令の声は、魔術的な干渉を可能にする言語ではなかった。それなのに妖精たちの気配は瞬く間に遠ざかり、アーサーを遠巻きに伺っている。己に干渉する魔法の力を強制的に緩めても眉ひとつ動かさず、アーサーはいたって楽しげに笑う。
「よーし、これで動きやすくなった。待ってろよ、マシュー。俺が今行くからなー」
「お……おおお、おおおおおっ!? も、もしかしてアーサー、すんげえ怒ってたりするですかっ? 怒りに我を忘れちゃってるですかーっ!」
「分別はついてる」
 腕からずり落ちそうなピーターを抱き上げなおし、アーサーはすたすたと軽い足取りで歩んでいく。その姿は普段通りに見えながらも、手にはしっかりエンジェルステッキが握られていた。まだ、魔法行使する気は満々のようである。アーサーがその力をよく使うものの、武力行使的に表すことは滅多にない。つまり今のアーサーは、それくらい手段を選んでいないということだ。長き友すら、退けたくらいなのだから。
 ステッキをくるくる回して上機嫌にも見える風に歩いて行くアーサーに抱き上げられ、ピーターは止めるべきなのか、止めないべきなのかを考えていた。二人は、家の奥へと進んでいく。その後をひっそりと、妖精が追った。

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