あなたを好きになったのはいつだったんだろう。好きでいようと思い続けたのは、いつだったんだろう。気がつけば胸に宿っていた恋心のきっかけを語るすべをマシューは持たず、そのことがすこしだけ悲しい。何があってもこの人を愛すと、決意に近い気持ちを覚えたのは二度。一度目はアメリカとの独立戦争で雨の中泣きじゃくる姿を見た時。二度目は、魔法をかける契約の時。呼ばれた名の響きを今でも覚えている。
カナダ、と呼んでくれた。全てを許し包み込む、父であり母である存在として、最大級の庇護と許しをたたえた声で。マシュー、と呼んでくれた。その存在に恋をした一個として、人から人へ、伝えられる愛の全てを花束として贈るような響きで。愛していた。今でも変わらず愛していた人から、逃げなければいけないのはどうしてなのだろう。マシューは崩れてしまいそうな意識をどうにか繋いで、ある一室に飛び込んだ。
内開きの扉に、鍵をかけて座り込む。こうしてしまえば外から解錠されても、マシュー自身が邪魔になって入ってくることが出来ないだろう。もっとも、アーサーが本気で突破をしようとすれば木製の扉一枚など、なんの障害にもならないのだが。きっと今のマシューは、アーサーがそこまでして追う人物ではない。膝を抱えてぎゅぅ、と目を閉じて、マシューは走って乱れた息を整えようとする。胸と鼻の奥が、痛んだ。
息をするだけなのに、喉がつっかえる。ひぅ、と奇妙な呼吸音に、泣きそうなのだと気がついた。ゆっくり深呼吸して気持ちを落ち着かせて、マシューは伏せていた顔をあげる。この家で、内鍵がかけられる部屋はそう多くない。マシューが選んだのは適度に奥まった場所にある、普段は使わない一室だった。人ひとりがやっと通れる程の、細長い部屋は両端が背の高い棚で埋め尽くされ、窓際までずっと続いている。
普段は読まないが取っておきたい本や置物、小物や大切なものを置いておく部屋だった。長い年月を経た棚の木は、時を封じ込めた琥珀にも似た色合いで目を和ませる。空気にカビ臭さも埃っぽさも感じられないのは、アーサーが時々手入れをしている以上に、屋敷に住まう妖精たちがこの部屋を気に行って掃除し、住みついているからだった。棚の一番上、マシューでも手の届かない高さに、蛍のような光が灯る。
熱のない光を発しながら、空気の流れに沿ってゆらゆらと降りて来たのは、かつて『カナダ』のお目付け役だった顔見知りの妖精だった。手のひらと同じくらいの身長しか持たない妖精の少女は、幼い顔立ちに合わない大人びた瞳の輝きで、座り込むマシューを笑いながら眺める。大人に悪戯を見つかってしまった幼子のような気持ちで、若干気まずくマシューは視線を彷徨わせた。本当に久しぶりに会うからだった。
マシューと契約を結んで、アーサーから歪みを取り払ったのは彼女たちではない。生活の様々な所に潜んで住む者たちではなく、もっと妖精世界の深くで眠っている上位種なのだ。彼女たちは、そこまで人の世界に干渉する力を持ってはいない。可能なのはせいぜい、魔法使いの死の呪いを眠りに代える祝福程度。アーサーの件に関しての助力ならほとんど無力に近いが故に、マシューは彼女たちに会えなかった。
カナダの化身であるマシューを見つけて育てたのはイギリスであり、アーサーだ。しかし仕事で忙しく飛び回るアーサーに代わり、マシューの傍に居てくれたのは妖精たちなのだ。本国から遣わされた、人の目には見えない世話役であり話し相手。友人であり隣人。ふよふよと目の前まで降りて来た妖精に、マシューは気まずい思いで視線を向ける。妖精はころころと楽しげに笑い、マシューの鼻先に口付けた。
全部知ってるわ、とマシューが身じろぎするかすかな音にさえ消えそうな声で、妖精は笑った。どんな気持ちでいたのか、どんな気持ちを持っているのか。なにをしたのか。なにを思ってそうしたのか。どう過ごしてきたのか。今なぜ、ここに居るのか。目をまたたくマシューに、妖精は続ける。そして全部許してるわ、と春風に似た温かさで囁く。許すことなど本当は存在しないけれど、可愛いマシュー、それを望むなら。
許されないことがあると、頑なに思ってしまっているのなら。見守っていた者として、傍にあった者として、共に時を過ごした者として。アーサーへの想いを知る者として。契約に携わった妖精ではなくとも、同じ種の存在として。私は貴方を許しているわ、と可愛い声で囁いた。明滅する光が、愛しさを歌う。大丈夫よ、とくすくす笑いながら、妖精はちいさな手のひらでマシューの頬に触れた。よしよし、と撫でられる。
『……泣かないようになったのね、可愛いカナダ。大好きなマシュー。強くなったのね』
誇らしいわ、と囁かれ、マシューはくすぐったい気持ちで笑う。泣かないのは我慢したからで、別に強くなれた訳でもなかったからだ。否定する気持ちになれなかったのは、間近から向けられる慈愛の視線が、その想いをも見知って告げていると教えていたせいだった。まったくマシュー幼少時代を知る者たちは、すこしばかり優しすぎ、甘やかしすぎる。思わず心が綻んで笑ってしまえば、妖精は踊るようにターンした。
『ところで、カナダ? 良いの?』
国の化身は、会議や国家の重鎮たちと会う時以外は個人名で呼ばれることが殆どだ。妖精たちは国家としての『カナダ』と長く携わっていた為に、呼びが国名で定着してしまっていたのだが、それ故にマシューはわずかに反応が遅れてしまう。ああそうか、と言わんばかりに苦笑してなにが、と問いかければ、妖精は蜜蝋の明りのごとくとろりと甘い微笑みで告げる。逃げていたんじゃなかったのかしら、と。
『さっき、イギリス……アーサーがすごーく怒って魔法を遠ざけたような気配がしたわ? だから、ここに隠れてるだけじゃ危ないわ。すぐ逃げなくちゃ、もう来てしまうわよ?』
「す……すごく怒ったって、具体的にどれくらい? アルフレッドがスコーンまずいって言ったくらい? フランシスさんが、この家で皿に盛られるのを料理と呼ばないで下さいって真剣に泣きそうだった時くらい? それともピーターが、書類に快適インターネット計画を油性マジックで書いちゃった時くらい?」
つらつらとあげられる例は淀みなく、アーサーがよく怒っているようにも受け取れるが、具体的に半分以上は相手に非があることばかりだった。妖精はにこにこ笑いながら首を振り、両手をぱっと広げて華やかに告げた。
『七つの海が支配できるくらい!』
それ相当だよねぇっ、と叫びかけた口を、カナダは手で強く塞いだ。ぱたぱた、と珍しく足音の立つ動きで小走りに近づいてくる気配と、騒がしい声が聞こえて来たからだ。声をあげているのは主にピーターで、内容は取り立てて話題に乗せる必要もないことばかり。恐らくは近くにマシューがいる場合を想定して、居場所を分かりやすくしてくれているのだろう。健気で可愛らしい末っ子だ。くす、とマシューは微笑む。
それでも立ち上がらなかったのは、気配を空気に溶け込ませることならたやすいからだ。目を閉じてまどろむように、それでいて聴力を最大限広げて。皮膚感覚までも鋭利に研ぎ澄まし、風のように光のように、薄闇に眠ってしまうようにひっそりと。そこにある、もの言わぬ物の一部のように。世界に溶け込んでしまう方法を教えてくれたのも、アーサーだった。ごめんね、と心の中だけで呟く。逃げてごめんね、と。
ぱたぱた、足音が近づいて通り過ぎる。きゃあきゃあ騒ぐピーターの声も遠ざかる。ぱた、と足音が止まった。戸惑う少年の声が高く響き、足音が変わる。カツ、と音が響く独特の、緊張感をはらんだ硬質な足取り。あ、と呟いたきり、ピーターの声が聞こえなくなった。カツ、カツ、ゆっくり足音は近寄ってきて。コトン、と扉が人の重みにちいさく揺れると同時に、空間に静寂が降りてくる。す、と息の吸い込まれる音。
「……居るんだろ?」
諦めて出ておいで、と囁かれたのは遠い日のかくれんぼ。どこに隠れていても、アーサーは必ずマシューを探して見つけだした。どんなに時間がかかってしまっても、諦めてしまうことはなくて。必ず居場所を見つけだして、穏やかに。
「そこに、居るんだろ? ……マシュー」
大きく目を見開いて、喘ぐように吸い込む息の気配だけで、アーサーに告げる答えは十分すぎた。思わず心配になって扉を開けたくなる気持ちを抑え、マシューは膝を抱えて座りなおす。大丈夫、ピーターがなにも騒いでいない。アーサーの身になにも異変が起きていない証拠だった。でも、なぜ。ぐるぐる迷走する思考を持て余して目を閉じれば、聴覚がより鮮明にアーサーの気配、衣擦れの音まで拾い上げてしまう。
すぐ傍にいるのだ。扉一枚を隔てて、ほんのすぐ、そこに。名前を呼び返すことが出来れば、どれほど良かっただろうか。アーサー、とマシューは心の中だけで呼びかける。アーサー、アーサー。そこに居るの、どうして居るの。アーサー、どうして探しに来たの。アーサー、すぐにここから離れて、居なくなって、ダメだよ。魔法に縛られてしまうよ。危ない。ダメだよ。ピーター、お願いだからアーサーを連れて行って。
「勘違い……か?」
コトン、と扉が揺れる。身を寄せていたアーサーが離れたせいだった。よかった、とマシューは思う。これで大丈夫。いかなアーサーとはいえ、あれだけ強力な魔法を遠ざけ続けることは不可能だ。心身共に負担がかかり、それがピークに達したと同時に意識が遮断される。遠ざけていた時間が長ければ長い程、跳ね返る衝撃は大きい。何日か目を覚まさない可能性だってあった。軽い足音が、遠ざかって行く。
耳を限界まで済ませて聞こえなくなった頃、マシューは大きく息を吸い込んだ。此処に居ることも、呼びとめることさえ敵わない我が身が恨めしいが、仕方がない。これがマシューの、選んだ結果だ。大丈夫、待てるよ、と口に出して呟き、マシューは立ちあがる。ひにちぐすりを諦めたわけではない。変化はゆっくりでも、訪れている。だからこれくらいは、なんともない。大丈夫、大丈夫、と呟いてマシューは扉を開けた。
気が付くべきだったのだ。妖精が微笑み、口をつぐんでいたことに。部屋から出たマシューの腕を、強い力で掴む手がある。勢いよく振り返れば扉のすぐ横に背を預けて笑う、アーサーが居た。残念だな、と森の色した瞳が笑う。
「騙し合いは俺の勝ちだ……マシュー」
「……うそだ」
「嘘じゃねぇよ。お前が聞いてたのはピーターの足音」
俺が音出して歩く訳ねぇだろ、と唇を歪めて笑われて、マシューは思わず天を仰いだ。最初から計算ずくだったのだ、アーサーは。マシューが部屋に居ることなんて、前を通った瞬間に分かっていたに違いない。悔しく思いながらもはっとして、マシューはアーサーを凝視した。なにか今、ちょっと信じられないことが起きた筈なのだ。え、あ、と口ごもるマシューを、アーサーは怒りと愛しさが半々になった表情で見つめる。
腕を組んで首を傾げる姿は、いかにもかつての大英帝国そのままで。覇者の風格に若干怯えながらも、マシューは一歩後ずさろうとして、腕を掴まれたままなのに気がついて諦める。多分、離してくれない。息を吸い込んで、気持ちを落ち着かせる。えっと、と呟けば、アーサーは目を和ませて笑った。
「なんだ?」
本当に、本当に久しぶりに聞く、やわらかな親愛がこもる声だった。アメリカに対しては不機嫌か怒鳴っているかとげとげしいか、さもなくば呆れ交じりの愛情であることが多いのだ。勘違いされていればなおのこと、こんなにも穏やかな声は聞けなかった。掴まれている腕だけが、容赦なく痛んで恐怖を募らせるのだが。
「い……今、僕のこと、マシューって言いました、か?」
「なに言ってるんだ、マシュー」
にっこり、外見だけはとてつもなく可愛らしく、笑顔が深くなる。それなのに手に力が込められるのはなぜなのか。腕には、絶対に手のひら型のあざが残るに違いない。ふふ、と機嫌よさげに笑顔を振りまいて、アーサーは目をすぅっと細くした。捕食者の目つきだった。
「お前はマシューで、アルフレッドじゃないだろ? なぁ?」
知ってる。多分、なにもかも全部知られている。一瞬で判断を下したマシューは、全身から血の気が全部消え去るのを感じた。意識が遠くなるのは、多分恐怖から逃れる本能故だ。気絶した方が幸せなんじゃないかと思わせる怒気を目の前にして、マシューはぎこちなく息を吸い込む。
「お、落ち着いてください。アーサーさん」
「あぁ?」
「ごめんなさい! 落ち着いて、アーサー!」
長年親しんだ『英連邦のカナダ』としての模範的な口調は、怒れる帝王のお気に召さないものだったらしい。低くうねる声で問い返され、マシューは即座に言いなおした。よし、とゆるく目を和ませて笑われるのに、マシューはすこしだけ心を落ち着かせる。ちょっと飴と鞭が激しすぎる気がしないでもないが、マシューの知るアーサーだった。マシューを知る、アーサーだった。じわじわ、胸に涙が押し寄せてくる。
「……アーサー」
「なんだ、マシュー」
「アーサー、アーサー……僕の、大好きなアーサー?」
堪え切れずに、抱き寄せて。抱きしめれば、胸に頬を寄せて頭を預けてくれる。たったそれだけのことが至上の幸福に思えて、マシューは息を吐く。問いかければくすくすと笑い声が響いて、ばぁか、と頬に手を当てられた。血が通った手のひら。温かい。本物だった。
「一々確認すんな、マシュー……悪い子だ、お前、俺になにをした?」
「ごめんなさい……」
「……馬鹿だよ、お前は。本当に馬鹿だ」
どうして、と告げる唇は重ねることで言葉を封じて。マシューは分かっているでしょう、と苦しく目を細めた。弱かったからだ。マシューも、そしてアーサーも。お互いに弱くて支え合えなくて、だからこそ互いに、逃げることを選んでしまった。
「でも、俺も馬鹿だな……久しぶり、マシュー。今だけで、また長く、会えなくなると思うが」
「……体に負担、かけないでよ」
寝てる時しか傍で看病もしてあげられないんだから、と苦笑するマシューに、アーサーは笑った。でもそうしなけりゃ会えなかっただろ、と囁かれて、マシューは告げる言葉を持たない。怒った、と聞けば当たり前だ、と言葉が返される。すこし困った表情も、笑い声も、なにもかもがマシューに向けられたものだった。嬉しくてどうにかなりそうで、マシューはアーサーの頭に手を伸ばし、顔を胸に押し付けるように抱く。
くふ、と軽く困ったような息の音が響き、けれどそれだけで、アーサーは力を抜いて体を預ける。怒ってもいいのにな、と思いながらマシューはアーサーの髪を撫でる。さらさらで、それでいて柔らかくて。指をするりと抜けていく感触が気持ちいい。目を閉じたアーサーの呼吸が、やや浅い。探している時とは比べ物にならない負担がかかっているのだろう。もういいよ、と囁いても、アーサーは歯を食いしばって首を振る。
顔と共にあげられた視線は、きちんとマシューを見つめていた。
「まだ、お前に言ってない……今の俺に、言っていいことか分かんねぇけど」
「……なに?」
近くで見つめ合うだけで、心がいっぱいになって声が出てこない。もっと長く言葉を紡ぎたいのに。申し訳なさそうなマシューに、アーサーは分かってるよ、と言いたげに微笑んだ。分かってるよ、だから。
「待ってろ。奇跡なんかじゃなくて、俺の意思で、お前を見つけだすから」
「……アーサー?」
「時間、かかると思う。アルフレッドと間違えて、嫌な思いもたくさん、させると思うけど」
妖精との契約は、たやすく破棄することが出来ない。代償を差し出して叶えたそれは、代償がある故の奇跡であるからこそ、その時点で終了しているのだ。効果を打ち消すには新たな契約が必要で、その為の代償は計り知れないだろう。早まった真似はするなよ、とアーサーは静かに微笑んだ。
「待ってろ、マシュー。……もうすこしだ」
「はい」
強く、強く抱きしめて。おやすみなさい、と耳元で囁いたマシューに、アーサーは全てを許容する笑みを浮かべて頷いた。まぶたが閉じる。直後、体から力が抜け落ち、アーサーの体を光がとりまく。明滅する光の群れはほんの数秒現れて、ざぁ、と音を立てて消えて行った。乱れた髪を整えてやりながら、マシューはアーサーを抱き上げて歩き出す。寝室に横にしてあげなければ、ゆっくり休めないだろうから。
眠る顔を見つめる。起きたら恐らく、玄関を開けたくらいで記憶が途切れてしまっているだろう。そのあたりのフォローはピーターに頼むことを決意して、マシューは眠るアーサーの額に口付けた。悲しくはない。待っていろ、と言われたから。百年でも二百年でも、千年だって、喜んで待てる。アーサーは、マシューとの約束を破らない。ずっと昔からの決まりごとは、今度も成就されるだろう。
見送りの為に門まで手を繋いで歩きながら、ピーターはマシューの顔を盗み見た。すこし疲れた顔つきのマシューは、すぐにピーターの視線に気がついて笑いかけてくる。無理した風な笑顔ではなく、ごく自然な表情だった。それに胸を撫でおろしながら、ピーターは尋ねる。
「にいちゃ、僕、質問があるのですよ」
「うん? なに」
「アーサーはちゃんと、にいちゃのことを呼んでくれましたですか?」
それは、ただの確認だった。期待でもなく、不安でもなく、当たり前のことを当たり前に確かめる問いかけだった。だからこそマシューは、口元を手で押さえて頷く。嬉しそうに笑って、ピーターはマシューの足に抱きついた。楽しくて仕方がない笑い声が、庭園に響き渡る。
「……お天気雨なのですよー」
空は、雲一つなく晴れ。二人の影を濃く、レンガの上に落としていた。