周囲から切り離されたような、浮かび上がるような一際静寂をまとう存在感のもと、菊はマシューを出迎えた。そぅっと口元だけに浮かべられた笑みは穏やかでいて艶やかで、マシューは思わずわ、と声をあげてしまう。袖口で口元を隠しながらころころと笑う菊は、向けられる周囲の視線をたおやかに払ってみせた。わずらわしいと遠ざけるのではなく、それは葉にかかる朝露を払うがごとく。自然に溶ける一動作。
空港は様々な国籍を持つ者がすれ違う場所だが、やはり日本人が多く見受けられる。出迎えの者も到着した者も、日本人だらけとは行かないにしても大多数を占めていた。その国民の住む『国』そのものでありながら、菊は日本人の誰とも違う姿だ。もっとも違うのは、やはり服装だろう。上品な藍色の和服に煤竹色の下駄をはき、肩には和傘の柄を乗せている。白と藤色が鮮やかな、絹でつくられた京和傘だった。
しかし、空港内である。服まではともかく、傘は持っていても差すものではないだろう。控えめに日差し避けですか、と問いかけたマシューに、菊はしとやかに笑って言いきった。
「いえ、新品ですので、ちょっと見せびらかしに」
「……菊さんて、面白い方ですよね」
「冗談ですよ。さて、行きましょうか」
肩から柄を下ろし、菊は和傘を閉じてしまった。さすがに開いたままでは、歩くのに邪魔だろう。そう思いながら菊の後をついて歩き、マシューはふと気がつく。人がそう多い訳ではないが、周り中が日本人だ。そう背も高くない菊は、ともすればすぐ見失いそうになってしまう。目印になっているのは手に持たれた和傘の、主張しすぎないのに鮮やかな色合いで。それを広げて立っていた姿は、恐ろしいほど目を引いた。
すぐに合流できるように、と菊の気づかいでもあったのだろう。待たせていた黒塗りの車の横に立ち、菊はもう一度和傘を広げると、柄をくるりと回しながら肩に置いた。それだけで、なんでもない風景の中、菊の存在感が涼しげに咲く。追いついたマシューに微笑んで、菊はまたすぐに和傘を閉じてしまった。さあ我が家に向かいましょうね、と言いながら扉を開けて車の中に誘う菊に、マシューは慌てて口を開く。
「あのっ」
勢いに押されたか、菊はきょとんと目を瞬かせた。お忘れ物でも思い出しましたか、と尋ねられるのに首を振って、マシューはすこし言葉に悩んだ。島国の穏やかな友人は、マシューが感謝を口にしたとて、素直に受け取ってはくれないだろう。感情表現としては間逆だといえど、菊はアーサーと同じ島国だった。マシューは菊が不信に思わないように言葉を探して、ええと、と呟きながら和傘に目を落とした。
「き……綺麗な、傘ですね」
はたはたと瞬きをして、菊の表情が喜びを滲ませていく。ふふ、と肩を揺らして笑う菊は、マシューの意図を見抜いたのか見抜かぬままなのかを決して相手に悟らせなかった。ただ和傘を誇るように目を細め、マシューに向かって軽くお辞儀をする。指先まで、爪の先まで作法が行きとどいた姿に、溢れる日本語や空の色、気候や風の匂いより深く、マシューは『和』を感じ取る。ここが日本だと、そう思った。
マシューが日本の地を訪れたのは、国としての仕事とは関係ない、全く個人としての行動だった。その理由は、いくつかあげることが出来る。例えばアーサーにクッキーを渡してくれたことに対するお礼の為であるとか、メールで伝えてくれた気持ちに対する感謝の為であるとか、ピーターの持つ魔法の杖が『made in kiku』であることに関しての詳しい説明を求めてだとか。このように、本当ならたくさんあるのだが。
菊が『日本』として所有する屋敷の一つの門をくぐり、今に通されてお茶を出されてしばし。ようやっと落ち着いた雰囲気の中で改めて来訪の理由を問われたマシューは、嘘をつくつもりでもなんでもなく、ただごく自然に顔を見に来ました、と微笑んだ。元気かな、と思って、と。照れくさそうに笑いながら続けられて、菊はやや驚いたように目を見開いたものの、すぐにじわりと笑みがにじむ表情でそうですか、と頷いた。
菊とマシューが交わした言葉はそれだけで、後は気まずくもない沈黙が降りてくる。時計の針の音、風で障子が鳴る音、庭で木々の葉が擦れる音、小鳥たちのさえずりや虫の鳴き声が響いていた。和紙を透かして室内を温める光は、マシューの知るものよりずいぶんと甘く見えて目を和ませる。畳に落ちる影の色も穏やかで、黒というより薄墨色の奥ゆかさを持っていた。ててて、と小さな生き物の足音が聞こえる。
すこし開けられたふすまの隙間からやってきたのは、むくむくふわふわの毛並みを持った子犬だった。目を止めた菊が嬉しげに目を細め、おやぽち君、こんにちは、と挨拶をする。つられてマシューも挨拶をすると、ぽち君のまんまるい目が異国の客人に向けられた。何度もあったことがあるので、ぽち君はすぐにマシューだと分かったのだろう。短いしっぽをぱたぱた振って嬉しそうに笑い、ててて、と寄ってくる。
その様があんまり可愛らしくて、マシューはぽち君をひょいと抱き上げると、もこもこのお腹に顔をうずめて頬ずりをした。ぽち君は噛んだり暴れたりすることをせず、ただただ嬉しそうにマシューの指を舐めて体をすり寄らせる。しばらくお腹のもこもこを堪能して、マシューはぽち君を畳の上に下ろしてやった。ぽち君はまたね、と言わんばかりにマシューにぱたりとしっぽを振り、ご主人さまの元へ寄って行く。
てしてし、と前足で太ももの辺りを叩かれ、菊は微笑みながらぽち君の頭に手をやった。やや乱暴な仕草でぐりぐり撫でてやりながら、菊はまぁったく、と嘆かわしげな息を吐く。
「いいですか? ぽち君。相手がマシューさんだと分かっているなら良いですが、知らない人にあんなに無防備にしっぽ振ったりしちゃいけませんよ? ぽち君は可愛いんですから」
番犬の役目なんてぽち君には求めませんよ危ないじゃないですか、と文字を背後に背負い、菊はとつとつとぽち君に語りかける。ぽち君は賢さのすけて見える瞳をきらきら輝かせ、ぱた、ぱた、としっぽを振りながら頷いた。分かったのならばよろしい、と深々頷き、菊は笑いをこらえるマシューを不思議そうに眺めて問いかける。
「そういえば……マシューさん、今日はクマ次郎さん、ですよね。ご一緒ではないのですか?」
「連れてこようとも思ったんですけどね……起こしたら可哀想だと思って」
その時の光景を思い出したのか、マシューの表情が柔らかくなる。花をほわほわ周囲に浮かすように笑うマシューを眺めて、菊は愛を知るひとだなぁ、としみじみ思った。愛しい、愛しいという心を微笑み一つで伝えられるのが、菊の知るマシューという人である。惜しみない愛をもって育てられたことを、理解して自覚しているからこその穏やかさ。どうしてアルフレッドさんにこれがないんだろう、と菊は溜息をついた。
呆れを含んだ溜息を問うこともなく、マシューは菊にやんわりと微笑みかける。
「セーシェルと香(かおる) が泊まりに来ているんです。それで、二人でクマ吉さんを枕にしてお昼寝していたのがあんまり可愛くて……つい、そのままで来ちゃいました」
これでピーターも一緒に寝ててくれれば完璧だったんですけどね、と言いながら差し出されたマシューの携帯電話を、菊はありがたく受け取った。赤外線通信でさっさとデーターを移し、現れた写真に口元を押さえて身悶える。安心しきっているのだろう。南国の少女は白いワンピースをくしゃくしゃにしながら、クマ次郎さんのお腹を枕にして眠り込んでいた。クマ次郎さんは諦めているのか、少女のなすがままだ。
香港の化身である『香』もやはり、クマ次郎さんを枕にして眠っている。セーシェルと違うのは、香の腕が少女を守るようにゆるく引き寄せて抱きしめている所だろう。安心しきった表情は同じだが、香の寝顔からは少女を守る兄の喜びが感じられる。よく見ればセーシェルの手は香の服を掴んでいるので、これでは二人同時に目覚めない限り、どちらかが自由に動くのは難しそうだった。クマ次郎も動けないだろう。
可愛いですよねぇ、としみじみ呟くマシューに、菊は力いっぱい頷いた。
「ええ、とっても……! でもマシューさん? お二人を置いてきて良かったんですか……?」
セーシェルはともかくとして、香は菊のお隣さんのようなものである。連れてこられても対して困るものではないので、気を使って置いてこられたのだとすれば可哀想だった。掴みどころのない性格をしている香なので、それくらいで拗ねるとも怒るとも思わなかったのだが。マシューは、菊の質問が以外だったのだろう。きょと、と目を瞬かせてから言葉の意味を飲み込み、ああ、と頷いてからゆるく首を傾げた。
「そっか。香は、アジアでもあるんでしたっけ」
「はい。英連邦の方と親しいのは知っていたのですが……」
「親しいっていうのか……英連邦はね、菊さん。アーサーを頂点とした一家族なんですよ」
英連邦。その言葉を口に乗せた瞬間のマシューは、誇りと喜びに満ちた表情をしていた。家族ですか、と呟く菊に、マシューは燦然と輝く瞳をそっと伏せて、恋を語るように告げていく。
「母国たるイギリス、アーサーの家が僕らの実家みたいなものでしょうか。……もちろん、カナダが家であることに変わりはありません。でもそれは拠点、って言いますか、主に住んでいる場所で。家は英連邦中に散らばっていて、その一つ一つが僕らの家で、別荘みたいなものなんです。これは『国家』としてではなくて、英連邦の枠組みの中に居る『個人』の、マシュー・ウィリアムズとしての感覚なんですけどね」
「なんとなく、分かります」
菊も日本全国、都道府県に一つは家であったり別荘を持っている。使っていないものが殆どだが、感覚としてはそれを思うのに近いだろう。あやふやながらも頷くと、マシューは安心した微笑みで頷いた。僕、説明があまり上手ではないもので、とはにかんでマシューは告げる。
「だから、泊まりに来たと言っても特別、お互いに何かしてるわけじゃないんです。もちろん、行き先は告げて来たのでシェリもカオルも、僕が菊さんの家に居るって知ってますから、なにかあれば電話なり、それこそ二人で来ることもあり得るでしょうけれど。だから、大丈夫」
「そうだったんですか。それならよかった……シェリ、とはセーシェルさんのことですよね?」
普段はそうお呼びしてらっしゃるんですね、と聞き慣れない名前を問う意味で尋ねれば、マシューは無意識だったのだろう。ああ、と恥ずかしそうに口に手を当てて頷いた。『cheri』と綺麗な発音で言いなおして、マシューは『セーシェル』でも良いんですけどね、と笑う。
「僕らって、普段は国名で呼び合わないのが暗黙の了解でしょう? セーシェルは孤島だったからなのかなんなのか、いつの間にかそっちも名前で固定してしまって、だからいまさらどうって言うことでもないんですが。どちらかと言うと……彼女を人ごみで呼んでも、僕らが女の子を探してるってすぐ分かってもらえるように、ですね」
「おや、ではよく迷子に?」
「なるんです……。最近、出かける時は手を繋ぐようにしているので、平気なんですけど」
怖い目に合ったことがないので、すぐ誰かについて行くもので、と溜息をつくマシューに、菊は胸を温かくした。セーシェルも、存在してから、もう長く経つ国である。その長い時の中でもそれだけ素直なのは怖い目に合ったことがないというより、合わせなかったから、なのだろう。マシューのちょっと行き過ぎた過保護は、ピーターに関する育て親たちの証言から知っている。微笑する菊に、マシューはあ、と声をあげた。
「そうだ、菊さん。すみませんが、シェリの名前、聞かなかったことにしておいてください」
「……え?」
「シェリは英連邦内の呼び名なんです、と、いうか……カオルが嫌がってて」
他の国に知らせるのノーです、と言い張ってるんですよ、とマシューは溜息をついた。
「関係ない国が呼ぼうものなら、俺は南セントレアになるでウィッシュ、とかよく分からないことまで言いだして……すみません。素直な良い子な筈なんですけれど、このことについてはちょっと頑なで」
「……いえ、こちらこそ、香君の言葉づかいについてなんと謝罪を申し上げて良いのやら」
それぞれがぞれぞれの理由で胃の痛みをこらえつつ、思うのは返還都市香港のことだった。アジアでありながら異国情緒漂う、無国籍感いっぱいの街並みを持つ化身は、その思考体系と言語的なものを未だ誰にも理解させないでいる。菊は返還当時、アーサーが必死に目を反らしながら『香の言葉づかいは俺のせいじゃない』と国際会議でアジア勢に告げていたことを思い出した。ちょっと混ざっただけだから、と。
ルー語でしゃべられるよりマシだと思おう、と気を取り直し、菊はひたすら申し訳なさそうなマシューの肩を、慰めるようにぽん、と叩いた。妙な仲間意識と連帯感が生まれたが、脱力感の方が強いのはなんなのか。
「お互い様ということで気にしないことにしましょう? セーシェルさんのお名前を、私は聞かなかったことにしますから」
「ありがとうございます。菊さんには本当に、どうお礼を言っていいのか」
「もうお礼は頂きました。お気になさらず」
これはもちろん新刊のネタにして良いのですよね、とにこにこ笑いながら携帯にお昼寝写真を表示する菊に、マシューはお好きにどうぞ、と苦笑した。セーシェルと香にはもちろん無断だが、これくらいはきっと許してくれるだろう。それでも、帰ったらメイプルシュガーとメイプルシロップたっぷりのホットケーキをごちそうしてあげよう。そう思いながら笑みを取り戻して、マシューは改めて菊の顔を見た。静かに、頭を下げる。
「ありがとうございます」
「マシューさん、私は」
「菊さんがメールを下さったのがきっかけで、僕も覚悟が決まりました」
申し訳なさそうに遮るのに、聞こえなかったふりをして。しっかりと言い放った言葉に、菊の動きがぴたりと止まる。なんのことを言っているのかなど、すぐに分かったのだろう。だからこそ言葉の力を知る東洋の島国は、慎重に告げるべきことを探しているのだ。しばらくの空白の後、菊は一言『そうですか』と言った。突き放すでもなく、温かく包み込むでもなく。そこにあるものをあるがまま、肯定してくれる言葉だった。
優しい傍観の言葉だった。はい、と頷いて顔をあげ、マシューはくすぐったそうに笑う。
「それに、あれからちょっとだけ……良いこともあったんです」
「おや、なんですか?」
アーサーの変化は、数少ない友人である菊にも喜ばしいことらしい。嬉しそうに尋ねられて、マシューは名前を、と呟いた。あの日以来、ほとんど初めて名前を呼んでもらえたのだと。一瞬の立ち返りでもなく、マシューの知るアーサーとして、その名を。今はまたそのことも忘れてしまっているでしょうけれど、と苦笑いをするマシューに、菊は前進ですね、とわざと強気な言葉をかけた。マシューは、ちいさく頷く。
それで、二人の会話は終わりだった。互いに、話題のない沈黙を苦に思う性格ではないから、あえて声をかけることもしなかった。やがて菊は立ち上がり、マシューにお茶のお代わりを訪ねる。マシューは嬉しそうにお願いします、と言った。ぽち君は居間から出ていく菊と、残るマシューをせわしなく見比べ、やがて主が座っていた場所に腰を落ち着かせてしまう。菊が帰ってくるのを、待つことにしたらしい。
手を伸ばしてぽち君の頭を撫で、マシューはふと目を閉じてアーサーを想う。脳裏に描いた勝気な微笑は、待ってろ、とマシューに告げたあの日のもので。うん、と頷いてマシューは目を開く。うとうと眠そうにするぽち君を眺めながら、なんとなく考える。今日もアーサーは、きっと笑って過ごしている。その日々が忘れさせているからではなく、思い出す為の目隠し故だと思えることが、嬉しくて仕方がなかった。
家主たるマシューが不在の状況でその声がするのであれば、理由はたった一つ、香の携帯着信音だった。それぞれ指定着信音で細かい設定をしている香の携帯は、メールであろうと電話であろうと、その贈り主がすぐにわかる仕様になっているのである。寝ぼけた頭で携帯電話を掴み、香はマシュー兄からだ、と呟いた。鳴り響いたマシューの声によるカナダ国歌に、意識を揺さぶられていたセーシェルの目が開く。
マシューお兄ちゃんっ、とピーターの呼び方がそのまま移ってしまった少女の呼称は、優しくもどこか甘やかに響く。くす、と口元だけで笑んでセーシェルの髪を撫でてやりながら、香はとりあえず目覚めの口付けを少女の額に送ってやった。きゃぁ、と可愛らしい声をあげて肩をすくめたセーシェルは、甘えるようにじゃれついてくる。腕の中にすっぽり収まる少女の体は柔らかく華奢で、香はちょっと溜息をついた。
可愛い。でもこれはちょっとマズイと思う。可愛い。いやもうそれはもう可愛いけど。
「……シェリ。英連邦以外に、こんな風にしたら
so bad だ。シェリは可愛い」
「はいはい。カオルは心配性なんですからー。で、で? マシューお兄ちゃんがなんです?」
日本に行ったなら眉毛がアレコレとかそういう連絡ではないですよね、とすこしだけ心配そうに首を傾げて見せるセーシェルは、香の忠告を真剣に聞く気などないようだった。ああもう、と内心で盛大に脱力しながらも毎度のことなので諦めて、香はぱかりと携帯電話を開いてボタンを操作した。着信はメールが一件。カチカチとボタンを押してざっと流し読みし、香は数秒の沈黙ののち、セーシェルの名を呼んだ。
「シェリ」
「はい?」
「シェリは、菊兄様が好きか?」
香は英連邦の男性国家を『兄』と呼び、アジアに連なる者たちを『兄様』と呼び分けている。深い意味は無いそうなのだが、セーシェルには愛情や敬意、もっといえば懐の深い位置をそちらが占めているようですこしだけ気に入らない。よって返事も素直ではなく、嫌いじゃねーですけど、と頬を膨らませてしまうのは仕方がないだろう。香は不思議そうにセーシェルの顔を覗きこむが、ふてくされた少女の心は分からない。
端正な顔立ちがぱちぱちと瞬きするのを睨みつけて、セーシェルは唇を尖らせる。なんですかー、と言葉を紡げば、香の頬にさぁっと朱が散った。濡れ羽根色の瞳が、くる、と宙に円を描く。
「可愛……想、接吻。但、是っ!」
『かわいい……キス、したい。じゃ、なくて!』
「……カオル、なんですか?」
かすかに呟かれた中国語を聞きとって翻訳できるほど、セーシェルは語学に堪能なわけではない。眉を寄せて聞きなおすと、香は白い肌を真っ赤に染めてぶんぶん首を振り、なんでもないと言い放った。そういう時の男の子は、可哀想だから追及しないこと。女性国家仲間であるハンガリー、こと、エリザベータにそう言い含められていたことを思い出し、セーシェルはこくりと頷いて香が落ち着くのを待ってやった。
まあこれくらい、アーサーの暴走に比べれば可愛らしいものである。暴れないし、騒がないし、待っていれば落ち着くし。殴って止める必要がないし。あと反撃してこようともしないし。実に平和だ。にこにこ笑いながら待っていると、香は深々と息を吐いて顔をあげる。
「ごめん。……シェリは、アルフレッドは好き、か?」
「嫌いじゃないですよ? カオル? なんなんですかー、ちょっとー」
「シェリ。マシュー兄の帰りが二、三日遅くなる。理由はその両名だ」
メールはその連絡と謝罪、と告げる香に、セーシェルの目が軽く見開かれる。純金にも見える琥珀色の瞳が、ぱちぱち瞬きをした後、みるみるうちに涙の幕を張った。だから、聞いたのだ。ああ、と溜息をつきながらセーシェルを抱き寄せた香は、少女の背をぽんぽんと軽く叩いて慰める。二人とも嫌いになりそうですー、としょげかえった声で告げられるのに頷いて同意してやり、香はセーシェルと額を重ね合わせる。
「帰国を伸ばすから」
「本当、ですか?」
「Yes my princess。一人にさせない。一人にしない。一人で待たせない。だから、泣くな」
島国である故なのか、フランシスやアーサーの訪れを待ち続けた過去があるからなのか。『一人で待つ』ということがセーシェルはひどく苦手で、嫌いで、不安に思うらしかった。あらかじめ決められた予定ならばこなしてもみせるが、こうした突発の事態には本当に弱くなる。じゃあ我慢してやります、と涙を我慢しながら健気に頷くセーシェルを軽く抱き寄せ、天井を仰いで香は溜息をついた。待つことは、別にいい。
けれどマシューも当然、セーシェルのそれを知っている筈なのに。その上で予定を変更したのは、そうしなければいけない余程の理由があったのか、一枚も二枚も上手すぎる香の『兄様』になにかを押し切られてしまったのか。まあ後者だろう、と思いながらも、胸を刺すかすかな不安を振り払って。機嫌を直してすりよってくるセーシェルにバレないように、香は先ほどとは意味の違う、やや艶めいた息を吐き出した。
したことがなくて、恋なんて分からなかった。