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 6 黄昏に遠くとも

 紅茶はないよ、と当たり前のように告げたと同時、コトン、と心地いい音が響く。それだけで品の良さを秘めた音律に導かれるように顔だけ振り返れば、机の上には紅茶の缶が置かれていた。すっと音もなく缶から引く指先は、淡雪のように白い手袋がはめられたままで。禁欲的でありながらひどく蠱惑的な仕草に、背筋が震えた。指先はそのまま不敵に微笑む唇に持っていかれ、新緑の瞳がゆるく細められる。
「紅茶が……なんだって? アルフレッド」
 嫌味なくらい、隙のない立ち姿だった。使い古した皮鞄を足元に置いたまま、アーサーは背筋を伸ばして立っている。踵を揃えた足元で、磨かれた黒靴が誇らしげに艶めく。ダークブラウンのスーツは質も仕立ても一級品で、落ち着いた色合いながらも洗練されたデザインだった。ネクタイはウインザーノットで結ばれた、無地のダーククランベリー・カラー。珍しい暖色系のネクタイは、けれどしっくりと似合っていた。
 思わず見つめてしまう視線の先、結び目にひっかけられた人差し指がネクタイをわずかに緩める。ふ、と息が吐き出され、それから見つめられているのに気がついたのだろう。不審に歪んだ瞳に、慌てて紅茶缶に手を伸ばした。片手で包み込んでしまうサイズの缶に、入っている紅茶は三十グラムもないだろう。紅茶を飲まない習慣の家に持ってくるには最適で、後に残らない飲み切りサイズが気遣いだった。
 缶には簡素な筆記体で『DARJEELING SECOND FLUSH』と書かれている。しかしそれだけで、缶のどこにも賞味期限や、果ては茶園の名すら見つけられない。不安になって視線をやると、アーサーはどうしてそんな所に気がつくんだと言わんばかり、呆れの表情で口を開く。
「キャッスルトン。貰いものだ」
 キャッスルトン。それはいくつも、いくつもある茶園の中でも王者と呼ばれる名園の一つだった。この小さな缶一つだけでも、ドルが三十は飛んでいく。高い。ややひきつった顔つきになるのを見咎めて、アーサーはさらに呆れたように腕を組み、そのままぼす、とソファに座り込んだ。淹れてくれる気は、ないらしい。紅茶を入れる正式な手順を思い出しながらキッチンに向かう背に、ため息交じりの声が届く。
「美味く淹れろよ? どうしても不安なら、俺が淹れてやらなくもないが」
「い、いいよっ。座っててくれよ、アーサー。キッチンが汚染されたら大変だからね!」
「お前、それはどういう意味だ」
 艶やかにしてあでやかな笑みは、牡丹や薔薇のごとく華やかに咲いていた。直視したら目が死ぬ程度の毒を含んでいたので、危険物この上ないのだが。綺麗な花には棘がある。そして、毒もある。身を持って教えてくれようとしなくていいよ、と脱力しながらキッチンに逃げ込んで、フライトジャケットを肘までまくり、よし、と気合を入れた。やればできない、こともない。ヤカンに水をいれて火にかけ、ポットを取り出す。
 普段は使われていないものだから食器棚の奥にあるそれを、すこし探しただけで見つけられたのは幸運だった。ほっと胸を撫で下ろしてお湯を注いで温め、カップにもポットからお湯を移して温める。紅茶の缶を開けるとそれだけでふくよかな香りが立ち上り、思わず、肩にいれていた力が抜けていくのが分かった。大丈夫だ。別に怖がることはない。大丈夫。今まで通り、同じようにしてやればいい。それだけだ。
 ふと口元に笑みが浮かんでくるのを感じながら、紅茶をポットに淹れてお湯を注ぐ。砂時計はなかったので腕時計に目を落とし、時間のすこし前にポットとカップを乗せたトレーを運んでいく。はいどうぞ、と声をかけてアーサーの前の机に置くと、ややいぶかしげな目が向けられた。助けての声もなく、普通に紅茶が出て来たのでなにが起きたのか、と思っているのだろう。あのね、と苦笑して肩をすくめ、口を開く。
「アーサー? 紅茶の淹れ方なら、いつだったか君が教えてくれたじゃないか」
「……そう、だけど」
「だろ? 俺はもの覚えが良いんだぞ! さ、飲んでみてくれよ。君ほど美味くはないけどね」
 注いで、とばかりカップを持てば、アーサーは溜息をついて手を外させた。熱くて火傷をするかも知れないから、とまるきり幼子に対する注意の響きに、ぷぅ、と頬を膨らませて抗議する。その仕草が幼いんだと呆れる目をさらりと受け流し、注いで、と強請ればアーサーはすぐに諦めた。全く、と呟く声はそれでも甘い。丁寧にポットを持ち上げる仕草も、傾ける手首や腕の動きも、なにもかもが流麗で目を奪うものだった。
 すこしだけ見惚れていたのを気取られないように、角砂糖を三ついれてスプーンでかき混ぜる。甘さの想像がついたのだろう。顔をしかめて嫌がるアーサーにかまわずミルクもたっぷり注ぎ、一口飲んで満足げな息を吐く。ダージリンの繊細な香りは甘すぎるミルクティーに太刀打ちできていなかったが、それでも飲み込んだ喉の奥、口の中、かすかに風雅が残っていた。アーサーは、砂糖をすこしいれて飲んでいる。
 おいしいかい、と聞くとカップを口元に持って行ったままで視線だけが向けられ、ややあって声で返された。まあまあ、との呟きは及第点だろう。それはよかった、と満面の笑みを浮かべて頷き、一口分しか減っていない紅茶をソーサーに戻す。陶器の擦れる耳障りな音に、アーサーは眉をつりあげて無作法を咎めてくる。あえて見なかったふりをして笑い、ソファに座りなおすと組んだ手の上に顎を乗せ、首を傾げた。
「それで、アーサー。なんの用だい? 特に約束はしてなかったと思うけど」
「一つは、仕事が終わった帰りに顔を見に来た。もう一つは、個人的な質問をしに来た」
「一人暮らしは順調だよ、my mother」
 ぱちん、とウインクを一つ付けて言ってやると、アーサーの瞳にあからさまな怒気がうまれる。誰が母だ、と吐き捨てられるのに極上の微笑みを浮かべて、君、と言ってやる。アーサーはめったに見せない乱暴な仕草で、ティーカップを叩きつけるようにソーサーに戻した。思い切り息を吸う音が響き、アーサーの拳が机を叩く。
「俺は! お前を、産んでねぇっ!」
「突っ込みはそこでいいのかいっ?」
「あと俺は男だっ!」
 そこも違うよねアーサー、と思わず口に出しそうになって額を押さえて息を吐き、ずるずるとソファに沈み込む。思い切り脱力した姿を反省したとでも思ったのか、アーサーの視線が仕方なさそうに緩んだ。なんでそんなにちょろいんだい、とちょっと泣きそうな気持ちになる。むしろそんなにちょろくて、英国は本当に大丈夫なのか、とも聞いてみたい。七つの海を支配していた大英帝国時代もそんなだったのか、と。
 はあぁ、と深く息を吐くとアーサーは姿勢を正し、やけに落ち着いた仕草で紅茶を一口飲み込んだ。
「で、個人的な質問のことだが」
 あ、そこで話戻すんだ、と向けた視線に、アーサーはにこりと笑う。ぞっと背筋に戦慄が走ったのが、気のせいならどれ程よかったか。アーサーは怒っているわけではない。しかし、今はまだ怒っていないだけで、その準備は完璧に整っている。そういう、笑みだった。思わず口元をひくつかせるのを、アーサーはじっくりと観察するように眺めやった。
「……お前も知ってるのか? アルフレッド」
「なん、の、こと……だい。アーサー?」
「そうだな。質問の仕方を変えようか、可愛いアルフ」
 ソファに浅く腰かけて足を組み、悠然と手を組むその姿は底知れぬ畏怖を振りまいていた。口元に浮かぶ笑みは、薄い冷笑でしかなく。細められた瞳の奥は、全く笑っていなかった。
「マシューは俺に魔法をかけているらしい。可愛い俺のアルフレッド。それを、そのことを、知ってたのか?」
「……俺は」
 過度の緊張に、喉の奥がひりひりと痛む。胸の痛みは知らなかったふりをして、息を吸い込むことでなんとか笑顔を形作る。笑え、笑え、と何度も繰り返し己に命令して、ようやくそれらしきものを唇に浮かべた。
「俺は、知らなかったよ、アーサー。……知ってたら、そうする前に止めたよ。俺はヒーローだからね!」
「あっそ」
「ひどいよアーサー! なんだいそのやる気のない返事っ!」
 ヒーロー云々は、アーサーにとって極めてどうでも良いことらしい。威圧感を霧散させてさらりと言い放たれたのに、じだんだを踏んで抗議する。ヒーローだろ拗ねんなっ、と至極真っ当な叫びを無視してじたばたしていると、思い切り溜息をつかれてしまった。それでも納得がいかない風に暴れていると、アーサーはソファから立ち上がって歩み寄ってくる。仕方ねえなぁ、と言わんばかり細められた目の距離が、近い。
 両膝を抱えてソファに座るのを覗きこむ形で体を屈めて、アーサーはごく穏やかに微笑んで手を伸ばす。ぽん、と一度だけ髪に触れて離れて行った手を見つめていると、アーサーはなにか悪戯を見つけた子供のような顔をしてにぃ、と笑った。嫌な予感がひしひしとする。とっさに逃げようと体を動かす前に、七つの海の征服者はかつての養い子との距離をごく近くまでつめていた。額が、そっと重ねられる。
「……アルフレッド?」
「な、なぅ……なん、だいっ?」
 ガラス質の青い瞳が、アーサーを映したがらずにきょろきょろと動きまわる。五秒待って視線が重ならないと分かるとアーサーは溜息をつき、素直に体を離して解放してやった。そしてそのまま置き去りにしていた鞄に歩み寄り、持ち上げてから振り向いて笑う。
「じゃあ、俺は帰るからな」
「う、うん……君、ホントになにしに来たんだい」
 よく分からないぞ、とソファの上で胸を押さえたままで唇を尖らせるのに、アーサーはくすくすと楽しげに笑って。それからすい、と視線を細め、愛しさと申し訳なさの滲み出る表情で口を開く。
「今日は良い。……あんまり、おイタばかりするんじゃないぞ?」
 声には、出さず。名前を綴った唇を読んで、驚きに目を見開く様を満足げに見つめ、アーサーは居間を出て行った。しばらくして扉の開閉する音が響き、足音が家から遠ざかって行く。ずるずると、今度こそ力を失ってソファに沈み込んでしまった体を、持ち上げる力はどこにも残っていなかった。真っ赤に染まった顔に手を押し当てる。熱い。ううぅ、と力なく呻いた声をかき消すように、けたたましく扉が押し開かれた。
「マシューっ! マシュー、生きてるかいっ!」
「……もうだめかも知れない」
 だって最後らへん、多分バレてた、と涙ぐみながら。ソファから体を起して、マシューは飛び込んできたアルフレッドを出迎えた。ぽかんとした様子で口を開けて驚くアルフレッドの背から、おや、とたおやかな笑みを浮かべた菊が顔を出す。
「ダメでしたか? アーサーさん、普通に帰られたようでしたが」
「そうだよっ! 服も俺のだし、テキサスだって貸してるし、カツラもカラー・コンタクトも完璧なんだぞっ?」
「でもマシューって、マシューって呼ばれたし……っ!」
 唇だけで綴られた愛を、思い出したのだろう。ぼん、と音が立つように顔を赤くしてソファで身悶えるマシューの外見だけは、アルフレッドそのものだった。短く撫でつけられた金髪はカツラで、触ったくらいでは偽物だとも分からない特注品。カラー・コンタクトは近距離でズームにしても分からない、映画撮影用に作られた、こちらも最高級の特別品。テキサスとフライトジャケットは、アルフレッドからの借り物である。
 言葉づかいも仕草も、それまで本人のチェックと菊のコスプレなりきり指導が加わった上でのものだった。勘違いされ続けている状態での演技よりよっぽど恥ずかしい。立ち直れる気がしない、とぐったりソファに沈み込むマシューの隣に腰を下ろして、アルフレッドは兄弟の頭からカツラを外してやった。浮かないようにきつく結ばれた髪をほどいて、普段通りのふわふわの髪に指を遠し、慰めるように撫でていく。
 マシューはぐったりとして動かないまま、なすがままに撫でられている。おやおや、と穏やかに笑いながらデジカメで写真を一枚とって、菊はなんでバレたんでしょうねぇ、と反省の見つけられない態度で首を傾げた。
「確かに完璧だった筈なんですけれど……やはり、カラー・コンタクトでは?」
「かもね。マシュー、君、どれくらい接近されたんだい」
 言いたくない、とばかり、うつぶせで寝転ぶマシューの首がもそもそ動く。しかしあえて空気を読まない超大国と、コスプレの完成度を追及したい東の島国に黙秘が通用するわけもない。マシューはもう嫌だ記憶を失いたい、と涙ぐんで思いながら、うつぶせの状態で視線だけを持ち上げた。その瞳は未だ青く、穏やかな海のように揺らめいている。
「……あとちょっとでキスするくらい」
「あー」
「ちょ、ちょっと待ってマシュー! してないだろうねっ? キスしてないだろうねっ?」
 姿を貸すのと、それとこれとは別問題だ。正体がバレていようとなかろうと、アルフレッドにはその一点のみが重要事項なのである。なにやら納得したような頷きを見せる菊に見向きもせず、アルフレッドは涙目でマシューに詰め寄った。してないよぉ、とぐったりしつつ、マシューは反論する。
「この姿でキスしたら、アーサーと君がキスしたことになるじゃないか。僕は嫌だよ、そんなの」
「俺だって、俺の姿をした君とアーサーがキスするのなんて絶対嫌なんだぞ。ダメなんだぞっ」
 ぽこぽこ怒りながらマシューに覆いかぶさるようにして抱きしめる姿は、これ僕の、と大きいぬいぐるみを抱きしめて所有権を主張するこどものそれだった。フィルター通して見れば和むんですけどねぇ、と思いながらデジカメのシャッターを切り、ふむ、と菊は首を傾げる。
「そうしますと、やっぱり瞳の色、でしょうかねぇ……。同じ青でも、彩度が違うのは致命的でしたから」
「そうですね。アルフレッドの瞳は、天空の青に近いですから」
「菊! あんまり写真取らないでおくれよっ!」
 俺が二人で仲良くしてるみたいな写真は悪趣味だぞ、とぽこぽこしながら不服を訴えるアルフレッドに小首を傾げてにこやかに笑み、菊はそれが萌えるのではないですか、と言い切った。双子でもドッペルゲンガーでも兄弟でも萌えます、とはきはき主張する菊は、会議の時にはない己を持っていた。聞いていると洗脳されるのは目に見えているので耳を手でふさいで首を振り、アルフレッドは深々と息を吐き出す。
「もういいや。マシュー、着替えておいでよ。それで、早く家に帰ってやると良い」
「うん。着替えるけど……なんで?」
 そんなに追いやらなくたって、と苦笑しながらソファから立ち上がったマシューに、答えを提示したのは菊だった。菊は携帯電話を取り出して見せると、香君からメールが来ておりまして、と画面に出して見せてくれる。文面は短かった。たった一言しか書かれていなかったからだ。件名は『菊兄様へ』。内容は『もう無理っす』。以上終了。なんとも言い難いものを感じて、マシューは複雑そうに目を細めて沈黙する。
 それだけで状況が分かってしまうのは、良いことなのか悪いのか。今一理解していないアルフレッドをちら、と見て、マシューは菊と視線を合わせた。さすがに空気を読む文化圏の国であるからして、菊は大体を分かっているらしい。同じアジアであることも大きいだろう。袖を口元に当てながらくすくすと笑い、若いですねぇ、と囁く声にはからかいの色があった。どうしましょうね、と苦笑いして、マシューは呟く。
「カオルは実力行使に出るようなタイプじゃありませんし……セーシェルも、そろそろ分かった方が良いですし」
「おや、よろしいので?」
「紳士に育てられた国ですよ? 無理って言ってくるうちは大丈夫です」
 それもそうですね、とにこにこ笑いあう菊とマシューを不可解そうに見つめて、アルフレッドは仲間はずれ感に唇を尖らせた。早く着替えて来なよ、とぐいぐいマシューの背中を押しやりながら、帰宅予定だけをもう一度問いかける。そうだな、とすこし考えるそぶりを見せたマシューは、夕食を食べて行くよ、と告げて自分の携帯電話を手に取った。セーシェルにもう少しだけ待っていて、と連絡する為だった。



 鳴り響いた着信音にびっくりしてフォークを取り落としたピーターを、アーサーは怒らなかった。気持ちは十分理解していたからである。香の声で『ウィッシュ』と『チョリース』だけを意味もなく繰り返し続ける携帯電話を手にとって、アーサーは溜息をつきながら適当なボタンを押した。とたんに静かになった食卓で溜息を落とし、アーサーは恐ろしいものを見た顔つきで凍りつくピーターに、気遣わしげな視線を送る。
「……大丈夫か、ピーター」
「大丈夫かはこっちの台詞なのですよおおぉっ! な、なんですか今の、頭ぱーんってなりそうな着信音っ!」
「お前の兄ちゃんの一人が細工した、指定着信音に決まってんだろ?」
 さりげなく己との関係性を切り離したアーサーの言葉に、ピーターは涙ぐんでアンタ子育て失敗しすぎなのですよ、と言い放つ。返す言葉を美味く持たないアーサーは、食卓に並ぶうっすら焦げた料理たちから視線を外し、受信したメールを仕方なく開く。そして目にした内容に、アーサーはぐったりとテーブルに身を預けてしまった。
「なあ、ピーター」
「なんですかー。カオル兄ちゃんを育てた眉毛野郎」
「お前の兄ちゃんが『恋ってなんですか? 教えてください、お願いしまwish☆』って頼んできたんだが」
 さりげなくさりげなく、相手に関係性の重きを押しつけているアーサーとピーターの間に、それきり沈黙が降りる。ピーターは意味分からねぇですよ、と言いたげな顔で眉を寄せ、アーサーは恥ずかしそうに視線を彷徨わせていた。やがて静寂に耐えきれなくなったピーターが、目の前の『とりあえず食べられる食料的なにか』の再攻略に取りかかりつつ、諦めモードで口を開く。
「あんま頼んでるようには聞こえないのですよ」
「い、いや、でも、困ってはいるんじゃないか? これ」
「じゃあ、アーサーが教えてやりゃあ良いじゃないですか。ピーター君には関係ねーですよ」
 恋はしたことないですし、となるべく味わうことをしないように口を動かして飲み込み、ピーターはアーサーを見つめた。だからこそ、アーサーに頼んでいるのだということも分かっているだろうに。元宗主国は顔を赤らめて視線を彷徨わせた後、気まずそうにワイングラスを引き寄せ、それが水であるかのような仕草で一気に飲み干す。酔ったら叩きだすですよ、と家主に向けるとは思えない冷たい視線が送られた。
 これくらいじゃ酔わない、と言いながらもかすかに意識を揺らし、アーサーは空のワイングラスを机に置いた。
「今の俺に聞かれても……どう言ってやったらいいのか」
「そんなん承知の上に決まってるですよー。僕ら英連邦、みぃんなアーサーとにいちゃのことは知ってますからねー」
「うわあああぁっ!?」
 突然、頭を抱えて奇声を発したアーサーを、ピーターは『なんだか炭の味がするなにか』を食べながら嫌そうに見つめた。食事の時に静かにしろ、というのはアーサーなのに、これぐらいのことでそんなに騒がないで貰いたい。しぼりたてのオレンジジュースで口の中の不快感を誤魔化して、ピーターはそれでも空腹を主張する体に悲しい溜息をついた。別に食べなくても、生きていけるのが『国』という存在なのに。
 ピーター、食べ物的ななにかでも粗末にしない良いコなのですよー、と抑揚に乏しい呟きを発して『黒っぽいけど肉類だと思われるなにか』を口にする海上要塞の化身に、恥ずかしさで死にそうな目が向けられた。
「なんで……英連邦が、全員、知ってるん、だよ」
「決まってるです。今月の『シー君メルマガ☆ 英連邦と一緒』で一斉送信したからですよ。さっすが快適インターネット! 便利な世の中になったものです」
「お前、本当にロクなことしねぇなぁっ!?」
 だから最近、連邦メンバーの視線が微笑ましいものを見たりする感じだったんだろうか、と。恥ずかしさに今にも死にそうになっているアーサーを眺めやり、ピーターはそんなことないのですよ、と首を傾げた。
「アーサーの様子を皆にお知らせするのは、ピーターのだぁーいじな任務なのですよー?」
「吐け。誰から承った任務だ。誰、からっ!」
 ことと次第によってはただでは済まさない、とすわった目で詰め寄るアーサーに、ピーターは余裕の笑みで口を開く。ピーターとて、生半可な相手ではアーサーが怒るであろうことを予想している分、実行したりしないのである。かくして告げられた名に、アーサーは眩暈を感じてしゃがみこんだ。うっわあああ、と頭を抱えるアーサーに意地悪くによ、と笑って、ピーターは聞こえなかったですか、ともう一度言ってやった。
「アーサーの上司。陛下方からですよー」
「死にたい」
「アーサー? 目がマジ、目がマジなのですよ……! ちょ、深呼吸なのですよぉっ!」
 ほらほら飲んでいいですからっ、とピーターは取り上げておいたワインをボトルごと渡して、アーサーの発作的な自殺衝動を食い止めた。もちろん本気でやると思っているわけではないが、それにしても目が本気だったのである。恐怖から逃れるためにも大事だった筈だ、と言いわけして、ピーターはラッパ飲みによってガンガン減って行く赤ワインを、不安げに眺めた。ぷはぁ、と大きく息継ぎをして、アーサーは笑う。
「いいぜ。教えてやるよ。恋でも愛でも、この俺がなぁ……!」
「……ええっとぉー、アーサーの野郎? カオル兄ちゃんは初心者ですので、お手柔らかに頼むと思いますのですよ?」
「知ってる。アイツのことだから、アレだろ? 『恋とはどんなものかしら』状態で困ってんだろ?」
 甘酸っぱい、と苦笑いをするアーサーは、酔っていてもとりあえず平常の範囲にはいるらしかった。よかった、と胸を撫でおろしながら空腹を満たす作業に戻るピーターに、アーサーはメールを打ちながら話しかける。
「お前も、なんだ。そういう相手が出来たら言えよ? 相談くらいには乗ってやるからな」
「僕、そんなん分からないのですよ。恋とか言われてもピンと来ないですし、にいちゃを好きなのとは違う気持ちだって言うのくらいは分かりますよ? シェリお姉ちゃんも好きは好きですが、お姉ちゃんとして好きなんであって違うと思いますし。僕だって、恋とはどんなものですかー、なのですよ」
 皿の上の、『生前はもしかして野菜だったかもしれないものたち』に対して、チョコレートシロップをかけて誤魔化すという最終手段を行使しながら食べるピーターの空腹は、もうすこし収まりそうにない。溜息をつきながらもぐもぐ口を動かすピーターに、アーサーは景気良くワインを飲み干しながらにぃ、と笑った。
「決まってんだろ? 恋なんて」
「なんて?」
「……目が合って。苦しいくらいに好きだと思えば、それが恋だ」
 それだけだから一発で分かる、とワイングラスに液体を注ぎながら言うアーサーを、ピーターは呆れかえった目でながめやる。チョコレート味の野菜をオレンジジュースで飲み込んで、『スコーン、もしくはパン、それに類するものだと推測される黒い塊』に手を伸ばしながら、ピーターは口を開いた。赤く染まった頬や耳が、酔いを理由にしていいものかくらいならば、分かるので。
「恥ずかしいなら言うんじゃねぇですよ」
「う……うるせぇなぁっ!」
 はやく食べちゃえっ、と言い放ってメール打ちに専念する保護者に溜息をつき、ピーターはマシューに想いを馳せた。目が合って、苦しいくらい好きだと思えばそれだけで、なんて。どんな魔法でも変装でも太刀打ちできそうにない事実を、どう伝えてやろうかと思いながら。

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