朝の爽やかな光と風は、それだけにしかもたらせない幸福感を運んでくれる。ゆる、と髪を揺らして過ぎて行った涼しげな風にそっと目を細め、フランスは幾筋もの光の帯の向こうに見える、本日の会議場を眺めやった。なんでも古い貴族の館をそのまま利用したホテルだということで、近代的なきらびやかな街中にあって、歴史の持つ重厚な影を感じさせる建物である。コンクリートの簡素な道路より、石畳が似合いそうな。
道を走るのは車でも良いが、街頭がガス灯ならばもっと良い。観光客とビジネスを目的とした者たちが忙しなく行き交うのも眺めながらそんなことを思って、フランスはこちらを見ていた少女たちに笑顔で手を振ってやった。観光客だろう。この国に生きる者とはすこし違う顔立ちの少女らは、けれど同じように恥じらった顔できゃぁと歓声をあげ、それぞれに手を振って小走りに去って行く。可愛いなぁ、と見送って視線を戻した。
するとすぐ、呆れたような諦めたような、微笑ましく失態を見守るようなアメジストとフラワー・グリーンの入り混じった不思議な瞳と正面から出会い、フランスは笑顔のままで居心地の悪い気分を味わった。くす、とちいさく笑って、カナダはベーグルサンドの残りを口の中に入れた。クロワッサンとカフェオレで簡単に済ませてしまったフランスとは違い、カナダは朝からわりと量を食べるたちだった。多いのではないか、と思う程。
近年はどこの国にでもあるようなオープンテラスを併設したカフェの一角で、洒落たテーブルの上は空になった皿でいっぱいだった。フランスの分がないとは言わないが、八割はカナダの注文したものが乗っていたものだ。サーモンとオニオンスライスのベーグルサンドに、クリームチーズとブルーベリーのベーグルサンド。付け合わせにはフライドポテトがあり、角切りリンゴとオレンジがたっぷり盛られたフルーツ・サラダ。
香り高いコンソメスープには、よく煮込まれた数種類の野菜がたっぷりと盛られていた筈だが、それもすでに空である。受け皿にスプーンを戻す音さえ響かせなかったのは、さすがに優美なる『フランス』と紳士である『イギリス』に育てられた国だった。食欲や量は、兄弟に似たようなのだが。よく食べたねぇ、と呆れ半分に褒めてやると、カナダはすこしばかり恥ずかしそうにはにかんで、ふふふ、とごく穏やかに笑った。
それがあんまり、親に褒められて嬉しそうなこどもそのものだったので、フランスはなんだか嬉しくなってカナダにメニューを差し出した。にこ、と笑いながら受け取って首を傾げるカナダに、フランスはいいよ、と言ってやる。
「デザート。食べるだろ? 頼みなさい」
「え……え、でも」
「時計見なさいな、カナちゃん。会議開始まではあと一時間。お兄さんは余裕で付き合っちゃうよ?」
ぱちん、とウインク一回で言ってやれば、カナダは花が咲き綻ぶように笑った。零れた言葉は『国』の共通語で『ありがとうございます』ではなく、メルシ。なまりの全くない透き通る響きのフランス語に、ますますフランスは相好を崩して笑った。相手を喜ばせる術を、カナダは本当によく知っている。嫌味もなく使いこなしてしまえるのは才能で、そして本人の素直な性格故だろう。カナダはひらりと手をあげて、店員を呼んだ。
迷うそぶりもなくケーキを二つ注文したカナダは、カフェオレも二つ、と言ってメニューを閉じた。恭しく頭を下げて去って行くウエイターの、ぴんと伸びた背をなんともなしに見送りながら、フランスはカナダに視線で問いかける。え、とばかりに瞬きをして首を傾げたカナダは、ごく不思議そうな表情で尋ねて来た。
「フランスさん、カフェオレ飲みませんか? それとも、ケーキ食べましたか?」
カフェオレだけで良いと思ってケーキは僕のなんですけれど、と告げるカナダにそれは知ってる、と頷いて、フランスは堪え切れない笑いに肩を細かく震わせた。全く、なんて可愛らしいコだろう。全世界に向かって自慢したい気持ちになりながら、フランスは不思議そうなカナダに手を伸ばし、柔らかな髪を整えるように指先で撫でた。
「ううん。カフェオレ、頂くよ。ありがとうね、カナちゃん。お兄さんの分まで頼んでくれて」
「……いいえ」
そこで初めて、カナダはフランスがよこした視線の意味に気が付いたようだったが、ちいさく微笑むだけで改めて問うことはしなかった。すぐにケーキが運ばれてくる。見るからに甘酸っぱそうな苺が、ふんだんに使われたタルトがひとつ。もう一つはマカロンで、ピスタチオにチョコレート、フランボワーズに抹茶かな、とフランスは色と微かな香りであたりを付けた。店員に丁寧にお礼を言ったカナダは、マカロンに手を伸ばす。
指先でつまんだのは、フランボワーズのマカロンだった。ホワイトチョコレートのクリームも濃厚な、食べでもありそうな可愛らしいそれ。カナダはそれをひょい、とつまみあげると、そのままフランスに向かって笑顔で差し出した。あーん、ではないが、はい、とばかりにもたらされたそれを手のひらで受け取って、フランスはこのコは本当に、と笑いだす。
「カーナちゃん! いいんだよ、お兄さんは気にしなくても」
「いくら僕でも、全部は多いんです。そう言わず、協力してくださいね、フランスさん」
デザートメニューを上から下まで二順してもまだ平気なくせに、カナダは笑顔でそんなことを言う。フランスは負けました、とばかり苦笑して誤魔化されてやって、さっそくタルトに取りかかりだしたカナダを見ながらマカロンを口にする。さっくりとした焼きメレンゲは甘く濃厚な砂糖とアーモンドの香りを口いっぱいに広げ、フランボワーズの甘酸っぱい果実感が重ねられていく。ホワイトチョコレートのコクが、それらを包み込んだ。
うん、とフランスは頷く。うん、これなら合格だ。美味しい。行儀悪く指先を舐めながらそう思うフランスに嬉しそうに笑い、カナダはさて、といわんばかり、スーツのポケットに忍ばせていた小瓶を取り出した。これが他の相手なら恋の妙薬かと思うような白く華奢な小瓶だが、もちろんフランスは、その中身を知っている。うきうきとふたを開けて中身がカフェオレボウルにこぼされると、ふわりとメイプルの香りが広がって行った。
気が付けばタルトはあとかたもなく食べ終えられていて、マカロンもチョコレート色のそれが皿に残るのみだった。いつの間に食べたのだか、と呆れながらフランスはカナダを咎めるか咎めないか悩み、幸せそうな笑顔に、今日も怒るのを諦めた。正式なレストランならともかく、街中のカフェで、しかも朝からこんなに幸せいっぱいの顔をされてしまったら無作法を咎めることも満足に出来やしない。代わりに、ゆるく苦笑した。
「で、カナちゃんや。今日の会議の遅刻理由は?」
「ホテルの部屋に携帯電話を置き忘れました。取りに行かないといけないんですよね」
困りました、と溜息をつきながらカナダはデザートスプーンでカフェオレボウルをかき混ぜ、一口飲んでにっこりと微笑んだ。会議という会議をことごとく遅刻するカナダは、時々素で寝坊をやらかしたりするものの、その殆どが意図的になされているものだ。すこし前までそれを知るのはフランスとセーシェルくらいなものだったが、今では多くの『国』がそれを知り、カナダの遅刻は半ば黙認されている。仕方ないからだ。
会議が始まる前の、独特の緊張をはらんだぴりぴりとした空気はイギリスの精神を刺激しやすい。どの『国』でも同じことだが、それは特にイギリスに取って良いことではなく、カナダが定刻通りに現れることを難しくする。今のイギリスに取ってのカナダは、研ぎ澄まされた心で触れて良い存在ではないのだ。刺激はなるべく少なく、穏やかに時間を重ねて。そうして進んで行くことだけが最良で、そして最善なのだった。
それでもすこし、ハッキリと変化はしてきたようなのだけれど。健気だねぇ、と笑うフランスに、カナダはあなたほどでもありませんよ、と柔らかく微笑んだ。互いに胸に、ただ一人の存在を持っている。くるりと視線を巡らせて言葉を濁らせたフランスに、カフェオレをゆっくり流し込みながら、カナダは視線で時計を示す。会議開始、三十分前。ん、と苦笑して立ち上がったフランスは、ごく自然に伝票を持って立ち去った。
呼び止めて言っても聞かない人であるのは分かっているので、こういう時、カナダは必ず次の食事を誘うことにしている。どこのレストランにしようかなぁ、とぼんやりと会議場へ去って行くフランスを見送ると、道の向こうからイギリスとシーランドが歩んで来た。ゆっくりとした足取りに見える優雅な仕草を、目を細めて見送る。いつものことだ。いまさらどうとも思わないが、きょろきょろとあたりを見回すシーランドは違うらしい。
遠く、識別できる限界にいるカナダの姿をどうしてか見つけだして、シーランドは満面の笑みで大きく腕を振り回した。それもほんの数秒で、シーランドはイギリスの手を引っ張って会議場へと入って行く。きっと、また大騒ぎしていることだろう。ふと口元を緩めて笑った瞬間、ホテルの扉の内側に消えかけていたイギリスの視線がカナダを向いた気がした。森色の瞳。ぎく、と体を強張らせたのは、それでもわずかな間だった。
すぐにホテルの扉は閉まり、膨大な距離だけが二人の間に横たわる。風の通り抜けていく音を遠くに聞きながら、カナダはやや冷めたカフェオレを飲み込んで椅子から立ち上がった。甘みがまだすこし、口の中に残っていた。
音の余韻を残して、扉が閉まる。年月の長さを感じさせる古ぼけた木の扉をじっと見つめて、イギリスはその場に立っていた。普段なら出入り口に立っていたら他の人の邪魔になるだろう、と口うるさく言うイギリスなのに、今はそんな気遣いをする余裕もないようだ。不穏な様子で眉を寄せて沈黙するのに、シーランドは内心大慌てで、それをなるべく表に出さないように、イギリスのスーツをぐいぐい引っ張った。
「な、なにしてるですか。こんなトコに立ってたら皆の邪魔になるですよ。いつもイギリスがそう言って怒るでしょう?」
「……ああ、うん。そうだな。悪い」
でもスーツを引っ張るんじゃない、と軽く溜息をついて手を外す仕草は、もういつものイギリスのものだった。すこし強引な仕草なくせして、その手の先は決してシーランドを傷つけない温かさと優しさに満ちている。思わず嬉しくなって手をきゅぅっと握り、シーランドはえへへ、ととろけるような満面の笑みで言い放った。
「ふふん。今日こそシー君は承認国家を目指すのですよー!」
「ダメ。諦めろ」
「おはよー、坊ちゃん。ピーターも、今日もママと仲良しだなー」
ふわっと外側から空気が動かされ、扉の開閉と共にフランスが滑り込むようにして入ってくる。すぐさまからかうような言葉が飛び出すのは、もう腐れ縁故の仕方ないのだろう。悪気は全くないようだった。だからこそシーランドは呆れた顔で、頭を撫でてくるフランスの腕を避ける。
「ピーター、じゃなくて。シーランド、と呼んでも良いのですよ!」
「はいはい。また今度ねー……。……どしたの坊ちゃん」
いつもならすぐさま手か足、もしくは手と足が来るのだがそれがなく、イギリスはフランスを前にして難しい顔をしていた。難事件を前にした刑事のような顔つきに、フランスはごく不思議そうに首を傾げて。伸びて来たイギリスの手にあっさり腕を掴まれ、引き寄せられてしまった。ちょうど手首がイギリスの顔の前にあり、フランスはえええなにこれ、と冷や汗をかく。危害を加える様子はなく、だからこそなんとなく怖かった。
腕を取り返したがるフランスの動きを許すわけもなく、イギリスはすん、と鼻を鳴らしてスーツの袖口あたりの匂いを嗅いだ。
「……甘いニオイ」
ぽつ、と呟かれた言葉は氷山のように質量ある冷たさを持っていた。ひぐっ、と声にならない悲鳴をあげかけたフランスにちらりと視線を向け、イギリスは静かな、静かすぎて相手の心臓をうっかり止めかねない口調で尋ねてくる。
「フランス?」
「はい!」
「我が英連邦の長女はどこだ。……メイプルの匂いがする」
一緒だったんだろう。吐け、さもなくばボコる、とでも言いたげに細められた瞳はあでやかに笑っていて、目にも心臓にも毒この上なかった。やめて坊ちゃんお兄さん怖くて死んじゃう、と内心でしくしく泣きながら、フランスはごく素直に言ってやる。
「ホテルだよ。忘れ物したって、戻った」
「……そうか。じゃあ、いい」
真偽を問うこともしないのは、こういう時のフランスを信用しているからだろう。ぽい、とばかりにフランスの腕を離したイギリスは、それきり興味を失ってしまったように視線を空に投げかけている。ぼんやりしているにしては、纏う空気がやけに刺々しくも硬質だった。うわ、と思いながらじりじり後退して距離を取り、フランスは一人で安全圏に逃れていたシーランドの首根っこを掴むと、顔を突き合わせてこそりと問いかける。
「え、なにあれなにあれ。バレてんの? どしたの、今日」
「わ、分かんねぇですよ……でも、でも、うー。最近、どうも、忘れてないみたいなのですよね……」
覚えている、と。忘れていない、ということは、厳密にはずいぶん違う。けれどその答えに、フランスは大きく息を吸い込んで頷いた。妖精のまじないによる記憶消去が完全にされていない、なんていう事態はこれまでになかったことだ。どうやらイギリスはフランスが知らぬ間に、魔法的な耐性をぐんと身につけて来たらしい。なんというファンタジー国家だ、としみじみ呆れて関心しながら、フランスはそれってさぁ、と呟いた。
「カナちゃんは知ってんの?」
「知らないことはない、と、思うですけど……」
なんともあいまいな言葉だったが、それがそのまま真実だろう。知っているが、そこまで正確に把握しているわけでもない、ということだ。ずっとイギリスにひっついているシーランドがこの反応なのだから、意識して距離を開けているカナダが正確に知っている訳もない。それって今日の会議はすでにヤバいんじゃ、と顔を引きつらせるフランスとシーランドに視線をやり、イギリスはなんの感情にか、口元をゆるめて微笑んだ。
「喜べ。今日は記念日だ」
なんのですかイギリス様、と思わず言いかけたフランスは、思わず天井を仰いだ。なんの記念日かなんて、そんなことは決まっている。イギリス様完全復活おめでとうございますそしてカナちゃん逃げて元宗主国がお怒りですよ記念日だ。イギリスは腕時計に目を落とし、先に行ってる、と言い残して廊下を進んで行く。シーランドと二人、その背が見えなくなるまでしっかり見送って、フランスは遠い目をして呟いた。
「あの表情、見たことあるわ」
「どんな時にですか」
「相手の船に砲弾を叩きこんで海に沈める、そのトドメの一撃を放つ時とかに」
どこで、どうしてそれを見るハメになったのかということを、シーランドは尋ねなかった。言われるより表情で明らかだったからである。よしよし、と随分年上の相手を慰める為に撫で、シーランドはしみじみと言った。
「泳げてよかったですね」
「全くだ!」
勢いよく言い放って立ち上がり、フランスは開いた扉に目を向けた。赤いチャイナ服の裾が、ゆらりと踊るように揺れる。入って来たのは中国で、続いて日本、香港も一緒だった。時間に余裕があるにも関わらず、すこし焦った顔つきになっているのは日本の性格故だろう。まだ十分間に合うあるよ、と中国にたしなめられても、どこか焦るような瞳でうろうろと時計と廊下を見比べている。その三人の元に、シーランドは走った。
どん、と香港にぶつかるようにして抱きつき、シーランドはおはようございますですよ、と三人に言い放つ。日本は困ったような微笑みで会釈し、中国は柔らかな笑みでシーランドの頭を撫でていた。挨拶の言葉だけが返らないのは、シーランドも慣れっこだ。承認国家になってやるですからーっ、と手足をじたばたさせて騒いだ後、対して落ち込んだ様子もなく香港に向き直り、緊急事態です、と真面目な顔で言っている。
中国と日本とは違い、『国』ではない香港は会議に参加する必要がない。シーランドも同じくくっついて来ただけなので、思う存分対策会議ができることだろう。カナダの命運は二人に託された。頑張ってお兄さん心から応援してる、と遠目に眺めていると、軽やかな足音が響き渡る。たんっ、とバレエの踏み切りのように、十分体重を乗せてなお軽やかな足音がした。すぐフランスの背中に衝撃が走り、抱きつかれる。
「おはよーございます! フランスさんっ」
「おはよう、セーシェル。今日も元気だね、お前」
きっちりスーツを着こんでいるフランスとは対照的に、セーシェルは白いワンピースを着ていた。島に居る時のようなキャミソールタイプではないものの、半そでの可愛らしい印象の服は正式な会議に向いているとも言い難い。似合うからいいけど、と苦笑したフランスはセーシェルに手を伸ばして頭を撫でかけ、しかし途中で動きを止める。フランスに背中から突進して抱きついておいて、セーシェルは視線を他に向けていた。
じっと、ひたむきに見つめていたのは香港だった。シーランドと視線を合わせる為にしゃがみこんでいる香港からは、ちょうど死角になっていてセーシェルの姿は見えないだろう。言葉にならない感情を宿して恐ろしいほど研ぎ澄まされた、ひたすらに美しい少女の横顔は見られないだろう。セーシェル、とフランスは少女の名を呼んだ。ぱちぱち、と夢から覚めたような仕草で瞬きをして、セーシェルはちょん、と首を傾げた。
「はい。なんですか?」
「行っておいで」
気になるんでしょう、と苦笑してやれば、セーシェルはつんと澄ました顔でいいです、と言った。そこに一瞬現れた見知らぬ少女の面影はなく、フランスは安堵に似た気持ちで言葉を紡ぐ。
「なんで?」
「いーです。セーは会議ですから」
もっと、少女の背が低く幼かった頃。とろとろに溶けるような甘い声で、セーシェルは自分のことを『セー』と呼んでいた。その頃の癖が出てしまったのだろう。ぷぅ、と頬を膨らませる仕草も幼く、フランスはやれやれ、と背にひっついたままのセーシェルの頭を撫でてやった。
「それでも、おはようくらいは言っておいでレディ。挨拶もしないで去るもんじゃない。分かった?」
「ウィ、ムッシュ」
むむぅ、と唇を尖らせながらも、一応正論だと認めたのだろう。ぱっとフランスの背から体を離したセーシェルは、履物をはいていないような軽やかな足取りで、香港とシーランドの元へ駆けていく。途中、すれ違ってこちらへ来た日本と中国には頭を下げるだけの挨拶をして、セーシェルは二人の元へ飛び込んで行った。若いなぁ、とによによしながら見守っていると、会議室へ向かう日本と中国に促されたので、歩き出す。
「おはようございます、フランスさん。本日も良いお日柄で」
「今日の会議は進むあるかねー」
「うーん。どうかね。坊ちゃんしだいかなー」
毛足の長い絨毯がひかれた区画に入ると、足音はとたんに響かなくなる。足元がもふもふするのを面白く思いながら告げるフランスに、日本と中国はそっくり同じ仕草で首を傾げてみせた。騒ぎの中心であるアメリカが会議進行に関わるのならばともかく、便乗してイギリスと喧嘩するフランスが、このようなことを言うのはひどく珍しいからだ。なにごとですか、と問いかけてくる日本に笑って、フランスはそれがねぇ、と言った。
「イギリスの今日のご機嫌がね」
「……はぁ」
「ウエディングベルを撃ち落としてガン鳴らしそうな海賊様のお気に召すままって感じだから」
中国が即座に、それはそれは麗しい笑顔で『死ねアヘン』と言い放った。びっ、と音を立てて親指が床を向く。そこにどんな理由があろうとも、中国の反応は同じだっただろう。だからとりあえず受け流し、フランスは事情を知る日本に目を向けた。日本は、なんとも言い難い顔つきをして沈黙していた。指先を口元に押し当てて黙り込み、そろりそろりと持ち上げられた視線が、やがてフランスと出会う。
「それって……カナダさん、の」
「うん。ピーターが香港に突撃してったのはそのせい。セーシェルも、だからもしかしたら、すこし会議に遅れるかもな」
「か……カナダさん逃げっ……え、いや逃げたら意味な……え、ええええええっ!」
どうしましょうねえっ、とフランスも思っている疑問そのままに叫ぶ日本に、答える者はどこにもなく。やがて会議開始十分前を告げるベルが、高らかにホテル内に響き渡った。それはフランスが言ったようにウエディングベルのようにも響き、そしてまた、戦闘開始の合図のようでもあった。イギリスの勝ち誇った笑いが聞こえたとしたら、それは幻聴ではないのかも知れない。フランスと顔を突き合わせて、日本は尋ねた。
「カナダさんは、いま何処に?」
「携帯電話取りにホテルまで戻ってる。恐らくいつもと同じで、来るのは会議開始一時間前後、だ」
「それまでに、どうにか連絡を……」
連絡が取れたからと言ってなにをどう伝えれば良いのかも分からないが、日本は携帯電話を取り出してカナダにかけようとしたのだが。その手に握られた機械を、す、と取るものがあった。白い手袋に包まれた、ひどく優美に動くてのひら。ぎこちなく、壊れたオモチャのように視線を向けた日本が見たのは、にこやかに微笑むイギリスの姿で。どこから聞いておられましたか、と問う視線に答えず、イギリスはこら、と言った。
「会議場では電源はオフ。上司からの連絡はホテルに直接入って放送で呼び出すシステムだ、と伝えただろう?」
「そ、そうでしたね……。は、はは、私ったらついウッカリ」
「それに、連絡は取らなくても良い」
美しい、つくりものの人形のように。にこ、と微笑んで告げたイギリスに、日本とフランスは揃って動きを凍りつかせた。お前最悪ある、とぬるい目を向けてくる中国だけが恐怖から逃れられているが、深い事情を知らないが故だろう。電源を落としてから携帯電話を日本へと返し、イギリスはゆるりと瞳を細めて微笑した。
「警戒されたら、面白くもなんともない」
今頃必死に手段を講じているであろう香港とシーランドに全てを託しながら、日本とフランスは必死に思っていた。もういっそ、今日の会議、カナダは欠席した方がいいのではないだろうか、と。会議開始五分前を告げる鐘の音が鳴る。さあ行こうか、と言ったイギリスの言葉の後に『戦闘開始だ』と続いたのは。きっと、日本とフランスの幻聴ではなかったのだろう。