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 8 会議の昼は

 チョコレートの味がするミントタブレットを口の中に放り込み、マシューはぱちん、と瞬きをした。同時に控室の扉を閉め、視線をゆっくりと室内に巡らせる。いつもの通りならば香とピーターがじゃれあいながら好き勝手に過ごしている筈の一室は、しかし無人だった。しんと静まり返った空気は冷えていて、先程までここに居た風でも、慌てて出て行った風でもない。散歩にでも行ったかな、と考えながらマシューは進んで行く。
 ゆっくりと足音を響かせて、部屋の中央に置かれた机に紙袋を置く。中からは砂糖の甘い香りが漂ってきて、美味しそうだなぁ、と目を和ませながら、マシューは足元をうろついていたクマ次郎さんを抱き上げた。袋の中身はドーナツで、それとクマ次郎さんを一緒に抱き上げるのはマシューでも難しい。歩いてくれてありがとうね、とにこにこしながらクマ次郎さんにお礼を言い、マシューは紙袋からドーナツを一つ取りだした。
 白いアイシングがかかったふわふわのドーナツは、見るからに砂糖の味がして甘そうだ。甘いものが苦手であるなら、その存在自体が拷問だろう。けれどマシューは揚げたてだったからまだすこしあったかいねぇ、と幸せそうに目を和ませ、それをクマ次郎さんの口元に差し出した。あーん、と嬉しくて仕方がない様子のマシューに文句を言うのも煩わしかったのだろう。クマ次郎さんは、素直にぱかりと口を開けた。
 あむ、と一口食べる。残りを手で持って口をもぐもぐさせるクマ次郎さんを、世界で一番可愛らしいティディベアを慈しむ表情でひとしきり堪能し、マシューは気を取り直したように首を傾げた。どうしようかな、とのんびりとした呟きが空の部屋に響く。あむあむ、とドーナツを瞬く間に平らげたクマ次郎さんは、悩む飼い主を呆れたような眼差しで見やる。カナダ、と国名を選び取った呼びかけに、答えたのは柔らかに微笑む眼差し。
 うん、とカナダは頷いた。うん、分かってるよ、とため息交じりに呟いて、意識を切り替えたカナダは腕時計に目をやった。現在時刻、午前十一時二十五分。予定では四十五分から昼休憩に入って一時に再開されるので、紛れ込むのなら今だった。会議開始からはすでに二時間以上が経過しているが、それはなにもドーナツを買っていたせいではない。なにをしても良いから、なるべく遅く来て、とメールが来たからだった。
 差出人は、この部屋に居る筈だった香とピーター。なぜか英連邦連名の嘆願書めいたメールが一通届いてから、返信しても返事が来ず、電話も繋がらなくなってしまって今に至る。もしや、なにか起きているのだろうか。いまさらにすぎる不安に眉を寄せるカナダの腕を、クマ次郎さんの手がもふもふと叩く。幼子が人形を抱っこするようにクマ次郎さんを抱き上げながら、カナダはごく柔らかく響く声でなぁに、と言った。
「どうしたの、クマ次郎さん。ドーナツ、もっと食べたい?」
「ドウデモイイ。会議ナンダロ。早ク行ケヨ」
「……二人が今どうしてるのかだけでも、調べてからだと……遅い、かぁ」
 午前中の会議が終わるまで、一時間を切った昼前の時間帯。ちょうど空気が緩み始め、そして同時に、残り時間を鑑みて議論が加速していく時でもある。相反する二種類の空気が混じり合った空間は、元より気配の薄いマシューが紛れ込むにはちょうど良いのだ。それこそ派手に扉を開いて登場するだとか、会議の面々が今や遅しとカナダの到着を待ち焦がれていない限り、気が付かれることはあり得ないのである。
 そして幸か不幸か、カナダは到着を待ち焦がれられたことなど、ないのだった。物憂げな息を吐き出して携帯電話を取り出し、カナダはもう一度だけ可愛い弟たちに電話をかけてみる。初めは、返還都市である青年。次に、変則的な英連邦の末っ子に。しかしどちらも、繋がりはしなかった。コール音だけがむなしく響き、留守番電話に切り替わる。電源が切られていないので、なにかに夢中で出られないのかも知れなかった。
 まったく、行き先を告げずに出掛けるなと言っているのに。過保護な兄役らしい、やや憤りの混じった息を吐きながら携帯電話をしまって、カナダは控え室を出て、そのまま会議室へと向かう。まさか、会議に出席する必要のない二人まで、その部屋に居るとは夢にも思わずに。全く心の準備など出来ていないまま、カナダはクマ次郎さんを抱きしめたり、もふもふしながらゆっくり廊下を歩き。そして、会議室に辿りついた。



 緊迫した空気が張り詰めながら漂っている中、会議、というよりは早口言葉討論会に近い様相で進められた議題が、恐ろしい程の早さで可決された。すなわち、本日の会議は終了である。椅子に悠然と足を組み、指先を絡ませて胸の前で遊ばせていたイギリスが、青白い顔色で『退避……じゃない間違えたっ! 閉会!』と叫んだアメリカの様子に、ゆるりと目を和ませて笑う。できるじゃないか、と言わんばかりだ。
 閉会を告げられた会議室は、しかし物音の一つもせず、密やかな緊張に満ちた呼吸音だけがこだましていた。イギリスの座る椅子の背後を守るように立つ香港とシーランドは、それぞれさもありなん、という表情で沈黙を守っている。この状況で、閉会になったからと言って椅子から立ち上がるのは命知らずの馬鹿だけだ。議長席からぎこちなく、ブリキ人形が首を動かすような動きで、アメリカがイギリスに視線を向ける。
 その瞳は、純粋な恐怖故の涙でいっぱいだった。『終わりました。よろしいでしょうかサー・カークランド』とその目が物語っている。十一時前に会議を終わらせろ、二時間以内だ、とアメリカに命令を下した大英帝国は、腕時計にちらりと目を走らせ、唇をつりあげて華やかに笑う。
「上出来だ。よくやったな、アメリカ合衆国」
「……も、もう、いい、かい?」
 逃げても、もしくは、帰っても。あるいは、意識を失っても。その三択のうちどれかを求めたアメリカの言葉に、イギリスはごく優雅な仕草で、ちいさく首を傾げてみせた。綺麗な綺麗な仕草を、どことなく可愛らしい動きで表現する青年の瞳は、しかし全く笑ってはいない。
「なに言ってるんだ。これからが本番だろ? 他国を巻き込むわけにはいかないから、会議終わらせろって言ったんだよ」
「……他国なので帰ってもよろしいでしょうか、イギリス様」
 そろー、と手をあげて発言したのは、イギリスの隣に座っていたフランスだった。なぜか、胴体が椅子に荒縄で括りつけられている。逃亡防止の処置だった。ひたすら誰とも目を合わせようとしないセーシェルが、その縄の先端を持っている。可愛いセーちゃん、お兄さんは自由が恋しいです、と呼びかけられても、南国の少女は灰色の眼差しで『noです』と呟くだけで、いつものような簡単なフランス語が響くことはなかった。
 イギリスはセーシェルの言葉に満足げに頷き、それから汚物を見る眼差しそのものでフランスを眺めやる。
「寝言が言いたいなら永眠させてやるけど」
「だってお兄さん関係ないじゃない! 英連邦でもなければ独立だってしてないし!」
「俺が強制カナダ断ちさせられてるのになんでお前朝食とか一緒に食べてんだよそのヒゲ一本づつ抜くぞコラ」
 まるで会議で発表する文章を読み上げるような、淡々とした響きの声だった。言う合間にもどんどん不機嫌になって行ったようで、眉間のシワが深くなっていく。なにもそんなに死に急がなくても良いものを、と憐みさえ滲む視線で香港に眺められ、フランスはごめんなさい、と謝った。謝罪さえきちんとすれば、手をあげたりしないのがイギリスだ。ものすごく不満そうに、お手本のような舌打ちが響く。指先が、トンと膝を打つ。
 トントン、トン、と指先が膝の上で跳ね、やがてイギリスは深々と息を吐き出した。苛立ちをなるべく相手に叩きつけないように、意図して感情を制御しているようでもあった。叩きつけられなくとも向けられていることに変わりはないので、静かな分、暴れられるよりよほど恐ろしい。フランスに向けていた声が響かなくなったことに気が付いたアメリカが、びくっと背を跳ねさせて姿勢を正す。独立の時点でアメリカは逃げられない。
 ヒーローらしく『関係ない他国』を、カナダとは遭遇しないであろう別ルートを辿らせて帰らせていたアメリカの視線が、そろそろと元親に戻ってくる。イギリスは我が子の成長を喜ぶようなうっとりとした眼差しで、アメリカが避難誘導しているのを見ていた。あれ、と意外そうに目を瞬かせるアメリカに、イギリスは微笑みかける。春の花のようだった。それでいて、劇毒物の威圧感も持っていた。アメリカの魂が口から逃げかける。
 飲んでーっ、と叫ぶ日本はなりゆきを見守ることにしたのだろう。歯止め役が必要なことも確かなので、すこしは事情を知る者として、逃げることを良しとしなかったのかも知れない。会議場に残った者は、全部で七名。椅子に縛られて動けないフランスと、逃げられないアメリカ。絶対支配者イギリスと、それに従うシーランド、香港、セーシェル。そして、日本である。ごく、と不本意そうに魂を飲んだアメリカに、声がかかる。
「さてアメリカ合衆国。本題に入ろうか」
「アー……っ。グレート・ブリテンおよび北アイルランド連合王国。どういう、ことだい?」
 会議は終わったが、国名以外で呼ぶことをイギリスの目が許していなかった。アーサー、と呼びかけて言葉を飲み込み、アメリカはわざと仰々しげな、イギリスの正式名称で呼びかける。そのことが、イギリスには可笑しかったらしい。くすくす、と笑い声が漏れ響いた。
「どう、とは」
「か、会議だよ! 二時間で会議を終わらせろ、話はそれからだってなんなんだいっ!」
「そのままの意味だ。やればできるじゃないか、アメリカ」
 普段からその能力を発揮してれば褒めてやるのに、と。肘あてに腕を置いて手を組み、イギリスはにこ、と王者の風格で笑った。尊敬してやるのに、ではなく、褒めてやるのに、と言うあたりが大英帝国である。眼差し一つで気圧される感覚を味わいながら、アメリカはぐ、と歯を食いしばって視線をあげた。イギリスが過去の覇王であるならば、アメリカは現在の超大国だ。もうこれ以上は、己にこそ許してはいけないのである。
 息を吸い込んで、吐き出す。その一動作で心を落ち着かせて、アメリカはイギリスを真正面からとらえた。
「イギリス」
「うん?」
 なにか文句を言うか、他国に影響が出る行動は慎むようにと、そう告げる筈だった唇が止まったのは、問い返す声の響きがあんまり嬉しそうだったからだ。ちょっとなんで君そんなに嬉しそうなんだい、と引きつった声で、しかし幾分か普段通りに問いかけたアメリカに、イギリスが椅子から立ち上がる。動きやすいように香港が椅子を引いて退け、シーランドは溜息をついてイギリスに従った。姿は幼くとも、海上要塞である。
 戦う為の場所であり、守護する為の盾の一枚だ。それを表明するように、シーランドは軽やかな足取りでイギリスの前に進み出た。ぱたぱた、と足音が響いて、シーランドが立ち止まったのは宗主国とアメリカの視線の交わる中間地点。くるりと気まぐれな一回転でその場所に足を止め、シーランドはじぃ、とアメリカを見つめた。たっぷりの日差しを抱く、浅瀬色したシーグリーン・アイズ。アメリカの瞳を、下から観察していた。
 これは本当に、イギリスに危害を加えないものなのか。敵意はないのか、悪意はないのか。一欠けらのそれすら許さず、花の棘すらかすめはさせず、見逃さずに。見定める視線が、やがてゆるりと笑みを滲ませた。うんっ、と元気よくシーランドは頷く。その上で少年は、恭しささえ感じさせる仕草でイギリスを振り返り、ぺこりと可愛らしくお辞儀をした。これなるは、貴方様に対峙するを許された。ふさわしい者であると示す。
 カツ、とイギリスが足を踏み出した。カツカツと靴音を響かせて歩いて、イギリスは通りすがりにシーランドの頭に手を乗せる。ぽん、と一度、軽く触れるだけで撫でて。よくやった、ありがとう、と囁かれた言葉に、シーランドは嬉しくて嬉しくてならないと、表情一つで物語る笑みを浮かべて頷いた。それからシーランドはその場にしゃがみこみ、ことの行方を見守ることにした。これ以上の役目は、今はないのである。
 ならばこのあとに備えて、体力は温存しておくべきだった。会議室に置かれた大きな時計の針が、進む。時刻は十一時五分前。昼前の太陽が、明るく眩く差し込む時間。眩しさに目を細めるようにしながら、イギリスはアメリカの前で立ち止まった。アメリカはただ、はじめて対峙する存在を前にした顔つきで、イギリスを見ていた。イギリスもまた、初対面でありながら懐かしい存在である風に、アメリカのことを見つめている。
 す、と息を吸い込む音がした。
「アルフレッド」
 びく、とアメリカの指先が震えた。眼差しがにわかに信じられないものを見つめるそれになり、混乱した様子で視線が彷徨う。え、とかすれた呟きがもれて、視線がゆっくりとイギリスに定まる。
「イギリス……?」
「初めて会った時のことを、お前、まだ覚えてるか?」
 幼子の輪郭を辿りたがるようなたどたどしい手つきで、伸ばされたイギリスの指先がアメリカの頬をなぞって行く。くすぐったさに肩をすくめながらも好きなようにさせて、アメリカは当たり前じゃないか、と呟いた。覚えてるよ、と囁く。覚えている。一度も、忘れたことがなかった。きっと君が忘れてしまった事だって覚えてる。どんな些細なことだって。苦しげに告げたアメリカに、イギリスはただ柔らかに笑ってそうか、と言った。
「朝には、頬におはようのキスしたことも?」
「覚えてるよ。カナダは……マシューは、朝が額で夜が頬。俺は、朝が頬で夜が額だった。君はあの頃はちゃんと俺たちを区別していて、同じように接して、でもすこしだけ接し方を変えて……どっちも同じくらい、君に愛されて、三人で居たんだ」
 ひとつひとつ、二人で思い出を辿って行く。春には三人、手を繋いで野原まで出かけて、咲く花の名前を教わったこと。夏の晴れた夜には外に出て、星を指差しながら星座の話を聞かせてくれたこと。秋には、これから寒くなって行く日に喉を痛めないようにと編んでくれたマフラーの温かさ。編み棒を操る手の動きこそ、魔法のようでいつまでだって眺めて居られたけれど、膝の上に座れなくて二人で残念がっていたこと。
 真冬に、指先までかじかむ朝に、冷え込む昼に、眠れない寒さの夜に。ゆっくりと時間をかけて入れてくれた、甘いミルクティー。幸せを閉じ込めたような味が大好きで、いつだってマシューと二人、それが飲みたいとねだっていた。重ねた時間は、愛した記憶で愛された記憶だ。一つ一つ、ちいさな箱の鍵を開けて行くように、深い深い地下の階段を上に向かって上がって行くように、二人は視線を合わせたままで語っていく。
「ダンスを……教えてくれたよね。俺たち二人でいつか、きちんとレディをエスコート出来るようにって。どういう風に動けば相手が踊りやすいのか自分で分かるように、男役の動きも、女役の動きも両方。君は良い先生だったよ。……君が来ない長い日を、俺たちは時々、手を取り合って踊って過ごしてた。君が注意した言葉や、君が褒めてくれた声や、厳しい視線や、温かく見守ってくれた笑顔を、俺たちは覚えていたよ」
「……そうか。今でもダンスはするのか?」
「正式な場で求められればね! 昔……君が教えてくれたことは、全部覚えてるんだぞ。俺も、マシューも」
 二人で一つの思い出を、大切に大切に共有していた。は、と息を吐き出して、アルフレッドが言う。
「あの日までだけど」
 ひたと見据える視線の強さは決して揺るがず、そのことがアルフレッドにはなにより嬉しかった。独立するって決められた日まで、だけど。繰り返して告げた言葉に、アーサーはきゅ、と唇を噛んで、しかしそれだけで頷いた。知っている、とも。分かっている、とも、受け取れる仕草。視線だけがそらされないで、二人の間をか細く繋いでいた。
「……君は、教えてくれなかった」
「なにを。自由を?」
「違うよ! 『国』の意識が俺じゃないってことをさ!」
 おかげで俺は君から引きはがされたんだっ、と叫ぶアルフレッドに、アーサーは眉をきゅぅ、と寄せてとりあえず受け入れてやった。『国』と『個』の意識は似て非なるものであり、同一でありながら別個のものである。それを、わざわざ口に出して教えなかったのは事実だったからだ。言われないと分からなかったか、と呆れも軽く滲んだ確認の言葉に、アルフレッドは盛大に胸を張って、自信たっぷりに当たり前を主張する。
「分かるわけないじゃないか! だって、君が教えてくれなかったんだぞっ?」
「……俺が悪いのかよ!」
「悪いに決まってるじゃないか! 俺たちの『かみさま』は君だったんだ! 君が教えてくれない事実が俺の内側にあることなんて、考えてもみなかったっ! 俺が君を好きな気持ちだって俺の意思なのか、国民が母国イギリスを愛する気持ちなのかすら分からなくなった。ねえ、ねえちょっと、考えてもごらんよ。俺がどんな気持ちだったと思う? ある日突然、じわじわ感じてた国民の『不安』や『不満』が指先まで広がった!」
 それは戦争を経験した『国』か、あるいは長く生きた『国』であれば、当然の現象として受け止めることができただろう。個人の感情を国民の総意が侵食し、飲み込み、公私の区別がつけられなくなる状態。公私の区別なく、常に『国』としてあることを、国民の総意、国民の代表として振る舞わなければなくなる状態。内乱や、戦争。あるいは国内の状態が著しく不安定になった時に、それは起こる。『国』の性質の、ひとつ。
 知らなかったんだ、とアルフレッドは言った。幼く、若い『国』であった時のように。泣きそうな顔で、アルフレッドは言った。
「独立せよ! って誰かが頭の中で叫ぶんだ! イギリスから、母国イギリスから今こそ独立せよ! その時が来た! その時は今! 剣を取れ銃を取れイギリスを追い出せ! この国は我らのもの、この国はアメリカのもの、この国は……アメリカは唯一、アメリカのものである、と。今こそ団結の時、多数から一つの国家へと変わる時……! 悲鳴のような産声を、今あげる。ボストン・ティー・パーティーで……っ!」
「アルフ……アルフ、分かった。分かったから……息を」
「やだよ……! 俺は、そんなことしたくなかったっ! 『俺』は、そんなことしたくなかったっ! 独立はしたかった、けど、あんな風に君を傷つけたくなかったっ! 『アルフレッド』として、『アーサー』から、そんな風に離れたかったわけじゃないっ……!」
 悲鳴より血を吐くに近い叫びだった。ひっ、と泣くように浅い呼吸で喉をひくつかせるアルフレッドの両手を伸ばし、アーサーは己の胸に抱き寄せて、ぽん、と背を撫でてやる。ごめんな、と言えば背が痛いくらいに抱きつかれて苦笑した。ごめん、ごめん。気が付いてやれなくて、教えて置いてやれなくて、本当にごめん。傷ついたのが自分だけだと思ってしまって、混乱していたのが自分だけだと思ってしまって。本当に。
 アルフ、アルフレッド。アメリカ。可愛い愛し子。慈しみを持って愛の中に育てた子。辛かっただろう、と呟けば、当たり前じゃないかっ、と盛大に抗議の声が上がった。
「すごい辛いしすごい悲しいしすごいすごいすごかったんだぞっ! それなのに君ったら一人だけびーびー泣きだすしっ! 親に目の前で泣かれてごらんよっ! こどもはショックで泣けなくなっちゃうじゃないかばかぁっ! その上いつの間にかマシューとくっついてるし! ちょっとどういうことなんだい! 俺聞いてないっ! 俺だってアーサーが好きなんだぞっ! でもアーサーに負けないくらいマシューも好きなんだぞっ!」
「……今お前ナチュラルに二股宣言しなかったか?」
 もろもろのツッコミを放棄してそこだけを問いかけたアーサーに、アルフレッドはきっぱりとした声で言った。
「俺のことはどうでもいいよ! ねえねえアーサーどうしてマシューなの! どうしてマシューは俺じゃないのっ! どうしてマシューは俺じゃなくてアーサーを選んだんだいっ! ずるいずるいずるいずるいひどいずるいひどいずるいひどいんだぞっ!」
「うるせぇ! ずるくもねぇしひどくもねぇよっ! そんなもん、俺が恋した相手がマシューだったからに決まってんだろばかっ!」
「だからなんでそこでマシューなんだいっ!」
 完全にアーサーとアルフレッドが二人の世界で怒鳴り合っていることを確認して、香はおもむろにセーシェルに目配せをした。セーシェルはうい、と呟いてこくりと頷き、呆れてものが言えない様子のフランシスの縄を解いてやる。大丈夫ですかー、と言いながら駆け寄って来たピーターは、うるささに耳を手で塞ぎながらも、幸福そうにくすくすと笑う。
「アーサーが楽しそうでなにより、なのですよー」
「えええー……あれ、ほっといて良いの? 英連邦的に、アーサーは止めなくて良いの?」
 お兄さんには理解不能なんだけどさ、と半眼で視線を向けるフランシスの目には、視線をがっちり組みあわせたままの至近距離で親密に怒鳴り合う、世界の超大国とかつての大英帝国の姿が映る。確かに怒鳴り合っているが怒気は感じられず、どちらかと言えば、わくわくしてしまうような高揚感が漂っていた。アーサーの瞳も、アルフレッドの瞳も、キラキラと輝いていて涙ひとつ見えない。楽しそうでしょう、と香も笑う。
「いいんですよ、あれで。アーサーは、最初からアルフレッドにはああするつもりだったんで」
「試してたんですよね。観察してたんです、全部。会議が終わるかとか、怯えさせた反応とか、威圧してなお負けずに立てるかとか、英連邦の盾……『シーランド』が見定めて、許可を与えられる相手なのかどうか。全部、全部、試して観察して、考えて、その上で育ったことが分かって。だから……嬉しくてしょうがないんでしょうねぇ、眉毛ヤロー」
 居るのは『アーサー』で『アルフレッド』で、『イギリス』で『アメリカ』で、かつての『育て親』で『養い子』だった。複雑に絡み合ってしまった線が、ただ一本の、ぴんと張る糸へと戻って行く。大英帝国の支配下にあったからこその繋がりでそれを理解した英連邦たちは、それぞれが胸にそっと手を当て、その喜びを分かち合うようにくすくすと笑い合う。
「あれが『アルフレッド』の『アーサー』で、『アーサー』の『アルフレッド』で、そして『イギリス』で、『アメリカ』です。……ようやく、ちゃんと、ここまで戻りました。だから後は、にいちゃだけなのですよ」
 パズルピースの、最後の一つ。魔法の鍵。あとはたった一人を待つだけ。大騒ぎの会議室に、携帯電話の着信音が鳴り響く。アーサーに取り上げられた香のものだった。しん、と静まり返った室内にしばらく鳴り響いて止まった後、次に鳴ったのはピーターのもの。可愛らしい着信音が鳴り響く中、誰もが時計に目をやった。針が示す時刻は午前十一時二十五分。事前の予定よりは随分遅く、マシューが到着したのだった。
 香とピーターは、マシューに一通だけメールを送った直後に携帯電話を没収されて会議室に連行されたので、以後の連絡が取れないのをいぶかしがられたのだろう。そうだそれが残っていた、とばかりに香とセーシェル、ピーターの顔から血の気が引いて行く。すー、と息を吸い込みながら視線をやると、つい先程までアルフレッドと怒鳴り合っていた様子など感じさせもせず、アーサーは涼しい顔で柔らかく微笑んでいた。
 恐らく、マシューはもう数分で到着する。アーサーの監視のもと、連絡を取ることはもう不可能だった。せめて一瞬の隙をついて逃がす、もしくは逃げることができるように身構える英連邦を横目で眺めやり、アーサーはアルフレッドに呼びかける。
「アルフ」
「なにさ」
「なんでマシューか、だっけ。教えてやるよ」
 結果論だけどな、と笑って。アーサーは床と水平になるように右腕を持ち上げ、手首をくるりとひねって見せた。たった、それだけの仕草。種も仕掛けもありません、と言わんばかりに出現したエンジェルステッキに、アルフレッドはなんとも言い難い顔つきになる。
「結果論って、なんだい。エンジェルの魔法?」
「妖精との契約、だ。知ってんだろ? 俺はマシューと妖精との間に交わされた契約により、認識を奪われている。……俺がマシューの恋を受け入れたのは、そういう……俺の気持ちも、お前の気持ちも考えなしに実行しやがった最高の馬鹿だからだ。俺の為なら、俺の心を守る為なら自分だって投げ出すようなヤツだから、俺はマシューの恋を受け入れ、アイツのことを好きになった。……愛してるんだ。簡単だろ?」
「シェークスピアの母国殿。貴殿の簡単は俺にはよく分からないよ」
 ふりふり、準備運動でもするように手首を動かしてエンジェルステッキを振り回しているアーサーを、アルフレッドはこの上もなく嫌そうな視線で眺めやった。その時にそなえて英連邦はじりじりと距離を開け、菊はデジカメを回してビデオをフランシスに持たせている。旅は道ずれ、というではないですか、と極上の笑顔に、フランシスに逆らう気力が残されていなかったせいだ。カチ、と時計の針が進む。アーサーが微笑んだ。
「質問してやろう。答えて良いぞ、ハッピーエンド大好き国家。妖精の契約を解除する方法は?」
「知らないよメルヘンの国に行ってらっしゃい系の質問を俺にしないでおくれよ……」
「話してやったの、覚えてるんだろう? じゃあ、簡単な筈だアルフレッド。茨姫も灰被りも、かえるの王子さまも、妖精の契約を解いていつまでもいつまでも暮らしました、だ」
 代償に差し出したものが元通りになる、その取っておきにして、ただ一つの方法は。にこ、と笑うアーサーに、アルフレッドがまさか、と引きつった表情で尋ねる。
「……キスとか言わないだろうね?」
「キスだよ。恋人とのキス。最強にして最大、最後の解呪、解除、解消方法。恋人との、口唇へのキスひとつで魔法がとける。そういうことでアルフレッド、元親と双子の兄弟が目の前で今からちょっとキスするが、慌てず騒がず祝福してくれるだろうな?」
「するわけ! ないじゃないかーっ!」
 ちょっとマシュー逃げて今すぐ逃げて地の果てまで逃げてっ、とアルフレッドが叫んだ瞬間だった。かすかな音を立てて会議室の扉が開き、なにも知らないマシューがひょこりと室内に入ってくる。ぱたん、と音を立てて扉が閉まった。はじまりと、おわりの合図だった。

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