ててて、とちいさな足音が響いた。目を向けると卵の殻色をした猫が、床をあるいてやってくる所だった。あっち行ってやれよ、とソファに向かい合いながら座っているフランシスを指差したアーサーに、猫はにゃぁん、と可愛らしい声で鳴く。けれどそれだけで、進行方向が変えられることはなかった。ヘコんだフランシスの視線をものともせず、ててて、と聞くだけで可愛らしく思える足音を響かせて、猫はアーサーの元へ来た。
そのままぐるぐる喉を鳴らしてすり寄ってくる猫を邪険にするほど、アーサーはフランシス苛めの精神に目覚めてはいない。今日はまだ。ひょいと床から抱き上げて抜け毛が付くのもかまわず膝の上に乗せてやれば、猫は嬉しげに目を細めて体を伸ばし、アーサーの頬をぺろりと舐める。くすぐったく体を逃しながら、アーサーはじっと蒼い湖の色をした猫の目を見つめた。よくもまあ、なつけるものだ。しみじみと思う。
口に出さない思いに気が付いたかのように、猫はアーサーの目をじぃっと見返した。それが咎めるようでもあったので、アーサーは誤魔化すように猫の頭を撫でてやる。本人がそれでいいなら、良いのだった。猫とアーサーにしか分かり合えないなにかを共有するのを目の当たりにし、フランシスはしくしくと泣き真似をしながらソファに突っ伏した。ちょっとお兄さんのラバーに手を出さないで、と嘆きの声が響いていく。
出してねぇよつーか早く終わらせろよ不可能なら崩れ落ちろよ、という視線でフランシスを眺めやったアーサーは、数秒待っても隣国が体を持ち上げようともしないのを見てとって、猫を膝の上から床に戻す。行っておいで、と柔らかな声で囁けば、猫は全く仕方がないと言わんばかりふんっと鼻を鳴らし、ててててて、とフランシスの元に歩いていく。身軽くソファの上に飛び乗り、猫はにゃあ、とフランシスの耳元で鳴いた。
そのまま爪は出ていない手でてちてちと頭を叩かれて、フランシスは拗ねたふりを諦めたのだろう。怒ってないよー、とでれっと笑みで崩壊した表情で顔をあげ、猫を胸に抱き寄せて愛ではじめる。頬ずりされて正直迷惑そうだが、仕方がなさそうに受け入れてやっている猫は本当に賢くて献身的だ、とアーサーはしみじみ思う。アーサーが知る限りこの猫は、一度もフランシスに対してひっかいたり噛みついたりしていない。
やっぱり猫にも顔だけが取り柄だって分かるんだろうな、と聞こえるように呟けば、男くさくも端正な顔立ちを持つイギリスの隣国は、これ見よがしに眉を寄せて口を開いた。
「ちがいますーう。お兄さんのことを愛しちゃってるから、そういうことしないだけですー」
「そうか。どうでもいい。良いからさっさとサインして俺を自宅に帰らせろ」
来客用のソファで足を組み、手を組んでにこやかに告げるアーサーの姿は堂々としすぎていた。質の良い革張りのソファが玉座にさえ見えてくる。さすが元大英帝国、と思いながらフランシスはようやくテーブルの上に置き去りにしていた紙きれを指先で持ち上げ、やる気のない態度で顔の前にひらつかせて目を通す。ざっと視線を流して文章を読み上げれば、受け取った時に確認した通り、特に重要な案件ではなかった。
『国』として動く程のものではない、ということだ。それを示すようにアーサーの姿はビジネススーツではなく、もうすこしゆったりとしたセミフォーマルなもので、呼び名も常に人名を選んでされていた。サイン、と気が短く求めてくるアーサーに適当に頷いてやりながら筆記具に手を伸ばし、フランシスはなるべく穏やかな口調を心がけて問いかけた。長い付き合いなので、気をつけないと無駄に怒らせるだけだと知っている。
「アーサー。これさ、わざわざお前が出向くまでもないもんだと思うんだけど」
「奇遇だな。俺もそう思う。……隣国の国家殿に最近会ってないと聞いたから、これを口実に顔を見て来れば良い。友人なんだろう? 友人は大切にしないといけないよ、と寝ぼけたことを言いだした俺の上司は腸捻転にでもなって床を転がり這いずり回って病院に搬送されればいい」
にこやかに、にこやかに微笑みながらさらりと告げたアーサーの表情から視線を外して、フランシスはこっそりと彼の上司の健康を祈ってやった。アーサーのそうした怒りはいっそ呪詛めいているので、フランシスの祈りがどの程度効果があるかは分からなかったが、まあ気休め程度にはなるだろう。気休めは大事である。うんうん、と一人で納得して頷き、フランシスは己の名を美しく記した書類を、はい、と手渡してやった。
全く不愉快である、という顔つきをしながら受け取ったアーサーとフランシスが、久しく顔を合わせて居なかったのは事実である。『国』としてはよくある、仕事上のスケジュールのすれ違いだ。同じ会場に居ても、顔を合わせることがない。ただ後ろ姿だけは見ていたし、すれ違って挨拶くらいはしていたので、元気で居ることは互いに知っていたのだが。人の感覚からすれば、寂しいだろうな、くらいに思われたのだろう。
なにせイギリス。栄誉ある孤立を経験した類まれなる国家の化身は、そう友人が多いとも言い難かったので。心配してくれてたんでしょ、と言うフランシスにアーサーは余計なお世話だと唇を尖らせたのだが、吐き捨てなかっただけ、一応は上司の心も分かっているらしい。でも胃潰瘍でものすごく苦しめばいい、とややすわった目で呟いてはいるので、許してくれてはいないようだった。今も早々に、帰り支度をはじめている。
もうすこしゆっくりして行けばいいのに、と笑うフランシスに馬鹿を見る視線を向けて、アーサーはきっぱりと言い放った。
「帰る」
「なんで? お茶でもして行けばいいじゃない。時間、まだ余裕でしょ?」
時計は、まだ午後三時前である。ちょうど良い時間だからお兄さんとティータイムしましょうよー、と猫にすりすり頬ずりしながら誘いかけてくるフランシスにしぶい顔つきになりながら、アーサーはまた今度な、と言い聞かせるように言った。アーサーがここまで、フランシスの誘いを断るのも珍しい。特に三時のお茶で場所がフランシスの自宅ともなれば、家主自ら腕をふるったお茶菓子が出されるので断らない筈なのだが。
なによどうしたの、と不思議そうに首を傾げるフランシスに、アーサーは溜息をついて椅子に座りなおした。
「あのな」
「うん」
「今、俺の家にアルフレッドとマシューが泊まりに来てるって言ったらお前納得してくれるだろ?」
アーサーの上司に死亡フラグが立った、とフランシスは思った。そのタイミングで隣国の顔を見ておいでってどんだけ空気読めないの、と恐れ慄きさえしながら言うフランシスに、俺も本気でどうしようかと思った、とアーサーはしみじみ頷く。
「そんな暇ねぇよ俺の楽園堪能させろよ、と思ったんだが。アルは『言っておいでよ。お土産もよろしくなんだぞ!』とかキッラキラした目で言うし、マシューは『留守番しますので心配しないでくださいね。遅くなるようなら電話ください、二人で駅まで迎えに行きますよ』って言うから、さすがに断れないだろ……そうだ、思い出した。フランシス、お前のお菓子いくつかよこせ。アルとマシューのお土産にするんだった」
市販品買ってくるよりそっちの方が絶対喜ぶだろうし、と言って手を差し出して来るアーサーに、フランシスが断るという予定はないらしかった。また、偶然フランシスの手作りお菓子が切れている、という可能性も考慮されていないらしい。いや作ってあるし置いてあるけどさぁ、と苦笑しながらソファから立ち上がり、フランシスはキッチンカウンターの上に置いてある大きなガラス瓶に手を伸ばし、視線を巡らせながら言う。
「これで、俺のお菓子が切れてたらどうするつもりだったの?」
「お前ごと連れてって帰りにスーパー寄って材料買って荷物持たせて、ほらお土産連れて来たぞって二人に引き渡すけど?」
なにお前想像力も無くなったの、と悪気すらなく不思議そうに首を傾げられて、フランシスは大昔の子育て失敗を痛感した。あの頃は、フランシスも若かった。子育てした、というより年の離れた弟を面白半分にお世話していた、の方が正しかったのかも知れないが、それでも精一杯愛情を注いで可愛がっていたというのに。どこでこんなに性格が歪んだのだろう。お持ち帰りされちゃうトコだった、と溜息をついて瓶を開ける。
紙袋にざらざらと硬焼きクッキーを流し込み、色とりどりのマカロンは透明のフィルムでくるみ、リボンで飾る。ケーキは紙の型で焼いたものが手つかずであったのでそれをひとつ、そのままラッピングペーパーで包んで、やはりリボンを結んで留める。持ち手のついたケーキ箱に崩れないように詰め込んで蓋を締め、フランシスは無言でそれを差し出した。紙袋よりケーキ箱の方が、外見的にもアーサーは大事に扱うのである。
厚紙で組み立ててあるので、ちょっとやそっとぶつけたくらいでは中のものが崩れてしまう心配もない。それでも、振り回さないで持って帰るんだよ、と注意するフランシスにこくこくと頷き、アーサーは怖々と受け取った。一度、クッキーを鞄に入れて帰って殆ど粉状にしてしまったことがバレて以来、フランシスの包装は厳重なものになっていた。気を付けて持って帰る、と言って席を立つアーサーにそうしてね、と頷く。
見送りの為に玄関まで送って行けば、コートかけから己の物を取ったアーサーの動きと視線がぴたりと止まる。来る時には苛立ちすぎていて気が付かなかったものが、視界に入ってしまったらしい。これでしょう、と問われる前に先回りして告げたフランシスが指先で触れたのは、ふわふわのフェイクファーがついたマシューのジャケットだった。軍服の上からよくはおっているジャケットは、すこし汚れて擦り切れてしまっている。
それでも、大事に手入れをしながら使っているのだろう。ぬくもりを感じさせるジャケットをじっと見つめたのち、アーサーは説明を求めてフランシスと視線を合わせた。どうして、これがこんな所に。嫉妬を感じさせない、ごく純粋に浮かぶ疑問の視線に、フランシスはかえって肩をすくめた。浮気を疑えとは言わないが、すこしくらい拗ねてみせれば可愛いものを。意地悪したい気持ちになって、フランシスはわざと問いかけた。
「アーサー、さ。ホントにマシューのこと好きなの? お兄さんには、あんまりそういう風に見えないんだけど」
「ちょっと待て。今お前の死因を考えてるトコだ」
英国私的法廷において、その冗談は即死刑判決らしい。無慈悲すぎる判決が本気だと即座に悟り、フランシスはごめんなさい、という単語を二秒間に五回は繰り返した。恐らく、ギネスブックに乗れる早さであった筈だ。謝り倒すフランシスを面倒くさそうに見やり、アーサーは持ってきた鞄とケーキ箱を足元に置き、ゆるりと腕を組んで背を壁に預けた。いいだろう話を聞いてやろう、という、とても偉そうな態度だった。
理由によっては許してやろう、ということでもある。びくびくしながら、フランシスは口を開く。
「悪かった。こう……恋人の服が俺の家にあるわけじゃん? 『マシューのジャケット? なんでこんな所に……まさか』とか思うかな、と思った訳よお兄さんとしては。軽い嫉妬くらいはするんじゃないかな、と思ったんだけど。しないの?」
「ごく冷静に考えて、マシューの服がある程度でなんで嫉妬しなきゃいけないんだよ。ばぁか」
親しい間柄なら遊びに来て忘れたのか、とか普通思うだろ、と告げられた言葉に、フランシスは頷くしかなかった。それは全く、その通りだからである。ただ恋人の反応として、可愛げの欠片すらないだけで。いいんだけどさー、と溜息をつくフランシスの恋についての期待を、アーサーは付き合いが長いからこそ分かってしまうのだろう。溜息をついたアーサーは、菓子の礼だとばかりに付け加えて言ってやる。
「俺がこんだけ好きな時点で、マシューが俺以外に目が向くなんてありえないだろ」
「すっごい自信だよな……こないだまであんな仲だったとは思えないね」
嫌味でもなく告げられた言葉に、アーサーは苦笑いをして頷いた。すこし前まで、アーサーはマシューにまともに会うことさえ出来なかったのだ。それはアメリカの独立によって刻まれた傷を、見逃せないとされた願い故に。妖精の契約によって解き放たれた願いは、呪いのように二人を決して出会わせなかったのだ。二カ月前のことである。たった二カ月前、されど二カ月前、なのだ。短くはないが、そう長いとも言えない。
その期間でよくそれだけの自信が打ち立てられるものだ、と感心するフランシスに、アーサーは当たり前だろうと告げる。
「俺に恋したマシューに、俺は恋したんだから」
「……なにそれ」
「俺は、マシューが告白してくるまで、そんな感情でアイツを見たことなかったんだよ」
だって育て親だったんだから、とけろりと告げるアーサーは、しかしごく真面目なようだった。親として子に、そんな気持ちを抱いていた訳ではない。決して、そこから始まっていたのではないのだ、とアーサーは告げる。
「アイツに好きだって言われて初めて、マシューの気持ちを俺は知った。それから……恋の熱がこもった言葉をいくつか聞いて、そういう気持ちを向けられた嬉しさと、気恥かしさを覚えて。マシューに見つめられるたび、視線を合わせて笑いかけられるたびに、ああコイツ俺のことが本当に好きなんだなって思って。……好きではあったんだよ。好きではあったんだけど、アイツが望むように恋してやれたのは結構後のことだ」
「それ、何時からって、聞いて良い?」
「マシューが俺の為に全部投げ出して妖精との契約結んだ、その瞬間」
隠すことではなく、恐れることでもないのだと。ごく自然に、アーサーは恋の瞬間を告げた。あの決断の瞬間。あの一瞬で、好きという気持ちが明確な恋に変わった。どうしようもない恋に、叩き落とされたのはあの時だった。瞳。ひたむきにまっすぐに、痛みを堪えながら向けられる瞳は、荒れ狂う激情に恐ろしいほど輝いていた。ペールグリーンの瞳。優しい色をした恋を告げる瞳は、薄暗い部屋の中でアーサーを捕らえた。
恋を告げていた。いとしい、いとしいと何時でも告げていた瞳だった。それはイギリスのものであり、それはアーサーのもの、だったのに。朝霧を透かして見る森の木の葉のように、瑞々しく柔らかなペールグリーン。恋を宿したあの瞳こそ、アーサーのものだったのに。妖精の契約者としてマシューはその色を失い、代わりに紫がかった不思議な、色の揺れる瞳を手に入れたのだ。その瞬間。アーサーの恋の、その瞬間に。
「俺たちは……ちゃんと恋をし合った訳じゃない。俺の恋は、俺のマシューを失った瞬間に始まって終わり、マシューの恋は俺が居ないままでずっと、そこにあり続けた」
恋だった。奇跡のような恋だった。人の語る恋物語のような、甘く切なく、ドラマチックに育つことすら失った恋だった。ただお互いに、ひたむきに向き合いながら触れ合いもせず、抱き続けた恋だった。
「あの瞬間にはじめて、マシューを愛しいと思った。恋する気持ちで、愛しいって」
失わせたくなんてなかったよ、と。語られる言葉は切なげであり、そして怒りすら含まれていた。恋をした瞳、恋をさせてくれた瞳を失わせて、その想いごと眠らされるように引き離されて。身勝手な献身を、アーサーは確かに怒ってもいた。好きなものを損なわせてしまった己にも、怒っていた。それでも、怒りで時が戻ることは決してない。黙して耳を傾けているフランシスに視線をやり、アーサーは静かな口調で言い切った。
「俺は、マシューに恋したんじゃない。マシューが、俺に、恋させてくれたんだ。マシューが俺を好きだと言わなければ、俺はどんなに時が経とうとそういう気持ちを抱かなかったし、気が付くこともなかった……。好きで……途方もないような好きっていう気持ちだけで、全部投げ出して俺の為に俺の恋すら失わせるようなヤツだからこそ、俺は恋に落ちたんだ。恋させてくれたのは、マシューだ。……ようやく、取り戻した」
妖精との契約を終えたマシューの瞳は、揺れる紫をすでに失っていた。今のマシューの瞳は、優しげなペールグリーン。それこそが、アーサーの恋。アーサーが恋をした、アーサーを恋に落とした『アーサーの瞳』だった。いとしい、いとしいと、まなざし一つで想いを歌う。恋を告げ、愛を囁く優しいひとみ。取り戻した。それこそ、アーサーの恋。それが在るのにどうして、他に気持ちが移るかも知れないと考えるというのか。
納得したか、とからかい交じりに問いかけるアーサーに、フランシスは分かった、とややぐったりしながら頷いた。ものすごくノロケられた、という訳ではないのに、もういいですごめんなさい、と言いたくなってくる疲労感に襲われるのはなぜなのか。からかってごめんね、と再度謝罪を響かせて、フランシスはこれでもう本当に用がなくなったとばかり、足元に置いた荷物を拾い上げるアーサーに告げた。
「マシューさ、お前に告白した状況に罪悪感持ってる」
それは、独立戦争の後だったという。愛しい子を失った傷心につけこむように告げたのだと、他ならぬマシューが言っていた。それをフランシスが聞いたのは二カ月前で、その時、同じ場所にアーサーも居た。知ってるだろうけど、と確認したフランシスに、アーサーはにぃ、と唇をつりあげて笑う。知ってるけどな、と笑みの滲んだ声が歌うように告げた。
「事実だから、俺にはなんとも言ってやれないし、罪悪感でもなんでも持ってればいい。その感情の理由に俺があるなら、どんなものでも全部、俺は愛しい」
「性格、悪っ!」
「今更」
はっと鼻で笑い飛ばし、アーサーはじゃあまた会議でな、と言い残してフランシスの家を出て行った。扉が閉まって足音が聞こえなくなって、しばらくして、フランシスはコートかけからマシューのジャケットが消えているのに気が付く。気が付かなかったが、さりげなく持って行ったらしい。全く気にしていない訳ではない、ということだろう。聞けば、家に居るから持って行ってやるだけだ、と可愛くないことを言うのだろうけれど。
なんだか嬉しくなって弾む足取りで居間に戻って行けば、ソファの上で丸くなって眠っていた猫が顔をあげてにゃあ、と鳴いた。歩み寄って頭を撫でたフランシスの手にすり寄り、猫はごろごろと喉を鳴らして嬉しがる。そろそろ三時だった。一緒にティータイムでもしようか、と誘うフランシスに、猫はぱたりとしっぽを揺らす。良いですよ、と言わんばかりの仕草に投げキッスを送って、フランシスは用意をしにキッチンへ向かう。
嬉しそうな背中を見送り、猫は満足げににゃあん、と鳴いた。
アーサーが自宅に到着したのは、午後六時を過ぎた所だった。辺りはもうすっかり暗くなっていて、夜風がむきだしの耳に冷たい。門から邸宅の扉に向けて小走りに歩きながら、アーサーは一室からもれる明りに気が付いて立ち止まる。アルフレッドとマシューが泊まりに来ているのだから当たり前なのだが、冷えた家に入るのではないと気が付いて、無性に嬉しくなった。鍵を開けて家に入ると、そこで制御がきかなくなる。
コートを脱ぎもせずに廊下を走り、ノックもせず居間に飛び込んだ。テレビを見ていたアルフレッドがぎょっとした様子で振り返り、キッチンからは小走りにマシューが駆け寄ってくる。どうしたんだい、どうしたんですか、と口々に問いかけてくる心配の声に答えることもせず、アーサーは持っていた荷物から手を離した。頭の片隅でケーキ箱に入れておいてもらって大正解だ、と思いながらマシューに駆け寄り、飛びついた。
は、と間の抜けた声をあげてアーサーを受け止めたマシューは、そのままバランスを崩して背中から転倒する。ごつ、とものすごく痛そうな音が響いてマシューは息を飲むが、文句の声は上がらない。アーサーがマシューの胸に顔をうずめたまま、ぴくりとも動かなかったからだ。痛みをやりすごしながらえーと、と考えて、マシューはアルフレッドに目配せをした。アルフレッドはひょいと肩をすくめ、足音も立てずに扉へ向かう。
終わったら呼んでくれよ、とジェスチャーで告げた後、わざと音がするように扉を閉めたのは二人きりになった合図の為だろう。ほっと安堵したように息を吐いたアーサーの、肩や頭をそっと撫でながらマシューは問いかけた。
「どうかしましたか? なにか……ありました?」
部屋を出たアルフレッドは即座にフランシスに電話をかけているだろうから、相手の言い分は後で聞けばいいことだった。アーサーの様子がおかしいのをフランシスのせいだと半ば断定的に思いながら、マシューはアーサーの言葉を待つ。大人の男に圧し掛かられてもゆっくり待てるくらいの余裕は持っていた。それくらいで苦しがっていては、クマ次郎さんと戯れることはできない。よしよし、と撫でる手つきも慣れていた。
大丈夫ですよ、と囁きかけながら髪をすく指先は、それでも愛を囁いていた。アーサーはもそりと顔を持ち上げて、マシューの瞳を上から覗きこんだ。微笑みかけてくる表情は優しく、瞳は間違いもなくペールグリーンで、そこには恥ずかしいくらいの恋が宿っている。それを、アーサーは好きだと思った。視線が合うだけで、好きだと思う。視線を合わせれば柔らかく重ね合わされ、ふわりと恋の熱が広がって行くのだ。
その瞳が、恋を歌う。恋をして、恋をさせ、穏やかな愛を宿すペールグリーン。軽く音を立ててマシューの目尻に唇を落とし、アーサーは満ちた気持ちでささやいた。
「おかえり」
帰って来たのはアーサーなのだから、それを告げるべきはマシューだろう。しかしマシューは瞬きをしただけで問わず、穏やかに微笑んで唇を開く。ただいま、戻りました。ふふ、と笑いながら言葉は告げられ、アーサーを映した瞳がやんわりと細められる。いとしい、いとしいとまなざし一つで告げる恋。取り戻したそれを失わないように、アーサーはマシューに唇を寄せた。