どうして、と叩きつけられた嘆き。引き裂かれた結果のような、血を吐くような怒りと悲しみ。その痛みを、今も確かに覚えている。言葉をあてはめられない感情で胸が熱く痛くいっぱいになって、空気を肺に吸い込む隙間もないくらいいっぱいになって、苦しくて吸い込むことも吐き出すこともできなくて。歯を食いしばって嗚咽を耐えれば、世界を映し出す為に開かれた瞳からは涙がこぼれ落ちて行き、視界がひどく滲み行く。
ただ生きることが、なにより辛いこともあるのだと思い知る。あの日はもう、過去のこと。換気がしっかりできていないせいで、生温かく温められてこもる空気が肌に触れる。頭のある場所よりすこし高い位置で、さわりと声や言葉が揺れた。ああ、眠ってしまっていたのだった。ぼんやりと、ひどくぼんやりとした意識を体に取り戻しながら、カナダは頬に触れる机の感触にわずかばかり眉を寄せた。枕は柔らかい方が好きだ。
物憂げな溜息を長く吐き出してまばたきをして、カナダはゆっくりと頭を持ち上げた。ぽす、と音を立てて背が椅子の背もたれにあたり、大きく伸びをしながらカナダは瞬きをする。そもそも、どうして眠っていたのか思い出せない。なんだっけ仕事が一段落して仮眠でもしようと思ったんだっけ、えーと、と動かない頭をゆーっくり働かせながらあくびをした、カナダの視線と青い瞳がぶつかった。よく晴れた青空色の、綺麗な瞳。
アメリカだ。おはよう、とばかりにっこり笑いかければ、顔のよく似たカナダの兄弟は手に持っていた書類を机にぶちまけ、脱力しながら突っ伏してそのまま動かなくなってしまった。酷いんだぞ、としょげかえったアメリカの頭を、フランスが手を伸ばして撫でてやっている。はいはい落ち込まないのー、と慰められているのを遠めに見て、なんでアメリカとフランスさんが一緒に居るんだろう、という所まで考えて、カナダは。
この先一生呼吸ができなくなりますよ、と宣言された者のごとく大慌てで息を吸い込み、それから忙しなく視線を動かした。珍しいものを見る視線や、驚きや呆れ、怒りの表情とすれ違い、最後にカナダは、ちょうど向かい側に居たイギリスを目を合わせる。国際会議場に相応しく、今日もきっちりとスーツを着こなした英連邦たちの宗主国は、腕を組んだ姿で微笑み、長女の失態を眺めていた。ばぁか、と唇が声も無く動く。
はい、その通りです、と顔を真っ赤にしながら、カナダは議長であるアメリカにも視線を向けた。まだカナダが居眠りしていた挙句、寝ぼけて起きたことに対する衝撃から立ち直れていなかったアメリカは、フランスに突かれてようやく顔をあげる。泣き濡れた青い瞳が、カナダを恨めしげに睨んだ。ええと、と言葉を探して口ごもり、結局カナダはいたってシンプルな謝罪を口にする。飾っても遠回しでも、意味はないからだ。
「アメリカ。ごめんね、寝ちゃって」
皆さんも大変失礼しました、と会議場をぐるりと見回しながら謝罪を響かせ、カナダはゆっくりと頭を下げた。呆れと怒りが半々になった溜息が議長のマイクから議場全体に響き渡り、直後に休憩が言い渡される。
「休憩、休憩っ! 一時間休憩なんだぞ! もーヤだっ! 俺があんなに頑張ってたのに、どうして寝てるんだいっ!」
「ごめんったら……疲れてたの、かな」
寝ようと思った記憶もなければ、机に顔を伏せてしまった覚えもない。眠りに落ちる前のことが全く思い出せないからこそ不思議がって首を傾げるカナダの呟きに、アメリカはマイクの電源を切りながらぷくーっと頬を膨らませた。そのまま、宥めるフランスを無視してカナダの所まで走って行き、逃げようとするのを許さないで椅子ごと抱きついていく。どすがたごっとん、と抱きついた衝撃音と椅子が倒れた音が連続して響いた。
椅子とアメリカに挟まれながら床に倒されたカナダは、いったぁ、と涙目になって呟きながらアメリカを睨みつける。この兄弟のやや荒っぽい、過度のスキンシップは今に始まったことではないのだが、それにしても椅子ごと、というのは痛すぎた。背骨打ったじゃないか、と痛みにややかすれる声で吐き捨てるように抗議すれば、間近に迫った青の瞳が怒りに煌めきながら睨んでくる。寝てたくせに、とアメリカも言い放つ。
「しかも寝ぼけるだなんて、やめておくれよ! 俺まで恥ずかしいじゃないかい」
「僕が寝ぼけても、君には関係ないでしょう?」
「俺が寝ぼけちゃったみたいな気持ちになるんだよ! なんだいもー、こんなにそっくりでさー」
そう言って、ぐいぐい頬を顔に擦りつけてくるのは、猫がじゃれあうのに良く似ていた。怒っていた筈の気持ちが瞬く間に消えて行くのは、恐らくお互いさまなのだろう。じゃれてくるアメリカの頭をはいはい、といなしながら撫でてやって、カナダは大きく溜息をつく。国同士の争いを除き、二人が深刻な兄弟喧嘩をしたことがないのは、アメリカのスキンシップ過多癖と、カナダの触れられると無条件で嬉しくなる性質ゆえだろう。
怒っているのが馬鹿らしくなるくらい、棘だった気持ちを持ち続けるのがうんと難しくてもったいない、と感じるくらい、触れ合うだけで楽しくなって来る。広大な大地で二人きり、イギリスやフランスの訪れを待って過ごした時の長さが二人をそうしたのだろう。互いに独立して長い時が経ってもその性質は変わらず残っていて、そしてこれからも、きっとそうなのだ。息を吸うのと同じくらい自然に、触れるだけで心が溶けて行く。
床に倒れたままくすくすと、不機嫌を消し去って笑い合う二人に微笑ましい視線が向けられた。それは年若い『国』のじゃれあいをごく純粋に可愛がるものばかりだったが、中には快く思わない者もいる。カツ、と硬質な足音が響く。その一音だけで正体が知れる響きに、カナダとアメリカは額をくっつけたままで顔だけを横に動かした。二人の顔のすぐ傍で、革靴が爪先を揃えて制止する。傷一つ見当たらない、磨かれた靴。
そーっと視線をあげた二人が見たのは、にこ、と微笑むイギリスで。ふぎゃあああっ、と猫を踏みつけてしまった時に上がる叫び声をあげながら、アメリカが両手をあげて飛び起きる。即座に決行されたホールドアップ、完全降伏に、イギリスは微笑んだままでちいさく舌打ちをした。そんなイギリスを刺激しないようにそろそろと体を起こし、カナダは床に座り込んだままで手を伸ばし、スーツの端にそっと指先をひっかけた。
摘むのではなく、触れるのでもなく、あくまで指先をひっかけるだけの、ごく控えめな自己主張。イギリスがすこし身動きしただけでも、指先は簡単に離れてしまうだろう。アメリカに対して不満げだった視線が、カナダに向けられる。カナダ、と呼びかけた響きは、その自己主張の弱さこそを甘く咎める風に響いた。もっと強く引いても怒らないし、それでいいのに。秘めた言葉に気が付いた風もなく、カナダはふわりと微笑んだ。
視線を向けてくれて嬉しいな、と。ただそれだけを心から喜ぶ微笑に、イギリスの怒りも鎮火させられてしまう。こんな風な微笑みを前にして、一体どうすれば怒りを持続させておくことができるというのか。スイスでも、まず無理に違いない。溜息をつきながら手を伸ばし、イギリスはカナダの頭をぽんぽん、と撫でた後に立ち上がらせる。ほら、と背を叩いて促せば、カナダはごく素直に立ち上がり、恥ずかしげに目を伏せた。
「あの、寝てしまってごめんなさい……だから、アメリカを怒らないであげてください」
お願いします、と響いた言葉に、イギリスはしばらく言葉を返さなかった。きゅぅっと眉間にしわを刻むと、唇を固く閉ざして腕を組み、無言でカナダを見つめている。どうするかを決めかねているようでもあり、怒りを叩きつけてしまわないように落ち着こうとしているようでもあった。やがてイギリスの組まれていた腕が解かれると当時に、ゆるりと息も吐き出される。気配に導かれるように顔をあげたカナダに、イギリスは苦笑した。
「分かった、怒らない。アメリカのことも、カナダ、お前のことも。……ただ、寝ていた理由は話せるな?」
会議という正式な場での無作法を許してやるほど、イギリスは甘い宗主ではない。また恋という気持ちを向ける相手であろうとも、それは変わることがなかった。さあ弁解してもらおうか、とにっこり笑うイギリスに居心地悪く身じろぎしながら、カナダは時間稼ぎの為に屈みこみ、倒れた椅子を立ち上がらせた。そのまま椅子を机に寄せて置こうとすれば、ああ、とイギリスが声をあげ、指先だけを優美に動かして見せる。
たったそれだけの仕草は、同時に命令でもあった。指で指し示されるままに椅子に座りなおしたカナダに、イギリスは従順な動きを見せたが故の愛おしさで微笑む。カナダはそんなイギリスを見てまた嬉しそうに笑い、二人はにこにこと喜びを漂わせた。ふわふわした気持ちいい気分のままで、カナダはそっと唇を開く。悩む間もなく、言葉はするりと抜け出して行った。
「気が抜けてしまっていたのだと思います。気が付いたら、眠っていて……恥ずかしい真似をしました。申し訳ありません」
「二度目がないよう、注意できるな?」
「はい、もちろん」
制約を求めるよう差し出された手の甲に、カナダはそっと唇を触れさせた。よろしい、とばかりイギリスの指の背で頬をくすぐられ、カナダはくすくすと笑ってしまう。ちゃんと反省しろ、とたしなめるイギリスの声もすでに緩んでいて、怒っている様相を呈してはいなかった。そんな二人の間ににょきりと割り込み、アメリカは腰に手を当ててふんぞり返りながらでも君が怒れることじゃないよね、とイギリスを指差しながら言い放つ。
隣国との喧嘩による会議強制中断常連者こそ、イギリスである。自分を棚上げしてカナダを怒っちゃいけないんだぞ、と楽しそうに指摘してくるアメリカに、イギリスはにっこりと笑った。そしてまあそうとも言えるな、と頷きながら言う。
「それはともかく、そこを退け。カナダが見えない」
「俺が見えればいいじゃないか! あと見えないんじゃないんだぞ? 見せてないんだぞ」
「カナちゃんや、いまのうちにこっちにおいで?」
完全にイギリスの死角になる場所を選んで立つ辺り、フランスも十分理解はしているらしい。あんまり皆でイギリスさんを苛めないであげてくださいね、と溜息をつきながら椅子からそーっと立ち上がり、カナダは手招かれるままにフランスの元へ歩んで行く。ちょうど机の影に隠れるように座っていたフランスは、てくてくやって来たカナダを歓迎するように両腕を広げ、そっと抱き寄せてから頬に簡単なキスを落とした。
「大変だねえ、カナちゃん。あの二人に取りあいっこされて疲れない?」
「いえ、アメリカもイギリスさんも、ああやってコミュニケーションを深めているだけですから。楽しそうでしょう?」
喧嘩はしてないし、とくすくす笑ってカナダがそっと視線を向ける先、イギリスとアメリカは足を肩幅に開いて腰をすこし落とした臨戦態勢のまま、やけに好戦的な笑顔で対峙していた。殺気もなく、怒気もない睨みあい。二人の瞳は戦闘を前にした高揚感で燦然と輝いていたが、それでいてひどく楽しげだった。獅子と豹が牙をむき出しにしてうなり合い、睨みあいながらも、あくまで楽しんで喧嘩する寸前のようだった。
怖いんだけど、と呟いたフランスの隣で、カナダはにこにこと首を傾げる。
「怖くないですよ? でっかいわんこと、でっかいねこさんがじゃれ合おうとしてるだけですし」
「どっちがわんこで、どっちがにゃんこなのか詳しくお願いします」
「日本、どっから生えて来たの……?」
にょき、という擬音が相応しい動きで下からいきなり現れた日本に、フランスは軽くのけぞりながら問いかけた。カナダは特に驚くこともなく、ほんわかした笑顔でこんにちは、先程は失礼しました、と礼儀正しく挨拶をしている。日本はまずカナダにお辞儀をしてお気になさらずですよ、と微笑みかけてから、フランスに向き合い、唇に人差し指を押し当てた。ないしょ、というより、静かにしてくださいね、と求める仕草だ。
あ、逃げてるな、とピンと来たフランスに、日本は全くその通りです、と深々と頷く。
「驚かせて申し訳ありませんでした。ちょっと机の下をほふく前進しながら出口を目指していたもので」
「分かってるけど一応聞くよ。なんで?」
机の下でこそこそ寄りかたまりながら、三人はごく静かな声で会話をしていた。休憩ということで多くの『国』が会議室から出て行ってしまっているので、ごく少数しか残っていない状態ではどんなに潜めても声が響きやすいからだ。同じように残っている者の話し声や足音、物音も分かりやすく響く。こらどこ行ったあるかっ、とぷりぷり怒りながら響く中国の声に、フランスとカナダは若干死んだ目になっている日本を見た。
日本はだって仕方がないじゃないですか、と全然全く『仕方がない』とは思っていないのが丸分かりの声で言い放つ。
「アメリカさんが私の意見も求めずに暴走してる会議ほど、暇なことってないんです」
「ああうん、分かる。それで?」
「それで、今日は中国さんがお隣の席だったもので……ものすごく暇そうに肘ついて手にほっぺたくっつけながら、書類の裏にぼーっと漢詩なんか書いてる中国さんを見たら、ちょっとこうかまって欲しいな、とか思ってしまいまして」
そういえばなんか書いてたな、とフランスは会議中の中国を思い出す。会議に対してやる気のある姿勢でもなかったので議事録代わりのメモでないことは明白だったが、漢詩とは思わなかった。日本なら絵でも描いているのだろうな、と思うのだが。それで、と促して不思議そうに首を傾げるカナダに、日本は和んだ微笑みを向けた。それで、と秘密をささやくこっそりとした声で、日本は笑いながら告げる。
「一人で遊んでないで、かまってくださいよ、って言ったんです」
「うんうん。それで?」
「そうしたら中国さん、私の方をちらっと見てものすごく呆れた風に溜息なんぞつくもので」
そうされましたらなんと言いますかこう、ボールペンを持ってる指先にとてもいらっとしたもので、と。日本は反省の色など微塵も滲ませていない笑顔で、爽やかに言い放った。
「指噛んで来ました」
「だ……え、誰の?」
「中国さんの、に決まってるじゃないですか。噛んだって言っても甘噛みですけどね」
あっけに取られて思わず聞いたフランスに、日本はまあ猫にかじられるよりは痛くなかった筈ですよ、とさらりと告げる。その辺りで都合の良いことに休憩になったので、即座に逃げて来ました、と。日本ー、と呼ぶ声が会議室の外へ出て行ったことに安堵して脱力し、短い黒髪がカーペットに擦り付けられる。ぺしょりと床につぶれるように横になったまま、日本は心の底から後悔している溜息を、細く長く吐き出した。
「いま捕まったら、なにされるか分からないじゃないですか……あああ、逃げ切れますように!」
「一時間逃げ切っても、会議再開したら隣の席じゃないの?」
「言わないで下さいよフランスさん! 考えないようにしてるんですからっ」
耳を両手で塞いで必死に聞かないようにしながら、日本は視線を会議室の扉へと向けた。いくつもの廊下に出られるようになっている部屋だから、中国が出て行った扉とは別のものを選べば、それだけで逃げ切れる可能性は高くなる。部屋に留まっても良いのだが、戻ってくる可能性を考慮すれば出て行くのが一番だった。再びほふく前進で出口を目指そうとしつつ、日本はカナダに視線を向ける。
「それで、どっちがわんこでどっちがにゃんこです?」
「アメリカがゴールデン・レトリバー、イギリスさんがシャム猫かな、と」
「分かりました。ありがとうございます」
耳つける時の参考にしますね、と頷く日本に、フランスもカナダもあえて問いかけはしなかった。なんで耳つけるんですか、なんて、二次元大国に問うには愚門に過ぎる。萌えるからだ。もしくは、そこに萌えがあるからだ。みみの本でも出しましょうかね、とうきうきほふく前進で去って行こうとする日本の、進路の先を見つめてカナダはあ、と言った。フランスも同じく視線をあげて苦笑したので、日本は嫌な予感で顔をあげる。
誰も居ないことを確認して出口と定めた扉に背を預け、中国がにこやかに佇んでいた。日本を見ていたらしく、視線もばっちり噛みあってしまっている。動くこともできなくなってぱたりとつぶれて動かなくなった日本に、中国は軽やかな足取りで寄って行く。ひょい、とばかりしゃがみこんだ中国は、日本の耳元に口を寄せて問いかけた。
「逃げ切れる、と思ったのか?」
「なんとかなるんじゃないかな、と期待はしておりましたとも……さっきどっか出て行ったようですし」
「会議室の中に居るのは分かってたある。まさか机の下でもぞもぞしてたとは思わなかったあるが……引っかかってくれたようでなにより。さて、もう一度聞いておいてやるが」
顔をおあげ、と優しい声に強制など含まれてもいなかったが、日本は逆らえぬものを感じてぎこちなく顔をあげる。視線が至近距離で絡み合い、中国の笑みが静かに深まった。クスリ、と喉の奥で密やかに声が響き、中国の手が日本に伸ばされる。触れた指先はひんやりと、日本の頬をわずかに冷やした。頬のまるみをなぞった指が耳に触れ、すうと首筋に落ちて行く。ぎく、と体を震わせた日本に、中国は静かに呟いた。
「我から、逃れられると思ったか?」
「な……んで、そんなに、お怒りなのですか」
「怒り? 馬鹿なことを言うでないよ、可愛いコ」
くつくつくつ、と中国は笑う。ことりとちいさく首を傾げる動きこそ可愛らしいのに、全く隙がなく、相手に余裕を与えなかった。
「我はすこし、過ぎた悪戯をする情人に、爪を立てるとどうなるか教えてやりたいだけあるよー」
日本の顔から、元々薄かった血の気が完全に引いた。即座に立ちあがって走り去ろうとするその腕を、中国はゆっくりに見える仕草で絡め取り、がっしりと捕まえて微笑む。往生際の悪いこと、と肩を震わせて笑う姿は機嫌がいい風にしか見えないのに、日本はなんだか怯えているようだった。机の下からひょこりと顔だけを出し、フランスが声をかける。
「中国ー。日本が怯えてるぞ? なにする気だ?」
「野暮なことを聞くでないあるよ、愛の国。ああ、この後の会議は欠席するある。なあ、日本」
「なんで私に同意を求めるんです! 私は出ますよ会議、だってお仕事ですから!」
どう見てもやんわり触れているくらいにしか見えない中国の手は、日本が本気で暴れても外れないものらしい。どうなってるんだ、といっそ呆れた目で見守るフランスに、中国はにこ、と唇だけを動かす笑みで告げる。それから中国はぜぇったい嫌です、と言う日本に手を伸ばして、口をやんわりと塞いでしまった。往生際の悪い、と目を細めた中国は笑う。
「まあ、出られれば出ると良い。会議に出たいです、という元気が残っていれば出してやるある」
「ちょ……! た、たすけ」
「よかったあるねー、今日の会議がアメリカの独壇場で。特に欠席しても問題なんて起こらないあるよ」
なにせ休憩前までアメリカが力説していたことといえば、全国家の力を合わせていまこそ宇宙戦艦を作るべきなんだぞ、なのである。その為の技術力と科学力、ひいては予算や設計図完成までの年数をやたら期待に満ちた瞳で延々語っていたのだ。恐らくは休憩後の会議も同じことなので、どう頑張っても出席すべき、とはとても言ってやれない。ごめんね日本生きて会おうね、とフランスは見送り体勢で手を振ってやる。
日本の目が、完全に死んだ。や、やですやです、にーにいじめっこっ、ばかっ、と『国』の立場をかなぐり捨てて抵抗する日本をずるずると引きずって行きながら、中国は後ろ手に手を振って扉を閉めた。ぱたん、と扉の閉じる音が響く。思わず祈ってやりながら、フランスはやけに静かだったカナダを見やる。カナダはぼんやりとした表情で扉を見つめて瞬きをしていて、フランスの視線に気が付くとにこりと笑ってみせた。
「なんですか?」
「んー、こっちの台詞。カナちゃん、どしたの。体調でも悪い?」
机の下の狭い空間で、フランスはカナダの頭をわしゃわしゃとやや乱暴に撫でてやった。わ、わ、と声をあげながら、カナダはやや嬉しそうに表情を緩ませる。空間は閉ざされてはいなかったがどこか限定的で、狭さがなぜか、幼い頃の記憶を思い起こさせた。フランスと二人で暮らしていた時、カナダの世界は広くもとても狭かった。手の届く範囲、目で見える範囲が世界の全てで、それはちょうど、これくらいの広さだった。
ほっと安心しながら、カナダは大丈夫ですよ、と囁く。どこも悪い所なんてなかった。
「ただ……中国さんと日本さんって、いまは仲が良い……んですよね?」
「だろうねえ、中国は情人って言ってたし。それって恋人って意味だしね、中国のトコで。つまり、そういうコトでしょう」
「……よかった」
ごく深い安堵を持って喜びを滲ませたペールグリーンの瞳には、たった今眼前で繰り広げられた一幕など映っていなかったようだった。その瞳は、どこか遠くを見つめている。記憶の中に、もぐりこんでしまっていた。カナ、と呼びかけながら、フランスは弱い力でカナダの頬を打つ。痛みではなく触れられたことにこそハッとして、カナダはぱちぱち瞬きをした。あれ、と首を傾げるカナダに、フランスは訝しげな目で問いかける。
「カナダ、今の見てなかったのか? そういう風によかった、とか言える感じじゃなかっただろう。まあ……中国が本気で日本にどうこうすることもないだろうが……。どしたの、カナちゃん。なんか変な夢でも見ちゃってた?」
お兄さんちょっと心配ですよ、と優しい気遣いに誤魔化された責める響きに、カナダは申し訳なさそうに眉を寄せて苦笑した。現実は、ハッキリ見えていた。その上で出た言葉と気持ちに、カナダ自身も戸惑いがある。どうしてだろう、とすこし意識にもぐ行って考えて、カナダはころん、と転がっていた答えを拾い上げる。ああ、と溜息がもれた。
「寝てる間に、いくつか夢を見ていました。そのせい、だと思います」
「どんな夢?」
「戦争中の」
臆することなく、迷うことなく。カナダは、その言葉を告げた。とたんに渋い顔つきになるフランスに笑って、最前線の記憶とかじゃないから大丈夫ですよ、とカナダは言葉を付け加える。ただ、と。呟いて、カナダの指先がぐっと胸に押し付けられる。その奥に確かにある、己の心に触れたがるようにして。指先が白くなるほど、力が込められていた。
「大切な人と敵対せざるを得なくて、敵対してしまった時の……皆の、ことを、夢に見ました」
世界が連合と枢軸によって二分割するような大きな争いの時も、カナダはイギリスの傍に居た。カナダがイギリスにそむくことは一度としてなく、だからこそ『国』としても、敵対したことはないのだ。それはあまりに稀有なことで、だからこそカナダは、見ていたのだろう。記憶、していたのだろう。世界を揺らした大戦のおり、連合の側に中国は居て、枢軸の側に日本は居た。そしてカナダは中国と同じ、連合に属していたのだ。
フランスも、覚えている。戦争中、『国』としての意識が全面に出ている時にすら押さえきれなかった相手への思慕が、身を引き裂く痛みとなって中国を苦しめた時の叫びを。どうして、と何度も中国は叫んでいた。時に窓ガラスや、床や、机に握りこぶしを叩きつけながら。その痛みによって心の傷を誤魔化してしまいたがるように、中国は何度も拳を叩きつけながらどうして、と叫んでいた。涙すらない、絶望の叫びだった。
誰に向けた叫びではなく、なにに対しての問いですらなく。国民も、日本も責めるものですらなく。それはただ、ただ『国』として殺し合わなければならない現状を、己の意思など介入する余地もない世界を、どうしようもなく呪って怒って嘆いていた。どうして、どうして。愛しいひと、大切なひと。傍に居て、笑顔を見たいひと。どうして、どうして。泣き叫ぶ言葉はそれを見た『国』の胸をえぐり、カナダから静かに呼吸を奪った。
その狂乱をカナダは見たことがあり、絶望に彩られた声を聞いたことがあったからだ。カナダだけが、それを経験せずとも知っていた。もう元に戻った瞳を愛でるように、カナダは片目を閉じ、まぶたの上に手を触れさせる。あの頃はまだ、カナダの瞳は紫が混じっていた。
「中国さんを……救ってあげることは、僕にはできませんでしたから」
「カナダ」
「だから……きっともう、中国さんがああいう風に叫ぶことはないんだろうな、と思って」
長く、長く。長く、生きて。共に、生きていて。それでも二人がきちんと想いを通じ合わせたのは、かの大戦が終わってからだ、という。片恋のまま引き裂かれたのであれば、なお辛かっただろう。けれど結びついたのであれば、もう大丈夫なのだ。カナダはそれを知っていて、だからこそ柔らかく微笑み、フランスに言った。
「そのことが、僕には本当に嬉しかったんです」
「……そっか」
そうか、ともう一度呟いて、フランスはカナダの頭をぽんぽん、と撫でた。かつてそうして愛を教えた養い子に、もう一度その温かさを告げていくように。乱れた髪をそっと整えて引いていく指先を見つめて、カナダはゆるく目を和ませた。あのね、と言葉がこぼれていく。カナダが意識して留めておくことのできない心が、唇からそっとこぼれていく。うん、と優しい愛情を持ってそれを受け止めてくれるフランスに、カナダは言った。
あのね、フランスさん、と。
「今は本当に、僕の夢の中じゃないですよね?」
この幸せは現実で、それを信じてもいいんですよね、と。その質問自体を自分でおかしく思いながらも問いかけずには居られなかったカナダに、フランスは両腕を伸ばしていた。ぎゅ、と力の加減もせずに抱きしめれば、フランスの腕の中でカナダは安堵した様子で力を抜く。その幸せすら本気で信じられていないカナダを、すくいあげる言葉をフランスは持たない。それが出来るのは一人。たった、一人。イギリスだけだった。