眠りたがるように目を閉じて安らぐカナダを腕に抱きながら、フランスはちらりとイギリスたちの居る方に目をやった。見られていれば問答無用の即死フラグだが、完全に気が付いていないようなら、それはそれで複雑なものがある。保身を考えるなら今の状態を気取られたくはなかったが、カナダを想えば知っていて欲しかった。椅子と机の足をすり抜けて、フランスの視界が、楽しく対峙するアメリカとイギリスの姿を捉える。
そしてフランスが、イギリスの状態を確認するより早く。フランスとカナダの姿を二人から隠してしまうようにして、視界の間にしゃがみ込む者があった。よう、と楽しげに挨拶は放たれ、夕陽より鮮やかに赤い瞳がきゅぅと細められる。ぷーちゃん、と安堵半分、咎め半分に名を呼びやれば、プロイセンの表情が自信ありげな笑みに変わった。感謝してもいいんだぜ、と言わんばかりの顔つきは、状況が分かっている故だろう。
たぶん気が付いてねぇよ、とさらりとフランスの望む情報を提供して、プロイセンはゆるゆると瞼を持ち上げたカナダに笑いかけた。手を伸ばしてやや乱暴に、それでいて優しく動く指先で髪を撫でる仕草は慣れていて、誰かによくそうしていたのだと物語る。プロイセンさん、と笑いながら名を呼ぶカナダにまた肩を震わせて笑う男は、上機嫌のようだった。しゃがみこんで会議机を覗き込んだまま、にこにこと笑みを絶やさない。
プロイセンは微笑ましく二人を見守るだけで、なにをしているのかも問わず、説明を求めもしなかった。やがて耐えきれなくなったフランスが、溜息とともに口を開く。
「もー。なにかしら、ぷーちゃん」
「いや別に、微笑ましいから見てるだけ。ヴェストもよくそうやってひっついて来たなーって。つか久しぶり、マシュー」
「はい。お久しぶりです、プロイセンさん。……今日は、どうして?」
二人の姿を通して己と最愛の弟の記憶を思い出していたプロイセンは、カナダの問いにああ、と呟いて目を瞬かせた。会議中、『国』の個人名を呼ぶのは暗黙の了解としてマナー違反にされており、それを思い出した為だった。カナダは咎めもせずに流してしまったので謝ることも出来ず、プロイセンはやや気まずげに視線を彷徨わせて言葉を探す。どうして、と問いかけられたのは、会議に出席していないからだろう。
プロイセンの格好は会議用にスーツではなく、やや薄汚れた紺色の軍服だった。泥でくすんだ色が染み込んでしまっている服は、よく見れば真新しい泥がついているのも分かる。糊のきいた清潔なスーツ姿の二人の前にあって、プロイセンの姿はすこしばかり異質だった。あー、とさらに気まずそうに言葉を探しながら頭をかき、プロイセンは家に帰って誰も居ないの嫌なんだよ、と言葉をこぼす。軍事演習だったのだ、と。
「演習終わって、その帰り道に会議場あるからさー。そこで素通りして一人楽しすぎる家で寝んのも嫌だし、寄ってシャワー浴びて服は軽く洗って、でもまだ会議終わりそうになかったから、そのまま警護に混じってた」
「あれ、今日は神聖ローマ居ないの?」
「違います兄上は世界に羽ばたくEUですー。それに兄上は今日、ドイツと一緒に会議場に居る筈だぜ? 出席はしてなくても、そのへんの控え室で待ってんじゃね? 休憩中みたいだから、ヴェネチアーノちゃんと一緒だと思う」
すこし前、プロイセンとイタリア・ロマーノの手によって復活を遂げた神聖ローマは、存在の安定の為に自称でEUを名乗っている。それを認めているのは現在プロイセンとドイツだけで、他は複雑なものもあるので絶賛協議中なのだった。それにも関わらず決定事項のように話すプロイセンを軽く呆れた目で眺めやり、フランスはなんで来てんの、と問いかけた。来ることが嫌な訳ではない。昔馴染みの一人でもあるのだから。
しかし今も昔も、わりと家の中を好む性質だと知っているので、何らかの意図があって引っ張り出されたとしか思えなかった。問いかけるフランスに、プロイセンは軽く眉をつりあげて言い放つ。どうしてそんな簡単なことも分からないんだ、と言わんばかりの表情は、イギリスに通じるものを感じさせた。考えてもみろよ、とプロイセンは言う。
「俺もヴェストも家に居ないんだ。兄上が一人だと、ヴェネチアーノちゃんが会議から逃げてくるかも知れないだろ」
そして兄上は逃げてきたら匿っちゃう方だからな、とふんぞり返って言うプロイセンに、フランスは白い目を向けた。どこにも威張れる要素が見当たらない主張で、なぜ兄自慢ができるのか。元神聖ローマを長男とするドイツ家は、ちょっとおかしいくらいにその存在を愛していた。そう言えば、会議中のイタリアはやけにそわそわしていて、それでいて積極的に参加もしていた。そして休憩と同時に、走って出て行ったのである。
ねえねえ俺ちゃんと会議に出たんだよ褒めてーっ、と満面の笑みで自称EUの青年に飛びつく様を想像して、フランスは納得の頷きで溜息をついた。会議に連れてくるだけでイタリアの集中力アップアイテムになる存在が、ここから走って行ける距離の家に居たのなら、それはもう脱走するだろう。恐らく判断を下したのはドイツだが、非常に適切で正しい判断だったと言わざるを得ない。まったく、とフランスは溜息をつく。
「仕方ないね、バイルシュミット家は……まあ、今一番しょうがないのはぷーちゃんだけど」
「俺? なんでだよ」
「ぷーちゃんって、普段はごろごろしてるくせに、一回動くと途端にワーホリだよね。ワーカーホリック。軍事演習って、どうせまた数日徹夜もこみの強行軍とかなんでしょ? それが終わって帰る途中に、さらにまた警備してるってなに? ぷーちゃんの兄上様が居るの知ってるんだったら、そこに行って休んでれば良かったのに。膝枕くらいならしてくれたんじゃない?」
しょうがない、と言われて不満げにつりあがった眉が、フランスの言葉を聞くにつれしおしおと戻って行く。視線が彷徨う所を見ると、自覚はあるらしかった。そして『兄上の膝枕』にも、未練があるらしい。今から行けば、あー、でも、とぶつぶつ呟いているプロイセンを、フランスはため息交じりに観察する。激しい演習の後だからか、顔色は良くないし肌も荒れているし、目の下には隠しきれないクマが浮いてしまっていた。
それなのに瞳だけが熱っぽい輝きを灯して高揚しているのは、戦地を模したであろう場所からの帰還に精神が落ち着けていない証拠だった。ハンガリーちゃんでも呼んで来るべきか、とややくたりとしながら安心しきって胸の中に収まるカナダを撫でながら、フランスは考える。すこし前から言葉を交わすことに参加しようともせず、カナダはフランスに甘えて安らぎ切っていた。よしよし、と頭を撫でてやりながら愛おしむ。
フランスが今出来るのは、カナダを守る繭をつくり、その中で慈しんでやることだけ。だからこそ、それを精一杯行おうとしているフランスに、兄上の膝枕を諦めたプロイセンが首を傾げて尋ねる。
「つかお前ら、こんなトコでなにし」
「ギルベルト・バイルシュミットォ!」
存在する誰に取っても、不意打ちの叫びと一撃であったに違いない。へ、と言う間もなく横合いから飛んで来た膝の洗礼を受けたプロイセンは、整然と並べられた机をなぎ倒して吹き飛ばされる。それを行った人物は荒い呼吸音を響かせながら、床に足が突き刺さるような強さで、靴で絨毯を踏みしめた。机をなぎ倒したまま、プロイセンに動きがない。それを心配の欠片も見せずに睨みつき、ハンガリーは腰に手を当てた。
「ちょっとなによなんなのギルベルト! アンタもしかしてギルベルト・バカデシュミットに改名したいのっ? そうなのっ?」
「な……なんなのは俺様の台詞だボケエリザーっ! テメ、数日ぶりに会う俺様に、いきなり膝蹴りとは何事だよ!」
二人とも会議中であり公的な場である、という認識が頭の中から抜け落ちたようだった。立場をかなぐり捨てて渾身の力で叫び合う二人が、これで恋人同士だと言って何人が信じると言うのか。いやお兄さんは知ってるから信じてあげるけどね、と自身の疑問に胸中で答えながら、フランスは腰に手を当てて怒りを表しながら睨みつけているハンガリーと、なぎ倒した机と椅子を避けながら立ち上がったプロイセンを見つめた。
ある意味二人っきりの世界で、周りなんか目に入ってないんだろうなぁ、というフランスの予想通り、二人は互いに互いしか見えていないようだった。唖然とするアメリカとイギリスを欠片にも気に留めず、二人はそれぞれ怒りをあらわにした表情で睨みあっている。紺のビジネススーツを女性的な着こなしで身に付けたエリザベータは、ギルベルトのまとう軍服を苦々しい表情で睨みつけた。そんなの着て、と瞳が語っている。
「何事、はこっちの台詞よばかっ! 軍事演習帰りなら、警備にまぎれて遊んでないで家に帰って寝なさい!」
「遊んでねえよ警備してたんだよ警備! つかお前らの会議が終わったら家帰って寝る予定なんだよ!」
「今すぐに寝ろって言ってんのよ馬鹿ーっ! ちょっとなに、顔色悪いなぁもうっ!」
机と椅子をそのままに、ひょいひょいと身軽く避けながら戻って来たプロイセンの顔を見て、ハンガリーは怒りながらも男に手を伸ばす。こっち来い、とばかり軽く腕を広げて待たれて、行かない男が居るならちょっとおかしい。そう言いたげな表情で素直に身を寄せたプロイセンを、ハンガリーはぎゅぅと胸元に抱き寄せた。ちょっともう、アンタ本当に馬鹿なんじゃないの、とぽこぽこ怒りながら、頭に触れる手は優しい。
乱れた髪を指先で軽く整え、ハンガリーは溜息をつく。
「心配させないでよ……。なんでアンタは一回動くと、休むってことを知らなくなるの? なんで忘れるのよ」
「じゃあなんでお前は、心配してるのに俺にいきなり膝蹴りかますんだよ」
「心配を通り過ぎてムカついたからに決まってるでしょう? ベルンちゃんが教えてくれたから良いものの」
兄上が、と呟いてきょとりと目を瞬かせたプロイセンに、ハンガリーはものすごく複雑な顔をして沈黙した。なにその顔可愛い、という気持ちと、自分以外の存在でそんな顔をされた苛立ちが同時にあるのだろう。それでもプロイセンがいかに戻ってきた神聖ローマを敬愛しているのか、ハンガリーは知っている。仕方がないと苦笑して、プロイセンの頭をぽんぽん、と撫でた。
「そろそろ帰ってくる頃だろうけど、アンタのことだからどうせ直帰しないで警備に紛れ込んでるだろうって。警備に電話して聞いてくれたのよ。銀髪赤い目の、軍服を着た青年が居ないだろうかって。そしたらアンタ、やっぱり居たし。警備の人、苦笑してたわよ。祖国なら旧友を見つけたとかで、今は会議室の中にいらっしゃいますよ、って。疲れてらっしゃるようでしたので、できれば誰か休ませて差し上げてください、って」
「疲れてるけど眠くないんだよなぁ……。なんかハイになってんだよ、今。だから寝たくない」
分かるだろ、と首を傾げたプロイセンの瞳を覗きこみ、ハンガリーは物憂げに溜息をついた。爛々とした輝きに、なんの言葉を重ねられずとも状態を悟ったのだろう。じゃあせめてベルンちゃんと一緒の部屋で待ってなさいよ、と言い渡すハンガリーに、プロイセンはむくれた顔つきになった。嫌だ働きたい、ということだろう。仕事を目の前にして休めるのであれば、ワーカーホリックにはならない。エリザベータはにこ、と笑った。
「睡眠薬と、拳と、私ならどれがお好みかしら?」
「……エリザ」
「分かったわ。会議終わるまで、ベルンちゃんと一緒に待ってなさい。抱き枕になってあげるから」
それまで良い子で休んでるのよ、と言い聞かせるハンガリーに、プロイセンはこくりと頷いた。疑似戦場返りで研ぎ澄まされた神経を休めるには、人肌が一番落ち着くのである。決まってしまうと急に疲れが襲って来て、プロイセンはハンガリーに体重を預け、やや呻いた。つかれた、とくったりした声を響かせるのに笑って、ハンガリーはお疲れ様、とプロイセンの額に口付けを送る。ようやく、無理せず恋人同士に見えて来た。
そう思いながら呆れるフランスの胸を、そっと手のひらが押しやった。視線を落とすと、出迎えたのは冴えた色をしたカナダの瞳で。もう大丈夫ですから、と唇だけで囁き、カナダはひょいと身を屈めて机の下から出て立ちあがった。そこで初めて、他者の存在に気が付いたハンガリーの視線が動く。あれ、とばかりにカナダの存在を確かめたハンガリーは、瞬時に顔を赤く染め、ギルベルトを突き飛ばすようにして離れた。
予想はしていたのだろう。はいはい、と呆れながら離れてやったプロイセンは、カナダに対して優しい表情で首を傾げて来た。もういいのか、と問う仕草は全てを知っているようにも見えて、カナダは弱く微笑んだ。アメリカとイギリスの視線を感じながらも、カナダはまっすぐにプロイセンを見る。すこしだけお聞きしたいことがあります、と告げた声はどこか体温を失った冷やかさで、会議室の隅々まで広がって行った。
先程と同じように問わず、聞かず、プロイセンはカナダに頷いてやった。
「いいぜ、なんでも聞けよ。……なにが聞きたい?」
「プロイセンさんは……ハンガリーさんと」
「付き合ってるぜ。恋人同士。……で? なんだ、カナダ」
言いにくいことなのだろう。口ごもりながらも本当に尋ねて良いのかと揺れる視線を捉えて、プロイセンは気安く笑ってやった。何か悩みがあるのだろうな、ということは見抜いていた。そしてプロイセンが、その悩みに対して大きなカギを持っているということも。一度視線を合わせて、己の内側に籠って考えるように目を閉じたカナダの姿から、プロイセンはなんとなく想像していた。ハンガリーに視線をやって、問いかける。
「俺とアイツが、過去に何回も殺し合いしといて。で、なんで恋人に落ち着けるのかとか、そういうことか?」
カナダが目の当たりにした絶望も選択も、プロイセンはよく知らない。かすかにフランスから伝え聞いただけで、プロイセンは彼らの一連の事件の当事者でもなければ関係者でもない、全くの部外者だったからだ。だからこそ誰より気楽に、そう聞いてやることができる。身を震わせたカナダこそを痛ましいものであるというように見つめ、プロイセンはハンガリーに視線をやって、ちょいちょい、と手招いて近くに呼んだ。
分からないながらも察するものはあったようで、ハンガリーは特別怒った様子もなく、プロイセンの招きに従って並び立つ。当たり前のように二人で並んで、ハンガリーは苦しげに眉を寄せるカナダの顔を見つめた。それだけでハンガリーはなんとなく分かってしまって、可哀想に、と唇を噛む。悲しみばかりを見たのだろう。嘆きばかりを目の当たりにして、それを感じたことのない己を責め続けたのだろう。だから、問うのだ。
痛みを経験として理解しないからこその、無垢で残酷な問いかけだった。ハンガリーは無言で視線だけを動かし、腕組みをして不機嫌に沈黙するイギリスを見つめる。すぐに視線を合わせて来たイギリスは、無言で首を左右に振った。今は自分は動かない、好きにして良い、ということだ。付き合いの種類と質はどうあれ、長く関わってきたことには変わりない。ささいな仕草で理解してしまったことに、ハンガリーは息を吐いた。
怒るなよ、とばかりにハンガリーの手にギルベルトの指先が触れる。手の甲同士が触れ、指がそっと絡みあわされた。怒らないわよ、と言う代わりに指にきゅっと力を込めて、ハンガリーはカナダを見る。まだ迷いのある瞳は、それでもハンガリーを見つめ返した。それでいい。口元に笑みを浮かべ、ハンガリーは唇を開く。揺れていても、罪悪感があったとしても。視線をそらさず受け止める覚悟があるなら、答えてあげよう。
「ごく当たり前のことをひとつ言っておくと、私たちとあなたたちは違いすぎるわ。それでも聞く?」
「はい」
しっかりと頷いて口にし、カナダはハンガリーとプロイセンに向き直った。ハンガリーは年下を甘やかす種類の笑みを浮かべてちいさく首を傾げ、プロイセンに目をやる。訝しげにしながら視線を受け止めるプロイセンに笑いかけてから、ハンガリーはしっかりと響く声で告げた。
「両極端なのよね、私。手に入るなら愛しいし、手に入らないなら……敵対してることが多かったから、本当にイラついたし大嫌いだったし、戦場で直接剣を噛みあわせたことは何回もあって、数えられないくらい。本気で嫌い抜いてた時期もあるのよ? それこそ、蛇蠍(だかつ) のごとく。だから本気で敵対しても……悲しいことはなかったわ、残念なくらいに」
「だよな……お前、敵側に俺が居るって知ったとたん、目とかキラキラさせてたもんな。殺意で。後は純粋な敵意とかで」
それだけのことはしていたので今更どうこう思わないが、改めて考えるとどうして両想いになれているのか、プロイセンも不思議なくらいだった。誰より本気で俺のこと殺しにかかってたよなぁ、としみじみ嫌そうにするプロイセンに、ハンガリーはしれっと当たり前でしょう、と告げる。
「前にも言ったことあるけど、私、あの時期のアンタが本気で嫌だったのよね。滅ぼそうと思ってたくらいよ。……私は、コイツが、私と同じものを大切にしてくれないことが本当に嫌で仕方なかったの。私がなにより大切だと思っている人を傷つけたのが信じられなかった。なにが一番嫌で、怒りで目の前が白くなったって、そういうことよ。どうして私が大事なものを、一緒に大事だと思ってくれないのかっていうこと」
「俺は、あの時期のオーストリアが個人的に嫌いなんだよ」
「今は嫌いじゃないでしょ?」
なぜ嫌いなのか、というのを問うのは互いに地雷を踏み抜きかねないので、ハンガリーもプロイセンもあえて口にはしなかった。代わりのように問いかけた言葉に、プロイセンは仕方がなそうな風を装って頷いた。くすくすと笑いを響かせて、ハンガリーは優しい目でカナダを見る。
「私は悲しまなかったわ。一度もない、とは言わない。でも、悲しくはなかった。ただただ、怒りで胸がいっぱいだった。嘆くより先に、私は直接叩きつけに行ったわ。……もし攻め滅ぼすようなことがあれば、それで良いと思ったのよ。他の誰でもない、私が幕引きを下すなら。それで」
「どうして……ですか。なんで、そんなことが」
「出来るか? 言えるのか、かな。どっちでも答えは一緒。誰にも渡したくなかったから、よ」
歴史の中で避けられぬ終焉であったなら、せめてこの手で幕を引く。その為にも戦っていたのだと告げるハンガリーに、プロイセンは複雑な顔つきで呟いた。愛が怖い。とたんに微笑みを向けられて視線を反らし、プロイセンは俺は、と呟いた。
「俺は、そういうんじゃなくて……コイツが幸せなら、後はなんかわりとどうでもいいんだけど」
「アンタってそうよね……」
「なんで不満そうなんだよ意味分からねぇ……。……だから、なんだ。あのな、カナダ。俺は多分、お前が見てるような感情を持った覚えは、ある。あるけどな、別に深刻でどん底に叩き落とされるような感情じゃなかったんだよ。割り切るのがすごく難しくて苦しいこともあったが、大体は仕方がない、で気持ちを落ち着かせられた範囲だ。そういう時代だったし……なんつーか、ある程度の覚悟あったしな。敵対するっていう」
あの時期は特に大陸中ごたごたしてて、昨日まで味方だったのが今日は敵っていうのもザラだったし、という言葉にフランスとイギリスは深々と頷いた。二国はついうっかり同じ陣営にならないように、敵味方をくるくると入れ替えていたことがあった程、当時は仲が悪かったのだ。ただ、とプロイセンは言う。ただな、と呆れと苦笑をないまぜにした声の色で、イギリスにゆるく視線を向けながら。
「そういう時代を超えて来たから、俺たちが新しく存在を受け入れるっていうのは稀なんだよ。フランス除く。あれ愛の国だから、例外な」
「え? お兄さん褒められてるよね? そうなんだよね?」
「あー、そう思いたかったら思って良いんじゃねーの。でな、カナダ。イギリスは特にそうだったと俺は思うぜ」
七つの海を恐怖政治で埋め尽くして君臨してた王者だからな、とかつての栄光にいっそ呆れ顔のプロイセンに、イギリスは余裕の表情で沈黙を保っていた。事実を目の前にして狼狽してやれるほど、可愛らしい性格の持ち合わせはしていない。だからなんだよ、とばかり睨み返せば、プロイセンはひょいと肩をすくめて苦笑した。
「俺らからしてみれば、今更そこまで取り乱すって平和ボケしすぎてたんじゃねぇ? と思う訳だ。俺たちは『国』なんだし、裏切りも策謀もたっぷり経験してきた。反乱も、内戦も、戦争も。種類は違えど愛する存在に、剣を向けたのも一度や二度じゃねぇ。……特に俺なんて、何回お前ボコってボコられたか分からねぇし、数えてもいないし。な、ハンガリー」
「そうね。だから私たちは逆に……どうして、それでそこまで感情が荒れるのか理解できない、とは言わないけれど。理解しにくい、かな。……あのね、カナダちゃん。カナダちゃんは、なにが怖いの? ……なにを、そんなに怖がってるの?」
それは他の誰に問われた言葉であっても、カナダは声を発せなかっただろう。しかしカナダの目の前にある二人はあまりに違いすぎて、だからこそ言葉はごく自然に口から抜けて行った。今が、深い嘆きの向こう側にあった幸せだからこそ。
「……幸せすぎて、夢みたいで。……夢じゃない確証が、持てないんです」
「うん。カナダ、それ、イギリスにちゃんと言ったか?」
笑うこともなく、プロイセンはごく真面目な顔になってカナダに問いかける。とんでもない、言えるわけがない、と首を振ったカナダに、プロイセンは額に手を押し当てて溜息をついた。性格上、これはもうどうしようもないことだった。自発的に告げることはまずないだろうし、隠してしまえば完璧に行うのがカナダという存在だ。徹底的にしまい込まれた奥底の心に触れるのは、まだ歩み寄るさなかのイギリスには難しい。
気持ちは分かる、とプロイセンは溜息をつく。
「言いにくかったり、言っていいのか迷ったりすることで悩むのは、お前は本当多いと思うぜ。でもな、大事なことだ。そこまでお前が悩んで、困って、それでも考えるのを止められない大事なことだ。なら……なら、ちゃんと言わなきゃダメだぜ、カナダ」
「でも」
「もし、一回聞いたくらいで不安になるなら、何回でも聞けばいいじゃねえか」
それだけのことだろ、とプロイセンは笑う。
「何回でも、何十回でも、何百回でも。何千回でも、何万回でも。聞いてこいよ。イギリス、気が短いけどお前の言うことなら喜んで付き合うだろ。……まあ、途中で怒りそうだけど、お前はそっちの方がいいんじゃねぇか? 優しくされるより、怒られた方が安心すんだろ」
だから、もうそろそろ行ってやれ、と背を押されて、カナダは怯えるように一歩を踏み出した。イギリスはなにも言わず、腕を組んで立ったままカナダを見つめている。浮かぶ感情の薄い瞳からは、なにを考えているのかも分からない。かろうじて、怒っていないことだけを感じ取る。一歩ずつをゆっくり進めて、カナダはイギリスの真正面に立った。す、とカナダが意を決して息を吸い込んだ瞬間、イギリスが静かに問う。
「そんな風に思ってたのか」
「……はい」
「いつから。ああ……怒ってない。強いて言えば自分に呆れてるくらいだ。……教えてくれ」
なんとなく妙な気はしてたが、そんな風に考えてるのは知らなかったんだ、と。穏やかなに微笑みながら言うイギリスに、カナダは戸惑いながらも頷いた。すくなくともカナダの目からは本当に怒っていないように見えたイギリスから、兄弟の死角に立っていたアメリカが、青ざめた顔で一歩遠ざかる。え、なにあれ怖いんだぞ、と呟いたアメリカの声は、誰の耳も届かなかった。カナダは、申し訳なさそうに言う。
「あなたが……僕の元に戻って来てくれてから、ずっと、かも知れません」
「そうか」
「はい」
素直に言葉を返すカナダに、イギリスの目がすぅと細くなる。夢か、とイギリスは呟いた。ふぅん、と気のない頷きで言葉は発され、新緑色の瞳がマシューの目を覗きこむ。優しくも、反らすことを許さない眼差し。思わずびくりと体を震わせたマシューの頬に手を添えて、イギリスは愛を囁くようなうっとりとした声で告げる。
「分かった」
「い……イギリス、さん?」
「今をお前が夢のようだと感じてるなら、夢から起こさないようにしておいてやろう。夢みたいに幸せで、夢を見ているようだと思うなら。……ただ、現実ではなくて夢かも知れないという不安でそう思うなら、今すぐ俺が叩き起こしてやる」
お目覚めの時間だ、とイギリスは艶やかに微笑んだ。
「『おはよう、カナダ。……長い夢を終えて、ここまでおいで』」
その言葉が。詠唱も一切なしの言霊であるとカナダが気が付いた瞬間に、意識を直に殴り倒されたような衝撃が来た。悲鳴だけは歯を食いしばって堪えたカナダは、しかしぐらりと体を揺らし、イギリスが誘導するままにもたれかかってしまう。肩に額を押し付けて浅い息をするカナダの頭をそっと撫で、イギリスはふわりと機嫌がよさそうに見える笑みを浮かべた。
「起きたか?」
「……ご……ごめんなさい」
「謝れ、と言った覚えはない。起きたか、と聞いたんだ。答えは?」
よしよし、と頭を撫でる手が普段通りの優しさだからこそ、カナダは涙ぐみながら呟いた。起きました、と。よし、と満足げな囁きが耳元で揺れ、カナダの心まで染み渡って行く。その、心に触れたがるように、カナダは自分の胸に手を押し当てた。先程まであった不安感が、まるでない。理由のない恐怖感は強制的な目隠しをされてしまっていて、カナダの手でも取り払うことが出来なかった。それでも、一次的なものだろう。
時間制限がなければそれは呪いと等しいが、イギリスがカナダにそれを行使するとは考えにくい。きゅ、と胸元の服を掴んで眉を寄せるカナダに、イギリスは変わらず微笑みながら言う。
「言えるな?」
「……え」
「あのな、カナ。俺は、お前が俺以上に感情を揺らす相手を持つとは思ってない。お前が実際問題どう思っていようと、恐らくはそれが事実だ。だから誰の意見を聞こうとなんだろうと、そうやってお前が俺から逃げてるようじゃいつまで経っても怖いままだろ。……大丈夫だ、カナ。言ってごらん。なにが、どんな気持ちがお前をそこまで追い詰めた」
幸せすぎて、夢を見ているようで。現実とはとても、思えなくて。本当に夢ならどうしようと、怖がってしまうのも本当で。それが幾多の悲しみに塗り潰された叫びを聞いていたからだというのも、恐らくは本当なのだけれど。それで誤魔化してしまっている、向き合っていない気持ちがもう一つだけある。恐らくはそれこそが、現実を正確に認識できていない原因。幸せを受け止めきれていない理由に違いなかった。
だからイギリスは強制的にそれ以外を全て眠らせ、その上でカナダに尋ねたのだ。残ったものはなんだ、と。カナダは辛そうな顔つきで沈黙し、震える指先をイギリスに伸ばす。そしてそっと、そっと、指先だけでイギリスの服に触れた。
「……こわい」
「うん」
その指先が離れないように、上から手のひらで覆ってやって。穏やかに促したイギリスに、カナダはもう一度、震える声でこわい、と言った。夜を怖がるような、闇を恐れるような。未知のものを嫌がるような、ごく幼い響きの声で。カナダはいやいや、と首を振りながらたどたどしく、こわい、とそれだけを繰り返し呟いた。掠れた声で。血を吐くような、声で。泣きだしそうな響きで。カナダはひたすら、こわい、とイギリスに訴えた。