こわい、こわい。こわいよ。なにが、とも告げずに胸の中に在る恐怖の存在だけを訴えて、カナダはイギリスの服にわずか触れさせていた指先を離した。繋ぎとめておく為に添えられた手に、指先を絡めて強く握る。カタカタと震えてしまいながら、カナダはペールグリーンの目をいっぱいに見開いて、ひたすらにイギリスを見ていた。かたく繋がれた手の痛みを感じながら、イギリスはカナダの瞳を覗きこんで、うん、と言う。
乾ききった瞳には、涙すら浮かんでいなかった。あるのは恐怖だけで、それはひたすらにイギリスの存在を求めている。うん、とイギリスは頷いてカナダと額を重ね合わせた。大丈夫、大丈夫。ここに居る。すぐ傍に。触れ合える位置に、ちゃんと居る。大丈夫。目の距離さえも近くして微笑み、イギリスはうん、と頷いてやった。カナダは今にも泣きそうな表情でイギリスを見つめていて、瞬きすら惜しむように目を開いている。
こわい、とカナダは言った。
「こわい、こわい、怖いっ……! 怖いんです、イギリスさん。怖いんです……!」
「うん」
「あなたを失うのが怖い。あなたに忘れられるのが怖い。あなたから奪ってしまうのが怖い。あなたが傷つくのが怖い。あなたが、また……あんな風に嘆かせてしまうかも知れないのが、怖いんです。やだ。やだよ……もう、もう泣かないで」
片腕だけで、力の加減もなにもなく抱きしめられる。こんなに押し付けてはカナダの呼吸も苦しいだろうに、と思いながら鈍い痛みを受け入れ、イギリスはカナダの好きにさせてやった。否定の言葉も、肯定の言葉も、なにもかも、今のカナダには届かない。吐き出される言葉を受け止め切ってからでなければ、それは叶わない。うん。何度でも飽きずに頷いてやれば、カナダは、泣いているような震える声で問いかけてくる。
「今は、平和ですか……?」
「うん」
「あなたは戦いませんか? あなたは傷つきませんか? 僕が、あなたの力になります。あなたの剣にも、盾にもなります。だから泣かないで。だからもう誰とも戦わないで。だから僕に、僕にあなたを守らせて……」
あなたを、守れるだろうか。重ねた視線の奥で、カナダの心が告げていた。守れるだろうか、今度こそ。守れるだろうか、もう二度と。守れるだろうか。守れるだろうか。このひとを、この存在を。この世界のなにものからをも、守って行くことはできるのだろうか。泣かせることなく、嘆かせることなく、荒れさせることなく。心を引き裂かれる痛みに、二度と苦しめてしまうことなく。守れるだろうか。守りたい、叶わせて、そうさせて。
できないなんて、思わせないで。できなかったことを、思い出させないで。それはこわい。それがこわい。すごく、こわい。怖くてこわくて、仕方がない。今は笑っているこの人が、また泣くことになったらどうよう。今を幸せだと告げたこのひとが、もしまた苦しむことになったらどうしよう。あんなに、あんなに悲しんでいたのに。せっかく笑ってくれるようになったのに。その笑顔を曇らせることも失わせることも本当に無いのだろうか。
本当に、悲しいことは、全部終わったのだろうか。本当に、本当に。あれは終わったのだろうか。不安になって、不安すぎて怖くなって、怖すぎてだんだんと信じられなくなっていった。それでも、信じたがって。カナダは泣く寸前の表情で、イギリスにすがった。夢でもいい。怖い現実が続いてしまうなら、この幸せが夢でもいい。だからだから、だから。どうか。
「優しい場所で、待っていて……」
それが、それこそがカナダの望み。カナダの願い。ひたむきな想いであり、恐怖の引き金となった感情そのもの。優しさを祈るばかりに、カナダはイギリスが傷つくことを過剰に恐れ、一度それを見ているからこそ、予想される現状の崩壊にすら怯えてしまう。崩れてしまうかも知れないのなら、現実ではなく夢であって欲しいと。そう思うあまりに夢の中に逃げ込んで、今の幸せを享受しきれていないのだった。幸福だからこそ。
分かった、とイギリスは苦笑する。よく、分かった。そう呟いて、イギリスはカナダに優しく微笑みかけた。
「断る」
しっかりと目を合わせて、その瞳の奥の奥に眠る感情を見据えたまま、抱きしめられたままで。イギリスは愛おしい存在に対する笑みを絶やさないまま、はっきり響き渡る声で言い放った。びく、と怯えにカナダの体が震える。どうして、と言いたげに歪んだカナダの表情は、迷子になってしまったこどものそれだった。ひたすらにイギリスを求めているのに、手を伸ばしているのに、突き放されてしまって届かないと叫んでいる。
ばぁか、とイギリスは優しく笑って、カナダに対して手を伸ばす。片手は痛くとも繋がせたまま、震える手を離さないままで。もう片手をそっと頬に滑らせ、宥めるように慈しむように、指先で肌を撫でていく。
「お前が俺を置き去りにすることなど、俺は許さない」
「ちが」
「お前が行くなら、俺も行く」
反射的な否定を、指先を唇に滑らせて押し付けることで封じて。イギリスは一言一句をカナダに叩きこみ、刻みつけるようにしっかりとした口調で告げていく。揺れる不安げな瞳、恐怖に切り裂かれそうな様すら愛おしいと微笑みながら。
「お前が行くなら、俺も行くんだ。俺を行かせたくないと思うなら、俺の傍でお前も待て、カナダ。俺の傍を離れることを、俺はお前に許した覚えがない……俺が傷つくのが、そんなに怖いか?」
「……はい」
「現実を受け止めきれないくらいに、怖いのか」
問いかけに、カナダは迷いながらも小さく頷いた。そんなことないです、と言ったとして、もう逃げられないことくらいは理解していた。怖いです、と呟けばイギリスは仕方がないとばかり目を細めて笑い、そうか、と吐息と共に言葉を落とす。カナダの思っていることを、イギリスは理解しきってやることができない。恐怖故の拒絶までは分かってやれなくもないが、そこからどうして、現状認識を『夢』として逃げてしまえるのか。
その思考プロセスが理解できず、けれど分からなくとも愛おしかった。それくらい現在を幸せだと思ってくれていることに、胸が締め付けられる。それを失ってしまうことを怖がる、その心を愛おしいと思う。カナダ、と呼びかければ、途方に暮れた瞳がイギリスを映し出した。恋を歌う瞳を、うっとりと見つめ返す。
「カナダ」
「はい」
「……今も、夢だと思いたいか? そう、思った方が楽か?」
迷って、迷って。やがてカナダは、申し訳なさそうに首肯した。ごめんなさい、と噛み締められる唇を叱るように指でなぞって、イギリスは怒ってない、と告げる。視界の端でそれ絶対嘘だ、と言わんばかりアメリカが首を振るのが見えたが、あえて無視した。そんなに首振ったらもげてどっか飛んでくぞ、と内心で溜息をつきながら、イギリスはカナダの唇を指でなぞる。乾いた薄い皮膚はすこし荒れてしまって、痛々しい。
溜息がもれていく。
「……幸せを夢だと思いたいなら、俺がお前に夢を見せ続けてやる。失う現実の可能性に怯えるくらいなら、夢に逃げていてもかまわない。可愛い、俺のカナダ。俺はお前を怯えさせたくないし、そんな風に怖がらせたい訳でもない。……ただ、もしお前が俺を想い、俺の望みを叶えたいと切望するなら……俺を守りたいと言うのなら」
返事を。その為の言葉を。本当に、イギリスを優先してみせると言うのなら。守りたいというのなら、言葉を。カナダは目を伏せて己に触れるイギリスの指先を見つめ、わずかにあごを動かして口付けた。イエス。たった一言。空気を揺らして告げられた言葉に、イギリスは満足そうに目を細めた。それ以外の言葉が返ることを考えないからこその問いを、カナダは裏切らなかった。肯定を前提とした問いであると分かっていても。
苦しげにでも、カナダはイギリスに従った。yes,my master.良いコだ、とくすくす笑い、イギリスは告げる。
「よし、信じよう。カナダ……いいか? 一度しか言わないから、よく聞けよ?」
「は、い?」
戸惑いがちに頷くカナダに、イギリスは静かに言っていく。
「言っておくが、俺は自分でそう思えるくらいには、面倒くさい性質だ」
「あ、自覚してたんだ」
「アメリカ。黙らないともぐぞ?」
なにをだいごめんなさいっ、と涙目でしゃがみ込むアメリカを見かねてか、溜息をつきながらプロイセンとフランスが慰めに行くのが見えた。放っておいても、フォローは二人がしてくれるに違いない。苛めないであげてくださいね、と苦笑するカナダに視線を戻して、イギリスは口を開く。
「だからお前の望むように、もう二度と嘆かないなんてことは言ってやれない。約束も、できない」
「……はい」
「でも俺は、お前のことでは嘆かない」
ぱちん、と。その瞬間にこそ夢から醒めたような顔をして、カナダは瞬きをして首を傾げた。ふわふわの髪が頬をすべり、イギリスの目を楽しませる。一筋をつまんで指に巻いて遊んでいると、カナダはくすぐったそうな顔つきで首をすくめた。
「いいか、俺はお前のことでは絶対に嘆かない。その自信がある。お前は、俺を悲しませない。お前は、俺を裏切らない。なにが起きても。そうだな? 英連邦の長女。我が忠実なるカナダ。……こら、逃げるな」
「や、くすぐったいです……。確かに僕は、あなたを害すことなんてしませんけれど」
くるくる巻いて遊ばないでください、と抗議する声は笑い混じりで甘く、だからこそイギリスはそれを無視した。柔らかで細い毛質の髪は、絡まることもなくするりと指を抜けていくから心地良い。一房を指に巻いて引き寄せ、カナダにちらりと視線を向けたままで口付ける。あなたなんでそういう恥ずかしいことするんですか、と真っ赤になって彷徨う視線すら許さない、と引き寄せて、目を合わせて。イギリスはそっと、囁いた。
「いいか、覚えておけカナダ。俺をどん底まで突き落とすのは、必ず、お前以外の誰かだ」
だから、お前がおいで。極上の愛すら込めた囁きに、カナダの目が見開かれた。わななく唇を、カナダは自分の指先で押さえる。泣けばいいのに。泣いてしまえば、その涙すら愛おしんでやれるのに。獲物を狙う猫のように目を細めて、イギリスはカナダの名を呼んだ。
「カナダ。俺をそこから救いあげるのは、お前だけだ。俺はそこで、お前だけを待ってる。お前だけに、俺を救う許可をやろう。カナダ。何度でも、何度でも、俺の元に来い。俺の元に、お前だけがおいで。いいな? お前が、俺を連れ出しに来るんだ、カナダ。俺はお前にだけそれを許し、お前にだけそれを望むよ。俺を決して裏切らず、俺の望みを必ず叶える、俺に恋をして、俺に恋をさせてくれたカナダ。……お前が、愛しい」
「イギリス、さ……ん」
「怖がることはなにもない。俺は、お前だけをあの場所で待ってる」
何度でも、何度でも、お前が来てくれることだけを信じてあの場所に居る。囁かれて、カナダはひどい、とくしゃくしゃの顔で笑った。ひどい。なんてひどいひと。怖いと言ったのに、守らせて欲しいのに、受け入れるふりして全部拒絶して、ただイギリスはカナダを傍に呼ぶ。おいで、と当たり前の顔をして。来ないことなど考えもしない風に、イギリスはカナダを呼ぶのだ。怖くても、守りたいのなら、乗り越えておいで、と。
俺が呼ぶなら怖くないだろう、と当たり前の顔をして、笑って、手を差し伸べて。迎えに来ることもしないで、カナダが駆け寄ってくるのを待っている。なんて、ひどく、愛しいひと。待つよ、とイギリスはいつかカナダに言ってくれた。お前が俺を待ってくれた分、今度は俺が待つよ、と。でこぼこの道で転んで泣きだしても、慰めてあげるからここまでおいで、と。カナダは大きく息を吸い込んで、ゆっくり、震えながら吐き出した。
「……イギリスさん、ひどいです」
「知ってる」
「……でも大好き」
イギリスは、ごく嬉しそうに目を細めて笑って。知ってる、とだけ言った。
「お前が俺のことをどれだけ好きかなんて、知ってるよ。俺の、愛しいカナダ」
「うー……!」
「でも、もう怖くないだろ? どんなことが起きても、お前は俺を救いに走ればいいだけなんだから」
恐怖なんかで足をすくませる暇があったら、俺のことだけ考えて、俺のもとまで走っておいで。潜められた声で囁かれた言葉に、カナダはいつの間にか自由になっていた手を頬に押し当てて深呼吸をした。恥ずかしすぎて眩暈がする。怖い気持ちは、まだ在るのだけれど。それ以上にイギリスを救いに走れる喜びが、己だけが許可され望まれているのだという誇りが胸を輝かせ、導きの星になって明るさを灯していた。
でもそれってもう一回契約しなきゃダメってことじゃないんですか、と恨めしげに視線を向ければ、イギリスはカナダを可愛らしく小馬鹿にする微笑みを浮かべて、鼻をちいさく鳴らして笑う。
「ばぁか。そんなことしなくても、お前が来て俺を呼んでくれるだけで十分に決まってんだろ」
「……あの、あのね、イギリスさん。イギリスさん、もしかして僕のことすごく好きですか?」
ぜひとも、怒らないで教えて欲しいのだけれど。そう思いながら恐る恐る問いかければ、イギリスは楽しくて仕方がないというような笑みを浮かべた。その上でイギリスは、知らなかったのか、とわざとらしく目を見開いて教えてくれる。
「お前が考えてるより、お前が知っているよりずっと、俺はお前が好きだよ、カナダ。愛してる」
「っ……! そ、な……えっ」
「ああ、そうか。お前、こういうこと言うと夢だと思うんだっけ。分かった。……夢を見させてやろう」
俺は嘘をつかない紳士だからな、と嘯いて。イギリスは顔を真っ赤にしてパニックに陥っているカナダに腕を伸ばし、ぐいと抱き寄せるように引き寄せて、耳元に唇を近付けた。赤い耳にわざとらしく音を立ててキスした後、愛してるよ、と囁くとカナダが暴れ出す。ごめんなさいごめんなさい、分かりましたから、もういいですからっ、と抵抗するのをやすやすと封じ込めて、イギリスはによによと意地悪く笑いながら告げる。
「現実じゃないんだろ? 夢、だと思うんだろ? じゃあなにも恥ずかしがることはない。そうだろう?」
「ごめんなさい! ごめんなさい二度と思いません感じません誓います! 誓いますから離して……!」
「my honey.I love you」
留めの言葉をささやいてやると、ごめんなさいって言ったのに、と涙声になりながらカナダがぐったりとして動かなくなる。よしよし、良い子、と耳や髪の生え際、額に口付けを落としながら、イギリスは上機嫌に囁いていく。
「愛してるよ、カナダ」
「わ……わかりましたから、も、いい、です」
「いい加減にしろこのド変態セクハラ紳士ー!」
公衆猥褻っ、強制セクハラっ、と真っ赤な顔で叫びながら飛び込んで来たアメリカが、カナダとイギリスを引きはがす。ぐったりしたカナダをアメリカに奪われて、イギリスは邪魔すんじゃねぇよ、と溜息をついた。
「あのな、アメリカ。相手が嫌がってなければセクハラじゃねぇんだよ。分かるな?」
「この状況で! なんでカナダが嫌がってないっていう判断ができるんだい! 君ってひとは!」
いつもなら控えめにでもうるさいよ、とアメリカに言うカナダは、今はそれ所ではないようだった。イギリスから離してくれたアメリカに、ぐったりとしながら抱きついている。無言でぐりぐり顔を擦りつけてくる仕草は甘えと、半ばは恥ずかしさを紛らわす為だろう。心臓壊れるかと思った、ともごもご呟いているのを聞き咎めて、アメリカはほらぁっ、と胸を張った。
「嫌がってたんだぞ!」
「い、嫌って言うか……あ、あのね、アメリカ」
「よし、分かった。そこまで言うなら本人に聞いてみよう」
ゆるりと腕を組んで微笑む、その人の言葉に、カナダは全面敗北を予感した。勝てるわけがない。勝とうと、そもそも思ってもいないのだけれど。アメリカ、カナダ、と上機嫌にも聞こえてしまう声で名を呼ばれて、顔のそっくりな兄弟は左右対称に近い動きでぎこちなく、それぞれ視線をイギリスへと向けた。出迎えたのは満面の微笑みで、ちいさく首を傾げるイギリスで。カナダ、ごめんなんだぞ、とアメリカは素直に謝った。
その言葉を、どうしてもうすこし早くくれないものか。いいよ、と意識を飛ばしたくなりながら言ってやるカナダに、イギリスはにこ、と笑った。
「カナダ……ああ、聞く前に言っておく。お前に触れるのは、すごく楽しい」
「セクハラー!」
「アメリカうるさい黙れ。……さて、カナダ。俺に触られるのは、嫌なのか?」
そう言われて、その上で尋ねられて、イエスを告げられればカナダではない。いじわるっ、ひきょうっ、と意思を眼差しに乗せて睨みつけても、イギリスはくすくすと笑って答えを待つばかりで、全く堪えた様子がなかった。言葉を待つ絶対者に、カナダはもう、と溜息を付きながら口を開く。それでもどうしようもなく愛おしいだなんて、見抜かれているのだろう、と思って。
「嫌じゃ、ないです……。イギリスさんのお好きになさってください。でも……は、恥ずかしいから控えめに」
「考えておく。で、アメリカ。お前いつまでカナダをひっつかせておくつもりなんだ」
よこせ、とばかり両腕を広げて待機するイギリスからカナダをさっと隠して、アメリカはんべぇ、と舌を出した。まるきりこどもの反抗だ。しかし相手も大人げなく、ほう、と引きつった表情で目を細めている。どこかで、試合開始のゴングがなった気がする。あれさっきもこんな感じにならなかったっけ、と首を傾げかけて、カナダはハッと気が付いた。逃げられない。アメリカにくっついて、イギリスの視界の範囲内に居るのだ。
これはもうどう頑張っても、逃げられない。そーっと視線を動かして助けを求めてみても、フランスは苦笑してひらひらと手を振っていて、二度の救いをもたらしてはくれそうになかった。ギルベルトとエリザベータはなぎ倒した机と椅子を戻し終えたようで、適当に椅子に座って向かい合いながら、親しげに言葉を交わしている。視線に気が付いたギルベルトは苦笑したものの、頑張れ、と言いたげに頷かれてしまった。
仕方なく溜息をついてそーっとアメリカから離れようとすれば、だーめなんだぞ、と弾む声でぎゅぅっと抱きつかれてしまう。ちょっともー、と呆れ交じりにぺしりと頭を叩いて、カナダはアメリカをごく軽く睨みつける。
「ダメでしょう、アメリカ。イギリスさんを怒らせないで」
「別に怒ってはいないと思うんだぞ? あれは、カナダが俺にくっついてるのが気に入らないだけなんだぞ! でも今日のイギリスのカナダは終わっちゃったから、あとは俺のなんだぞ」
「いつから僕は分担形式になったのさ……!」
ちょっと、と隣国をはがそうとしながら言うカナダに、アメリカはけろりとした表情で言い放った。ついこないだからだけど、君、知らなかったのかい、と。カナダとしてはなぜ本人のあずかり知らぬ所で所有権が、本人の同意なく分担されているのかということも追求したいのだが、それはきっと言ってもどうしようもないことなのだ。聞いてくれる相手ではないのだから。ああもうー、と脱力しながら、カナダがアメリカと額を重ねる。
ごち、と痛くなるようにぶつければ、アメリカはきゃっきゃとこどものように喜んだ。瞬時に怒る気がなくなってしまい、カナダはアメリカをぎゅーっと抱きしめてやる。よしよしと頭を撫でてやっていると、アメリカは喜びにキラキラ輝く瞳で笑いかけてくる。
「カナダ、元気出たかい? ……ふふ、髪の毛ぐしゃぐしゃなんだぞ!」
「って言いならがら、もっとぐしゃぐしゃにしようとしないでよ!」
「あはは、いいじゃないかい! ぐしゃぐしゃのまま会議に出なよ」
だってもうどうせ、間に合わないし。満面の笑みで言い放たれたアメリカの言葉に、カナダにすっと冷静さが戻ってくる。腕時計に目を落とせば、もう会議再開の五分前だった。ざわざわと穏やかなひとの声が、廊下から響き渡ってくる。おー、椅子と机戻すの間に合ったぜー、とプロイセンの笑い声を聞いて、カナダは頭に手をやった。イギリスとアメリカの手でくしゃくしゃになった髪は、手で梳くくらいでは直りそうにない。
なんてことするのさ、とむくれるカナダを見かねたのか責任を感じたのか、イギリスがあごでフランスを呼びつけ、直してやれ、と言っているのも聞こえてくる。素直にフランスの元に歩み寄ろうとするカナダに、全く愛おしく呆れた視線を投げかけて。次々と開いていく会議室の扉を見回し、アメリカはねえ見てなよ、とカナダに叫ぶ。
「君が不安になる暇なんてないくらい、世界中幸せにしちゃうんだぞ!」
もう二度とイギリスを悲しませない。その気持ちは、アメリカも持っているものだから。ハッとして振り返ったカナダに恥ずかしそうに笑い、アメリカは胸を張って言いきった。
「だって俺は、ヒーローだからね!」
よしじゃあ会議を再開するんだぞーっ、と大はしゃぎで議長席に走って行くアメリカを眺め、しばらくしてカナダはくすくすと笑いだす。ご機嫌ねお兄さん、と笑いながら櫛を取り出して髪を整えてくれるフランスを視線だけで振り返り、カナダははい、と微笑んだ。怖い気持ちは、まだ胸の中でざわついては居るのだけれど。それにもう飲み込まれることはない気がして、カナダは眩しさに目を細めるように、幸福そうに微笑んだ。
宇宙戦艦建造計画もUFO発見捕縛計画も、巨大ロボ設計計画すらも亜音速で却下されたアメリカが議長席でぶすくれてしょげているのを完全無視して、ドイツが会議の閉会を言い放った。とたんにほっと空気が緩み、おつかれさま、の言葉の花が次々と咲いていく。結局会議には現れなかった中国と日本も、扉からひょこりと顔を覗かせ、置き去りにしておいた荷物を回収に来ていた。イタリアが、扉に勢いよく走って行く。
出迎えてくれることを知っていたように両腕を広げて飛びついたフェリシアーノを、ベルンハルトがよろけながら受け止めた。顔を見合わせた二人は、そのまま言葉もなく微笑みあう。俺も兄上のトコ行く、と言いかけたギルベルトは、エリザベータに腕を掴まれて引っ張られていずこへと居なくなってしまった。明後日の方向に視線を向けながらロヴィーノが全力で走り去るのを、アントーニョが半泣きで追いかけていく。
それぞれをなんとなく見つめて、マシューは思わず笑ってしまった。いつからだろう、と思う。会議が終わっても緊張が解けずに睨みあい、内心を探って距離を保ったまま、無言で各々が退室していくような時も、確かにあったのに。いつからか当たり前のように、会議終了と共に緊張はほどけ、おつかれさま、と柔らかな声で空気が揺れるようになっていた。いつからか、それは当たり前になっていて、気が付けない程に。
「マシュー」
そうするのがごく当然だというように、アーサーは椅子に座ってぼんやりとしたままのマシューを呼ぶ。振り返れば仕方がないと微笑む瞳と視線が重なって、マシューに向かって手が差し出された。
「ほら、帰るぞ」
なんだか、信じられない気持ちでその手のひらを見つめて。マシューは瞬きを何度も繰り返して、不思議そうに首を傾げた。あれ、と思う。吸い込んだ空気は誰かの幸福が溶け込んでいて、それはいつからか当たり前だった。不意に胸が熱くなって、マシューは大きく息を吸う。戦いは、悲しみは、とっくに終わって消えていた。そのことを、今更思い知る。差し出された手にてのひらを重ねて立ち上がり、軽く握り締める。
よし、と満足げにアーサーは笑う。ああ、とマシューは息を吐き出した。
「アーサー」
「なんだ?」
「……平和ですね」
会議終わったから皆で食事していこうよ、とフェリシアーノの呼びかけに、笑顔で数カ国が集まっている。活発に意見が交わされるが、それはどの料理にするかという単純な主張で、喧嘩にもならないことだった。そうだな、とアーサーは柔らかく笑う。ようやく気が付いたか、と囁く声に頷いて、マシューは光景を憧れにも似た眼差しで眺める。なんだ、と言葉が口から零れていく。なんだ、なぁんだ、とやがて笑い声になって。
「アーサー。……ねえ、アーサー」
「うん?」
「夢に見るのはもったいないくらい……しあわせ、ですね」
さあ帰りましょう、と促すマシューを、アーサーはしばらく眺めて。それから穏やかに微笑んで、ああ、と言った。それだけで、もう十分だった。