すぅ、と息を吸い込みながら目覚めれば、部屋の中はすでに明るかった。朝だー、とぼんやり思いながら眼鏡をかければ、すっきりと整理整頓が行われた室内が見え、アルフレッドはベットに座り込んだまま、はて、と首を傾げる。自室ではない。ポップコーンの袋も落ちていないし、脱ぎっぱなしのスーツもないし、ゲームの機械もソフトもないし、CDもなければコンポもない。大きめのベットと、ちいさな机だけの寝室。
世界はすでに起きだしているようで、耳を澄ませばかすかに、人のざわめきや車のクラクションが聞こえて来た。この家はどうやら閑静な住宅地の一角らしく、街のざわめきは遠いものだった。それでも、市街地ではあるのだろう。視線を窓の外へ向ければ、遠くにエッフェル塔を見ることが出来た。まず間違いなくフランス国内だ。これが大掛かりな菊のドッキリではない限り、遠くに見えるエッフェル塔は本物だからである。
パジャマのままで歩み寄って開き、裏側に写真が貼られていたりしないことも確認して、アルフレッドは溜息をつきながら窓を閉めた。昨夜までは確かに、アメリカ国内にある自宅の一つで過ごしていたし、そのまま寝室にも入った筈なのだが。頭の中で、国内に居なければならないスケジュールが組まれていなかったことだけをざっと確認して、アルフレッドはその場にしゃがみこみ、大いに落ち込んだ気分で溜息をついた。
まず第一に、こうした異常事態に慣れてしまった己に対して。そして第二に、それをやらかしたであろう人物に心当たりがついてしまったので。ブリタニアエンジェルはそろそろ、国際法かなにかで取り締まられた方が世界平和の為なのではないだろうか。すくなくとも、アルフレッドの精神衛生上は、そうするに越したことはなさそうだった。次回の会議で議題にしよう、と硬く心に誓い、アルフレッドはゆっくりと立ち上がる。
幸い、この家のこの部屋には見覚えがある。勝手知ったる他人の家、と言うほどではないが、どこになにが置いてあるかくらいは見当がつくのだった。クローゼットを開けて適当に服を手に取ると、どれもやけにおしゃれで落ち着かない気持ちになる。しかし、それしかないので我慢するしかないだろう。あとで買い物行こう、と溜息をつきながらゆったりとしたシャツとジャケット、ズボンを身につけて部屋の扉をあける。
にゃぁん、と足元から声がした。視線を下げると卵の殻色をした毛の猫が、長いしっぽをぱたりと揺らしてアルフレッドを出迎える。しゃがみこんでやあ、と挨拶をすれば、猫は嬉しそうにアルフレッドの膝に頭を擦りつけて来た。可愛いな、と思う。笑いながら抱きあげれば抵抗される所か喉を鳴らして喜ばれたので、アルフレッドはふんふんと上機嫌に鼻歌を歌いながら廊下を進んで行く。猫がいる、ということは家主も居る。
ということは、朝ご飯はとびきり美味しいもので間違いなかった。迷うことなくダイニングに向かえば、キッチンの入り口で猫がアルフレッドの腕の中から床に下りていく。トン、と床に下りる音で気がついたのだろう。とたとたと足元に寄って行く猫に甘い笑みを向けたフランシスが、そのまま視線をすい、と動かしてアルフレッドを見る。おはよう、と挨拶してくるのにおはようと返して、アルフレッドはまいったね、と苦笑した。
「君、飼い猫にいつもそんな甘い顔してるのかい?」
「してるぜー? 朝食、もう出来るから待ってろ。卵料理は好みを聞いてやらんでもない。スクランブル? サニーサイドアップ? それともターンオーバーか?」
「ベーコンエッグ!」
朝は絶対それ、譲らないんだぞっ、と胸を張って言い放つアルフレッドに笑いながら、フランスはカウンターを指差してやった。コーヒーメーカーから良い匂いが漂って来ている。ちゃあんとアメリカンで淹れてやったからな、と笑うフランシスに笑いながら投げキッスとウインクで感謝を伝え、アルフレッドはマグカップにコーヒーをついだ。自分の家ではないのに、朝食に決まったマグカップが使えるというのはちょっとした贅沢だ。
シンプルなラインで、絵柄もなにもないホワイトマグ。口を付けて嬉しそうにするアルフレッドに、フランシスは席について落ち着いて飲みなさい、と言い聞かせた。アルフレッドは聞こえなかったふりをしながら、それでも素直に示された椅子に座る。テーブルの上にはすでにクロワッサンが置いてあって、焼き立ての甘い香りがふわりと立ち上っていた。買って来たのかい、と問いかけるアルフレッドの前に、皿が置かれる。
注文通りのベーコンエッグ。カリカリに焼かれたベーコンは美味しそうな油が艶やかに滲んでいて、卵もアルフレッドの好みにぴったりの焼き具合だった。わお、と歓声を上げるアルフレッドの真向かいにエプロンを外しながら腰かけ、フランシスはさっき焼いたんだよ、と微笑む。それがベーコンエッグではなくクロワッサンのことだとすぐ気が付いて、アルフレッドはやや呆れた表情と気分で、フランシスに視線をやった。
「君、料理好きすぎるんじゃないかい?」
「お前ね、そこは呆れるトコじゃなくて関心するトコだから……いいだろ? さ、召し上がれ」
頂きます、と言ってフランシスはクロワッサンを手に取って一口大にちぎり、食べると満足そうな笑みを浮かべて頷いた。良い出来であったらしい。フランシス宅で出てくる料理でおかしなものに巡り合ったことがないアルフレッドだが、やはりそうして本人が笑っているのを見ると、ふわりと温かな安心が胸に満ちてくる。クロワッサンを手に取ってぱくぱく食べながら、アルフレッドはそれでさあ、とのんびり首を傾げて尋ねる。
「俺はなんで君の家に居るんだい? 昨日の夜十時半に、自宅で寝室の電気を消した記憶があるんだけどさ」
「天使さまに今日一日アルを預かってくれって頼まれたから、かな」
寝た場所と目覚めた場所が違う理由など、それだけで解明してしまう。ブリタニアエンジェルの奇跡だかなにかで、移動させてしまったに違いないのだ。誘拐に近いんだぞ、とぶすくれながらベーコンエッグをフォークでつつくと、フランシスはまあまあ、と苦笑して目を細める。
「坊ちゃんもあれで頑張ってんのよ。だからな、アル。いちゃいちゃするの、邪魔しちゃダメだろう?」
アルフレッドは再度、即座に解明してしまった疑問に溜息をつく。なぜフランシスがブリタニアエンジェルの要求を受けたかなんて、その言葉だけで分かってしまう。愛の国は、つまり愛に寛容なのだった。じと目でフランシスを睨みつけ、アルフレッドはカリカリに焼けたベーコンをぱくりと口に入れる。脂身の甘さが口いっぱいに広がって行くベーコンはさっくりと歯の間で砕けていって、それはもう悔しいくらいに美味しかった。
「べつに、邪魔なんてしてないんだぞ。……ただ」
「ただ? ……ただ、なにかな。アルフレッド」
良いよ、お兄さんが聞いてあげちゃうよ、とにこにこ笑うフランシスは楽しげですらあった。手が滑ったふりをしてジャムの瓶を顔めがけて投げつけてやりたい気持ちをぐっとこらえつつ、アルフレッドは素直に口を開く。美味しい朝食のお礼、ということにしておこう。間違えても相談したかったなんてそんなことは、決して決して、ないのである。
「ただ、さぁ……どうすれば二人とも、俺の傍に居てくれるんだろう、って」
「アル坊や。なにそのハーレム計画」
お兄さんも混ぜてもらおうか、と言い放ったフランシスの顔はきりっとしていて、目はやけに真剣なものだった。くら、と本気で眩暈を感じながらも大きく息を吸い、アルフレッドはばんっと両手でテーブルを叩く。
「ち・が・う・よ! これだからおっさんはっ! この露出狂!」
「今日はちゃんと服着てるでしょうよ。それともなーに? 服着てないお兄さんのが好きだったり」
「しないよ」
興奮でうっすらを頬を赤く染めながらも、冷え切ったアルフレッドの瞳は汚物を見る者のそれだった。軽く笑いながら視線を受け流し、フランシスはすい、となぜか優美に見える仕草でちいさく首を傾げる。冗談、と薔薇色の瞳が言葉を漏らした。クスクス、クスクスと肩を震わせながら笑われて、アルフレッドは脱力しながら椅子に座りなおす。皿の上には、もうなにも乗っていなかった。テーブルの端に皿を寄せて、頭を乗せる。
はー、と深々と溜息をついて、アルフレッドはだってさ、と言う。うん、と問いかけの形に上向いた響きで促されるのに、アルフレッドは視線をフランシスの方に向けた。だってさぁ、と拗ねた気分でいるのを自覚しながら、その言葉を何度も繰り返す。だってだって、だってさぁ。
「だあってさぁ……二人して、俺を置いてくんだ」
「……んー?」
「アーサーも、マシューも、俺の大事な家族なのに。それなのに、アーサーにマシューを取られちゃうし、マシューにはアーサーを取られちゃうし。これってどういうことなんだい? どういうことなんだい! ひどくないかい。ひどいよね、もちろんだよね、ということだから反論は認めないんだぞ! まったく。……俺はどうすればいいんだい」
ぷー、と頬を膨らませるアルフレッドに、フランシスは思わず笑ってしまった。それを咎めるように猫が鳴くが、フランシスは頷くばかりで笑いを収めてやれない。声を出すことだけは堪えてひとしきり肩を震わせ、フランシスはああおかしい、と胸一杯に息を吸う。アルフレッドはすっかり拗ねた様子で、マグカップを傾けてちびちびとコーヒーを飲んでいた。手を伸ばして頭を撫でてやりながら、フランシスはやんわりと微笑んだ。
「お前の家族は、どこへも行きやしない。分かってるだろ? アルフレッド」
「……君は良いよね。可愛いレディが一緒だから」
拗ね切った視線の先、猫は尻尾を揺らしてにゃぁん、と鳴いた。アルフレッドから手を離して猫を抱き上げ、フランシスは膝の上に体を置いてやる。すぐに喉を鳴らして丸くなるのを優しい目でながら、フランシスはそうだね、と囁いた。そのままフランシスはじっと猫を見つめて、指先で撫でてやっている。ごろごろと喉を鳴らしているのを聞きながら、アルフレッドはなんだか申し訳ないような気持ちになって、そっと口を噤んだ。
フランシスはごく穏やかに笑って顔をあげ、そして静かな声で言う。
「お前の家族は、どこへも行ったりしない。……分かってるだろ? アルフレッド」
繰り返された言葉に、アルフレッドはこくんと頷いた。分かってるさ、とそれでも拗ねた気持ちを捨てきれずに呟けば、しょうがないんだから、とばかりフランシスは笑う。
「まあ、気持ちは分かるけどな。すこしだけ我慢してやれ。今は坊ちゃんにも余裕ないのよ」
「あの変態紳士が実際問題余裕あるトコなんて、俺は数えられるくらいしか見たことないよ」
隠すのも誤魔化すのも仮面をつけて笑うのも本当に上手な相手だから、その時にすぐ分からないだけで。後から振り返って考えれば決して余裕であったというわけではないことなど、数え切れないくらいにあった。アーサーが余裕いっぱいの時なんて、悪だくみの成功がすぐそこに見えてくる時だけだし、と言うアルフレッドに違いないと頷いて、フランシスはカフェオレを飲む。
「だったら、なおさら、だろ。……ちょっとはママに兄弟貸してあげなさいな、アル坊や」
「うっるさいなー……分かってるよおっさん。分かってるよ……分かってる。でも」
それっていつまで待ってれば終わるの。言いたげに拗ねた瞳に、フランシスは苦笑しながら首を傾げた。案外すぐ、である気もしなくはないが、意外に時間がかかってしまう気もする。こればっかりは恋人たちの気の向くままで、フランシスにも分からなかった。しょんぼりするアルフレッドの頭を撫でて、フランシスは冷凍庫にアイスあるぞ、と教えてやる。すぐにぴくんっと反応して顔をあげたアルフレッドの、目が輝いている。
食べていいぞ、と言ってやるとアルフレッドはすぐに立ち上がり、空いた皿を持ってキッチンへと走って行った。そこで片づけもちゃんとするのがアーサーの教育の賜物だろう。指摘すると怒るから言わないけど、と思いながらフランシスはこみあげてくる笑いを殺す為、唇に指を押し当てた。全く、分かっているのか居ないのか。椅子の背もたれに体重を預け、フランシスは息を吐きながら天井を眺める。予定はなかった筈だ。
これなら一日、あの拗ねてむくれたこどもに付き合ってあげられるかな、と思っているフランシスの元に、アルフレッドが戻ってくる。その手に持たれたアイスが二人分であることに気が付いて、フランシスは今度こそ、堪え切れずに笑いだした。
穏やかな呼吸の音が、ひどく近い。それだけで緊張してしまってぎゅぅとまぶたに力を込めれば、吐息に乗せて笑う声が耳のすぐ傍で響く。続けてマシュー、と柔らかに呼びかけられてしまって、もう耐えきれそうにもなかった。なんですか、と半泣きくらいの気持ちになりながらまぶたを持ち上げると、こつりと額が重ねられる。やっと、目、開けた。くすくす、嬉しそうな笑いと共に囁かれて、マシューは声が出なくなってしまう。
大きなふかふかのソファの上で、二人は向かい合って抱きしめるようにしていた。気を使ったクマ次郎さんが早々に居なくなってしまってから、もはや数時間。アーサーはマシューの足の間に座り込むようにして体を斜めにし、腰に腕を回して完全に体を預けていた。その体をソファから落ちないように片腕でそっと支え、マシューは行き場を失った手を持ち上げることが出来ないままでいた。ソファに投げ出して、動かせない。
相手の予定をとかく気にするひとが、なんの前触れもなく自宅に現れたことだけでも驚くのに。煌めく笑顔でいちゃつくぞ、と宣言されてしまったので、その瞬間からすでにマシューの頭はいっぱいいっぱいなのだった。だって片腕で触れてるだけでも本当は幸せでいっぱいなのに、胸にぺたーってくっついてるし、顔はすぐ横にあって時々すりすりしてくるし、呼吸の音もかすかな笑い声もすぐ傍で聞こえるし、名前呼ばれるし。
無理だよぅ、とマシューは思う。なにがどう無理なのかはよく分からないが、全部無理だ。動けない。どうしよう幸せでしんじゃう、と思いながら、マシューは己を見つめてくるアーサーの瞳を見返した。神秘的に煌めくグリーン・アイズ。穏やかな愛をいっぱいに湛えた瞳が、すぐ近くにあった。それだけで、なんだか、とても満たされてしまう。やや緊張の抜けた表情でほにゃぁ、と笑ったマシューに、アーサーは息を吸い込んだ。
「……緊張、とけたか?」
「ちょっとは……。そういえば、あの、アーサー? 今日は、なにがあったんですか?」
いきなり来て、いちゃつくぞ、だなんて。それまで起こったことのない事態だった。もしかして、なにか嫌なことでもありましたか、とわずかに眉を寄せて心配げに呟くマシューに、アーサーはにこりと笑った。
「なにもない。けど」
「け……けど?」
「慣れさせてやろうと思って。俺はちょうど休みで、お前も特にこみいった予定がないのは聞いて分かってたし、良い機会だから。俺に、慣れさせてやろうかと」
そういえば一昨日の会議の帰り道、アーサーはやけに詳しくマシューの予定を聞きたがったのだった。英連邦としては、宗主国に細かな予定を知ってもらうことに不満も不思議もある訳がなく、求められるままに話してしまったのだが。単に予定合わせの為だったらしい。確かに今日はなにも無いですけれど、と視線を空中に逃がしながら呟き、マシューはぎこちなく息を吸い込んだ。ふわふわと薔薇の匂いがしている。
温かな紅茶の香りもするのは、染みつくくらいにアーサーがそれを好んでいるからだろう。良い匂いがしてとっても嬉しいけど、落ち着かない。深呼吸できずに浅く息を繰り返し、マシューはえと、と問いかけた。
「慣れる……って。僕が、アーサーに、ですか?」
「そう。……今のうちに、慣れといた方がいいだろ。俺はあんま気が長い方じゃないからな」
まあお前が触るだけで満足っていうなら、しばらくはそれで我慢してやってもいいんだけど。そう呟いたアーサーの声はちいさく籠っていた為にマシューの耳には届かず、ゆるく首を傾げさせてしまった。んー、と不思議そうな様子で考え込まれるのに笑い、アーサーはマシューの腰を抱いていた腕をするりと上に持ち上げる。首に絡みつかせるようにして指先で髪を撫でれば、さすがに意図する所に気がついたのだろう。
かぁ、と顔を赤くしたマシューに良いコだ、と笑ってアーサーは言った。
「それに、まだキスも教えてやれてないしな。なあ、マシュー?」
「お……い、いえ。教わりました、よ?」
昔の、約束の一つ。大人のキス、を教わった時のことを思い出して、逃げていたマシューの瞳が怖々と戻って来てアーサーを見た。あれ気持ち良くて動けなくなるのでいやです、もう教わったからいいです、とちいさく首を振られるのに微笑んで、アーサーはあーん、と口を開く。
「残念だが、あれは教えたうちに入らない。ほら、唇開け」
「うぅ……! なんでそんな、キス好きなんですか……?」
アーサーの求めを、マシューが拒否出来るわけもない。恥ずかしさに唇を震わせながらそっと開けば、アーサーは満足げに目を細めて微笑んだ。体を寄せて上唇に口付けながら、アーサーは決まってんだろうが、と自信に満ちた表情で言い放つ。
「気持ちいいから」
「ん……あ、あの、アーサー。あの、あのね!」
ちゅ、ちゅ、と音を立てて降ってくる唇を遠ざける為に肩を掴んで引きはがし、マシューは顔を真っ赤にして軽く叫んだ。その抵抗すらまた可愛らしい、と言わんばかりに目を細めて笑い、アーサーはなんだ、と尋ねてやった。乱れた息を整えながら肩から手を離し、マシューはあのね、と困ったように問いかける。
「気持ちいいこと……したい、の?」
「したい。すごく」
即答だった。きら、と輝く笑顔で言い切られて、マシューはがくりと脱力しながらですよね、と頷く。そうだった。こういうひとだった。お前がしたくないならちょっと考えるけど、と続いていく言葉をうっかり流しかけて、マシューは慌てて首を振る。
「ちがっ、そんなことないです! したくないとか、嫌とか、そういうことでは!」
「ああ、そうか。本当に? ……したい?」
「本当です! したいです」
ぐっと意気込んで言い放ったマシューが気がついたのは、アーサーがよし、とばかりに輝いた笑みを見せてからだった。えっと、と視線を彷徨わせて考え、マシューは背中からソファに倒れ込む。ハメられた気が、すごくする。ちょうど良い、とばかり腹に腰かけてぺたりと身を倒してくるアーサーを見やり、マシューはいじわる、と呟いた。
「答え、誘導したでしょう……! どうしてそういうことするんですか」
「お前の声で『したいです』とか言われると、すごい興奮するから」
あと、思い通りにことが運ぶから楽しくて。付け加えられた言葉も本音ではあるのだろうが、オマケ程度にしか響かなかった。ダメだこのひと、一刻も早くなんとかしないと、とマシューは思うが、さりとてどうして良いのかも分からない。そーっと腕を持ち上げてアーサーの体に触れさせれば、細められた瞳にじわりと喜びが広がった。それだけで。本当にそれだけで、マシューは満ち足りてしまうのだけれど。足りない、という。
もっと触れたいと、触れていいのだと、アーサーは言う。こんなにも、こんなにもマシューは満ちてしまっているのに。困ったなぁ、と思いながらもう片方の腕を持ち上げて、マシューはそっとアーサーの髪を撫でた。心地よさそうにすり寄られるのに、心が温かくなって来る。ふー、と至福に息を吐き出すと、アーサーはすこし困った表情でマシューを見た。
「マシュー」
「……はい?」
そっと、そっと、アーサーの髪を撫でていく手の動きが止まることはない。腰辺りに置かれた手もささやかに力が込められていて、抱き寄せられてはいるのだけれど。それだけでうっとり満足してしまっているマシューの答えはやや鈍く、ほわほわと幸せを漂わせていた。こらマシュー、と咎めるように名前を呼んで、アーサーは指先を伸ばしてむにむにと唇を突っついた。
「本当に、これだけでいいのか?」
「十分、幸せですよ? ……くすぐったいから。だぁ、め」
ゆるゆると細められた目で甘く咎められて、アーサーはマシューの唇から指を引いた。言い方が可愛らしすぎて、意地悪して続ける気が無くなってしまった為だ。クソ、マシュー可愛い、と思いながら胸に顔を伏せてぐりぐりと擦りつけてやると、どうしたんですかー、と弾んだ声で頭が撫でられる。どうしたもこうしたも、とアーサーは溜息をついた。
「征服欲、とか。ないのかお前……」
「ありますけど。……あるけど、だって、アーサー、全部僕のだから」
だから、もう、良いかなぁ、って。溶けてしまいそうに甘い声でほわほわと囁かれて、不覚にもアーサーは数秒間だけ動けなくなってしまった。そうだったコイツ、俺の前にフランシスに育てられてたんだ、という事実を胸の中で強く再確認する。溜息をつきながらもたれかかると、マシューは嬉しそうにくすくすと笑った。可愛い、大好き、と嬉しそうに言われて、アーサーはそうか、と頷いてやる。もうそれで良い気もしてきた。
いやでも良くねえな、良くねえよな、と気をとりなおして顔をあげ、アーサーはマシューをじっと見る。
「あのな、マシュー」
「はい」
「お前のなんだろ? 俺」
はい、と。ふわふわほわほわした声が幸福を告げる。あまりの可愛さに眩暈を起こしかけながら、アーサーはだったら、とゆっくりとした口調でマシューに言い聞かせた。
「お前の好きにして、いいんだからな」
ぴく、とアーサーを撫でていたマシューの指先が、震える。宥めるように手のひらを重ねてやりながら、アーサーは大丈夫、と苦笑する。
「どんな風にしても、俺はお前ならいいんだからな。……分かったか?」
「……はい」
ぎゅぅ、と腕に力が込められた。ぎゅぅう、といっぱいに抱きしめられて、アーサーは体の力を抜いてやる。恋人を抱く、というよりもお気に入りの人形を抱きしめる動きのように思えたが、明確に求めたので良いだろう、という気持ちになってアーサーは目を閉じた。とたん、ぐるりと体の位置が入れかえられる。ぽすん、とソファに横にされ、その上からマシューが抱きついて来た。
「あのね」
「……ん?」
「このまま、寝たいです。だめ?」
寝る、のは。恐らく、そのままの意味なのだろう。深々と溜息をついて、アーサーは形だけは押し倒して来たマシューの頭を撫でてやる。いいぞ、と言ってやれば嬉しげに頬が擦りつけられた。なんだこの意味の分かりにくい俺の生殺し状態、と思いながらも許可を出してしまったので、アーサーは仕方がなく目を閉じる。それでも、やがて聞こえて来た寝息に穏やかに胸が満たされた。まあいいか、という気持ちにはなって。
眠る額に、そっと口付けた。