ごく穏やかな雰囲気をまとうマシューは、己という存在を消してしまうのが本当に上手い。会議終了後のざわめきの中、アーサーがふと気が付いた時にはすでにマシューの姿がなく、いつ部屋から出て行ったのかも分からなかった。かつてアメリカとカナダを誤認していた時ならばいざ知らず、マシューが英連邦の主であるアーサーに一言の断りもなく、退室してしまうのはひどく珍しい。急ぎの用事でもあったのだろうか。
それとも、急に呼び出されでもしたのだろうか。どちらにしても、たった一言すらなく、視線を交わして挨拶するでもなく、忽然と姿を消してしまう理由にはならなかった。挨拶もなく場を辞すということは今まで無かった訳ではないが、それにしても腑に落ちなかった。ふむ、と椅子に深く腰掛けたまま腕を組むアーサーに、ヴァルガス兄弟の元からフランシスが戻ってくる。その足取りは軽やかで、今にも歌でも奏であげそうだった。
晩餐の打ち合わせでもしていたのだろう。今回の会議のホストはイタリアだったから、夕食はアーサーも楽しみにしていたのだった。会議ではヘタレさ加減を惜しみなく発揮するヴァルガス兄弟は、平時、『国』よりもグルメリポーターかなにかが向いているとしか思えなかった。腕時計に目を落としながら、まだ夕食には早い時間であることを確認しつつ、フランシスが席まで戻ってくる。アーサーの隣の席、が男の定位置だった。
ぎろりと不機嫌な睨みで出迎えてやると、愛の国は華やかな微笑みで肩をすくませ、くすりと笑いながら首を傾げてくる。
「あーらお坊ちゃん、どうしたの? まぁた随分と不機嫌そうに見えるけど」
「事実不機嫌なんだよ。……まあ、六回くらいでいいや。殴らせろ」
「その殴り癖どうにかなさいな、アーサー」
アーサーが不機嫌な時にフランシスが目の前に居ると発生する強制行事に、愛の国は両手を降参の形にして抵抗した。そしてとりあえずゴメンナサイ、と口にしてやれば、機嫌が地を這っていない限りアーサーは殴るのを諦めてくれるのである。無抵抗な相手を殴るのは紳士じゃねえだろ、というのがその言い分だったが、本当の紳士は抵抗している相手を殴ったりしない。アーサーは視線をそらし、苛立った息を吐きだした。
「ちくしょ、飲むしかねえな」
「なに! なんなの坊ちゃん! やめてお願いパブらないでっ……!」
今日のお店はすごい人気で、あの二人がお願いし倒して無理に大人数の予約入れてもらって、雰囲気も最高で味は言わずもがなでそれでそれでっ、と半泣きで訴えてくるフランシスの手を、アーサーはそっと引きはがした。にこ、と微笑んでやる。
「うるせえ黙れ」
「誰か! 誰かマシュー呼んで来いマシュー! マシューを与えておけばアーサーは大人し……あれ、マシューは?」
会議場をぐるりと見回したフランシスの瞳が、不思議そうにアーサーの元まで戻って来た。知ってるでしょ、と言わんばかりの表情が憎たらしい。繊細なブルー・アメジストの瞳はこんな時でもとびきり美しく、コイツ造作だけは本当に一級品なのになぁ、としみじみ思いながら、アーサーはフランシスに手を伸ばした。こめかみに、左右からぐっと指を押し当てる。そのままぎりぎりと力を込めて圧迫し、アーサーは柔らかに微笑んだ。
「知らねえから、俺の機嫌が下がってるに決まってんだろ?」
「いっ、た! いた! いたたたたっ! ちょっと止め……携帯で連絡取れねえのかよ!」
怒り混じりの悲痛な声に、アーサーはぱっと指先を離して目を瞬かせた。そうだ、携帯があった。お前たまには役に立つんだな、とありったけの感謝を込めて見つめてやると、フランシスはなんだか遠くを見つめる表情になる。俺の子育て失敗例はお前だけ、と呟くフランシスの言葉を全無視して、アーサーはごそごそと懐を探って携帯電話を取り出す。会議中はマナーモードにしていたから、存在自体を忘れてしまっていた。
香の改造により『ちょりーす!』と『ウィッシュ!』の二種類の言葉で着信を伝える携帯電話が静かだと、普段の存在感が特濃な分、持っていることを失念することが多いのだった。アイツの改造好きもこうなると困りものだな、と溜息をつきながら携帯電話に目を落とし、アーサーは愛しく目を和ませる。メールの新着が、一件。マシューからのものだった。とたんに物騒な空気を消したアーサーから、フランシスは鞄を持って離れる。
分かりやすくて簡単で大変結構だが、これ以上痛いのは勘弁してもらいたいのである。腐れ縁であっても、痛みにそう耐性があるわけではないのだ。ギルベルトと違って。今日の会議に参加していなかったギルベルトは、『兄』を伴って先に夕食会の店で待っているらしい。だから俺先に行くね兄ちゃん後のことはよろしくねっ、とうきうきわくわくしながら飛び出して行くフェリシアーノを、ロヴィーノが苦笑しながら見送っていた。
恋するって良いねえ、と思いながらフランシスはロヴィーノに歩み寄りかけて。ふと、アーサーが静かすぎることに気がついて、恐る恐る振り返った。アーサーが元気であれば生命の危機を感じるが、静かであっても精神的な危険を感じる。暴れ者の隣国の、定めのようなものである。アーサー、と怖々呼びかけてやれば、携帯電話を凝視していた視線がはっと空に向けられる。それから、アーサーは慌ただしく鞄を掴んだ。
「フランシス、悪い! 夕食キャンセル!」
「……は? アーサーの好きなおいしーいイタリアンよ?」
「知ってる! フェリシアーノには後で電話かメールする……ロヴィーノ! キャンセル!」
珍しく足音を立てて会議場を出て行こうとするアーサーの叫びに、ロヴィーノは苦笑しながら頷き、手を振った。なんとなく、察しているのだろう。気にしないでください、という若干の怯えが混じった言葉にくすりと笑いながら、アーサーは唖然とするフランシスに説明する時間も惜しく、廊下をばたばたと駆けだして行く。ゴトン、と重々しい音を立ててしまった扉を茫然と見つめ、フランシスは大きく、なんともいえない息を吐いた。
「な……にあれ。マシューになにかあったのかね」
アーサーが足音を立てて走り去る、などはもはや珍事である。存在を知らしめる為にわざと足音を立てる以外、アーサーは努めて動作の音を出したがらない。それは気配を消して消して、隠れて居なければいけなかった弱小国時代の名残であり、紳士としてのたしなみとして行っていることでもあった。イギリス本国になにか起きた気配はなく、そうするとフランシスには、マシュー関連でなにかあったとしか思えないのだった。
つつつつつ、と川に運ばれて行く木の葉のような動きで、アルフレッドがフランシスの傍らに行く。二人は並んでしばし、アーサーの出て行った扉を見つめ、そして同時に溜息をついた。恋は盲目である。アーサーは恐らく、自分が足音をたてる程に動揺していたことなど、気がついてもいないに違いなかった。なんだいあれ、と呟くアルフレッドに、フランシスは肩をすくめる。分かっていたら、すでに周り中に言いふらしている。
「ま、明日にはちゃんとマシューが教えてくれるって。お前にもなんも言わずに帰ったんだろ?」
「そうだよ、そうなんだよ! マシューったらひどいんだぞっ! 今日のディナーもキャンセルだって言うし」
マシューと一緒にご飯食べるの、すごく楽しみに会議してたのに、とむくれるアルフレッドに苦笑して、フランシスは頭を撫でてやった。大国は犬か猫のようにフランシスの手に頭を押し付け、無言でもっと撫でろ、と要求してくる。はいはいよしよし、と求めに従って撫でながら、フランシスは会議中のマシューの様子を思い出そうとした。席は近くもなく、遠くもなかった。発言はいつものように控えめで、変わりはないように見えた。
ただ、一度も視線が重ならなかった。
会議場の真上のフロアが、今日の宿泊場所だった。ワンフロア全て『国』の貸し切りで、その中にアーサーの部屋もある。しかしアーサーはそちらに向かわず、迷わずマシューの部屋を尋ねた。メールに、居場所が書いてあった訳ではない。マシューが居るならそこだ、と思っただけだった。焦る気持ちを押さえ付けてノックを二回、それからマシューの名を呼ぶものの、扉越しの部屋はしんと静まり返っている。物音はしなかった。
「……居ない、のか?」
なら、探し直しだ。舌打ちを響かせて身をひるがえし、エレベーターに向かって駆けだそうとした瞬間、扉が開く。まるで背を向けるのを、待っていたかのようなタイミングだった。ぐっと腕を引かれて部屋の中に連れ込まれ、アーサーは体勢を立て直す間もなく抱きしめられてしまう。不思議なくらい、危機感がなかった。感じるぬくもりとふわりと漂う甘い香りが、頭を抱え込まれた状態で視認出来ずとも、それが誰かを教えてくれる。
「マシュー。……マシュー?」
はい、とちいさな声が返事を返す。それだけで、胸に抱き寄せられたアーサーの頭は開放される気配がない。ぎゅうぎゅうと抱き寄せられたまま、なんとか呼吸が出来るくらいに押し付けられていた。鼓動の距離が、近い。ぱたん、と部屋の扉が閉まった。マシューはアーサーの髪に頬を寄せるように顔を傾けていたので、どうしても表情を見る事が出来なかった。こら、ちょっと離せ、と背を叩くと、もそもそ首が振られる。
ぎゅぅ、と抱きしめる力が、強くなった。
「い、や。……嫌です。嫌」
「……マシュー?」
「ヤです。離すの、嫌だ。このまま、が、いい」
指先に力がこもって、アーサーの体を抱き寄せる。すりすり、と頬を擦りつけて甘える仕草は切羽詰まったものではなかったから、アーサーはゆるりと体から力を抜いてやる。目を閉じて息をすれば、マシューの鼓動が早くて心地良い。全身を預けてやりながらどうした、と囁くと、マシューはますます深くアーサーに腕を回して、ぎゅうぅ、と抱きしめてくる。痛みはない。真綿の上から抱くように、マシューが加減しているからだ。
やがて、満ちたような、それでいて足りないような切ない吐息が漏らされる。アーサー、と名を呼びながら抱きしめてくるマシューに腕を回して、そっと背を撫でた。指が背を伝って行く動きに、マシューがくすぐったそうに身動きをする。くすくす、笑った隙にそっと顔をあげれば、マシューは慌ててアーサーを深く抱きこんだ。どうも、顔を見られたくないらしい。一瞬だけ見えた薄緑の瞳は、羞恥でいっぱいになって甘く溶けていた。
まあ、悪い状態ではない。それなら付き合ってやるのもいいか、と笑いながら肩に額を押し付けたアーサーを、マシューは抱きしめ、溜息をつく。ものすごく恥ずかしそうな息の吐き方だった。
「顔、見ないでください……み、見られたく、ない、です」
「どうして? ……どうした、マシュー。あのメールだけじゃ分からないだろ?」
会いたい、だなんて。たった一言で呼びだしたマシューは、抱きしめるばかりで理由を告げようとはしなかった。ほら、と促しても嫌々と首を振り、アーサーを離そうとしないで口を噤んでいる。仕方ないな、と思いながらアーサーは顔を傾けて、そっとマシューの横顔を盗み見た。薄く桜色に染まった頬や耳が、大変可愛らしい。そっと唇を寄せてついばめば、マシューは肩をすくめてくすぐったがり、ようやく視線を合わせてくる。
普段ならくすぐったいです、止めてください、と困ったように告げる唇が、アーサーの額をかすめた。
「……マシュー?」
「あの……すみません。今日、僕、なんか……変で」
額に口付けた唇はそのまま頬や首筋に押し当てられて、切ない息がアーサーの肌に触れて行く。ぞく、と身を震わせるアーサーに、マシューは困ったような表情で目を細めてみせた。
「別に、なにかあった訳じゃないんですけど。でも……フランシスさんとか、アルフレッドと、口論してるの見てたら、胸がモヤモヤ、して。それで」
壊れものを扱うようにそっと、マシューの手がアーサーの頬を包み込んだ。ゆるりと身を屈めて唇を重ね、マシューは舌先でアーサーの口の端を舐める。距離の近い瞳は、じりじりと焦げるような熱を灯していた。
「ごめんなさい。……ごめんなさい、アーサー」
「……マシュー?」
「ぎゅぅって、するだけでも、本当に、幸せなんですけど……でも、もっと、あなたに触れたくて」
今はどうしてか、全然足りない。目を伏せて切なげに吐きだしたマシューは、アーサーの言葉を待たずにその体を強く抱きしめた。ぎゅぅ、と腕の中に閉じ込めてぬくもりを堪能しながら、マシューはそれでも落ち着かない様子でアーサーの頭にこてりと頬を寄せる。すり、と甘える仕草は普段通りのものなのに、鼓動だけはやけに早かった。指先が汗ばんでいて、すこしだけ緊張している。アーサー、と乾いた声が呼びかけた。
「あなたに……触れていいですか」
濡れた吐息が首筋をくすぐって、唇が強く押し当てられる。吸うのではなくごく軽く舐められて、アーサーはマシューの服を強く握り締めた。息が跳ねる。気が狂う程、愛おしかった。
「いいけど……ここでか?」
二人が居るのは、部屋の入り口だ。扉は防音性に富んでいるとも言い難く、部屋の中にはベッドがあるので、できればアーサーは移動したい。視線を部屋の中に向けながら問いかけたアーサーに、マシューは数秒の沈黙を挟み、かすかに首を振った。
「ここじゃ、なくて。……家の、部屋が、いいです」
「……いえ?」
「僕の家か、アーサーの。……そこなら、きっと」
誰も、来ないから。穏やかな声に潜められた独占欲に、アーサーはうっとりと目を細めた。それからすこしだけ考えて、アーサーは手の中にエンジェルステッキを呼びこむと、一息にマシューを連れて転移してしまう。選んだのは英国の屋敷のうち一つ。比較的ちいさな、アーサーだけが住んでいる家だった。その、奥の部屋。寝室のベッドの上に直接移動して、アーサーはぽいとステッキを投げ捨ててしまう。邪魔だからだ。
ふかふかのベッドに身を横たえながら、アーサーはやや戸惑っている様子のマシューに、優しく微笑んで手を差し伸べる。
「さ、マシュー。おいで」
「……アーサー」
「好きにしていい。俺は、お前のものだ……好きに、触れていい」
どこか泣きそうな表情で笑って、マシューはアーサーの伸ばした指先に口付けた。それからマシューはアーサーに覆いかぶさるように抱きつき、胸いっぱいに息を吸い込んだ。
「アーサー」
「なんだ、マシュー」
「……愛して、います」
くすくすくす、と吐息が揺れる。マシューの髪を乱すように頭を撫でて、アーサーは柔らかに目を細めた。
「知ってるよ」
「はい」
「俺も、愛してる」
はい、ともう一度囁いて、マシューはすこし体を起き上がらせた。震える指先が、アーサーのネクタイを解く。ワイシャツのボタンをいくつか外して、あらわになった白い肌に。マシューは、噛みつくようなキスを落とした。
心地よい疲労感が全身を支配していたが、それでも習慣的に目が覚めてしまった。アーサーは口元に手を当てながら大きくあくびをして、朝の光の中、目を細めて傍らを見る。すー、と深い寝息を響かせて眠るマシューは、まだ当分起きそうにもなかった。マシューの腕はがっちりとアーサーを捕らえているので、抜け出すことも難しい。まあいいか、と溜息をついた途端、枕元で無粋な電話音が鳴り響く。家の電話だった。
携帯電話はホテルにそのまま置き去りにしてきたから、不安がって連絡を入れたのだろう。正確に電話相手を予測しながら手を伸ばして受話器をとり、アーサーは『good
morning』すら告げずに言い放つ。
「死ねよ。マシューが起きるだろ?」
『あああああ! ……あああ、やっぱり? ねえやっぱり? やっぱりなの?』
「なにがやっぱりだよ。予想してるなら電話して来んな、クソヒゲ。ハゲろ」
長い付き合い故なのか腐れ縁だからなのか、フランシスは電話口の状況が分かってしまっているらしい。俺の可愛いマシューが穢された、と嘆くのを鼻で笑い、アーサーはあくびを噛み殺しながら言ってやる。
「残念だが、マシューを受け入れたのは俺の方だ」
『知ってるよ、言っただけ! お願いだから詳しく説明しないでねお坊ちゃん!』
「しねぇよ減るだろもったいない。あー……だるい。フランシス、俺とマシュー、今日の会議欠席な」
ヴァルガス兄弟に伝えとけ、と言い放たれて、フランシスは分かってますよー、とどんよりした声を響かせた。フランシスの背後はそれなりにざわめいているので、室内で一人きりではないのかも知れなかった。耳を揺らす優しい雑音に眠気を誘われながら、アーサーは噛み殺せなかったあくびをする。苦笑交じりに、フランシスが笑った。
『お疲れねー……そんなに激しかったの? それとも長かったの?』
「あー、好きに想像しろ。とりあえずマシューは極上に可愛かった」
『……ま、いいや。おやすみ、アーサー。マシューが起きたらお兄さんが心配してたよって伝えといて』
伝言がきちんと伝えられることなど最初から期待していない笑い声で、フランシスが電話を切る。通話を終えた無機質な音を奏でる受話器から耳を離して、アーサーは気が向いたらな、と伝わらない言葉を眠たげに響かせた。腕を伸ばして受話器を戻し、アーサーは眠るマシューの頬に口付ける。くすぐったそうに、幸せそうにマシューの表情が緩んだのを愛しく眺め、アーサーはベッドに体を預けた。もう一眠りできそうだ。
「……まあ、まだ機会はあるしな」
次回に期待してやろう、と苦笑し、アーサーはそっと目を閉じた。もぞもぞと身動きをして寝やすい位置を探せば、マシューの腕に力が込められる。だめ、と甘く溶ける声は寝ぼけているようで、それでもアーサーを腕の中から逃がしはしない。くすりと笑って薄く目を開き、アーサーはマシューの首筋に顔をうずめる。すり、と顔を擦りつけてやれば、マシューは夢にまどろんだままでくすくすと笑った。くすぐったいようだった。