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 2 桜雨結う

 風に吹かれて花が散る。迎えに来たのだ、と囁いて広げられた腕の中に飛び込んで行くように、その様は驚くほどの喜びに満ちていた。桜は今日、明日が満開だろう。天気も晴れ渡り、雨雲の気配はどこにも感じられなかった。絶好のお花見日和だ。招く日を間違えなかった満足感に身を浸しながら、菊はカタカタと蓋を鳴らす鍋を火から外した。使いこんで飴色になった木の鍋敷きの上に移動させ、そっと蓋を開いて中を覗きこむ。
 もわん、となんとも良い匂いのする蒸気が逃げて行く。随分がちょうど蒸発しきっていい具合になった、じゃがいもとにんじんの煮物が顔を覗かせた。肉は牛豚と迷って鶏肉にした。煮込む前に皮側だけすこし焦げ目をつけてあるので、口に含めばほろりと崩れる身の中に、焼き目が香ばしさを加えてくれることだろう。丁寧に面取りをしたじゃがいもとにんじんは、煮崩れることもなく、艶やかにしょうゆ色に染まり食欲をそそった。
 別にさっと湯がいておいたさやえんどうを斜めに切り、煮物に入れて混ぜ込んでおく。味を染み込ませておく必要はない。一緒に食べた時に味や食感の違いになって面白いし、なにより鮮やかな緑が彩りになって目を楽しませるからだ。ひとつを菜箸でつまみあげて行儀悪くもそのまま口に含み、菊は満足げに頷いた。煮物はこれで完成でいいだろう。あとは菜の花の煮びたしと、タケノコはわかめと一緒に油で炒める予定だった。
 柱時計に目をやる。客人を迎えるまで、あと二時間。余裕があるとも言い難いが、まあ、間に合うだろう。楽観的にそう考えて、菊はかまどから炊きたてのご飯を外し、焦げた所を別にしてふんわりと空気を混ぜ込んだ。普段なら焦げも一緒にしてしまうのだが、一応、一応相手は国外からの『賓客』である。加えて日本料理、特に家庭料理の旨味に精通しているとも思えなかったので、火種になるものは取り除いておいた方がいい。
 もったいないので、もちろんこれは菊の朝ごはんになるのだが。炊きたてご飯は握り飯にする。中身はあぶりごまを混ぜてさとうじょうゆと和えたおかか、炭火でじっくり火を通した塩じゃけのほぐし、昆布の細切りをしょうゆで味付けしたもの、たくあんを食べやすいように千切りにしたもの、それに梅干しだ。梅干しだけは外せない。相手の口に合うとはあまり思えないので、間違えて手に取らないようそれだけ海苔の向きを逆にする。
 煮びたしは荒熱が取れた所で、たらいに氷水を張って鍋ごとその中に入れる。作りたてなら温かいものも美味しいが、冷めてしまってもう一度火を通すくらいなら、冷やした方が美味しいと思うからだ。ようやく、一息をつく。さて今の間に食事を済ませてしまいますか、とお焦げまじりの握り飯を振り返った菊は、その数が一つ減っているのに気がつき、きりりと眉をつりあげた。犯人は憎らしくも、慌てるそぶりも見せず口を動かしている。
「お行儀が悪いですよ、耀さん……!」
「目の前に飯があったら食う。ごく当たり前のことあるね。諦めるよろし」
 行儀云々を置いておいて、ただ単に握り飯の数が減ったことが気に食わないのだということを正確に分かっている耀は、そう言いながらひらりと手を振り、菊の怒りを受け流してしまう。その態度が怒りをさらに煽る場合と沈静化させる場合があるが、菊は大体が後者の反応であり、そして今回もそうだった。深々と溜息をつき、頭を振って諦めてやる。耀はニヤリと笑って握り飯を一つ平らげ、もうひとつにも手を伸ばしながら笑う。
「おはよう、菊。良い朝ある」
「おはようございます。もう昼前ですが?」
 知ってるあるよ、と飄々としながら耀は言う。当然、時間のことなんか知ってるある。ただの挨拶だろう、と口元をゆるりと笑みの形にされるのに、菊は苛立ちを抱えながらも息を吐く。こんな風にからかってくるということは、今日は機嫌が良いらしい。刺々しいよりはずっとましだった。特に今日は、来客との緩和剤として来てもらっているのだから。よく眠れましたか、と囁く菊に耀はゆるりと目を細め、とてもよく、とだけ答えて笑った。
「露西亜と白露西亜が来るのは昼前だったな」
「イヴァンさんとナターリヤさん、ですよ。耀さん。『ロシア』さんと『ベラルーシ』さんが来るのではなく、イヴァンさんとナターリヤさん、です。お間違えのなきよう」
「……しゃもじを向けられても怖くもなんともないあるな。ああ、ああ。分かったあるよ」
 そんな怖い顔するもんじゃねぇある、とニヤニヤ笑われて、菊はしゃもじを投げ出し、土間に突っ伏したい気持ちになった。完全にからかって遊ばれている。本気で嫌だったり苛立ったりしないのは付き合いの長さと親密さ故だが、それでも心底楽しくはないし、付き合ってやれる気持ちでもない。耀さん、と菊は呆れ交じりに囁きかける。私今、あなたのお遊びにつきあって差し上げる気持ちの余裕がないので黙って頂きたいのですが。
 くすくす、と空気を笑みが咲き染めていく。くすくすくす、と春に咲く花のよう華やかに笑み、耀はゆる、と目を細めた。楽しげに、愛しげに。
「知ってるあるよ。緊張ほぐし、ある」
「……知っておりますか耀さん。私はもう、五つ六つの幼子ではないのですけれ、ど!」
「知ってるあるよー。ほうら、怒鳴るものではないある。喉痛めたらどうするか」
 お客が来るのだろう、とゆうるりと流れる大河を見渡しているような、不思議に遠く雄大な印象で。耀が微笑む。
「万全の体調で出迎えるある」
「分かっておりますとも……。改めまして、この度は」
「我は気まぐれで菊の家に遊びに来たある」
 にっこり、笑って。耀は囁く。そうしたらちょうど客を招く日と重なったから、一緒に出迎えようとしている、それだけのことあるよ。イヴァンを招いたは良いものの多分間が持たないので来てくださいお願いします、という無茶な要求に苦笑しながら答えてくれたのが本当だというのに、耀はそんな風に言って感謝も謝罪も受け流す。家族の頼みを聞き入れるのは当たり前のことだろう、と大きな心で笑う。それが、菊にはくすぐったい。
 肩をすくめて、こそばゆく笑った。
「はい、でも……ありがとうございます、耀さん」
 感謝は一度だけ、しっかりと心を込めて捧げる。それ以上は言葉を重ねない。相手がそれを望んだからだ。当たり前の感情だけで良いと、そう言われたからだった。耀はにこりと笑って軽く頷き、なにか手伝うことは、と尋ねてくる。菊は遠慮なくタケノコとワカメの炒め物を頼んだ。炒めものなら、菊よりも耀の方が神がかり的に美味しく作ってくれるからである。遠慮も感謝も、もう終わりだ。ならば美味しいものが食べたいではないか。
 きらめく笑顔でまな板を指差す菊に、耀は慣れた呆れ顔で肩をすくめて頷いた。懐から紐を取り出し、耀は慣れた仕草で髪を括りあげる。その仕草を見るのが幼い頃、たまらなく好きだった、と菊は思い出していた。この姿のあとは、美味しいものが食べられる。刷り込みに似た印象に、腹がくぅと音を立てて笑った。耀は聞かないふりをしてくれたのか、水煮されたタケノコを取り出し、持参した中華包丁で一口サイズに切っている。
 見れば中華鍋も手の届く位置にいつの間にか置かれていたので、最初から料理をするつもりで、あるいは手伝うつもりで来てくれていたのだ。招く時に一言も、菊はそう言わなかった筈なのに。誘いを受けた耀はかすかでも、そんなそぶりを見せはしなかったのに。どうせなら慣れた道具で、美味しいものを。その気持ちが当たり前に透けるのが嬉しくて、くすくすと笑いながら菊は握り飯に手を伸ばした。腰を下ろし、背を眺める。
 トントン、と軽やかな音が耳に心地よかった。
「それにしても」
 ざるで塩抜きしていたワカメをひきあげて布で水をきりながら、耀は振り返らず、呆れたように口にする。
「苦手な相手だろうに。どうしてわざわざ仲良くしようとするのか、我にはとんと理解できねぇあるよ」
「あ、ごま油で炒めてくださいね」
「分かってるある。ちゃぁんとやってやるある。にーににまかせておくよろし。……で?」
 ざく、ざく、と音を立ててワカメが切られて行く。ぼんやりとその音を耳にしながら、菊は香ばしい握り飯を口にした。すこし柔らかめに炊けた米の甘みに、すこしキツめの塩加減が好みにはちょうど良い。先程作った握り飯の中身のあまりをつまみながら三つを平らげ、菊は差し出された湯のみを受け取り、疑うこともなく中身を口にする。緑茶だった。ほっとする温かな苦みが、口の中をさっぱりと洗い流していく。肩の力が抜けた。
「それで? 菊」
 ぽん、と肩を撫で、頭を撫でた手のひらが料理に戻って行く。耀の問いかけは強烈なものではなかったが、だからこそ渡されたぬくもり故に、逃げることを許してはいない。菊は溜息をつきながら湯呑を傾け、そっと視線をそらして息を吸う。中華鍋で胡麻油が熱せられる。良い香りがした。
「せめて寝首を描かれないような仲にはなっておきたいなぁ、と思いまして」
「前向きなのか後ろ向きなのか、我にはよく分からないあるよ……」
 溜息がつかれる。言葉を待つ一拍の間。菊、と名を呼ぶ声が響く。
「それだけか?」
「はい」
 じゅわ、と音が立つ。水蒸気が上がって行く。それをぼんやり、目で追った。
「それだけです」
「そうか。なら、良い」
 春の日差し。春の音。春の匂い。ようやく全身で満喫できる、春。外では柔らかな風が吹いている。花の香りが、ふと通り過ぎて行った。戦争が終わって、その嫌な残り香もようやく消えて訪れた春。平和に、ひとを招くということ。その喜び。その、複雑さ。ふ、と息を吐き出す。深い所に眠って沈みこんでいた言葉が、陽気に誘われて浮かび上がる。ぷかり、と浮かび上がる。喉を通って唇へ。振り返らない背に、それを囁いた。
「本当はね、耀さん」
「うん?」
 カンカンと音を立てながら、出来あがった料理を耀が皿に盛り付けている。むわん、と広がるしょうゆの匂い。ああ、美味しそうだ。食べなくてもそう思う。口元がほころんだ。
「本当は、これ、私がやりたいと言った訳ではないんですよ」
「……だと、思っていたあるよ」
 くすくす、くす。密かに奏でられる笑い声は嫌なものではなくて、菊はそっと苦笑した。分かられていて、それでも誤魔化されてくれようとした気持ちが、嬉しい。つまようじに刺して出された一口分の炒め物を、はくりと口にする。甘い油のうまみとしょうゆの味、たけのこの柔らかくもざくりとした歯ごたえに、ワカメの味がとろりと混ざる。おいしいです、と菊は言った。そうだろう、と自慢げに笑って、耀はふたたび菊に背を向ける。
 忙しく動き回る腕まくりをした姿を、眺めた。すぐに洗って火にかけられた中華鍋から、水分が煮立って蒸発していく音がする。平和の中の幸せが、今ここに降りてきている。
「上司の前で、ですね」
「ん?」
「上司の前で、言ったんです。もうすこし個人的に仲良くなれれば、やりやすいこともあるでしょうに、と」
 私と貴方がそうであるように。個人的な付き合いがあったとて、国交に影響がある訳ではなく、国際情勢に影響することもなく。ただ『国』として存在する彼らが、ひととして交流を重ねることに、本当に意味があるかなど定かではないのだけれど。長くを、生きて。長くを、共に過ごせる存在として、ただ傍らにあることを。上司は『国』以上に深く考え、そして想ってくれているようだった。手を取り合えば、ひとはいつか、和解できる。
 かつての敵を友とせよ。そう言われた訳ではないのだけれど、と菊は溜息をついた。その前に先の日露戦争と、これからのお花見などについて話していたせいでもあると思うのですけれど。
「一緒にお花見しちゃいなよ、と言いやがってですね……」
「……断り切れなかったあるね?」
「善処しますと言ったのですが……そうありがとうじゃあ君の休みの調整は僕がしておいてあげるよ! と」
 陣痛起こして倒れたりしませんかねうちの上司、と遠い目になる菊に、お前の上司男だっただろうが、と耀はごく常識的なツッコミをした。だからこそ耐えられない痛みであると聞くではありませんか、とさらりと口にし、菊は柱時計に視線を送る。くるくる回る時計の針は、約束の時間が近いことを示していた。相手がどう来るかは聞いていない。家の前で車で来るのか、それともどこかから歩いて来るのか。分かりにくい道ではないが。
 迷うようなら、迎えに行くのが良いだろう。さてどうしたものか、と考える菊の耳に、明らかに客人のものではないと分かる軽やかな足音が複数、聞こえてくる。おやおやと相好をくずして勝手口から外に出れば、菊を目指してかけて来たらしい三、四歳くらいの幼子が数人、歓声を上げてじゃれついてきた。そこくさま、そこくさま、と舌ったらずな声で幼子たちは菊を呼ぶ。はいはいなんですか、と笑って、菊はしゃがみこんでやった。
 あのね、と一番年長の少女が声をあげる。
「異人さんが来るよ! 祖国さまのおうちに行くって異人さん言ってた!」
「そこくさまのおきゃくさまくるよ!」
「てくてくしてたよ!」
 道案内してあげてるよっ、まいごまいごしないようにこっちこっちしてるよっ、と口々に言うのに笑いながら頷いて、菊は幼子たちの頭を順番に撫でてやった。この子たちはなにも知らない。それが先の戦争相手の『国』であることも、そもそも、彼らも母国では『祖国』と呼ばれる、菊と同一の存在であることも。彼らはきっと物珍しかっただけなのだろう。それにしてもよく、幼子をまとわりつかせて怯えさせなかったものだ、と菊は思う。
 ふむ、としばし考え、菊は幼子に問いかけた。
「それで、今はどの辺りに?」
「さくななみき!」
「……桜並木、ですか。わりと近くまではいらっしゃってますね……ふむ」
 歩いているということは、政府庁舎に顔を出した後、鉄道に乗ったらしい。まさか駅から徒歩とは予想外だったが、一応、事前に地図は渡してある。幼子の言葉を推測するに、誰かが傍について道案内をしてくれてもいるようだし、迷うこともないだろう。どうしたものかと考えて、菊は期待に輝きながら己を見上げる、いくつもの幼い瞳に気がつく。くすりと思わず笑みを零し、菊はそっと両手を差し出した。わあ、と歓声があがる。
 我先にと殺到したちいさな手のひらに指をぎゅうぎゅうに掴まれながら、菊は笑いながらこちらを伺っていた耀を振り返り、こういうことですから、と目を細める。
「お散歩がてら、迎えに行って参ります。留守を頼んでも?」
「良いあるよ。……まぁったく、だーれも我とは遊んでくれないのだから」
 お前たち、たまには我にも構うよろし、と悪戯っぽく笑う耀に、こどもたちは声を揃えてまた今度っ、と言った。にこりと笑って袖を振る耀にお願いしますと言い残し、菊はぐいぐいと手を引かれて小走りに道を行く。手を、腕をひくく引っ張られた状態で道を行くには体勢が辛かったが、文句を言う気にはなれなかった。手を振り払おうとも、決して思わない。汗がにじむいくつもの、ちいさな手のひら。『国』の手を引いて走って行く、命。
 外は一面の春景色だった。眩いばかりの光の欠片が空気に溶け込み、温かな空気は吸い込むたび、胸いっぱいに満ちて行く。冬を超えて目覚めたばかりの、若草のにおい。土の香り。葉影では虫たちがうごめき、空を小鳥が飛び回っている。雪解けの水が、地下で流れる音は聞こえない。そのことをなぜだか、ひどく残念に思った。ざぁ、と若葉を揺らして風が吹く。白梅も紅梅も、もう散り始めていた。芳しい香りと、落ちる花弁。
 ざぁ、と風が吹く。ひらりと舞い落ちる桜の花びら。満開の、満開の。桜並木。春の結晶。向こうから幼子に手を引かれ、服を掴んで引っ張られ、二人の異人がやってくる。ぱ、と菊の手を離して、幼子が向こうへかけて行く。道半ばで立ち止まり、菊はゆっくりと、歩んで来た二人に頭を下げた。ざぁ、と風が吹く。花びらが散った。この国の春のかたち。儚くも絢爛、そしてもっとも美しい幽玄の。
「いらっしゃいませ。遠くから、ようこそお越しになられました。この国の春と、そしてこどもらと共に御出迎え致します」
「……やあ、菊君。おまねき、どうもありがとう」
 すごいね、と目を細めてイヴァンが言ったのが花のことなのか、それとも大男に怯えることもなく笑いかける幼子たちのことなのか、菊には判断がつかなかった。けれどイヴァンは決して、じゃれつきはしゃぎまわる幼子らを邪険にもせず、嫌がる素振りも見せていなかったので、まあどちらでもいいかな、と菊は満足げに想う。ただすこし、慣れていないのか戸惑うような、困った素振りは見せていたけれど。いずれ、慣れるだろう。
 さあさあ、お客様と遊んで頂くのはここまでですよ、と言うと、こどもたちは聞き分けの良い笑顔で声を揃えて返事した。ぱたぱたと足音を響かせて、彼らは家路を辿って行く。またそこくさまのおうち、あそびいくね。こんどはあの、おにいちゃんともあそんであげるね。きゃあきゃあと高く澄んだ声を響かせながら、こどもたちは走り去って行く。客人に構わない非礼を重々承知しながらその背がちいさくなるまで見送って、菊は振り返る。
 そして、気がついた。イヴァンの背に隠れるように立ち止まり、こちらを伺う少女の姿がある。菊はもう、その少女の名を知っていた。ナターリヤ・アルロフスカヤ。『白露西亜』、あるいは『ベラルーシ』と呼ばれる『国』である。『ロシア』であるイヴァンとは、国としては特に稀有なことに血縁関係にあり、兄と妹。二人には姉が一人おり、彼女は『ウクライナ』であるという。『国』の三兄妹。寄り添い生きるのが、当たり前だろう関係性。
 『国』が国民に広く受け入れられるようになって、まだそう時間が長く経過している訳ではない。その国によっても異なるだろうが、『国』はひとにとってある時は神であり、ある時は信仰の対象であり、ある時は迫害や嫌悪の対象であり、庇護や守護の欲をかきたてるものであり、常に『ひとならざる者』であった。ひととの触れ合いに、穏やかな距離に慣れている『国』はすくない。菊の周りに幼子が群れるのも、新しいことだった。
 それでも、ただ、慣れて行く。望む望まぬに関わらず。失う日のことを考えて一瞬、心が恐ろしい程に冷えても。それにすら、慣れて行く。時が巡るように。冬が春を、巡らせるように。恐怖は解ける。いつの日か、必ず。兄の影に隠れて、少女の顔色は冴えなかった。怖がっているようであり、それでいて全身全霊でなにかを拒否しているようでもあった。イヴァンはそんな妹の態度について触れることなく、無言で隠してやっている。
 彼は、抱くことで守るのだ。その両腕で抱きしめるようにして。なにもかもから隠すのだ。
「イヴァンさん」
「……んー?」
「よろしければ……彼女をご紹介頂けませんか。招いた以上、もちろんお名前も存じ上げておりますが……互いに一方的で、名乗った覚えがないものですから」
 なにせ菊が少女を認識したのは戦場であり、会う機会といえば国際会議の場くらいであり、そして常に襲撃という友好とは言い難い関係性を築き上げてしまっているのだ。互いに顔も名も見知っているが、それはそれ、これはこれ、である。渋い顔をするイヴァンを無視して歩み寄り、菊はひょい、とイヴァンの背を覗きこんだ。鋭い睨みが、すぐ返される。警戒しきった子猫のようだ。手を出すと引っ掻かれるな、と菊はにっこり笑った。
「改めまして、はじめまして。私は『日本』、名を、本田 菊と申します。どうぞお見知りおきを」
「……『ベラルーシ』」
 花弁よりなお鮮やかな赤い唇。うっすらと開いて息を吸い込むその様、その音を耳にする。きゅ、と困ったように眉が寄せられ、兄の服を握り締めていた手のひらが離される。
「ナターリヤ・アルロフスカヤ、だ。……おまねき、どうも、ありがとう」
 手のひらはそのまま流れに沿って体の横で振られ、菊に向かって差し出されることはなかった。視線は逸らされることなく菊を向いていたが、強い眼光が消え去った訳ではない。睨んではいない、程度だ。言葉も、イヴァンの告げたものをそのまま繰り返した以上の感情が乗せられることはなく、ぎこちなく空虚に、強張って響いた。それでも、言葉が返って来たのだ。反応としては良い方だろう。なにより礼儀を、少女は知っている。
 招かれた先で非礼とされる態度ではない、ぎりぎりの態度だった。ごく慎重に、その線の上を歩こうとしているらしかった。イヴァンは苦笑しながらもナターリヤの態度を咎めることなく、ごめんね、と笑って囁いて来る。これくらいで満足してね、とその表情は物語る。多くを、求めようとはしないであげてね、と。菊はそっと頷き、イヴァンの背の影から出て来ようとしない少女から体を離す。風が吹く。二人のすきまに、花びらが舞った。
 菊は身を翻し、二人の前に立ってゆっくりと歩き出す。
「道に迷いはしませんでしたか? 歩いて来るとは思いませんで、出迎えもなく失礼致しました」
「ふふ、いいよ。それに、あの子たちが出迎えてくれたからね。……近所の子?」
「ええ。この辺りの」
 人懐っこくて可愛かったでしょう、と笑いながら尋ねると、イヴァンは満更でもない声でまあね、と返して来る。イヴァンに背を向けて、菊は前を見ながらゆっくりと歩いて行った。不思議なくらい、背後を取られている危機感がない。きゅ、と唇を噛んで意を決して振り返ると、イヴァンは菊のことを見ていなかった。その視線は咲き誇る桜に注がれて、恐らくは菊が振り返ったことにも気が付いていないだろう。なんだ、と拍子抜けする。
 ああ、でも。それくらい、平和なのだ。景色を見て歩けるくらい。相手をどうするか、ずっと考えていなくてもいいくらい。春は光に溢れていた。道の先に、家が見える。玄関の前に立って待っていた耀が三人に向かい、笑顔でぱたぱたと手を振った。



 花見弁当はかねがね好評だった。そうは言っても出かけて桜の下で本格的な花見と洒落込んだ訳ではなく、家の縁側に座り込み、中庭に咲く季節の花を楽しみながらの、しっとりと落ち着いた場でのことだった。日中からも酒に酔って花見を楽しむ者たちの中で、変に気疲れしてしまっては大変だからだ。イヴァンもナターリヤも日本の風土、文化に慣れていないので変に気疲れしてしまっては、という菊なりの配慮だったのだが。
 イヴァンはなんとなく知っていたのだが、ナターリヤもたいがい、自分と言うものを良く言えば見失わない存在だった。どっしり芯を構えた態度は人混みの中に放りこんでも、たいして変わることがなかったのではないか、と菊は思う。大体、緩和剤として来てもらっていただけあって、イヴァンと耀は旧知なのである。仲が良い悪いはともかく、菊とはしない種類の軽口のやりとりや、ふとした瞬間に零れる気の抜けた笑顔があった。
 すこし、気を回し過ぎたかも知れない。これならば満開の桜並木に出向いても良かったか、と思いながら、菊はすっかり日暮れを迎えた中庭をぼんやりと眺め、一本だけ植えてある桜の木に目を細めた。まだ若木だ。老木のような迫力ある咲き方はしていないものの、まっすぐ伸びた背筋の印象に似た幹は若々しく、枝葉は艶々としていて美しい。風が吹く度しなやかに枝は揺れ、さぁさぁとなんとも言えぬ心地良い音楽を奏でた。
 花弁は、それ自体が淡く光っているかのように、闇の中浮かび上がっていた。白く、それでいてうっすらと紅に色づいた様は、清楚でいて妖艶、楚々として、また凄みすら感じさせた。夜桜は、また格別の味わいがある。酒の用意をして戻ってきた菊は、すでに持ちこんだ紹興酒とウォトカでそれぞれ出来あがっている二人をぬるく微笑んで眺め、害の及ばない程度距離を取って座りこんだ。酔うくらい気を抜いている、と思っておこう。
 転がっている酒瓶の数は、数えて五本を超えた所で指を折るのを止めて置いた。これで二日酔いにならないのだから、この二人は『国』として酒が強いというより、存在としてすこしおかしいとしか思えない。菊はちびちびと日本酒を味わいながら、深く清涼な空気を求めて深呼吸をする。静寂はやさしく菊に寄り添い、火照った体を抱きしめた。まだ夜は冷え込む。明日の天気を考えながら、菊はぼんやりと耀とイヴァンを眺めた。
 二人はなにやら顔を突き合わせ、くすくすと笑いながら可笑しそうに酒を飲んでいる。紹興酒にウォトカを混ぜ込んだ液体を開発しているのは見なかったことにして、混ぜて欲しくもないのだが、菊は身勝手な疎外感に溜息をつく。まあ、場が持たないよりはずっと良いだろう。相手が耀ならばともかく、イヴァンとはああ打ち解けて酒が飲める仲ではないのだから。花が散る音がして、雲が晴れた。見上げれば、細い月が輝いている。
「……あ、れ?」
 そうしてふと、気がつく。先程から視界の何処にも、少女の姿が見えなかった。振り返って居間を覗くも、そこはしんと静まり返っていて誰の姿もない。厠だろうか。詮索するのは野暮なので見には行かず考え、菊は猪口を傾けた。しばし、時が経つ。耀とイヴァンの手の説く範囲に転がる酒瓶の数がますます増えた頃、菊はよいしょと立ち上がった。少女が戻ってくる気配はない。ならば眠っているかどうかだけでも確認したかった。
 いつの間にか退席していたのにも気がつかなかったのは、完全なる菊の手落ちである。出迎える側としてあって良いことではなく、どれだけ緊張していたにしろ、酔っていたにしろ、言いわけにすらならないのだった。せめて不愉快であったり、居心地が悪くなって場を辞したのでなければいい。不安に思いながら客間の明りが消えていることを確認し、菊はそっとふすまを開けた。は、と思わず呟く。布団は引いたそのままだった。
 一度寝て起きた形跡もない。全くそのままだった。思わず小走りに家の中を確認する。厠は声をかけたが返事もなく、気配もなかった。風呂も入った形跡はない。居間も菊の部屋にも、空き部屋にもおらず、玄関に辿りつく。戸が、すこしだけ開いていた。見れば少女の靴がない。外に出かけた、ということだろうか。誰にもなにも言わず。それともイヴァンには言って行ったのだろうか。分からなかった。ざわり、と胸が落ち着かない。
 きゃうん、と足元で可愛らしい鳴き声が響く。甘えるようにぱたりぱたりとしっぽを揺らし、ぽちが菊のことを見上げていた。行かないの、と首を傾げて問う様は、まるで少女が出て行ったのを知っていたかのようだ。溜息をついてしゃがみこみ、菊はぽちの頭をよしよしと撫でる。それで気が済んだのか、ぽちはぱたりぱたりと尻尾を揺らし、ててててて、と愛らしい足音を立て縁側の方に行ってしまう。菊の代理でもするつもりなのだろう。
 相手は酔っ払い二人だ。案外気がつかないかも知れない。からまれそうになったら引っ掻いて齧って逃げるんですよ、と心の中で愛犬に言い聞かせ、菊は下駄に足を通して家を出る。行き先など分からなかった。昼間とは違い、案内してくれる幼子の姿はない。立ち止まってしまう菊の耳に、テン、と手毬をつく音が聞こえた。はっとして顔をあげる。『そこ』には誰の姿もなかった。それでも遠い昔、その音に親しんでいたことがある。
 目を細める。なにも見えなかった。あるいは『イギリス』ならば、視認してやることが出来たのか。悔しさと申し訳なさが、苦く広がって行く。恐怖は感じなかった。そんなものが必要ないくらい、その存在は傍らにあったと、意識のどこかが知っているからだ。テン、テン、と手毬をつく音だけが響く。見えないのを察したのか、困ったような悲しげな、それでいて不思議に穏やかな笑い声が菊の耳をくすぐった。いいよ、とそれは言う。
 見えなくてもいいよ。
『大丈夫。……菊、菊。こっちだよ。こっち、こっち』
 菊に見えなくても、あの子にも見えなくても、私は全部見ていたよ。大丈夫、こっちこっち。ね。それは笑いさざめく風の音のような、不思議に穏やかで優しい囁き声だった。こっちこっち、と見えない手で指差されているかのように、菊には行くべき方角が分かる。足を一歩踏み出した。カラン、と下駄が鳴るのに嬉しげな笑い声。ぱたぱたと微かに聞こえる足音は、幼い少女のものだった。菊、菊。ね、こっちだよ。こっちに行ったよ。
 案内してあげる。だから、私とも一緒に歩こう。
「……待って、ください。待って」
 そこに居ますね、と掠れた声で問いかける。口の中がからからで、うまく声を発せない。悲しいのかも知れなかった。苦しくて、消えてしまった愛しさを不意に自覚する。しゃがみこめば、視線は出会うのだろうか。そう信じて膝を折り、菊は見えない『それ』に向かって目を向けた。手を、差し出す。指先が汗で冷たかった。
「手を、繋いでくださいますか?」
 テン、と手毬をつく音がする。風が渡って行く夜の暗闇。そのしじまに、そっとぬくもりが灯る。指先が温かい。その熱をいつか、確かに、知っていた。そのことを覚えている。それをまだ、思い出せた。くうっと息を飲んで立ち上がり、菊は『繋がれた』指先に柔らかく微笑む。ありがとうございます、と囁きは、冷たい空気に溶けて消えた。



 薄ぼんやりとした光が、黒の中に咲いている。導かれて辿りついたのは、昼間に通って来た桜並木だった。一人、二人くらいなら夜桜を楽しむ者もあるかと思いきや、並木道は全くの無人だった。人の気配が途絶えた自然の中で、夜風に梢が涼しげに歌っている。ぱらぱらと、静寂の中だからこそ気がつく雨のような音を立て、花びらが散っていた。白く、白く桜並木は夜の中に浮かび上がっている。そこに、ナターリヤは立っていた。
 棒立ちになってぼんやりと、少女は桜の木を見上げていた。ともあれ、無事でいるらしい。ほっと胸を撫で下ろした瞬間、手のひらからすぅとぬくもりが消える。微かな囁きは、もう聞こえなくなっていた。それでも案内はここまで、と言われた気がして足を踏み出す。カラン、と下駄の鳴る音に、ナターリヤは菊の存在に気がついたらしい。ひたすらに花を見上げていた視線が、ゆるゆると下に戻ってくる。のたのたと、瞬きがされた。
 花を見つめすぎて、焦点が上手く合わせられなくなったようだった。カラン、カラリ、と音を立て、菊はゆっくりナターリヤに歩み寄る。ようやく少女が菊を正常に見つめられるようになった頃、正面で足を止めた。ぱちん、と意思の灯ったまばたきをして、ナターリヤの瞳に警戒の意思が広がる。怒りに来たか、捕まえに来たとでも思ったのだろう。さっと身を翻して走りたがる気配を察し、菊はとっさに手を伸ばし、少女の腕を捕らえた。
「っ、離せ!」
「迷子になりますよ。……花を見に?」
「……お前らは飲んでばかりだ。花見だと言うから来てやったのに」
 だから勝手に出てきてやった、と胸を張って言い切るナターリヤがおかしくて、菊はつい微笑んでしまった。不愉快だから一人で見に来た、という訳ではないのだろう。この風変わりな少女は、少女なりに『花見』を楽しみにしていて、そしてどうやらゆっくり花を見られないらしきことを悟ってガッカリして、わざわざ家を出て桜並木に赴いてくれたらしい。申し訳ない、とは思う。それも本当のことだ。けれどそれ以上に、嬉しかった。
 桜は、冬の少女の心にも咲いたらしい。
「……なにがおかしい」
「いえ。……いいえ、すみません。我が家の花では、退屈でしたか?」
「酒臭い」
 キッパリと言いきって、ナターリヤは思い切りの不満顔で、菊が掴んだままの手首を見下ろした。離せ、と力なく唇が動く。逃げないのであれば、捕らえて置く理由もない。痛くしましたか、と申し訳なく問いかけながら手を離すと、ナターリヤは握られていた個所に手を添え、胸元に引き寄せて無言で首を振った。それきり、会話が途絶えてしまう。ナターリヤはゆるりと視線を持ち上げて、眩しげに、不思議そうに、桜を見つめ続ける。
 その横顔に、静かに問いかけた。
「お酒は、苦手ですか?」
「すこしなら飲む」
「どういったものを?」
 ナターリヤは菊に視線を向けない。ひらり、はらりと落ちてくる花びらに、真っ白な指先が伸びて行く。
「……『ベラルーシ』、そういう名前のカクテルがある。それなら飲む」
「材料は?」
「ウォトカと、ミルクと、コンデンスミルクを等分で混ぜる。ウォトカは瓶が凍るくらい、冷やしておく。氷の中に突っ込んでおけば、まあそれくらい冷えるだろう」
 花びらを、指先が捕らえた。その瞬間、興味を失ったような動きでぱ、と指が花を離す。薄紅の欠片が、音もなく地に落ちた。
「……冷たくないんだな。これは」
 雪に似ていても、これは花だ。ぽつりと、自分に言い聞かせるようにナターリヤは呟く。闇の中、少女は白く浮かび上がっている。夜の中の光。眩しくて、目を細めた。
「いつまで咲くんだ、この花は」
「天気にもよりますが……そうですね、これはもう満開ですから、あと七日前後持てば良い方です」
「もう、咲かないのか」
 散ってしまえば、もうそれで終わりなのかと。残念がるナターリヤに、菊は咲きますよ、と言った。一年巡ればまた咲きます。
「この桜並木はまだ若い。ですから来年も、そのまた来年も……まだまだ、花は咲きますよ」
「でも」
 ざあぁ、と風が吹いて梢を揺らした。雨のような花びらが舞い散り、地面に落ちたそれも、波のように広がって行く。風の足あと。吹く方向にゆるく、花びらが流されて行く。しゃがみ込んで一枚を拾い上げ、ナターリヤは目を伏せた。
「この花びらが、もう一度咲くことはないんだな」
「そう、ですね」
「……こんな花、はじめて見た」
 立ち上がって、ナターリヤはまた桜を見上げる。
「冷たい色なのに、あったかく咲くんだな……」
 すっと息を吸いこんだ少女の唇が、それをうっとりとはき出していく。吐息が白く染まらない気温が、春の訪れを告げていた。そろそろ戻りましょうか、と菊は言う。こくりと頷いたナターリヤの先に立って歩き出しながら、菊はふと尋ねる。
「また来年、見に来られますか?」
「……ひとりでは来ない」
 兄さんと一緒なら、考えておいてやる。カラリと響く下駄の音に、ナターリヤの足音が続いて行く。並んで歩くことはなく、二人は同じ道を辿って行った。途中で一度だけ、菊は少女を振り返る。真正面から重なった視線は、まっすぐに菊のことを見ていた。

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