BACK / INDEX / NEXT

 3 幽玄の糸

 襲撃に対して生命の危機を感じない理由はなんだろう、と菊は内心で盛大な溜息をつきながら考えた。相手の技量が命を脅かすに達していないからか、それとも平和ボケしてしまって神経が麻痺しているのか。あるいは、どうしようもなく嫌なことに状況に慣れてしまったか。最も考えたくはないが、三番目の可能性が一番高い。ああどうしようもないとげっそりしながら、菊は伏せていた視線を持ち上げ、悔しげな紫の瞳を見る。
 菊には悔しげ、という感情だけがようやく読みとれる湖面色の瞳は、印象としては無機質だった。硝子玉をはめ込んだ人形の瞳の方が、そこに己の感情を映し出せる分、まだしも豊かに感じ取れることだろう。それくらい、ナターリヤは感情というものを表に浮かび上がらせない。瞳によぎらせはするが菊には読みとれるものではなく、表情は不機嫌にも見える無表情のままで動かない。形作られた、人形のような印象が動かない。
 つまりこれは『お人形さん』なのだ。陰で『ロシアの妹人形』と囁かれることもあると知れば、この少女は激怒するだろうか。あるいは頬を染めて喜ぶこともあるかも知れない。ナターリヤが大きく感情を揺らし、表すのはこと『兄』に関してのみのことで、こうして菊を狙って襲撃してきている現在でさえ、凪いだ心は冷静に揺れることはないらしい。正直、面白くはなかった。振り下ろされたナイフを日本刀で食い止めたまま、溜息をつく。
「……いい加減に諦めてくださいませんか? ほら、これから会議ですし」
「っ、今日こそ……! 今日こそベラルーシ領日本にして兄さんに喜んでもらおうと思ったのに」
 ちいぃっ、と盛大に過ぎる舌打ちをして、諦めきれない少女のナイフに力と体重が込められて行く。ぐぐ、ぐぐぐ、と均衡を危うく押しつけ、押し返しされながらも危険以上の危機意識を持つことなく、菊は呆れ顔でナターリヤを睨みつける。全く、これから『国』同士での国際会議があるというのに。今日もまた襲撃される気がして軍服で来たから良いものを、少女はいつもと同じ藍色のワンピース姿である。はしたないとは思わないのか。
 今だって腰に巻かれた幅広の、リボン状の布が形崩れを起こしていた。
「だから、私を直接打ち取ったとしても我が国土がどこかの領土に成り下がることはありませんよ、と何度も言っているでしょうに……。貴方だってご存じの筈でしょう。いい加減、身にならない努力はよしてください」
「嫌だ」
「貴方ってひとは……そういう否定だけ特に素直に仰るのですから……!」
 おかげでここ数年で、菊はナターリヤの『好きなもの』は知らなくとも、『嫌い』だったり『嫌』なことばかり知るようになってしまった。誰が他人のマイナス方向の認識を深めて喜ぼうというのか。あいにくと聞くにそんな趣味はないし、ナターリヤにもないだろう。妙な襲撃と会話の応酬ばかりをしているから、こういうことになるのだった。ほらもう時間ですよ、と言って視線で時計を指し示せば、ナターリヤは再び盛大な舌打ちを響かせた。
 お前のせいで私の時間が足りなくなった、と。そう言わんばかりの様子である。全くもって心外である。そもそもナターリヤが会議の度に襲撃しなければ、日本だって戦時中を思わせる軍服ではなくスーツや和服で来られるのだし、一々日本刀を持ちこまなくても済むのだから。一度だけクナイとまきびしで応戦したことがあるのだが、見事に少女がまきびしを踏みつけて涙目になって以来、可哀想なのでやらないことにしている。
 菊には『日本』として己の体を守る義務と意思があるが、守護は守護であり、攻撃的であるが故の防衛ではないのである。守るが故に相手を傷つけてしまうのは意に反するし、なによりひょこひょこと足を引きずってまで兄のあとを追いかけるナターリヤの姿は、あまり見ていて楽しいものではなかったのだ。それくらいの怪我なら、ナターリヤは痛みを顧みず、兄の元に駆け寄るのだ。怯えて拒絶されても、何度でも。何度でも。
 本気で仕方がなさそうにしながらスカートをたくしあげ、ナターリヤは太ももをさらけ出す。そこのベルトに固定してある鞘にナイフをしまい、少女はばさぁ、と派手な音を立ててスカートを離した。ちょいちょい、と布を手で払って整える仕草だけが少女めいていたが、それ以外の大切なもの、羞恥心や警戒心が抜け落ちているとしか思えなかった。思い切り視線を外して見ないようにしながら、菊はイヴァンの妹教育に泣きそうになった。
 結婚を迫られて怖いのは分かる。純粋に妹として好意を持ち、可愛がっている相手に迫られる恐怖と言ったら、それはもう筆舌に尽くしがたいものもあるだろう。大体からして兄を追いかけるナターリヤの形相は真剣であるが故に尋常なものではなく、心臓の弱い相手が見たらそのまま死にそうなくらいなのだ。だが、それにしても。それにしても、である。異性の前で、そういう意図はなくとも、意図がないからこそ、かも知れないが。
 派手にスカートをまくりあげる行為は、どうにかして欲しいものだ。もしかしたらイヴァンはナターリヤに襲撃されていないからこそ、こんな仕草を知らないだけなのかも知れないが。わざわざ知らせて咎める気になれないのは、あれで妹を本当に可愛がっているイヴァンが、へぇ、そうなのナターリヤの脚見たの、と言って微笑みながら鈍器で殴りかかってくる未来が簡単に予想できてしまうからだった。殴られに行く趣味は無いのだ。
 額に指先を押し当てて沈黙する菊を、ナターリヤは苔むした石を眺める視線で首を傾げる。相変わらず、よく頭が痛そうなヤツだ、と思ったからだ。それだけで、それ以上の興味は湧いて来なかった。なにせ菊の言った通り、これから会議なのである。発言は全てイヴァンに任せているのでナターリヤが口を開くことはないだろうが、それだけに、準備などは少女が引きうけるのが通例になっていた。姉は家を守り、妹は外で動き回る。
 イヴァンを代表として立てるようになってからのそれは自然な役割分担であり、それを考えれば、これ以上ナターリヤが菊にかける時間など残されていないのだった。目の届く範囲にある時計を眺めると、会議のはじまりまで、もう一時間とすこししかない。もうそろそろ、他の『国』が集まってくる時間だった。時間に厳しい意識を持った一部の『国』だけだが、彼らに菊と二人の所を見られるのは、あまり良いことだと思えなかった。
 一応ナターリヤも、襲撃はやってはいけない、という一般常識くらいはあるのだ。だから用意周到に菊が一人きりで、かつ周囲に人影がなく、誰もやってこないような場所を狙って仕掛けている。分別くらいはあるのだった。頭の中で一時間以内に片付けなければいけない作業のことを考えながら歩き出し、ナターリヤは菊をくるりと振り返った。物思いに耽っていたらしい菊は、しかしすぐに視線に気がつき、にこ、と笑いかけてくる。
 ふん、と鼻を鳴らして睨みつけた。
「じゃあな、『日本』」
「はい。……それでは、また会議で。『ベラルーシ』さん」
 日本列島が早く私か兄さんのものになれば良いのに、と本気で呪っているとしか思えない捨て台詞を残し、ベラルーシは颯爽とした足取りで廊下を歩んでいく。さあ、意識を切り替えなければ。これより菊は『日本』であり、個人的な感情は胸の奥にしまいこむ。糸をぴん、と張る想像で集中力を高め、日本はそういえば、とベラルーシが歩んで行った方角を見つめる。元より白い印象の少女だが、今日は顔色が悪くなかっただろうか。
 いつもより心持ち、力も弱かった気がするし。何事も無ければ良いのだが、と思いつつ、日本も会議場に向かって歩んでいく。片手に持った日本刀は、うるさい誰かに見つかる前に、どこかに隠してしまわなければ。まあ掃除用具入れとかに入れておけばまず大丈夫ですね、と鍛冶屋が泣いて嫌がるであろうことを平然と考えながら、日本はあくびをひとつする。会議前の適度な運動だと思っておけば、さほどの事でもなかった。



 女性を凝視するのは良くないことだ。分かっている。それでも時折視線を送ってつぶさに観察などしているのは、やはりベラルーシの顔色が優れないからに他ならない。少女は他の会議の列席者とは違い、ロシアの座る椅子の後ろに静かに佇んでいる。ベラルーシ用に用意された椅子がないからだ。あったとしてもそれが兄の隣でない以上、そこに静かに座っている姿を想像できなかったが、無い以上は座ることもできない。
 足を肩幅に開いて手は後ろでゆるく組み、少女はじっと足元に視線を落としている。時折、思い出して持ちあがる瞳はそっと兄の様子を伺っていて、必要に応じて身を屈めてなにかを囁いたり、指先で呼ばれてロシアと意見を交わしたりしている。唇がカサついているか、日本の座る位置からでは見ることができなかった。ただ、顔色はやはり良くないのが分かる。ごく僅か青ざめていて、意識もしっかりしていないのではないだろうか。
 ゆるり、ゆるりと一定しない視線は苦しげで、呼吸の合間に眉を寄せたりもしていた。はて、怪我でもさせただろうか。思い返すが日本刀に血を付けた覚えはなく、立ち去った姿を思い返せば、いつかのように足を引きずっていたりすることも無かった筈だ。会議準備が忙しかったにせよ、ベラルーシは一時間の余裕を持って素直にきりあげた。一時間で十分に終わる作業量だ、と認識していたからに他ならない。不可解だった。
 ぎゅうぅ、と少女の眉が寄せられる。苦痛を堪えるように噛み締められた唇が、薄く浅く、呼吸の為に開かれた。珍しく、感情的な表情。いつもあれくらいだと大変分かりやすいのだが、と思いつつ、日本は手元の資料に視線を落とした。先程からちっとも集中できないで居るのだが、幸いなことにアメリカの発言に対し、イギリスが我慢の限界を見せかけている。イギリスの傍らでフランスが避難準備をしているので、もうそろそろだ。
 懐中時計を取り出して秒針を見る。いち、に、さん、し。ご。カチリと秒針が動いた所で、イギリスが椅子を蹴り倒して立ち上がった。
「お前いい加減にしろよばかああぁっ!」
「な、なんだいなんだい! なにがだいっ! 俺は真剣にやってるんだから、邪魔しないでおくれよ!」
「真剣に! 国際会議で! 宇宙人とミステリーサークルの関連性を議論させようとすんなって言ってんだよ俺はっ! ようやく第一次大戦終了の混乱も終わってたトコで大恐慌引き起こしやがって! 馬鹿! この大馬鹿! 視線をそらすな現実逃避するな現実を見据えた会議をしろおおおおっ! いいか俺たちもようやく普通に生活できるくらいに回復してるけどなぁ! それでも各国の混乱がまだおさまった訳じゃ……アメリカー!」
 耳を手で塞ぐなーっ、とイギリスの大絶叫に、アメリカは目をぎゅぅっと閉じて首を左右に振り、あーあーあー聞こえない聞こえないーっ、とまるきりこどもの対応で対抗している。もはやすっかり親子喧嘩である。だからこの時期に『国』で会議を開くのはやめておこう、と意見がいくつか出ていたのに。まあ押し切って開催したのはアメリカなので、それくらいは怒られてもらおう。各『国』の意見が一致し、各々が席から立ち上がって行く。
 おつかれさまー、またねー、と勝手に和やかな挨拶を交わして出て行く『国』たちの間をすり抜けて、日本はロシアに駆け寄った。
「ロシアさん!」
「……こんにちは、菊君。会議終わったから、もうこっちでいいよね?」
「こんにちは。まあ……良いんじゃないでしょうか。終わりですしね」
 それでは改めまして、イヴァンさん。呼びかけた菊に、イヴァンは案外嬉しそうな素直な笑顔で、うん、と頷いて返事をした。つまりこれは図体がでかくてちょっと性質が悪いだけのこどもなのである。度々深めている認識をさらに繰り返し、菊は複雑な気持ちで苦笑した。背伸びして頭を撫でくり回したい気持ちを、ぐっと堪える。会議場には『イギリス』の罵声と『アメリカ』の反論、二人を仲裁しようとする『カナダ』の声が響いている。
 なんともいえない表情で顔を合わせ、菊とイヴァンは会議場を振り返って沈黙する。やんちゃしすぎた長男を怒っている保護者と、それくらいで許してあげてください、と一生懸命お願いしている次男の図にしか見えない。つまり、家庭内喧嘩である。居たたまれないことこの上ない。外で話しましょうか、と呟く菊に、そうだね、とイヴァンはぐったりしながら同意した。そそくさと、関係のない『国』が場を辞して行くのも同じ理由だろう。
 国際規模で迷惑な喧嘩だった。おかげで実のない会議を終了させることができたので、感謝半分迷惑半分ではあるのだが。防音性の高い扉をきっちりと閉め、廊下を歩いて行けば喧騒も大分遠ざかる。意図せず、同時に安堵の溜息をついて、菊とイヴァンは苦笑いを見合わせた。
「それで……どうしたのさ、菊君。君から僕に話しかけてくるだなんて。頼みごと?」
「いいえ。ただ、体調は大丈夫ですか? とお聞きしようと思って」
「……変な菊君。僕は平気だよ。いつもとおんなじ」
 見て分かるでしょう、と笑顔で首を傾げてくるイヴァンに反射的に苛立ちながら、菊はそうですよね、と息を吐く。各国の不景気にも関わらず、大恐慌を好景気で乗り切ったのがロシアだ。つまり『ロシア』であるイヴァンに体調不良の波が襲いかかってくる訳もなく、そのことは菊もきちんと知っていた。だからこそ、解せない。大元であるイヴァンが元気なのに、どうしてナターリヤがあんなに不調の様子なのか。『国』関連ではないのか。
 それとも、あるいはベラルーシ本国に、直に『国』に襲いかかる不調となりえるなんらかの事が起きたか。可能性としてはありえるが、それにしても、他の『国』がそれを感じ取れないのも妙だった。『国』が持つ感覚、感情は固有のものだが、それとは別に、彼らは『共感覚』を持っている。その『国』の存在自体を大きく揺るがすような事態が発生した場合、『他国』はそれを『虫の知らせ』として受け止めることができるのである。
 『日本』は割と鈍い方であるが、『イギリス』や『イタリア』の代表であるイタリア・ヴェネチアーノは特にその『共感覚』が強く、ひどければ眩暈で立ち上がれないこともあるという。思えば『イギリス』は元気いっぱいに『アメリカ』をお説教していたので、するとやはり、『国』として『ベラルーシ』が強く揺らいだという可能性は弱かった。個人的な体調不良なのだろうか。ふむ、と不思議そうに沈黙した後、菊は改めてイヴァンを見た。
「まあ、いいでしょう。……ナターリヤさんはご一緒では?」
「や、やめてよ、考えないようにしてたのに……多分どこかに潜んで、隙を狙ってるんだと思う」
 投網を投げられた経験とか菊君はある、と涙声で問われて、ありますと答えられる『国』が果たして何人居るものか。そっと視線を外してご愁傷様です、と言った菊に、イヴァンは寒気を感じているように後ずさった。
「と、とにかく! 僕もう帰るから! またねっ」
「はい。それでは、また会議で」
 次回こそまともな議題であればいいですね、と手をひらつかせて見送る菊にイヴァンが言い残したのは、まったくだよ、という叫び声だった。個人的に『アメリカ』に対して思うところはあれど、イヴァンもせめて建設的な議題で会議に臨みたい、という気持ちは一緒らしい。まあそうですよねえ、と心の底から息を吐き出し、さて、と菊は首を傾げる。イヴァンはああ言って恐怖を感じていたが、ナターリヤが潜んでいるようには思えない。
 なぜならこういった場合、イヴァンが居なくなった瞬間にナイフで切りかかって来るか、直接素手で戦闘行為を挑みかかって来るか、銃をで発砲してくるか、がいつものことだったからだ。そそくさと『国』が場を辞してしまった会議場の廊下は、しんと静まり返っていて様子を伺う緊張感も漂わない。居ない、ということだ。菊を狙うことなく、イヴァンを捕縛しようとするでもなく、どこかで休んでいれば良いのだが。ふー、と溜息をついた。
 どうしたって、ナターリヤが安全な場所で休憩している姿を想像できない。ソファに横たわって目を閉じていたとすれば、絶対に音が鳴るトラップが付近に忍ばせてあり、それが作動した瞬間、抱きしめていた機関銃が火を吹くに違いないのだ。罠に飛び込んでいくつもりはないのですけれどね、と溜息をつきながら、菊は会議場をゆったりと彷徨い歩く。その途中で、掃除用具入れに忍ばせておいた日本刀の回収も忘れなかった。
 人の気配の無い場所を、じっくりと見て回る。廊下の端にある、忘れ去られたちいさな物置き。渡り廊下の途中に面す中庭の、大きな木の影。空き部屋を一つ一つ覗きこんで、途中休憩の為に用意されていたホールにも顔を出す。数名の『国』が歓談しているだけで、ナターリヤの姿はない。立ち止まって考えたあと、菊が向かったのは会議室の付近にある、つきあたりの廊下である。非常用出口に通じる、普段は使わない場所。
 日陰になっている廊下を曲がる。そこで立ち止まり、菊は深々と溜息をついた。案の定、ナターリヤはそこに居た。ほふく前進でもしかねない体勢で、床に倒れたまま動かない。こういう状態をなんというか、菊は知っていた。行き倒れ、である。それはそれは見事な行き倒れ状態から動かない少女の傍らに歩み寄ってしゃがみこみ、菊はナターリヤの顔を覗きこんだ。ぎゅう、と眉間にしわが寄っている。唇も、噛まれて赤かった。
 体調不良のあまり倒れた、ということだろう、つまり。こんな誰も来ないような場所に倒れていたのは、偶然ではなくわざとに違いない。その動機も理由も、菊には手に取るように分かった。イヴァンに心配をかけない為だ。誰かに見つかって騒ぎを起こさせない為だ。騒ぎになれば、イヴァンの迷惑になる。そう考えたに違いない。まったく、と菊は意識を失ったナターリヤに手を伸ばす。乱れた髪を摘んで、耳にかけて軽く整えてやる。
 常であれば手で払われそうなものだが、ナターリヤは瞼を閉ざしたまま、ぴくりとも動かない。本当に意識を失っているらしかった。つまらない。なんとなくそう思いながら、菊は少女に手を伸ばした。足の裏と、肩から首の後ろに手を回して頭を手のひらに乗せる。身を屈めて、そのまま抱き上げた。意識のない体は重たくも感じるが、想像以上のものではない。ぐっと腕に力を込める。軽く呻いて、けれど少女は目を覚まさない。
 まったく、どれだけ無理をして起きていたというのだ。呆れ果てながら、菊はゆっくり廊下を歩んでいく。先程探したから、静かな空き部屋が何処にあるかは分かっていた。どの道を通れば、誰にも会わずにいられるかも。両手がふさがっているので扉は足で蹴り開け、室内に体を滑り込ませる。座り心地のよさそうな、大きな赤いソファがあった。静かに足を運び、そこにナターリヤの体を下ろす。衣擦れの音が、やけに耳に残った。
 体重をかけられたスプリングが、ぎ、と音を立ててきしむ。ナターリヤの頭の下にクッションを挟んでやりながら、菊は少女の頬に手のひらを押し当てた。柔らかな頬が、無防備に手の熱を受け止める。弱く呼吸を繰り返しているのを、指が感じ取った。ぞく、と背に悪い感情が突き抜ける。頬に手を触れさせたまま、顔をごく近くに、寄せた。吐息が、肌をくすぐる。
「……いけませんよ。男の前で……こんなに無防備で居ては」
 ごく僅かに、ナターリヤが身じろぎをする。白い喉を反らして微かに呻くのを、菊は苦笑しながら眺めていた。目覚める気配は、ない。少女としても『国』としても、全く無防備なことだった。菊はナターリヤの頬をしっとりと撫で、指先を離して淡く微笑む。
「おやすみなさい。……挑みかかる貴方も勇ましく思いますが、眠っていると、やはり」
 とても、綺麗ですね。くすりと笑って身を離し、菊は上着のボタンを外して袖をぬく。半日は着ていたのですこしばかり汗臭いかもしれないが、近くにかけられる布や毛布がないので、勘弁してもらうしかない。眠りこけるナターリヤに上着をかけ、菊は確かまだフェリシアーノが居た筈だ、と思いながら部屋を出て行く。洒落者の『国』だから、着替えの一枚や二枚、会議場に持ちこんでいてもおかしくはない。扉に手をかけて振り返る。
 ナターリヤはまだ、目覚めていなかった。ゆらゆらと上下する胸の動きは先程よりも大きく、眠りと安らぎは深くなっているようだった。一人で残していくのは気が引けるが、警備もしっかりしているこの場所に、悪い者は入り込めない。まあ大丈夫でしょう、と呟いて、菊はぱたんと扉を閉める。歩き去って行く足音にも、ナターリヤの瞼が開くことはなかった。



 誰かに呼ばれた気がして、ナターリヤは目を覚ました。頭がぼんやりとしている。眠い気もするが、それ以上に全身がだるくて動かせなかった。息を吸い込むと、下腹部が急激に痛む。ドロリと体内から血が流れる感覚があり、おぞましさに身を震わせた。下着は汚れてしまっているだろう。服にも染みが付いてしまったかも知れない。たったそれだけのことなのに、ぞっと心が冷えた。日暮れで、辺りがもう暗いからかも知れなかった。
 吐き気を堪えて手をついて体を起こし、そこで初めて見覚えのないソファに横たわっていたことを知る。膝に滑り落ちている上着を手で握って、ナヤーリヤは眉を寄せた。この上着は、まさか。見覚えがあるのはそれを目印に昼間切りかかったからで、間違いなければそれは、『日本』である菊のものである筈だった。軽く室内を見回す。しんと静まり返った部屋は使われていない本室かなにかで、本棚と机、ソファしか置かれていない。
 声が聞こえた。ナターリヤを探しているようだった。慌ただしい足音が駆けてきて隣の部屋の扉を開け、舌打ちを響かせてからナターリヤの居る部屋の扉を押し開ける。ぼんやりとした見通しの悪い明るさであっても、トーリスはきちんとナターリヤの姿を認める事が出来たらしい。ほっとした顔つきで、犬のように駆け寄ってくる。
「よかった、ナターリヤちゃん。探したよ。どこにも居なくて……どうかしたの?」
「……一応聞いておくが、私をここに運んだのは」
 お前じゃないな、と嫌そうな声に、トーリスは不思議そうに首を傾げてみせた。反応を見る分に、イヴァンでもないだろう。イヴァンならばそもそもこんな所に放置しないだろうし、目覚めれば自宅かホテルの一室の筈である。窓から見えた景色は会議場のもので、ここはその一室らしかった。ナターリヤに、自力でここへ辿りついた記憶はない。とにかく人の気配がない方へ足を進めた辺りで、ぶっつりと記憶が途絶えてしまっている。
 過去の経験から考えると、まあ倒れたのだろう。数時間で意識は回復するので、行き倒れからそのまま置きあがったことも何度かある。無言で考え込むナターリヤに多くを問うことなく、トーリスは優しげな微笑みで少女に手を伸ばした。
「よく分からないけど、俺じゃないよ。……さ、帰ろう、ナターリヤちゃん」
「嫌だ触るな」
 体に触れて立ち上がらせようとした手を、ナターリヤは無造作に叩き払った。困ったように見てくるのは分かったが、顔ごとそらして無視をする。体調的に立ち上がれそうにないのが本当の所だが、それ以上に、下着が気持ち悪い。立ち上がればまた激痛と共に、ドロリとした血の塊が流れてくるだろう。それに耐えられそうになかった。ナターリヤちゃん、と呼びかけて困ったように身を屈めて来る幼馴染を、少女は不満げに睨む。
「トーリス」
「うん。なぁに」
「姉さんはどこだ。姉さんを呼んで来い」
 そうしたら立ち上がるし帰る、と言い張るナターリヤに、トーリスは困った表情でふわりと笑う。どうしようかな、と考えて言葉を選んでいる表情だった。あ、とナターリヤは思い当たる。
「そうか。会議には来てなかった……」
「うん。……ね、俺じゃダメかな。君が嫌がることはなにもしないよ」
 ね、と優しく言い聞かせてくるトーリスを、ナターリヤは全く何も分かっていない、と呆れ顔で睨みつけた。嫌なことをするしない、ではなく、トーリスは性別の時点で最初から論外であるというのに。それとも口に出さなければいけないのか。言わなければいけないのだろうか。ぐぅ、と口ごもったナターリヤに、トーリスの表情が心配そうなものに変化する。熱を計ろうとして伸びてくる指が額に触れる前に、ナターリヤはそれを手で遮った。
 触れられるのは、温かくて、嫌だった。ぎゅうぅ、と力を込めてくるナターリヤに、トーリスはますます困った顔つきになる。
「ナターリヤちゃん。……ね、どうしたの? どこか悪い?」
「う……」
「ごめんね。俺、鈍いから言ってくれなきゃ分からないよ。……俺には言えない?」
 しょんぼりした顔つきでしゃがみこみ、トーリスは下からナターリヤの顔を覗きこんでくる。だから、トーリスがどうこうというより、性別が問題なのだというのに。言葉に出しては言いにくい罵倒を唇を噛むことで堪えて、ナターリヤはトーリスの手を離し、そのまま青年の顔の前に移動させる。不思議そうな顔つきをぺち、と力ない手のひらで叩けば、トーリスは一瞬きょとんとした後、くすぐったそうに微笑んだ。
「なぁに?」
「……兄さんは」
「ん、心配してた。俺に探して来いって。自分は、帰って来た時の為にホテルで待ってるって。入れ違いになったら一人になっちゃうし、それは悲しいからね。……ね、帰ろうよ」
 動けないなら抱っこしていくよ、と微笑むトーリスに、ナターリヤはもぞもぞと身動きをしたのち、首を振った。もぅ、と困り切った笑顔でトーリスが息を吐く。じゃあ、どうすればいいのかな、と柔らかに問われても、ナターリヤにだってどうしようもないのだ。少女なりに精一杯、私だって困ってる、という意思を乗せてトーリスを睨めば、青年はうっとりとした微笑みでナターリヤを見返すばかりだ。可愛い、とでも思っているに違いない。
 トーリスの考えていることくらい、ナターリヤにはすぐ分かるのだ。恥ずかしいヤツ、と思いながら視線をそらし、ナターリヤは不意に襲ってきた痛みに眉を寄せる。ふ、と息を吐き出し、下腹部に手をやって体を丸めてしまった。しまった、と思う。こんな動きをすればすぐに、どこが痛いかなど分かってしまう。焦るのに痛みは強くて、どうしても体勢を変えられない。痛みに呻くナターリヤに、ハッとした表情でトーリスが立ち上がる。
 ともかく、ここに寝かせて置けないと思ったのだろう。ごめんね、と言いながら抱き上げようとする腕の気配を感じて、ナターリヤは拒絶感で身を強張らせた。嫌だ。触れるな。温かい手で、優しさで。触れるな。どうせ。離れて行く、くせに。
「……誰か居るの?」
 カタ、と扉が鳴る。トーリスの気配がそのまま反転し、反射的にナターリヤを背に庇ったのだと分かった。薄く目を開けば部屋の入り口に、誰か女性が立っているのが分かる。あれ、と気の抜けたトーリスの呟き。
「エリザベータ、さん……」
「トーリスちゃんに……ナターリヤちゃん? え、どうしたのっ?」
 不審げだった呟きが、ナターリヤの状態を確認してハッとしたものになる。そのまま駆け寄ってくる姿に、トーリスが場所を開けた。
「よく分からないんですけれど……起き上がれない、みたいで」
「そうなの? ……ナターリヤちゃん、どうしたの? お腹痛い……?」
 腹部に手を押し当てて痛がる少女の姿に、エリザベータはなんとなく事情を把握してくれたらしい。そっと声をひそめて問いかけてくるのに、ナターリヤはエリザベータの耳元に口を寄せ、悔しいような泣きそうな思いで呟いた。
「生理……」
「うん。うん、分かった。痛いよね。びっくりしたね……大丈夫よ」
 汚れちゃってるかな、と事情を分かった呟きに、ナターリヤは唇を噛んで頷いた。大丈夫よ、と囁きかけながら、エリザベータは振り返ってトーリスを呼ぶ。
「トーリスちゃん、お願いがあるんだけど」
「……すみません、できればちゃんではなく……あの」
「会議場の入口にギルベルトが私の荷物持って立ってる筈だから、着替えの入ってる方を受け取って来てくれる? しぶるようなら、ギルごとここに連れて来てくれれば良いから」
 まあ私が良いから早く来なさいよって言ってた、って言えばすぐ走って来ると思うんだけど。にっこりと笑いながら言うエリザベータに苦笑して、トーリスは小走りに部屋を出て行こうとする。一度だけ立ち止まってナターリヤを申し訳なさそうに振り向いたのは、上手く対処することの出来なかった罪悪感故だろうか。ごめんね、すぐ戻るから、と唇の動きだけで囁いて、トーリスは身軽くかけて行く。遠ざかる足音に、体の力が抜けた。
「……痛い?」
 すぐ着替えと、あと鎮痛剤もあったと思うから、持ってきてもらうからね、と囁いて来るエリザベータに、ナターリヤはぼんやりと目を向ける。こくん、と頷いて、ナターリヤはゆるゆると丸めていた体を解いて行った。はぁ、と息が抜けて行く。
「あら……?」
「……なに」
「この服、菊さんの……? 上着?」
 ナターリヤの体の中心でくしゃくしゃになってしまった上着に、エリザベータも見覚えがあったらしい。やっぱりアイツのか、とぐったりしながら呟くナターリヤに、エリザベータはごく不思議そうに問いかけた。
「運んでもらったの……?」
「知らない。覚えてない。多分寝てた」
 ナターリヤの手がぎこちなく動き、くしゃくしゃの上着を取り上げる。眉を寄せながら皺を手で伸ばそうとするのを見やり、エリザベータはえっと、と首を傾げた。
「あの……仲、良かった、の?」
「……お前が思ってるようなのでは、ないと思う」
 顔を合わせれば挨拶代わりに襲撃する。そういう仲だ。言葉に出して説明すれば凄まじく犬猿の仲だと思われそうだが、別にいがみ合っている訳でもないのだ。難しい顔つきになりながら呟くナターリヤに、エリザベータはそれ以上を尋ねなかった。もうすぐ来る筈だからね、と言い聞かせられるのに、ナターリヤはこくりと頷いた。じくじくと下腹部が傷んで、全身がだるい。ゆっくりと目を閉じて横になれば、風の吹く音が聞こえた。
 ざぁ、と枝葉の揺れる音。それになぜか、白い花を思い出した。あの花の名前は、なんと言っただろうか。上着をぎゅぅ、と抱きしめる。
「……あ」
 思い出す。ばたばたと慌ただしく駆けてくる足音にかき消されないよう、ナターリヤは小さく、その花の名前を呟いた。
「さくら……」
 三文字の名前の印象は、どこか優しく。柔らかく耳から、全身を抱きしめるように響いた。上着から、自分のものではない匂いがする。それはもしかしたら、あの花の香りだったのかもしれない。

BACK / INDEX / NEXT