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 4 いとしいとしといふこころ

 白い紙に万年筆で書かれた文字の色は、梅雨の一番初めの雨に打たれた、紫陽花の色を思わせた。匂い立つ清楚さは他の筆記用具には無いものだ。勿忘草を思わせるその青は、時の経過と共に黒く染まって行く。晴れ空に夜が訪れる頃には、国に帰れるだろう。今回もあまり有意義な議題とは言えない会議だったが、それでも終了後独特の疲労感が身を襲った。書類を簡単に手で整えて鞄にしまい、椅子から立ち上がる。
 両腕を上にあげて伸びをし、詰めていた息を吐き出す。それだけで疲労が体から抜けた気がして、口元には笑みが浮かんだ。視線を会議場に流してナターリヤの姿を探し、見当たらないことに気がついて、菊は思わず苦笑した。居たとして、なにを話そうという訳ではないのだ。強いて言えば前回の会議の時に与えた上着の行方が気になるくらいだが、捨てていたとしてもそれはそれで構わない。あれは一度手を離れたものだ。
 少女のぬくもりを守る役目を全うしてくれたのなら、もうそれで十分なのである。菊はちらりとイヴァンを盗み見て、その背後にも近くにもナターリヤの姿がないことをもう一度確認する。思い返してみれば会議中も姿を見た記憶がなかったので、今回は欠席したのかも知れなかった。『ベラルーシ』は現在、あくまで『ロシア』の補佐として動いている。必ず会議に姿を現す訳ではないのだった。イヴァンが置いて来たのかも知れない。
 先の体調不良が長引いていなければいいのだが。鞄を小脇に抱えて、会議場を出て行く。足を向けたのは出口ではなく、会議場となった建物の奥だった。人気のない方へ、ない方へと選んで足を進めて行く。関係者以外立ち入りの札を無視して、非常用出入り口のある一角へ向かう。暗く静まり返った廊下に、足音が三歩、四歩分響く。ふっ、と気配が現れた。振り返る間もなく後頭部に銃口が突き付けられ、押し付けられる。
「背中に隙がありすぎだ」
「……あなたはあれですか。人気のない場所を選んで歩くと現れる妖怪の仲間ですか?」
「よく分からないことを言うな。……私を誘ってこんな所まで来たくせに」
 今日はお前になにもしないでこっそり帰るつもりだったのに、と機嫌を損ねた風に言うナターリヤに、菊は思わず笑ってしまった。銃口を突き付けられている危機感など全くなく、両手を軽く上にあげながら振り返る。少女はきっと撃ちはしないだろう、と思った。無垢な信頼が当たり前にある。振り返った菊にナターリヤは本当に嫌そうな顔になって銃を構えなおしたが、さりとて本気で害す様子は見られない。警戒だけが張り詰める。
 ナターリヤが持っていたのは、警戒の意思、それだけだった。それでいてそれは、菊に対する警戒とはすこし違うようだった。ナターリヤはごく慎重に、意識して、菊からの『なにか』を警戒している。なんなのか、今の菊に理解してやることはできない。引き金には指がかかっている。短く切りそろえられた、透明な貝殻色をした爪。力の込められていない皮膚の下、赤い血がゆるりと流れている。ああ、この美しいものは生きているのだ。
 不思議なくらいにそう思った。
「……兄さんに見つかる前に、帰ろうと思ったのに」
 紅の引かれていない薄桃色の唇が、拗ねた風に動いて言葉を吐き出す。そうなんですか、と頷きながら、菊は慎重にナターリヤの立ち姿を見ていた。体を支える脚には、しっかりと力が入っている。こちらを向く瞳にはハッキリとした意識があり、体調不良が残っているような感覚は受けなかった。ほっと胸を撫で下ろしながら、菊は見つかったら怒られるかも知れないのに、と背後に視線を流して落ち着かない様子の少女を眺める。
 息をしている。そのことにただ、安堵を覚えた。
「今日はついて来なくて良いから家でゆっくりしてるようにって兄さんが言うから、こっそり様子を伺うだけにして兄さんの先回りして帰ろうと思ってたのに……! なんだ、お前。なにか用事でもあるのか?」
「いえ、それはある意味私の言葉です」
 そういう事情がおありなら、私のことなど無視して帰られればよかったのに、と囁く菊に、ナターリヤはごく不思議そうにまばたきをした。そんなことは考えもしなかった、という表情だ。虚をついてしまった顔つきは、少女を外見年齢相応の、ごく無垢な存在に見せる。
「私に、なにかご用でも?」
「……ん?」
 言われて初めて思い出したことがある、という呟きだった。ちょっと待て詳しく思い出してやる、と偉そうな呟きと共に銃が下げられたので、今日の襲撃はこれでお終いにするらしい。そのままよじよじとスカートをたくしあげて行くのを視線を反らしながら溜息をつくと、ナターリヤは突然、動きを止めた。おや、と思って視線を向ける菊を睨み、ナターリヤは目を閉じていろ、とドスの聞いた声で言い放つ。
「私が良いと言うまで目を開けるな。変態」
「もうすこし銃をしまう場所を工夫しなさい」
「今度考える」
 いいから目を閉じていろ、と言ってナターリヤは菊が目を閉じるのを待たず、スカートをたくしあげて太ももを露出させた。まったくもうと溜息をつきながら、菊は素直に目を閉じてやる。その隙に銃で狙われるという疑いは、抱かなかった。ばさっ、と布が落ちる音がする。
「よし、いいぞ。目を開けろ」
 胸の前で腕を組み、ふんぞり返って偉そうにしながら、ナターリヤは菊に問いかける。
「お前だろう」
「なにがですか……。分かるように説明してくださいね、なにが私ですって?」
「お前、この間の会議で、私を放置して帰っただろう」
 究極に人聞きが悪いので、もうすこし言葉は選んで欲しいものだ。全く事情を知らない者が言葉だけ聞けば、よこしまな想像すら働かせかねない。精神的な頭の痛みを感じて溜息をつきながら、菊は傍に居てよかったんですか、と問いかけた。意味が分からない風にまばたきをする少女の瞳を、深く覗きこむ。ぎく、と体に力を入れたのは警戒か本能か。どちらにせよ、悪い反応ではない。くすくす、と菊は柔らかく笑みを零した。
「貴方が目覚めるまで、私が傍に居ても良かったと?」
「う……ち、がう。そんなこと言ってるんじゃない」
「それではどう言う意味で? ……ああ、でも、そうですね」
 どんな反応を返せばいいのか。怒ればいいのか戸惑えばいいのか、噛みつけばいいのか、泣けばいいのかすらよく分からないのだろう。じわじわと、少女の瞳の奥底に混乱が広がって行くのを眺め、菊は無性にそれを乱したくなった。ナターリヤの感情は滅多に表に現れない。はきとした表示を菊が見たのは、先日の会議が初めてだった。ナターリヤはあの瞬間、確かに『苦しみ』、そして『傷んで』いた。それは見て、よく分かった。
 今はまるで、ぶ厚い硝子を通して水を眺めているような印象しかなかった。すぐそこにあるのに決して手が届かず、そしてひどく現実感に乏しい。目の前に立っているのに。菊は無言でナターリヤに手を伸ばした。視線を近くで重ね合わせながら、戸惑う少女の頬に手を伸ばす。ナターリヤは息を止め、脚を一歩引いただけでその場から動きはしなかった。拒絶か、あるいは本能か。ナターリヤは目を見開いて、菊をまっすぐ見ている。
 肌を抱くように、頬のまるみの輪郭を手でなぞる。触れはしなかった。
「起きてひとりで、寂しかったんですよね。ナターリヤさん」
「っ……が、う……そんなじゃ、ない!」
「衣衣(きぬぎぬ)になぞらえて上着を残して行ったではありませんか、と言っても貴女には分からないでしょうし。ああ、冗談ですよ?」
 日本独特の言い回しに意味は掴めずとも、なにかしら感じる所があったのだろう。さらに身を後ろに引いて逃げてしまおうとするのを笑顔で引き留め、菊はくすりと肩を震わせて笑った。
「そんな顔をしないでください。可愛いひとだ」
「お前と会話したくなくなって来た……生理的にぞわぞわする」
「……可愛くないですね」
 せめて本能的に、と仰いと溜息をつき、菊はナターリヤの頬近くから手を引いてやった。とたん、ナターリヤは明らかにほっとした様子で体から力を抜く。どうせ強張っていたのも自覚はしていないのだろうけれど、その反応は真剣に面白くないものがあった。触れられるのが嫌なのだろうか、と思う。男にか、それとも性別など関係なくかは知らないが、この反応は明らかにそうなのだろう。イヴァンのことは、自分から捕縛しに行くくせに。
 けれども思い返せば、イヴァンも投網やらなんやらと言っていた気がする。引っかかったのでぞわぞわする、と服の上から腕をさすったりしているナターリヤをなるべく意識に入れないようにしながら、菊は記憶を探ってみた。ナターリヤは何時、他者に触れていただろう。イヴァンに随行する際は殆ど常に背側に立っているから親しい男女のように腕を組んでいるのを見たこともないし、ごく距離が近くとも、指は服を摘んでいた筈だった。
 菊は思い出す。はじめて客人として日本に招待した時のこと。迎えに走った幼子からも怯えるように、ナターリヤはイヴァンの背に隠れていた。怖いのだろう。不意に言葉が浮かび上がり、菊の意識で答えとして弾けた。きっと、怖いのだろう。触れられることが。その手がいつか、引いてしまうことが。ぬくもりが永遠でないことが、たまらなく怖いに違いない。そしてその恐怖をきっと、ナターリヤは自覚することができていないのだ。
 触れることが嫌だと、ただそれだけなのだと頑なに己に言い聞かせて。その先を考えようとしないのは、心の持つ正しい防衛反応だ。悲しみに人の心は耐えられる。けれど寂しさに、それを恐れる心に。苦しかった記憶に、心が耐えられないこともある。人は忘れて生きていける。『国』にそれは、許されない。『国』の記憶は国家の歴史。歩んで来た人々の魂そのもの。忘れることは、母親が乳飲み子を殺すよりもずっと、罪深い。
 『国』の本能に刻み込まれた、呼吸よりも重要な愛の証。ひとに対する愛情の在り方。忘れないこと。記憶していること。一つも、ひとつもなにごとも取りこぼさず、覚えてはいられなくても『思い出せる』ことこそ、『国』の愛情。無償にひとに注がれる、無数の形のその一つ。
「そうだ。思い出した」
「はい? はい、なんですか」
「もう一回確認しておくが、私を運んだのはお前なんだな?」
 それ以外の誰かだったら困る、とナターリヤの瞳が物語っていた。すこし、気持ちが受け止められた気がして、菊はくすりと口元を微笑ませる。その通りですよ、と言ってやれば、ナターリヤの湖面色の瞳に浮かんだのは、明らかな安堵だった。凍りついた、音も光も届かない森の中の湖面に。すぅ、と感情という光が宿って行く。うん、と満足した仕草でナターリヤは頷いた。
「よし、分かった。借りを作っておくのが嫌だから返させろ」
「……本当に、可愛いのか可愛くないのかどっちつかずのひとですね。貴女は」
「兄さんに可愛いと思ってもらえれば、私はそれで問題ない」
 つまりお前の評価はどうでもいい、とそこまできっぱり口にしたナターリヤに、菊はにこりと笑みを含めた。訂正しておこう。可愛くない。浮かべる笑みで苛立ちを誤魔化し、菊は呆れた気持ちでナターリヤを眺めた。
「別に、借りなど作ろうと思った訳ではありません。気にしなくていいんですよ?」
「気になる。……なにかして欲しいこと、ないのか? ウォトカのお使いにだって行くし、ピロシキが食べたかったら作ってやらないこともないし、それから本屋の予約を取って来てやるとか……鈴蘭の鉢植えの方がいいか? まさかお前までパルシュキ作るから手伝えとかそういう……嫌だあれ面倒くさい。他のにしろ。ピンクのペンキなら買って来てやらんこともない」
「結構です」
 これはもしかして周囲によってたかって甘やかされているのか、そうなのか。聞いただけで、誰がなにを頼んだのか菊には分かってしまった。兄に姉、エドヴァルド、ライヴィス、そしてトーリスに違いない。なにかされるたびに恩返し、ではないがそのままでは居られないと主張するナターリヤに、家族と親しい者たちはそうして気持ちを解消させているに違いないのだった。それらはまるきり、こどものお使いのような内容ばかりである。
 気の良い青年は相変わらず、不死鳥を思わせる奔放な隣国に困らされているらしいことだけが、聞いていて微笑ましいこともなかった。そんなことならしなくていいです、と言い放つ菊に、ナターリヤは聞き分けのないこどもを見つめる視線を向けた。そんな目で見るのはやめて欲しい、心底。適当な用事を言いつけるのが一番だと思いつつ、ちょうど良いものが思い浮かばない。襲撃止めてください、は多分一回限定で終わるだろう。
 最近は特に、手段の為に目的を見失っている感の強い襲撃は、すでに意味のない習慣の一つくらいになってしまっているのだった。そのうち正気に返って意味の無さに気がついて止めてくれないものか、と菊は思っているが、恐らく後百年くらいはかかるだろう。百年待てるのが『国』の良い所だが、百年待ててしまうのが『国』の嫌な所だった。諦めて帰ってくれないかと思うが、待てと暮らせど嫌な感じに忍耐強い少女は諦めない。
 そうだこれくらいで諦めてくれるのならば、イヴァンさんが泣いて怯えて逃げ惑うハメにはそもそもならない、と認識を新たにし、菊はふうと溜息をついた。視線を窓の外に流す。薄暗い室内から見た外は、眩いくらいの太陽で照らし出されている。そういえば、そろそろ季節は夏なのだった。会議で出歩いてばかりいると室内が一定だから季節感が消えてしまう、と嘆きながらも、菊はあることを思いついて顔をあげる。視線があった。
「良いことを思いつきました」
「なんだ」
「お出かけしましょうか。花を見に」
 ざっ、と窓のすぐ傍で木の枝が揺れる。強い風が吹いたのだった。眩い程の光が木の葉の影を、二人の足元にクッキリと映し出していた。ゆらゆら、光の欠片が葉影の間で揺れている。眩しくて眩暈がしそうだった。ようやく、それに気がつく。ゆるりと目を細め、菊はナターリヤを見た。
「いつかご覧になった桜はもう散ってしまいましたが、この季節ならばひまわりが見られますよ。たくさん」
 ナターリヤは菊を見返す。その、湖面色の瞳。凍りついた色。夏になりかけた日差しを浴びて、強くもしなやかに輝いている。恐ろしいほど、静寂に満ちたまなざし。それに、菊は微笑みかける。
「一緒に、花を見に行きましょう。それに付き合ってくださることで、借りを返してください」
「……兄さんと」
「一人で来なさい」
 思わずぴしゃりと跳ねのけるような言い方になったのは、胸に苛立ちが残っていたせいだった。なにに対しての苛立ちかは、よく分からない。それを直接ナターリヤに向けるものではないと知っていても、口から出た響きは戻ることがないのだった。むっと眉を寄せたまま押し黙り、ナターリヤは視線を廊下に落として黙りこむ。息を吸う音。
「……いつ、行けばいい」
「好きな時に、と言いたい所ですが。一番近い休みは何時ですか?」
「四日後」
 答えて、ナターリヤは顔を上げた。ちりっ、と音がしそうな火の種が瞳の中にある。言い負けて悔しいのだろう。ふ、と口元を緩めて笑いながら菊は揺れる火を眺めていた。この感情は、菊が、自ら紡いだ言葉によってのみ引き出したものだ。己のものだった。じわ、と胸が温かくなる。
「それでは、四日後に。……私の家まで一人で来られますか?」
「馬鹿にするな。それくらい。……地図があれば」
「それでは、今日中に地図を描いてお渡しします。……ああ、それともホテルに部屋も取っておられない?」
 なにせ本当なら、イヴァンの言いつけを守ってソビエトの中に居なければいけないのだ。会議で集まってくる『国』たちは大体、近場に宿泊や休憩の為のホテルを取り、そこですこし体を休めてから帰国するのが通例だが、そういう事情であれば部屋もないだろう。どうやって渡しましょうね、と苦笑する菊に、ナターリヤはいい、と目を細くして言い放った。
「もう、いい。兄さんに会って一緒に帰る!」
「そうですか。ではイヴァンさんの帰国前までに。ホテルに渡しに行っても?」
「嫌だ止めろ来るな馬鹿。ホテルの……植え木の影とかに、置いておけば回収する」
 だから会いに来るな、兄さんに変な目見られたらどうしてくれるんだ、と心底嫌そうに言い放つナターリヤにくすくすと喉を震わせて笑い、菊は少女に向かってひらりと手を振った。もう行っていいですよ、という開放の合図だ。ナターリヤは機嫌を損ねたように眉を寄せたままでぷいと顔をそむけ、ばたばたと、少女らしかぬ乱暴な足音でどこかへかけて行く。お前なんかだいきらいだっ、と捨て台詞が、姿も見えない遠くから響いて来た。
 数秒は堪え、菊はその場にしゃがみ込んで笑いだした。
「はっ……まっ、たく。可愛げのない」
 楽しみにしているとでも告げられれば、もうすこし優しくしてやる気も起きるだろうに。つい苛めてしまいたい気分になるのは反省すべき所ですね、と苦笑しながら立ち上がり、菊はゆったりとした足取りで少女の消えた廊下を歩く。地図に付け加える招待の手紙には、どんな文句を綴ろうか。青いインクが黒く染まる前に、手紙を見つけれくれればいいのだけれど、と。そんなことを思った。



 背筋を伸ばして。囁くような声に命令するなと吐き捨てれば、くすくすと潜められた笑い声がしっとりと耳に届いた。体温が上がる。ぐぅっと喉を鳴らして言葉にならない意思を殺し、ナターリヤは視線を彷徨わせた。目に映っているのは畳みとそれからふすま。木枠に白い和紙を張られた戸は、確か障子という名の筈だった。珍しくて突いていたら穴があいてしまい、先程ナターリヤは、菊に笑顔で叱られた。菊は、怒る時も笑顔なのだ。
 今も、そーっと下ろした視線を受け止めた菊の表情は笑顔だった。笑っている。それでも、すこし困った風に見えるのは間違いではないだろう。菊は多くの感情を笑顔という表情に含ませ、同じに見えてもその時々で乗せられた意味合いは違うのだから。ナターリヤはむっとして、己の前に両膝をついて座る菊をじっと睨み下ろした。
「嫌だ、命令するな」
「……頼んでいるのですよ。ほら、ね。背筋、伸ばしてください」
 帯が綺麗に結べないでしょう。そっと首を傾げて告げる声は明らかに困っていたからこそ、ナタ−リヤはふんと鼻を鳴らし、青年の頼みごとを聞いてやることにした。今日は借りを返しに来ているのである。命令ではなく頼まれたことなら、場合によっては受け入れてやらなくもなかった。地図を頼りに家に辿りつくと、ようこそいらっしゃいました御召替えの用意はしてありますので着替えてくださいね、と言われて帰ろうかと思ったが。
 その格好で出歩くとなると、私の国のこの季節ではそのうち絶対に倒れます。それに綺麗な柄の浴衣をナターリヤさんの為に見つくろって来たのですよ、と言われてすこしだけ心が揺らいだ所に、それにこれも借りを返して頂く一環ですと言い放たれて、ナターリヤは逃げることができなくなった。借りは返すものなのである。青年を目の前に服を脱ぐのはなぜかためらいがあったが、目を閉じていましょうか、と笑われて心も決まる。
 別に、見られて困ることなどなにもない、筈なのだった。最終手段としての、ごく細い針のようなナイフは髪の中に隠してあるし、菊はナターリヤがどこに武器を仕込んでいるのか、大体なら知っている。いつも襲撃しては失敗して、目の前で武器をしまいなおしているからだ。よく考えれば、それは失敗だったかも知れない。武器のある位置を、標的に把握されているということだからだ。今度から隠れてしまいなおそう、と深く思う。
 ばさりと服を脱ぎ捨てたのは奥の間で、ナターリヤはなぜかそのすぼまった静寂と障子が畳みに描く波のような光の影を、鮮明に覚えていた。そこから浴衣を着せられる実際の工程について、ナターリヤはあまりよく覚えていない。視線を反らして頬を赤く染めた菊が、ですよねああ言えば貴女それくらいの勢いで脱ぎますよね私の計算間違いでしたああもう警戒心を誰か植え付けてください、と言っていたのを思い出すくらいだ。
 下着姿のナターリヤに浴衣の袖を通させ、襟を合わせた辺りでようやく落ち着いたらしいのだが。それまでは挙動不審気味だった菊の姿を思い出すだけで、ナターリヤはすこし胸がすっとする。この笑顔で全てを覆い隠してしまっているだけの青年も、ああして感情を乱すことがあるのだ。その事実は、なぜかとても嬉しいことだった。他の『国』が、それを知っているとも思えない。菊は常に笑顔で、穏やかで、そして狡猾で老獪だ。
 本心は見せない。笑顔の奥に隠してしまって、ナターリヤにも誰にも、滅多にそれを見せないのだ。慌てたあの素振りは、そんな数少ない本心の発露であったに違いない。ふ、と唇が緩んだ。面白かった。
「おや、笑った」
「……見るな、馬鹿。はやく着せろ。動きたい」
「はいはい、失礼しました。もうすこしですよ。……はい。すこし息苦しいかと思いますが、緩くするとすぐに着崩れてしまうのですこぉし我慢してくださいね。痛い所はないですか?」
 ぱたぱたと膝のあたりを叩きながら、菊はすっとまっすぐに立ち上がった。嫌味なくらい、所作が綺麗な男だ。身のこなしが優雅とするにも違うが、それは流れる水に似て自然体でいる印象を与えるのに、どこにも隙がない。可愛げのない男だ。面白くない気分になりながら体を動かし、ナターリヤはす、と息を吸い込んだ。確かに息苦しくて圧迫されている感覚はあるが、かつて戯れに着せられた、コルセットに比べれば毛頭ない。
 肋骨を折るくらいの締めつけではないから、なんとかなる。真面目にそう告げれば、菊は深々と溜息をついて折りませんよ、と呟いた。どうしてそんな危険な着物を貴女に着せなければならないのですか。さて、と呟いて気を取り直したのか、菊はむずがゆそうな顔つきをするナターリヤに微笑みかけると、うちわと扇子とどっちにしましょうね、と言った。
「ちなみにうちわはあおぐ道具ですが、扇子は物によっては武器になります」
「せんす!」
「言うと思いました。ではこちらを」
 答えを予想していたと言うより、それを選ぶように誘導したに違いないのだろう。にこりと笑った菊は袖を探って光沢のある白い扇子を取り出し、ナターリヤに向かって差し出した。受け取り、少女は開き方を聞きながら扇子を手に握る。ぱた、ぱた、と音を立てて折りたたまれた和紙を開いて行く。和紙の上に鮮やかな、それでいて優しい朱色の花が、ちぎり絵で描かれていた。その花の名前を、ナターリヤは知っている。
「さくら……」
「この季節には合いませんが、まあ、良いでしょう。それはそのまま、お土産にお持ちくださいね」
 浴衣も持って行ってかまいませんけれど、着方が分からなければ困るだけでしょうし、と苦笑され、ナターリヤは改めて己の衣装を見下ろした。日本の、伝統的な着物のひとつであるという。薄くて肌触りの良いサラリとした生地は薄く、頼りなくも思えるがしっかりと着つけられているので、なんとなく防御力的な安心感があった。白い生地の左衣に、いびつな円を描く紫色の花が咲いている。緑の葉と、蔦の模様も乗せられていた。
 花だ。それくらいは分かる。多分、日本の花だ。そこまでは分かる。それ以上が分からず、ナターリヤは描かれた花と同じ色をした帯を指でいじりながら、それよりもなお深い色合いの瞳をきゅぅと細め、菊に問いかけの目を向けた。
「これ、なんて名前の花か教えろ」
「朝顔、と言います。その名の通り、夏の朝に咲く花です」
「……この花は見られないのか?」
 時刻は少し、昼を過ぎたくらいである。朝顔はもうしぼんでしまっているだろう。申し訳ありませんと苦笑して、菊は今度イヴァンさんと泊まりにおいでなさい、と言った。宿泊させるならば、ナターリヤだけを誘う気持ちはなかった。少女は幾分かほっとしたように、無言でこくりと頷いた。
「ひまわりは、どこへ見に行くんだ?」
「近くではありますが……すこし、歩きますね」
「分かった。仕方がないから、歩いてやる」
 ちゃんと案内しろよ、と言うナターリヤに、菊はもちろんですとも、と笑う。履き物はちゃんとブーツを用意しておきましたからね、と告げた菊に、ナターリヤはなんだかとても嫌そうな顔をした。なんでサイズを知ってるんだ、と言わんばかりである。菊はにっこり笑って己の唇に人差し指を押し当てた。野暮なことは尋ねるものではありませんよ、と微笑む菊を睨み、ナターリヤは扇子を握って振り下ろす。ぱん、と音を立てて扇子が開いた。
 白地に咲く和紙の桜は、季節外れに薄桃で。けれどもとても、美しかった。



 二歩分だけ距離を開けて、隣に並んで歩いていく。遠くもなく、近くもなく、親しくもなく、不自然ではなく。揺れる手が擦れない隙間は、家を出てからも歩いている最中も縮まる気配などなく、それでいて広がって行くこともなかった。菊がゆっくり歩んでいく道の先を見ながら、ナターリヤはのんびりと足を進める。足元はブーツなので歩きにくい訳ではないが、慣れない服は脚を大きく動かして移動することが出来ない作りなのだった。
 自然に歩幅は狭くなり、ナターリヤは僅かばかりそれを不満に思いながら、てくてくと道を歩んでいく。砂利道を踏んで行く独特の足音と、蝉の鳴き声が耳についた。こびりついて、離れなくなりそうな音だ。そんなことを考えながら、慣れない暑さに浅く息を吐いた。
「……大丈夫ですか?」
 ふわん、と風が顔にあたる。顔を向けて眩しさに目を細めれば、菊は薄い木造りの扇子を手に持ってナターリヤを見ていた。暑いなら風を作りながら歩くと良いですよ、と言われて、ナターリヤはこくりと頷いた。そんなこと言われなくても分かっている、今やろうとしていた、という言葉は思いついても、口には出さない。言葉にする気力がないからだ。扇子を出してぱたぱた仰ぎだしたナターリヤを見やり、菊は静かに笑みを深めた。
「もうすこしで到着しますから。ついたら、近くに確か氷の店があった筈です。買って差し上げますよ」
「……こおり?」
「かき氷、です。そうですね、貴女方には馴染みのない食べものでしょう。氷を薄く削って、甘い蜜をかけたものを、匙ですくって食べます。干菓子にもおなじ名前のものがありますが、それは家に帰ったらご馳走しましょうね」
 今はまだ平気なようですが、あまり暑くて気持ちが悪くなったらすぐに言ってくださいね、と囁かれ、ナターリヤはこくりと頷いた。ふわん、とまた菊の方から風が吹く。お前は自分を仰がなくて良いのか、と言おうとして顔を向け、ナターリヤは眩しさにまた目を細める。進む道の先を見る分には、眩しくなどないのに。どうしてだろうと不満に考え、ナターリヤは気がついた。痛いくらいの日差しを感じたのは、家を出て僅かな間だけだ。
 すぐに熱を持って体を刺し貫く日差しは遠ざかり、暑さも和らいでいた気がする。ナターリヤが歩いていたのは、木や塀などが作り出す日陰だった。対して二歩分、横に並んで歩いている菊は日差しの中に居る。ナターリヤが気がついたことに、菊も気がついたのだろう。そっと重ねられた視線はどこか罰が悪そうで、意図的にそうしていたのだと分かる。かっと頭が白くなった。手を伸ばし、菊の腕を捕まえて思いっきり引っ張る。
 体はすぐに、日陰の中に移った。
「ば……馬鹿じゃないのか! お前! こんなに暑いのに!」
「私は……あなたよりもこの気候に慣れていますから」
「そういう問題じゃない! ばかっ! ち……近く、歩けば、良いだろう」
 このへんとか、とぎこちなくナターリヤが指差したのは、体のすぐ隣だった。菊が移動すれば二人の間には、拳一つ分くらいの距離しかなくなってしまう。仕方がないのだ。影の部分はそう広い訳ではないのだから。
「……良いんですか?」
「良くない。でも、仕方がないだろう」
「無理されなくて良いんですよ。私は本当に、慣れていますから」
 ね、と微笑む菊の額に、玉の汗が滲んでいる。暑いのだ。慣れていたってなんだって、暑いに決まっているのだ。離れて行こうとするのをどう言えば引き留められるのかが分からず、ナターリヤはきゅ、と眉を寄せてしまう。
「借りを! ……私は借りを返しに来てるんだ。それなのに、お前はまたそうやって」
 気がつかないうちに、そうやって。
「私に、借りを、増やそうとする……」
「そういうつもりでは」
「じゃあなんだ! 私の隣は嫌なのか!」
 ちゃんと並んで歩くのが嫌だって言うのかっ、と癇癪を起したナターリヤに、菊はゆる、と困ったように眉を寄せて。一歩、足を踏み出した。二人の体がすぐ傍、本当に隣に並んで立つ。視線の位置が近いことに、ようやくナターリヤは気がついた。そうだ。距離が近いということは、視線もより近くになるということなのだ。心の奥深くまで覗きこんでくるような、深く静かな黒色の瞳。戸惑うナターリヤを映し出し、あえかに微笑んでいる。
「嫌なんてこと、ありませんよ」
「う……うん。それなら、良い」
「行きましょうか。立っていても暑いばかりでしょう。……さ、もうすこしです」
 先に立って歩き出そうとする菊に、ナターリヤは急いで足を踏み出した。置いて行かれる気がしたからだ。慌てて踏み出した足は慣れない服と暑さに負けて、砂利をしっかりと踏むことができない。ざっ、と横滑りする音が響く。一瞬の暗転。ナターリヤは息を吸い込んだ。はっ、と耳元で息を吸う音。呆れたような、怒っているような。安堵したような。息の音。己のものではない、誰かの呼吸音。背中に回された腕に、力がこもる。
「怪我は?」
「な……な、い」
「……急がせましたか? すみません」
 抱擁は、すぐ解かれた。抱きしめ合うとするには一方的な、ぎこちなくも誠実な抱擁だった。ふぅ、と息を吐いて立ち直し、ナターリヤの浴衣が乱れてしまったのを整えてやってはじめて、菊は咄嗟の行動が何であったか、に思い至ったらしい。未だに硬直しているナターリヤを怖々と見やり、菊はいえあの、と引きつった声で呟いた。
「そ、ういう……つもり、では」
「……お前、誰が転びそうになってもああやって助けるのか」
 強張ったままの体は、どこか己のものではないようだった。言葉が勝手に、こぼれ落ちるように響いて行く。苛立ちを感じた。よく分からない、経験したことのない嫌な気持ち。ぎゅぅ、と眉を寄せて黙りこんでしまうナターリヤに対して、菊は言葉に迷ったのだろう。青年は少女の前に両膝をついてしゃがみ込み、浴衣の着付けをした時のように、深く静かに息が吸い込まれる。声は、低く凛として。夏の煩さに負けず、耳に届いた。
「いいえ」
 見上げてくる、その視線が。心の深くまで、見通すようで。息が吸い込めなくなる。
「いいえ。……貴女だけですよ。あんな風に助けたのは」
 腕があがる。日本刀を握ってなお無骨な印象を与えない、男の手のひらだった。指先まで揃えられた手は、触れることなくナターリヤの頬を、その輪郭をそっとなぞって行く。両手が、頬のすぐ近くにある。包み込むように、包み込まれるように。触れていないのに、じわじわと熱を感じた。暑い。けれどもそれが、気温のせいなのか。触れない手の熱なのか、息の詰まるような感情のせいなのか。ナターリヤには、よく分からなかった。
 息がくるしい。
「……そう、か」
「はい。だから、そんな顔をしないでください」
「……わたし」
 くるしい、くるしい。心臓が高く鳴っている。息の仕方を忘れてしまった。瞬きすら、上手にできている気がしない。視線がそらせなくなる。体の自由が奪われてしまう。考え事が上手くまとまらない。眩暈がする。手が汗ばんで、指の先がひどく冷たい。
「どんな顔、してるように……見え、る……ん、だ?」
「……それは」
 くるしい。海の底に沈められてしまったようだ。そんな風な顔を目の前の青年もしていることに、ナターリヤはぼんやり気がつく。眩暈がする。酸素が足りない。ここは海の中だっただろうか。ここは地上ではなかったのだろうか。じりじりと肌が焼けるように暑いのに、水の中のようで息が出来ない。息ができない。く、と喉が鳴った。
「……それは?」
「それは、その」
「早く言え。息が苦しい。……くるしい、菊」
 はやくしないと、息さえ出来ない。苦しげに眉を寄せながら、ナターリヤはそれを促す。
「菊」
「……ナターリヤさん」
「菊。くるしい。……菊、菊」
 はやく、はやく。どんな顔をしているのか、教えて欲しい。自分では見ることなど出来ないから。その瞳に、映し出して。見せて。教えて。早く、早くに。
「……お前のせいで、私はくるしい!」
「……まったく、本当に」
 どうしようもなく。可愛らしいひと。静かな囁きの意味を把握する前に、唇をぬくもりが掠めて行く。ふ、と吐息が抜けて、ナターリヤは呼吸を楽にした。体から、強張っていた力が抜け落ちる。深呼吸をしたナターリヤを見つめてから、菊は少女から体を離した。唇に、指先で触れる。その表情が珍しく心から微笑んでいるように見えたので、ナターリヤは不思議がって首を傾げた。そういえば、今なにをされたのだろう。本当に、一瞬だけ。
 掠めて行った熱の意味を、未だ知らない。
「……行きましょうか」
 いざなう言葉に頷いて、ナターリヤはごく慎重に一歩を踏み出した。今度は、菊も急ぎはしない。二人は互いの歩調を合わせるように、互いに行きすぎず、遅れてしまわないように気をつけながら、ゆっくり、ゆっくり道を歩いて行く。視線の先に滲む、黄色い地平線。思わず駆けだせば、菊は微笑んで背を見送ってくれた。ナターリヤは息を切らしながら走り、その道の先で立ち止まる。ざ、と風が吹き抜けた。一面の、ひまわり畑。
 濃く鮮やかな黄色が、視界を埋め尽くしていた。
「これを」
「はい」
「見せたかったのか、お前。私に」
 はい、と声が響く。頭の後ろ、すぐ近くから。振り返れば柔らかく微笑む瞳が、ナターリヤをじっと見つめていた。
「貴女が、どんな風にこの花を見るのか、見てみたかった」
「……変なヤツ」
「ふふ。どうですか? 気に行ってくださいました?」
 ごく嬉しそうに目を細めた笑顔には、心からの意思が灯っている。仮面ではない、見せかけではない本当の心。なぜか直視していることができなくて、ナターリヤはぷいと視線を反らしてひまわり畑に視線を戻した。見渡す限り、地平線の向こうまでがひまわり畑だ。振り返ればやってきた道と、遠くに街並みが見えるが畑の中に入ってしまえばそれも消えてしまうだろう。ぐるりと一周、見渡す限りの雪原ならば慣れているのに。
 広大だ、と思う。そのことを嬉しく思う、不思議な感情。
「すごいな……あ」
「あ?」
「借り! 返しに来たのに、なんで私が喜ばされてるんだ!」
 その事実に今の今になって、ようやくナターリヤは気がついたらしい。肩を怒らせて振り返る少女を、菊はやや茫然とした目で数秒間見つめた。視線が一方的な火花を散らしてぶつかり合い、やがて菊が笑いと共に反らしてしまう。堪え切れずに一回吹き出して、菊は珍しくも声をあげて笑った。ナターリヤはびくっと体を震わせて、目をまるく見開いた。
「わ、笑っ……笑うな! 笑うなぁっ!」
「く……ははっ、あははっ! 貴女本当に気がつかないで……! すみません、でもっ……ふふっ!」
「笑うな! 笑うなってば……! もういい! お前、笑ったから借りナシにするからな! もうおしまいだ! ばかっ!」
 お前なんか置いて行ってやる、と半ば本気で言い放ち、ナターリヤは来た道を戻ろうとする。その腕を瞬間的に強く、菊が捕らえて引き寄せた。すぐ近く、吐息さえ別け与えられそうな近くで、視線が交わった。息が止まる。ぱ、と慌てて手を離し、菊は申し訳なさそうに眉を寄せる。
「……すみません」
 意思を探るように、ナターリヤの目がきゅぅと細くなる。子猫のようだ。そう思ってまたすこし笑った菊に、ナターリヤはむっとした顔つきになった。
「まだ笑ってる」
「すみませんってば。もう笑いません。……私は、貴女の喜ぶ顔が見てみたかった。だからお誘い申し上げたのです。喜んでいただけたなら、確かに、借りを返して頂きましたよ」
 だから何処へも行かないでくださいね、と笑う菊に、ナターリヤは仕方がなく頷いてやった。これが借りを返すということならば、喜んでやるのもナターリヤの役割なのである。体を反転させて、ひまわり畑を眺める。この国は確かに、少女の兄が欲しがるだけの魅力を持っているのだ。認識を新たにしていると、今貴女ろくでもないことを考えたでしょう今すぐその考えは捨てて来なさい、と言わんばかりの微笑みを菊が浮かべた。
 見なかったフリをして、ナターリヤは濃い黄色の地平線を幾度も視線でなぞる。この景色を持ちかえるには、どうすればいいだろう。よくよく眺めれば、目の奥に焼き付いてしまわないだろうか。目を覗きこんでもらえれば、この景色を与える事が出来るようにはならないだろうか。凝視していると、視界を遮って手がひらりと振られる。迷惑で邪魔で仕方がない石を眺めるまなざしで振り返ったナターリヤに、菊の笑みがゆる、と深くなる。
「家に写真があります。それをお持ちになりますか?」
「そうする。……けど」
「もし貸し借りが気になるというのであれば、こういうのはどうです?」
 口ごもったのは、まさに菊が告げたことを気にしていたからだろう。くすくすとおかしげに笑うのにむっとした顔つきになりながら、ナターリヤは素直に言葉の続きを待った。
「……また、花を見に来ませんか? 何時でも構いません。貴女の気が向いた時に」
 迷わず、まっすぐな声でナターリヤは尋ねる。
「お前の国には、なにが咲くんだ」
「秋にはコスモス、金木犀。冬には山茶花、クロッカス。春が巡れば風待ちの、梅や香りの沈丁花、でしょうか」
 歌のような囁きを考え込みながら聞いて、ナターリヤは苦笑しながら呟く。
「この国の、外から入ってきた花ばかりだな」
「桜は、けれど日本のものですよ」
 日本で生まれて、そして日本でこよなく愛される花です。誇らしげにうっとりと歌い上げる言葉を、ナターリヤか風の音に耳をすませるような心地で聞いていた。きっと菊は、分かっていない。その言葉をどんなに、喜びに満ちた声で告げたのか。どんなに、愛しげな表情で告げたのか。くす、と笑ってナターリヤは頷く。
「……じゃあ、桜だな。やっぱり。あの花はすごく綺麗だ。あったかく咲く」
「では、いらっしゃるのは春ですね」
「来年来る、とかそういうことではないからな」
 いつかの春に。これから巡って行くいくつかの、いくつもの春の向こうに約束を結んで。二人は顔を見合わせ、そっと微笑みあった。それではかき氷を食べに行きましょうか、と菊はナターリヤに手を差し出す。その手を取ることも、無視することも、拒絶することも、ナターリヤには自由だった。少女はしばらく真夏の日差しの中、青年の、差し出された手のひらを見つめて。そっと、そっと手を差し出し、指先だけを手のひらに触れさせる。
 繋ぎ合うことはなく。二人はゆっくり、歩き出した。

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