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 5 胡慮と雨足

 長い戦いが終わった。世界中を巻き込んで二回目の、大戦の終結だった。第二次世界大戦。後の歴史にそう刻まれるであろう、ひどい戦いだった。『日本』は敗戦国として戦争の終焉を迎え、多くの国々が同じ結末を受け入れた。終わったばかりの頃は『国』に跳ね返ってくる痛みの大きさに起き上がることも、一時期は意識を繋いでおくことすら出来なかった『日本』は、しかしようやく普通に立つことができるくらいに回復していた。
 そして大戦の終わりから幾年。ついに東と西の分断が解かれる。ベルリンの壁が崩壊し、それを『日本』は復興と回復を続ける己の地に立ちながら聞いた。かつて手を携えて戦った友と、師と慕ったその兄が再び会えるようになったことを、心からの喜びとして受け止める。それから、第一回目の国際会議。『日本』は数日、もしかすれば数週間の病に倒れた後、教壇に復帰することとなった教師の気持ちになりながら廊下を歩む。
 なぜか心がむずむずとして、ひどく収まりが悪い。先日仕立てたばかりのスーツが体に合わないのかとも思うが、おろしたてのものではなく、もう数回は袖を通しているものなのだ。いまさら着心地の悪さを実感するものでもあるまいし、はて靴が駄目なのかとも思うが、こちらはスーツ以上にはき慣れたものなのである。『日本』はカツリと足を止めて硝子窓に己の姿を映し出し、その像をじっと覗きこむようにして襟元に手を伸ばす。
 ネクタイを一度解き、結び直す手は慣れていた。一連の動作、当たり前の仕草として体に馴染むくらい、もう洋装には慣れている筈なのだ。とすると、服装ではないのかも知れない。コツコツと額を指先で叩いて溜息をつき、『日本』はふと、あることに気がついた。その瞬間、ざわりと音を立てて血が逆流する。それくらいの衝撃、それくらいの錯覚を受ける感覚だった。息が詰まる。目を見開いて何度も、何度も瞬きをした。そうだ。
 思い出そうとしていなかったことがある。そのことを『日本』は『思い出し』て、ざわつく胸の落ち着きの無さを理解する。長い戦いだった。ひどい戦いだった。戦時中、『日本』は多くを傷つけ傷つき奪い奪われ、血に狂うように誇りを輝かせるように、追い詰めて追い詰められて追い詰められて、ひたすらに戦う為の一振りの刃として研がれて行った。その選択を、自ら行っていった。『日本』が世界を相手にして戦うには、それしかなかった。
 他に意識を振り分けている余裕など、どこにもなかったのだ。意識の全てを戦いに向け、ひたすらに勝利を目指した。その為だけの存在として、自分を追い込んだ。だから今のいままで目を反らして、考えないようにして、意識の奥の奥に追いやっていた感情、感覚がある。それが友と師の受け持つ国の真の解放、それを受けての会議の場という祝祭によって解放されてしまった。思い出した。そう、今まさに『思い出した』のである。
 世界が蘇るように、鮮やかに色を取り戻す。眩しくてまばゆくて、『日本』は目を細めながら息を吸い込んだ。『彼女』に最後にあった夏の日でさえ、こんなにも眩しく感じたことなどなかったと言うのに。ひまわり畑を一緒に見に行った日、些細な約束を交わした日が最後。あの日から一度も、一度たりとも、一目でさえも、『日本』は少女に会っていなかった。菊としてでさえ、一個人としてでさえも、その姿を見ることは叶わなかった。
 そうだ、会っていなかった。そのことを思い出して、『日本』は廊下に立ちつくす。果たして自分はあの白い少女に、会いたかったのだろうか。その疑問が頭の中を回って行く。会いたかったのか、会いたくなかったのか。その気持ちを持っていたのか、持っていなかったのか。凄惨な戦いの為に押し込めて忘れようとした気持ちは銃弾と悲鳴、犠牲の多さに削り取られてしまったかのように空虚で、手の中に取り戻すことができない。
 なにを失ったのだろう。なにを、置いてきてしまったのだろう。なにを忘れ、そしてなにが残っているのか。それすら分からなくて、『日本』は足を踏み出すことができない。会議の開始時間が迫り、視線の先に扉が見えているというのに。そこから動ける気がせず、また、辿りついてしまうのが恐ろしかった。どんな気持ちを抱くのだろう。かつてどんな気持ちを抱いて少女を見つめていたのかすら思い出せず、ぐらりと世界が揺れ動いた。
 それでもなお、色鮮やかな世界。それこそ『少女』を取り戻した証明のようで。失っていたことに、はじめて気がつく。入り混じる感情に歯を食いしばり、『日本』は一歩を踏み出した。ざわり、ざわりと心が波打っている。深呼吸を、ひとつ。『日本』は会議場の扉を開け、その中に足を踏み入れた。解放感のある高い天井の、広い部屋。机は円を描くよう並べられ、いつものようにネームプレートと、椅子が等間隔に並べられていた。
 『日本』の姿を見た『中国』がひらりと手を振って近くに呼ぶが、頷くだけで足を動かす気にはならない。訝しげな表情が視界を掠めたが、口が強張って言葉を送ることもできなかった。視線が彷徨う。ざわめきと、そして多くの『国』が邪魔だった。『少女』の姿が見つけられない。雪原に溶け込んでしまう白い影のように、それは人波に紛れこんでしまっている。見つけたいのに。見つけることができない。爆発的な焦りが胸を焦がす。
 ずるりと音を立て、色彩が消滅した。白と黒の世界。時間の感覚が体から乖離して、遠く遠くで秒針の音だけが響いている。人は影に、ざわめきは揺れる光の帯に。凍りつく時を収めた白黒写真のように、目に映る全てが輝きと価値を失っていく。白と黒。揺れる光と影。その中で誰かが、確かに『日本』の名を呼んだ。それは梢を渡って行く風のように。きらめきを縫い合わせる輝きのように。『日本』の意識を引きつけ、惹きよせた。
 ざわめく人影の奥の奥。机と椅子と多くの人の隙間から、白銀の光がこぼれ落ちる。そこから、世界が蘇って行く。息を吸い込んだ。その光の名前を、確かに『日本』は知っていた。口を開く。確かに『日本』は、その存在の名を、知っていた。
「……っ!」
 それでも、なんと呼んでいいのか分からない。かつての自分はどんな声で、どんな表情で、どんな気持ちでその名を呼んでいただろうか。この場にふさわしい名は知っている。『日本』が『日本』であるように、彼女を呼びやう名は一つだった。それなのに息を吸い込むだけで、喉が、口がその名を響かせることはない。ざっと音を立て、喧騒が戻ってくる。影は人の形を取り戻し、薄暗い世界に色彩が蘇った。『少女』が、『日本』を見る。
 まっすぐ、まっすぐに。その瞳で、『日本』を見た。かすかな悲鳴を上げるように、『少女』の表情がくしゃりと歪む。その顔つきのままで、『少女』は傍らに立っていた青年の服を、ぐいぐいと遠慮なく引っ張った。
「っ、にほ……日本、日本!」
「はぁっ? 俺様はどう考えても『プロイセン』だろうがっ!」
「ちがう馬鹿あっちだ! あっち!」
 短い銀髪を揺らしながら、『少女』の傍らに立っていた青年が振り返る。かつての日本の『師』は、スーツではなく軍服を身に纏っていた。恐らくは新調したばかりなのだろう。どこにも汚れもほつれも無い糊のきいた服は、とても良く青年に似合っていた。赤い瞳が『日本』を見る。そしてああ、とばかりに納得の色を浮かべ、『プロイセン』はなんだ、とばかり頷いた。
「あ……こら、ベラ。指差すな」
「だって! 日本……日本が! 日本が居る」
「そりゃ消滅してない限り会議には出るだろうよ。外に開かれた『国』の義務みたいなもんだし。つーかお前なに言っ……。……え、マジ会えてなかったのか? マジで? 俺とヴェストより?」
 訝しげな表情が驚きに代わって行く間も、少女は青年の服をぐいぐいと引っ張り、無言で頷きを返していた。マジかよ、とぽかんとした響きで言葉が綴られているのをどこか他人事として聞きながら、『日本』はその光景を眺めている。あれはいったい、なんだろう。そう思った。視線を動かして探すと、『少女』の兄はすぐに見つけることが出来た。身長が頭一つ分大きい相手を見つければ良い訳だから、それはいとも容易かった。
 二人の間には距離があった。それは『日本』と『少女』の間に開いたそれよりは狭かったが、さりとて大きな差があるとも思えなかった。『少女』は兄の傍にはおらず、それが当たり前の顔をして『プロイセン』の隣で必死に会話をしている。興奮する『少女』をなだめようとする『プロイセン』に焦れたのか、『ベラルーシ』は声を張って兄を呼んだ。『ロシア』はのんびりとした仕草で振り返り、妹と、そして机の対岸に立つ『日本』を見る。
 ああ、とばかり『ロシア』は頷き、そして微笑んだ。行っておいでよ、と妹の背を押すようだった。兄からの笑顔に、しかし『ベラルーシ』は延々と結婚をという言葉を吐き出すこともない。さらに混乱したように視線を彷徨わせ、なぜか『プロイセン』の腹を拳で殴っている。照れ隠しかなにかなのだろうか。ひどく冷静にそれを見つめ、『日本』は重たく息を吸う。よく分からなかった。なぜ『少女』は、兄の背に隠れて立っていないのだろう。
 そんな所に居たら、誰にでも見つかってしまうではないか。じりっ、と心が焦げるように痛む。思わず、眉を寄せた。あれは誰だろう。あんな『少女』は知らない。あんな風に感情を出す少女など、『日本』は知らなかった。あれは誰だ。あれは。
「……っ、日本!」
 感情を声に乗せて『日本』を呼ぶ。少女から、『日本』は一歩足を引いた。知らない。あの『少女』はそんな風には、『日本』を呼ばなかった。そんな声で、そんな表情で。まして人前で、声をかけてくることなど。絶対になかった。あれは誰だろう。よく分からない。
「日本……?」
「……失礼します」
 すみません、会議を欠席させて頂きます。早口にそう吐き捨て、日本は身を翻して小走りに会議室を出て行く。目を見開いてそれを見送りかけ、『ベラルーシ』は衝撃的な顔つきで『プロイセン』を見上げた。混乱の極みであろう『ベラルーシ』の頭をぽんと撫で、青年は溜息をつきながら言う。
「行けば?」
「う……縄、縄とか! 銃とか! ナイフとか!」
「持ってねぇよ自力で走ってどうにかしろよ……。ほら、行って来い」
 後で話くらいなら聞いてやるから、とぽんぽん頭を撫でてくる『プロイセン』の手をぐいと押しのけ、少女は身軽く会議室を出て行った。『ベラルーシ』の背を追う視線はいくつかあるが、そう数が多い訳ではない。幸か不幸か、気が付いていない『国』の方が多いのだった。肩の荷が下りたような、増えたような気持ちで溜息をつく『プロイセン』の傍らに、なんとも言えない顔つきで『ロシア』が寄って来る。『ドイツ』が睨むが、笑顔だった。
「ね、プロイセン君。なに? どうしたの? あれ」
「……いや、俺にもよく分かんねえけど」
「けど?」
 不思議がる『ロシア』をしみじみと見て、『プロイセン』は言う。
「嫁に出すってこんな気分か?」
「……君、壁崩壊が嬉しすぎてちょっとどうかしちゃったんじゃない? どうしたの、大丈夫……?」
 言っておくけどベラは僕の妹であって君の妹じゃないし、ましてや娘でもなんでもないんだからね、と。事態を把握しているのか居ないのか、よく分からない呟きで念を押し、『ロシア』は首を傾げながらネームプレートのある椅子の辺りに戻って行った。そろそろ会議が始まる。ふと見た先で、『中国』が『不気味に笑う子猫のようななにか』の人形を取り出し、首から『日本』の札を下げていた。『日本』が見たら、投げ捨てそうな人形だ。
 会議開始の鐘が鳴る。二人は戻って来なかった。



 毛足の短い絨毯に、藍色の影が落ちた。それを引きとめられて振り返った先、落とした視線で『日本』は知る。光を含んで藍色の影。黒くはなく、それでいて光に侵食されすぎる事もなく。中途半端に明るいそれは、けれど優しい色をしていた。『日本』は床から視線を持ち上げるとぐいと引っ張られた腕を煩わしそうに見やり、息を切らして黙りこむ少女のことを、ごく僅かに睨んだ。離しなさい、という意思は正確に伝わったのだろう。
 唇がぎゅう、と噛まれる。その赤さにだけ、見覚えがあった。
「……どうしたんだ」
 途方に暮れたように、悲しみに暮れたように、日が暮れてしまった雪原のように苦しく、『少女』は言葉を吐き出した。圧縮された感情はどこか張り詰めて響き、『日本』の耳を心地よく揺らしていく。戸惑う瞳はやがて『日本』の姿を正面から、ハッキリと捕らえて見つめて来た。くるしい。少女の瞳はそう告げていて、『日本』の意識を惑わせる。こんな風に、感情を表す少女など『日本』は知らなかった。腕を強く振り、掴んだ手を払う。
 息を吸い込む。腹の奥がどっしりとして、熱い。この感情を知っていた。
「あなたは……!」
 怒りだった。
「私が……私が知っているのは、あなたなんかじゃありません!」
「……っ?」
「……何時からですか」
 振り払われて戸惑う少女の手を、睨むように見る。びくりと震えた指先は、握られた手の中に隠されてしまった。苛立ちが募る。頬を打とうとでもすれば、まだやりようがあったものを。舌打ちを響かせて、『日本』は強く、少女を睨みつけた。
「何時から、あんな風に」
「な……なんのことだ。なにを言って」
「分からない? ええ、ええそうでしょうとも! それくらい私はあなたにお会いしなかった!」
 だんっ、と音が響く。腕の中で少女が、信じられないように『日本』を見た。壁に両手をついた檻の中、少女を冷たく見下ろしながら『日本』は笑う。このままどこかに、閉じ込めてしまおうか。
「……『貴女』はもっと、射殺すような目で私を見もしたでしょうに」
「や、だ……! お前、なんで笑って……」
「どういう表情をして良いものか分からないもので。この顔が一番楽なんです」
 感情を隠し通す為の笑顔は、もうなにを考えなくとも浮かべていることができる。無表情より、ずっと楽だった。にこ、と楽しくもないのに微笑んでやれば、少女の顔つきが悔しげに歪む。ちり、と音を立てて瞳の奥、怒りが燃えた。『少女』が息を吸い込む。
「離せ」
「嫌です。何故?」
「離れろ。……そんな笑顔で私を見るなら、お前なんかもういい」
 感情も見せない笑顔で、そんな風に遠ざけるのなら。ちり、ちりりっ、と火の粉が鮮やかに爆ぜるように。『少女』の瞳にじわじわと、怒りが広がって行く。強い感情で、あまりに強すぎる感情で凍りついたように見える、湖面色の瞳。ぞく、と『日本』の背が震える。見つけた。ここに居た。『日本』の知る『少女』がそこに立っていて、苛立ちを隠そうともせず、ナイフがあれば突き刺しそうな意思を向けていた。ふ、と『日本』は静かに笑う。
 困惑気味に、『少女』が『日本』を嫌そうに眺めた。
「なにを笑ってるんだ、お前は……」
「いえ。……本当にお久しぶりに、貴女にお会いしたな、と思いまして。こんにちは、ナターリヤさん」
「……お前に名前呼ばれるの嫌だ。背中がぞわぞわってした……離せ離れろ馬鹿」
 よろけて立てないとかなら片腕だけは突かせてやるが、両腕は止めろ年寄り、と心底嫌そうに言い放ち、ナターリヤは己の顔と菊の腕の間で手をひらひらと泳がせた。菊はにっこりと笑って、腕を退かさないままで顔をぐいと近付ける。息を飲んだ音がして、ナターリヤの目が見開かれた。
「……近い!」
「すみません年寄りなもので、これくらいの距離でないと会話できないんですよ。年寄りなもので」
「堂々と嘘つくな馬鹿! 大体……さっきのはどういう意味だ!」
 呼吸するたび、ナターリヤの前髪が菊の額を掠めてこそばゆい。くすくすと喉を鳴らして笑いながら、菊はゆるりと首を傾げてみせた。
「さっきの、とは?」
「お前が知ってるのは私じゃないとか、いつからだのあんな風だの。極めつけにはあんな顔で笑いやがって……!」
 いい加減にしないともぐぞ貴様、と苛立ちが極まった表情で吐き捨て、ナターリヤは菊の服を締めあげる。
「あんな……あんな、誰にでも見せるような顔で笑うな! 不愉快だ!」
「……それでは言わせて頂きますけれども」
「あぁっ?」
 売り言葉に買い言葉だった。怒りのままに吐き捨てたと指摘されたとしても、菊はそれを否定しなかっただろう。その通りだったからだ。低く抑え込んだ声は不良も拍手をするような問いかけで迎えられ、菊の頭の片隅で、なにかが引きちぎられた音がする。いったん機嫌が回復しかけていたからこそ、反動も大きかった。
「貴女こそ……何時からですか! あんな風に!」
「だから! なんのことだ!」
「お師匠さま……『プロイセン』さんですよ、『プロイセン』さん! なんであんなに普通に隣に立って袖引っ張ったり会話したりしてるんですか! 貴女いつもは『ロシア』さんの傍にべったべたしていた筈でしょう! それにっ……何時から、どうして、そんな風に……っ!」
 感情を、表に出すようになったのか。菊の知っているナターリヤは、まだそんな風には出来なかった筈だ。可能だったとしても、それはひどくぎこちなく、怖々と頼りなくて。精巧に作られた人形が、ようやく笑むことを覚えたばかりの初々しさがあったと言うのに。菊は息を吸う。怒りで頭がくらくらしていた。誰だ。誰が、この『少女』に。それを教え込んだと言うのか。表情が、すっかり馴染んで自然に浮かぶようになるまで。誰が。
 誰が、この『少女』に感情を与え育んだのか。無垢な下地に。色を描きこんだのは、誰。
「……そんな風に、貴女は」
「菊……?」
「誰かに、触れなかったでしょう……?」
 服を掴んでいた手に触れて、指を外させる。力の入れ過ぎで強張った少女の指が、菊の手の中で微かに震えていた。震えを厭うようにナターリヤの眉が寄せられるが、それは明確な拒絶ではない。菊は苛立ちのままにナターリヤの手を取り、人差し指と爪の間に歯を立てた。びくりと震えるのを感じ取りながら、爪に口付けを落としてから視線を合わせる。なにが起きたか理解できない様子で、ナターリヤは目を見開いていた。
 踏み込んだ接触には、変わらず不慣れであるらしい。ふん、と鼻を鳴らしながらもやや気持ちを持ち上げ、菊はにっこりと微笑んだ。
「ナターリヤさん」
「はな……話しかけるなド変態」
 手をぱっと胸元に引き寄せて、ナターリヤは壁に背を押しつけて菊を睨んでいた。逃げられる距離があるのなら、相当間を開けられていただろう。ふふ、と可笑しくなって笑いながら、菊はゆるりと目を細める。
「失礼ですね。……一つだけ聞いておきますが、私と会わない間、どなたかにこういった事をされたりは?」
「お前以外の誰が! 私にこんなことするって言うんだ変態! ギルもエリザも、こんなことしない!」
「……ああつまり……貴女をよってたかって構い倒したのはあのお二人ということですか。そうですか」
 原因が判明してなによりです、ありがとうございました、という菊の目は全く笑っていなかった。エリザベータ、『ハンガリー』が片割れに含まれていたからこそなんとか気持ちを落ち着かせていられるが、これがギルベルト、『プロイセン』のみであったなら、ちょっとどうしていたか分からないくらいである。師事した恩もあるのでそうそう手酷いこともできない代わり、向こう千年くらい、精神的に苛めぬいてしまうくらいの自信があった。
 二人がかりで、とのことなので、向こう百年に縮めてやろう。そう思いつつ、菊は溜息をついて壁から手を離す。
「……分かりました」
「菊?」
「分かりましたが、すこしお時間を頂けますか? 今の貴女を見ていると、冷静になれそうにもありません」
 こんな気持ちになるくらいならば、お会いしたくなどなかった。ひっそりと呟いた言葉に、ナターリヤの目が見開かれる。その感情がなんであるか正確に認識する前に、菊は少女に背を向けて歩き出した。背を引き留める手も、声もなく。二人の距離は、再び離れる。
「私は……」
 誰も居なくなった空間に向けて、少女は呟く。
「お前に、会いたかった……!」
 ぱっと身を翻して走り去る、その影は藍色。会いたくて会いたくて会いたくて。哀に染まった、藍色の。少女の声を知る者は無く、太陽は大きな雲に隠されてしまった。二人の距離は、再び離れる。あの夏の日。日陰に寄り添って歩いた近さは、もうどこにもなく。確かに触れたぬくもりの温度を、二人共に、思い出すことができなかった。



 気分が晴れないのを天気のせいだけにするのは、八つ当たりというものだろう。そもそもの原因が八つ当たり染みた嫉妬だったことを思い出し、菊は憂鬱な溜息を吐きだした。認めざるを得ないだろう。あれは嫉妬だ。明確な嫉妬。密かに想っていた相手が、会えぬ間に自らの手以外で感情を紐解かれていた、ということに対する嫉妬。とりあえずギルベルトとエリザベータには、向こう三ヶ月お会いしたくありません、と告げてある。
 ギルベルトはなんとなく理解している表情で苦笑しながら頷き、エリザベータは微笑ましさと物言いたさが入り混じった表情で仕方ないですね、と呟いた。二人とも菊に対してそれ以上を言わなかったのは、場に留まらぬことで聞く意思がないことを示したのと、会議すらすっぽかしたことに薄々の予想がついていたからに違いなかった。すまないともごめんなさいとも二人は言わず、そのことが菊の淀んだ気持ちの僅かな救いだった。
 謝られることではないのだ。そもそも、謝ることなどなにもない。加えて二人が菊に対して口先だけでも謝罪をする、ということは感情を開いたナターリヤに対する否定に他ならない。そんな酷いことは、そうないだろう。だからこそ二人は謝らず、そうならなかったことに菊は胸を撫で下ろすのだ。それでも、気分が持ちあがることはない。昼間はじめじめとして暑く、夕方になって急激に雲の量を増してきた空を眺め、ぐったり息を吐く。
 遠くで雷の鳴る音がする。ぬるい風は急激に水気を増してきた。夕立が来るだろう。その前に、洗濯物を取り込んでしまわなければ。よっこらしょ、とお気に入りの座布団から立ち上がり、菊は下駄をはいて庭に出た。湿気があったわりにはバリバリに乾いているタオルと着物を腕に下げ、菊はふと辺りを見回した。そういえば先程から、ぽちの姿が見えない。近くで遊んでいるのなら良いが、そろそろ本当に雨が降って来かねない。
「ぽち君? ……ぽち君! ……おや、中に居ましたっけ」
 いつもならすぐ愛らしい声で駆けてくる筈のぽちは、今日に限って返事をしている気配もない。下駄をカラコロと鳴らしながら中に戻り、菊はばさばさと洗濯物を放りつつ、もう一度声を張り上げた。
「ぽち君!」
 愛らしく鳴く声は、菊の背側から聞こえた。振り返るとぱたぱたと足音を鳴らし、尻尾を振りつつぽちが菊に向かって駆けてくる。雨が降る前に帰って来てくれて良かった、と思いつつ、菊は足にじゃれつくぽちの頭を撫でてやる。ぽちは気持ちよさそうに目を細めながら菊の手に頭を擦りつけ、ぱたぱた、ぱたぱたっ、と尻尾を振って喜びを示した。タタン、と音がする。雨粒が屋根を叩く音だった。バタバタ、と音がして雨が地を打った。
 ざあぁ、と音を響かせて一気に雨が降ってくる。洗濯物もぽちも、まさに間一髪という所だろう。やれやれ濡れずによかった、と思いながら洗濯物を再び腕に抱き、今に戻ろうとした菊の服をぽちが噛んで引っ張る。遊んで欲しいのだろうか。これを置いてからにしてくださいね、と告げる菊を見上げ、ぽちは悲しげな顔で尻尾をしゅんと下ろしてしまう。遊んでもらえなくてしょげた、というのとはすこし違うように見えた菊は、しゃがみ込んだ。
「……ぽち君?」
 ぽちは菊と視線を合わせると、きゃん、と高く鳴いて玄関に飛び降りた。そのまま傘立ての元まで足を進めて座り、ぱたぱたと尻尾を振って振り返る。お外、と強請っているようだった。うーん、と苦笑して菊は言う。
「雨ですよ、ぽち君。夕立ですから、雨がやむまですこし待ってください」
『間に合わないよ』
「……え」
 テン、と手毬をつく音がする。ぽちは誰かに頭を撫でられているかのように顔を傾け、ぱたぱたと尻尾を振っていた。
『雨がやむまで待ったら、間に合わないよ。菊』
 柔らかな親愛に満ちた声だった。それは空気を震わせて響くというより、直接菊の耳に届くように聞こえてくる。辺りに人の姿は無い。玄関先にはぽちが、不自然な体勢でぱたぱたと尻尾を振っているだけだった。諦めた微苦笑の音。幼い少女の声が、もう一度だけ響く。
『ぽちが案内してくれる。行ってあげて、菊』
 さあぽち、行って。掠れながら響いた声が消え、最後に一度だけ、手毬をつく音が耳を掠めた。ぽちは悲しげに鼻を鳴らして菊を見つめ、雨を気にするそぶりもなく外に歩いて行く。菊は慌てて傘を持ち、その後を追った。生温い雨だった。傘を打つ雨の音より大きく、足元でばしゃりと水がはねる。ぽちはご機嫌に尻尾を振りながら歩き、庭を横切って外に出て行く。門を抜けた所で道の先を眺め、菊はハッとして大きく息を吸い込んだ。
 ぽちは菊を一度だけ振り返ってから、雨の中でしゃがみ込んでいる少女の元へ駆けて行く。濡れた手で、少女はやってきたぽちを優しく撫でた。
「……ナターリヤさん」
「見つかる前に……帰る、つもりだった」
 だからお前は気にしなくて良い、と。ゆっくり歩んで来た菊が隣で足を止めたのにも顔をあげず、ナターリヤは道端にしゃがみ込んだまま、そこに咲く植物を眺めていた。夏の時期、日本ではよく咲く花だった。塀に蔦を這わせ、柔らかな白い花びらが円錐を描くように広がっている。直前までは晴れていたので、夕刻を告げる為に咲いたのだろう。ナターリヤは白くほっそりとした指を伸ばし、雨に濡れるその花に、愛でるように触れた。
「……白くて、とても綺麗だ」
「……ええ」
 たちのぼる土の香り。むせかえるような夏の気配。夕立は容赦なく少女の体を冷たく打ち、菊はそっと傘を傾けてナターリヤの体を雨から守る。身を打つ雨が無くなったことはすぐ気がついただろうに、ナターリヤはなにも言わなかった。菊もなにも言わず、黙って少女の横顔を見つめていた。少女の頬を濡らす雨粒が、流れていく。心が冷えた。涙のようだ。菊は息を吸い込み、少女を見つめる目を細めた。苦しかった。ただそう思う。
 役目を終えたとばかり、ぽちは足早に菊の家へと戻って行く。ナターリヤはちらりと視線を向けただけでぽちを見送り、その場から立ち上がろうとはしなかった。菊も、動かない。雨の中で少女に傘を傾け、か弱い花を見つめている。眠たげに重たく、ナターリヤは瞬きをする。
「……なんていう花なんだ、これ」
「胡慮、ですよ」
「……ころ?」
 ナターリヤはもしかすると、ひどく疲れているのかも知れない。ぼんやりとした声で繰り返される言葉を聴きながら、菊はそう思った。
「夕顔、という花です」
「ふぅん……」
 気のない返事を響かせて、ナターリヤはようやく立ち上がる。視線は反らされたまま、出会うことがなかった。菊は無言でナターリヤの手を取り、傘を握らせる。いらない、と首を振るのに傘を押し付け、菊は私はすぐそこですから、と家を指し示す。ナターリヤは無言で眉を寄せた後、強い力で傘の柄を握り締める。
「……会うつもりじゃなかった」
「はい」
「本当に、本当に……お前に、会いに来たんじゃない。だから」
 だから、とそれだけの言葉がか細く繰り返され、その後の言葉を告げることはない。菊は痛みを感じて腕を持ち上げ、濡れそぼった手でナターリヤの頬に触れた。弾かれたように、視線が重なる。そっと目を細めて微笑みかけながら、菊は少女の頬からそっと手を離す。すこし、ほんのすこしだけ距離を開けて、両手で包み込むようにして愛おしむ。
「ごめんなさい。ナターリヤさん」
「……なにがだ」
「嘘をつきました」
 じわじわと、熱が伝わって行くようだった。心地よさげに、それでいて熱に浮かされたようにナターリヤがゆるりと目を細める。滑り落ちた雫が雨なのか、菊にはよく分からなかった。指先がぬるく濡れる。それでも、触れはしなかった。
「貴女を見て、冷静になれたことなどない」
「……よりにもよって、嘘ついたのはそこなのか貴様」
「他は一応本音ですので」
 ふふ、と上機嫌に笑う菊の瞳をじっとりと覗きこみ、やがてナターリヤは深々と溜息をついた。笑顔で気持ちを隠している、という訳ではないと分かったのだろう。お前は本当に変態だな、としみじみ呟かれて、菊はゆるりと微笑んだ。
「もうすこし可愛いことを言ったらどうなんですか、ナターリヤさん」
「い……いいから名前呼ぶな。お前に名前呼ばれるの、なんか嫌だ」
 ぞわぞわする、と眉を思い切り寄せて身をかき抱くようにしたナターリヤを真剣に見つめ、菊はよもやこれは、としばし考えた。
「……あの?」
「なんだ」
 今話しかけるな、とばかり睨んでくるナターリヤに、菊は気にせず問いかける。
「他の方に名前を呼ばれる時も、ぞわぞわするんですか?」
「お前だけだから呼ぶな、と言ってるんだ。変態。この変態! 私になんかしただろう絶対」
「し、してませんよ」
 するとしたらこれからです、という言葉を綺麗に隠して微笑む菊に、少女はなんだか身の危険を感じた表情で後ずさろうとした。女性として、その反応は本能的に全く正しいが、だからと言って許してやるつもりは毛頭ない。にっこり笑って逃げない、と呟いて引き留めると、ナターリヤは本当に嫌そうな顔で逃げてなんてない、と言った。
「でも、お前は私になにかしたんだ」
「だから」
「だってお前が名前呼ぶとぞわぞわする! それに……それに私は、お前が居るとくるしい」
 上手く息が出来なくなる、と少女は言った。泣きだしそうな声だった。菊は思わず口元を手で押さえ、緩む口元を隠しながら視線を外す。そうですか、と呟くとナターリヤはこくこくと頷き、胸に手を押し当てた。
「お前が居るとこんなにくるしい。それなのに……会えなくて、私はもっとくるしかったんだ」
「ナターリヤさん……それはあの、いえ、もしや」
「呼ぶな、ばかっ! ……やだ。お前なんか嫌いだ……」
 ぞわぞわする、お前本当に変態だなっ、と目尻をうっすら赤くして睨んでくるナターリヤは、菊にはもはや目の毒でしかなかった。そうですかすみません、と言いつつ、菊は口元が緩むのを止められなかった。堪え切れない笑いに、肩が揺れる。ぎろ、とナターリヤは菊を睨んだ。憎しみで相手の息の根を止めようとする、本気の睨みだった。
「だからなんでお前は笑ってるんだ……!」
「すみません。……嬉しくて」
「……お前は本当に、変態だな」
 心の底から言っているとすぐ分かる声で、ナターリヤはしみじみと呟いた。菊はくすくすと肩を揺らしながら手を伸ばし、指の背でコツリと、ナターリヤの額を打つ。む、と眉を寄せるナターリヤに、菊は低く潜めた声で囁いた。
「嫌いなんて、言わないでください。……かわいいひと」
「っ! や、やだ……! それも嫌だ! ぞわぁってした!」
「ワガママさんですねぇ」
 結果がある程度分かっていて仕掛けた悪戯なので、ナターリヤの反応は菊に取って楽しいものでしかない。もう嫌だ、お前あっちいけ、と傘から雨の中に押し出されても、許してしまうのはそのせいだった。ざあざあと降る雨は、当分止みそうにもなかった。
「上がって行かれますか?」
「……いい。帰る」
「そうですか。風邪を引かないよう、ちゃんと温かくするんですよ?」
 そういえばどうやってここまで、と尋ねた菊に、ナターリヤはじりじり距離を広げながら、飛行機と車と徒歩、と言った。すっかり警戒されてしまったらしい。戯れに微笑みながら指を揺らし、ちちち、と呼ぶと少女の表情が怒りに引きつった。
「も……もういい! 帰る!」
「はいはい」
 次は天気の良い日に来るか、さもなければ傘を持っていらっしゃいね、と笑う菊を、ナターリヤはじっと見つめて来た。本当にそう言ってくれているのかどうか、探っているようだった。やがてうん、と少女は頷く。
「また来る」
「はい。お待ちしております」
 くるりと菊に背を向け、ナターリヤは道の先へと歩いて行く。その手に菊が与えた傘があることが、とても幸せなことに思えた。ナターリヤは一度だけ振り返ってそこに菊が居る事を確かめると、あとはためらいのない足取りで雨の中を去って行く。姿が見えなくなるまでしっかり見送って、菊は小走りに家の中へと戻って行った。雨でぐっしょりの体を拭こうと、放置しておいた洗濯物に手を伸ばしかけ、菊はぴたりと動きを止める。
 確かに投げたまま放置しておいた筈の洗濯物は、しかしきちんと折りたたまれていた。その傍らに座ったぽちが、我がもの顔でぱたぱたと尻尾を振っている。かなわないな、と思いながら菊は思わず苦笑した。タオルを一枚手に取って水気を拭いながら、菊は響かぬ声で囁きを落とす。ありがとうございます。声に応えるかのように、どこかでテン、と手毬をつく音がした。

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