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 6 知らない

 カタリ、と金属の板が木枠にあたる音がする。特に耳を澄ませていないのに居間まで聞こえたその音に続き、おつかれさまです、と言い残して足音が去って行った。郵便屋が手紙を届けて行ったのだろう。ここを『祖国』の家と知る者たちは、必ず一言、挨拶を残して去って行く。顔を合わせることは、滅多にないのだが。幼子が庭を駆けまわって遊ぶ時代もとうに過ぎ、今は近隣に住む者たちとの交流もあまり深くもなくなっていた。
 時代の流れだろう。『国』が『国』という存在として自然に受け入れられる時期は過ぎ、今は静かな時の流れの中、ひっそりと過ごしている者が多かった。菊は一つの家に定住しているが、数年単位で家を変える者も多いという。もし近隣の者たちが菊の存在を異変だと思い、奇怪な存在として視線を投げかける事があれば、この家を離れなければいけない時が来るのだろうか。一つの不思議として、受け入れられない時が来たら。
 その日が来なければ良いと思いつつ、するとやはり、郵便屋などに姿を見せないで生活して行く方が良いのだろう。ごくたまに、届けてくださってありがとうございます、と庭の隅から声を飛ばすくらいだ。住みにくい世の中になって来たということですかねえ、と溜息をつきながら廊下を軋ませて歩き、菊は玄関の横に置いてある棚に手を伸ばし、郵便物を手に取った。いくつかはただの広告だったが、一通だけ、古風な封筒がある。
 指にかさりと引っかかる紙の質は決して粗悪ではなかったが、さりとて高級品と言うわけでもない。素朴な印象を与える、長方形の青い封筒だった。一番最初は色気も洒落っ気もない業務用の茶封筒だったことを思えば、格段の進歩だった。届くたびに違う形、違う色を見せる手紙はここ数年の菊の楽しみのひとつだったから、差し出し人の名を見ることもなく、浮足立って居間に戻って行く。差し出し人は、見なくても分かっていた。
 手の込んだ悪戯でないかぎり、それは想う少女だったからだ。ぽちが丸まって眠っている横にそっと腰を下ろし、日本はペーパーナイフを持って封筒の上部を切り裂いた。舶来品のそれは、かつての同盟相手が記念の品にと菊の元へ置いて行ったものだ。チューリップの花模様で飾られた小ぶりなナイフは青年の手にあるのも家に置かれるのもすこしばかり可愛らしすぎたが、それでも大切に使っている。今ではアンティークだろう。
 封筒の中に入っていた紙は、二つ折りにされた便箋がたったの一枚。二枚以上が来たことはなく、折りたたまれていないちいさな紙片であったこともあったので、今回はまだ長い方である。くすりと笑いながら取り出して開けば、封筒と同じ色の薄い青い便せんの四隅には、色褪せた濃紺で植物の蔦模様が描かれていた。少女にしては洒落や品だ。おやおやと目を和ませていると、一行目に理由が書いてあった。姉さんの貰った。
 季節の挨拶もなにもなく手紙が始まるのはいつものことで、それがまた、菊の知るナターリヤらしいものである。思わずくすりと笑い声をあげれば、カタリと音を立ててふすまを開いた所だった耀が、気持ち悪そうな視線を向けて来た。身内の反応がひどいのはいつものことである。軽やかに無視しながら手紙の文面をゆっくり置いていると、トン、と音を立てて湯のみが置かれる。ありがとうございます、と受け取り、一口を飲みこんだ。
「はぁ……やはり中国茶は耀さんに淹れてもらうに限りますね」
「美味しい中国茶が手に入りました、淹れに来てください、で我を呼び付けるのは世界中でお前くらいある」
「その内容で来てくださるのは世界中であなただけでしょうから、私とて耀さんにしかしませんよ?」
 にこ、にこ、と笑顔が交わされる。数秒の静寂を挟んですっと手を持ち上げた耀の腕を、菊はがしりとばかり両手でつかんだ。放っておけば叩かれることなど目に見えていたからである。しかし腕は二本ある。もう片腕をすばやく動かして菊の頭を叩いた耀は、大した力もいれていないのに痛がる様をごく冷たい目で眺めた。この芝居っ気と茶目っ気の多さを外交手段として発揮できれば、もうすこし国際的な地位も上昇するだろうに。
 溜息をつきながら向かいに座ると菊は痛がるのを止め、もそもそと座りなおして手紙を手に取った。その顔は、すぐに笑みに崩れる。お前心底気持ち悪いあるね、と身内だからこそ許される暴言を吐けば、菊はなにも聞こえなかったふりをして湯のみを傾けた。ごくん、と飲み込む音が響く。
「……それにしても」
「うん?」
「あなた気持ち悪がるわりには一人言に本当細かに反応しますよね……。いえ、なんのことでもありませんよ。ただ、思惑どおりにことが進むというのは面白いと言うか、楽しいというか嬉しいと言うか。ちょっと胸がときめきますね」
 にこ、と笑って手紙を封筒に戻す菊から視線を反らし、耀は深々と溜息をついた。こんな性悪になんの因果か好かれてしまった北の小娘を思うたび、耀はなんとなく不憫な気持ちになってくる。もっとも好意的に受け止めているかと問われれば、諸手を挙げての大歓迎をする気分でもないので基本的に放置、と答えるに留まるだろうが。小娘を泣かせることだけはやめるあるよー、と放置気味に言葉をかける耀に、菊はおや、と笑い。
 棚から和紙の張られた箱を取り出しながら、そんなことはしませんよ、と呟いた。
「そもそも、どうすれば泣くかちょっと分かりませんし」
「分かれば泣かすあるか……」
「……まあ結果的にそうなってしまうこともあるかも知れませんが、意図的にそう多くやるかと言われれば……揺れないこともありませんが、笑顔の方が……ん? ……え、答えなければいけません?」
 突きつめて答えを返したいことではないんですが、と真顔で言う菊に、耀は心底うんざりした様子で頷いた。耀とて、積極的に元育て子の性癖を暴きたい訳ではないし、知りたくもない。出来る事なら一生分かりたくない所だ。分かった、言うな、とげっそりした声で呟き、耀は思考を投げ捨てた笑顔を向けた。力ない笑みだった。
「お前、水道管で殴られないように気をつけるあるよ……? にーには怪我の治療だけはしてやるある」
「そこで見捨てないのがあなたの優しさですよね。心が痛い」
 まあこの話題はもう止めにしましょう、という菊の提案に、耀は一も二も無く頷いた。持ちこんでもう随分と年月の立つ湯のみを手に持ち、香りを楽しみながら喉に通していく。ふわりと広がる白い花の香りは心を癒し、また潤していくようだった。ふうと癒された息を吐き出す耀にほっとした表情を向け、菊は届いた手紙を箱の蓋に乗せ、中に入っていた束を取り出した。それはどれも封筒に入った手紙で、十も二十も紐でくくられていた。
 封筒の大きさも形も様々である。一番古いものはややくたびれていたが、一番上に置かれた比較的新しい数通は、ほんの数日前に手元に届いたようにも見える。耀は横目でちらりと眺め、保存状態の良いこと、と呆れ顔だ。菊はくすくすと笑いながら手紙の束を手に取り、新しいものを二通取り出して、それぞれの中身に視線を落とす。送った手紙の内容を、返信から思い出そうとしているらしかった。文面は、ひどく短いものばかりだ。
『別に悪くない』
 それだけが書かれた手紙は、確か北の国に厳しい寒さが訪れているとの知らせが流れた折り、体調を問う文面に送られてきた一言だ。書類の切れはしのような破かれた紙に、急いで書かれたらしき文字はインクが滲んでいて、ひどく急いでいたか焦っていたことを伝えてくれる。逆になにかあったかと心配になったくらいだが、後日、数カ月の外交に出る直前で、出先から返事は出せないだろうと判断しての数分だったことを知る。
 数分。本当に、出なければいけない直前に手紙を受け取って、その場で返事を書いて配達員に受け渡したのだという一言。口元の緩みを堪えながら紙片をしまい、次の封筒を手に取る。こちらはさすがに二つ折りの便せんが使われていて、書かれている文字もきちんとした文章を成していた。その中の一文に、視線を落として読み上げる。
『ぽち君は元気か? ぽち君は可愛い。ぽち君にまた会いに行くと伝えておけ』
 一通前の手紙。その内容に対して、菊はとある言葉を引き出せるように、慎重に言葉を選んで返信を送った。そして届いた手紙の内容を思い出し、菊はくすりと笑いながら、再度最新の封筒を持ち上げる。丁寧な仕草で便せんを開くと、その中の文字が、鮮やかに告げる。
『好きだ』
「……菊、菊。気持ち悪いくらいニヤついてるあるよ」
「素直に引っかかってくださって可愛いな、と思いまして」
 元育て親にして兄のような間柄の存在から、本当にうちの子は性根がねじ曲がって育ってしまって、という視線を向けられるのはさすがに受け流しきれないものがあり、菊はさっと顔の前に両手を掲げて身を隠した。てのひらにぐさぐさ視線が刺さっているのを感じるが、顔に来なければなんとか無視くらいはできるものである。相手が諦めるのを待って手を下げ、菊は封筒を丁寧に束ね直し、箱の蓋をしめた。そして、棚の上に戻す。
 普段は使わない場所なので、うっかり踏みつけたりしてしまう心配がない。やれやれの座布団に座りなおした菊は、複雑そうな耀に和やかな笑みを向ける。まあ、遅咲きの花ということで良いではありませんか、と言い放った菊に、耀が向けたのはぐったりとした溜息ひとつと。あまりからかって遊ぶではないよ、という忠告一つだった。



 そもそも菊とナターリヤが文通をするに至ったのは、少女の主張を青年が逆手に取って上手く誘導したからだった。あの日、雨の中で会話を交わしてからというもののナターリヤは微妙に菊を避けるようになり、名前を呼ぶなという主張から始まり、会議中は我慢してやるが私の前で言葉を話すな口を開くなお前の声を聞くとぞわぞわしてどきどきして落ちつけないんだつまり息を吸わなければいいんだ、お前が、と言われるに至った。
 さすがに呼吸をするなという要求には答えられない菊が、それでは声を響かせなければ良いんですね、文字にしましょう、と提案して納得させたのがそもそもの始まりだったのだ。会話しない、という選択肢は最初から放棄している。少女も、一応もしかすれば常識外の要求であるという認識はあったのか、よく分からないままに頷き、送られる菊の手紙にぽつりと言葉を送り返して来ることで風変わりな文通は成立しているのであった。
 電話をはじめとした通信の技術は、時を重ねるごとに発展して行っている。道路がコンクリートで整備され、電波塔が盛んに情報を発信するようになってからはその進歩は特に顕著であり、今では手紙を書くことすら少なくなっている。もう五十年もすれば手紙をしたためる、という事自体が古臭くなる時代がやってくるのだそう。そう思いながら、菊は無地のノートに文字を書きこみ、それをそのまま、真横に座る少女に受け渡した。
 ナターリヤは無言でそれを受け取り、菊の書いた文字をじっと見つめると、手に持った万年筆をゆらゆらと揺らしてなにかを考え込んでいる。視線を伏せたその横顔を、菊は机に肘をついた姿で眺めた。少女は変わらぬ藍色の長袖ワンピース姿で、菊は公的な会議には珍しい和服姿だった。二人は会議場として確保されたホテルのロビーの片隅で、三人掛けのソファに座りながら、ちいさな書き物机を前にして言葉を交わしていた。
 すでに会議は終了している。午後の柔らかな光がロビーを淡く包み込み、人々のざわめきをどこか遠くに運び去っていた。十分前には聞こえていた、某超大国がケーキバイキングにはしゃぎたおす声も、すでに聞こえなくなって久しい。大方食べるのに忙しいか、元保護者に怒られたか、双子のような隣国にケーキを口に突っ込まれて強制的に静かにさせられたかだろう。おっとりとした彼の『国』は、兄弟の扱いがわりと粗雑なのだ。
 今日も今日とて、温暖化対策としてこうでっかいエアコンみたいなのを作って宇宙から地球を冷やすとかどうかなっ、とわくわくした瞳で言い放った超大国を、元保護者が鉄拳で黙らせる前にどうにかしようと思ったのだろう。ごく自然な動きで椅子から立ち上がって兄弟の背後に回り、どこに隠していたのかアイスクリームを渡して食べさせている間に髪形を整え兄弟のジャケットを借り、最後にテキサスも借りた『カナダ』は言い放った。
 よし解散、会議終了なんだぞ、と。元保護者に対してどっちがどっちだゲームを仕掛けられるくらいにそっくりな兄弟だからこそ可能な、極めて白々しい『アメリカ』のふりだが、低迷しすぎる会議を強制終了させる手段のひとつとして、最近は重宝されているのだった。その後、なにを勝手にやってるんだい、と騒ぐ兄弟をケーキバイキングがあるよ食べに行こう、と引きずって行ってくれたのも『カナダ』だった。元保護者もついて行ったが。
「……なに考え事してるんだ」
 やや不愉快そうな顔をして、ナターリヤは文字を書き終わったらしきノートで菊の頭をぺしりと叩く。その表情は無意識なのか、私が隣に居るのに他に意識を飛ばすとはどういうことだ馬鹿、と訴えていて、菊は口を開かない約束を忠実に守りながら、ノートを受け取って溜息をついた。ちょっと苛立つくらい可愛らしい反応は止めて欲しい。抱きしめてやりたいと思いながらノートを開き、非常に読みやすく整った少女の文字に目を落とす。
『生クリームと苺のケーキがいい。苺のジャムと紅茶がいい』
 菊はしばし考え、先に書いた己の文面に視線を戻した。会議お疲れ様でした、から始まった今日の筆談は、疲れたとか意味がないあんな会議、という愚痴がだらだらと続き、ケーキバイキングを楽しんでいるらしき各国をうらやむものとなり、お腹がすいて来た気がする、という少女の主張で方向性を変えていた。なにか食べますか、と問いかけた、これはその返事だった。なんとも少女めいた可愛らしい返事だ。すごく抱きしめたい。
 力いっぱい抱きしめて可愛いですね貴女は本当にもう、と言ってやりたい気持ちを深呼吸で抑え込み、菊は机をトン、と指先でノックした。ナターリヤの視線が、不思議そうに下りてくる。そのままノートの紙面を見せながら、菊はそこに文字を書きこんだ。
『ラウンジに行きますか? それとも、ここに運んで頂きますか?』
 少女の指先が伸びてくる。それまで一行おきに規則正しく書かれていた返事が乱れ、ノートの右と左に、それぞれの言葉が書き記されて行く。
『あんな騒がしい場所に行きたくない。嫌だ』
『それでは、ここに?』
『お前は?』
 それが、お前はなにか食べるのか、という気遣いの返事だということに気がつき、菊はとっさに口元を手で押さえた。ごく当たり前の問いかけだ。それをこんなにも嬉しく思う時点で、大分末期だ。認めざるを得ない。菊は本当に、この少女を大切に愛しんでいる。
『いいえ、私は。貴女が食べているのを見ているだけで』
『嫌だ。見るな馬鹿。変態』
『貴方私に変態って言えば全てどうにかなると思っていません? いますよね?』
 もっと可愛らしいこと仰い、と書いた一文は伸びて来た少女の手によって線が引かれて無かったことにされる。可愛いとか書くな恥ずかしい、と言われていたことも思い出し、菊は肩を震わせて静かに笑う。まったく、要求ばかり多いワガママな少女だ。それを一々聞いてやっている自分も自分なのだが。笑いを収めて顔をあげれば、ナターリヤは不服そうな表情で視線を彷徨わせ、落ちつかない様子で指から万年筆を離していた。
 万年筆がころころと机を転がって行く。それを拾い上げたのは青年の指先。投げ出されていたキャップをつまみあげて蓋をし、ナターリヤに向かって差し出した。むっつりとした顔つきで受け取った少女は、しかしノートの上に万年筆を投げ出してしまう。
「だってお前変態じゃないか」
「理由は?」
「……私がなにか食べてる時に、なんであんなニヤニヤして見てくるんだ!」
 もう書かない、という合図は、少しなら声を出して良い、という許可でもある。端的に問いかけた菊に、ナターリヤは眉を吊り上げながら小声で叫んだ。菊はニヤニヤは酷いでしょうと溜息をつきながら否定せず、ナターリヤの顔を見つめながら囁く。
「一生懸命ものを食べてらっしゃるのが、可愛らしいと思うからですけれど」
「……っ、そんなこと言うの! お前くらいだ!」
「ええ。私だけにしておいてくださいね」
 他の方にそんな風に言われているのかと思うと、面白くないものがあります。響かない声でひっそりと告げた菊の言葉に、ナターリヤの視線がぴたりと彷徨うのを止めた。それでいて瞳は菊を見つめることはなく、ホテルのロビーのどこかを見つめている。まったく、分かりやすいのだから。溜息をついて手を伸ばし、菊はナターリヤの指に己のそれをそっと絡めた。
「誰です?」
「な……なに、がだ。指……!」
「ナターリヤさんに、可愛い、と言った私以外の相手を聞いているのですが」
 あと指は気にしないでくださいね、と言いながら、菊はぴくりと震える少女の手を柔らかく握りこむ。
「……まあ、予想はついていますが。トーリスさんでしょう」
「と……トーリスは、昔からだ。昔から、アイツは私に、そんなことばかり言う」
「それはそれは」
 妬けますね、と言葉は口には出さなかった。ただゆるりと細めた視線の先、針で留められた蝶のように、少女は瞳を見開いて呼吸をとめる。じわ、と目尻が赤く染まって行く。くす、と笑いながら視線を外さず、菊は指先でナターリヤの手の甲を撫でる。
「……すべすべですね。肌」
「へ……へんた、いっ! やだ……指……手、嫌だ。離せ……!」
「力は入れてませんよ」
 だから本気で振り払えば良い。嫌だと、そう言うのなら。ひっそりと囁いて、菊はナターリヤの手をきゅっと握った。少女は追い詰められた獣のような唸り声で菊を睨み、すぐに手を引いて触れ合いから離れようとする。その手をすぐに捕まえて、今度は強く握り締めた。少女の柔らかな骨が、軋むほど。息を飲むナターリヤに、菊はにこ、と無害な微笑みを浮かべた。
「まあ、逃がすとも言っておりませんが」
「性格悪いにも程が……! や……やだ! もうやだ! 息がくるし……」
「……かわいいひとだ」
 呼吸困難になる。もう無理絶対無理だばかっ、と全身全霊で訴えてくる少女にクスリと笑いかけ、菊はぱっ、とばかりナターリヤの手のひらを開放してやった。あまり急に触れたりしすぎると、心臓がお前のせいで壊れる。息が出来なくなって死にそうになる、と訴えるナターリヤの為に菊としては過度な接触は避け、最小限でじっくり慣らしてやっているというのに。これだ。ナターリヤには、何を告げているか自覚はないのだろうが。
 無自覚だからこそ、菊も時々は恥ずかしくなる。少女の意識より先に、体が、菊を異性だと認識して反応しだしているからだ。そして恐らく、それはナターリヤに取って初めてのことらしい。今も胸元に囚われていた手を押し当てながら、ナターリヤは酷く混乱した顔つきでぜいはあと息を整え、乱れ切った鼓動を静かにしようと躍起になっている。ふと、魔が差した。ソファに手をついて体を傾け、菊はナターリヤの姿を衆目から覆い隠す。
 ぎ、と軋んだ音がやけに大きく響いた。少女の体に影が落ちる。胸に押し当てた手の甲が、大げさなくらいに震えた。震える肌を宥めるように、さらにもう一度。その手に口付けた菊は、ふっと視線を持ち上げてあでやかに笑った。
「……ほら、そんな顔をしない」
 ここで止めて差し上げられなくなるでしょう、と囁いた菊に、ナターリヤは目を大きく見開いて体をソファに押し付けた。
「……怖いですか? 体が逃げてる」
「離れろ。……逃げてない」
「嘘。逃げてますよ。……そんな顔をしないでください」
 なんだって泣きそうなんですか、と溜息をついて、菊はナターリヤとそっと額を重ね合わせた。熱を計るようにそうするだけで、菊はそれ以上は動かない。近くで、本当にすぐ近くで見つめ合う瞳は、ただ苦しげに揺れていた。
「なにが、そんなに悲しいんですか……?」
「……悲しく、ない」
「私が触れ過ぎると、貴女はすぐそういう顔になりますよ。……ほら、また泣きそうだ」
 気がついてないんですか、と問われるのを見返す瞳は、失ったなにか別のものを捕らえていた。優しい思い出が、どうしようもなくかき消された瞬間を見つめ続ける瞳。凍りついた瞳の奥底に、時を止めたまま拭えぬ悲しみがあった。それにようやく、菊は気がつく。溜息をついて、菊は少女の顔の横についていた手を下におろした。なにがあったかは知らない。分からない。恐らくそれは本人が目を反らし続け、忘れてしまった感情だ。
 分かるのは一つ。この少女に必要なものは、恋によって生まれる熱情ではなく。ただ温かく抱きしめる、人の熱だった。体を強張らせるナターリヤをこれ以上怖がらせないようにしながら、菊は少女の腰に手を回し、その体を己の元へと引き寄せた。ぐ、と腕の中で手が突っ張る。明確な拒絶だった。ナターリヤは苦しげな顔をしたままで菊の胸を強く押し、どうにか体を離そうとする。
「やだ……!」
「なにがですか。私に抱かれるのが?」
 ひゅ、と音がした。少女の喉が息を吸い込み、衝動的にそれを告げる。
「あったかい……!」
 届いた、と。菊は思って、腕に力を込めた。ようやく届いた。凍りついた心の底。その、一番奥まで。だからこそ離す気などなかった。菊はもう、少女を離してやる気などないのだから。なにがあっても。どんなことが起きても。抱きしめた、その腕の中から。



 泣き声が聞こえた気がする。手が離れてしまって悲しくて泣いてしまう、幼子の声が。それを聞いていたくて追い詰めるのだと口にしたら、十人中十人が良い顔をしないということくらい、菊にもちゃんと分かっていた。自覚してなお、自分でもそれはどうかと思うくらいの気持ちなのだ。無暗に精神を追い詰めたい訳ではなく、理由なく泣かせたい訳でもない。それはただ単純な手段の一つであり、最終的な目的にはならないことだ。
 それまで追いかけると言うことをしていたのは、どちらかと言えばナターリヤだった。それは襲撃をする為が大半であり、また、少女が大人数の前で菊に話しかけてこなかったせいもある。多くの『国』が集う場であればあるほど、ナターリヤは『ベラルーシ』として兄の傍らにあり、その必要がない時は邪魔にならない場所に身を寄せて、じっと辺りを見つめているのだった。少女はいつも慎重に、菊が一人になるのを見て待っていた。
 少女がそうしていた理由を、菊は知らない。多くの目や耳がある場で会話をすることが嫌だったのかも知れないし、菊に話しかけている所を目撃されたくなかったのかも知れない。どちらにしろナターリヤが誰かが居る場所で積極的に菊に離しかけようとしたのは、壁が崩壊した後に開かれた会議前の一回だけであり、それがごく当たり前の習慣でもあるようだった。習慣が崩れたのはちょっとしたきっかけで、自然な流れだった。
 会議終了と共に席を立ち、兄と姉に先に帰ります、と言い放って走り去った少女を追って菊は一言も残さず場を後にする。扉に手をついて廊下に体を滑り込ませた瞬間、角を曲がって行くナターリヤのリボンが消えるのを見た。姿かたちも無いスタートを考えれば、上々の滑り出しだ。菊は足首を回してごく簡単に運動する体を整えた後、ぽいと荷物を放り出して走り出す。特に重要なものは入っていないので、かまわないだろう。
 落ちていると思うので拾っておいてくださいね、と事前に耀に言ってあるので、回収の手段は確保済みだった。頼まれた時点で薄々事情を察してしまったらしい耀は、それはそれは呆れ果てた嫌そうな顔つきで溜息をつきながら繰り返した。お前、あまりからかってやるでないよ。それを思い出しながら廊下を駆け抜け、階段を上って菊は眉を跳ね上げた。まったく失礼なことだ。からかってなどいない。ただただ、本気なだけだった。
 隅々まで清掃の成された清潔感漂う息を吸い込み、菊は一つ上の階の廊下に足を下ろす。ナターリヤは兄姉にああ言っていたが、逃亡の際、少女がすぐに建物から出て行こうとするのはごく稀なことだった。癖なのかは分からないが、ナターリヤは上に登りたがる。あるいは、建物のどこかに潜伏して身をひそめ、じっと嵐が通り過ぎるのを待っている。うかつに外に出ると寒い、というのが染みついているのだろうな、と菊は思った。
 あの国は本当に寒い。外で潜伏しようものなら、行き倒れてそのまま人生に終止符が打たれるくらいには寒かった。もう焦らずにゆっくり廊下を歩みながら、菊はふと、『彼女』の国に行ったことがないことに思いついた。菊が行ったことがあるのはあくまで旧ソビエトの一国であり、現在のロシアである。ベラルーシ国内に、足を踏み入れたことがないのだった。どうすれば行くことが出来るだろう。国としては、か細く繋がったあの国。
 菊が、『国』がわざわざ赴かなければいけないと国に思わせ、実行に移す為の手段をいくつか考えながら、菊は奥まった一室の扉に手をかけた。鍵はかかっていない。待ち合わせの為に開かれていたような気軽さで、扉は菊を受け入れた。足音を立てずに室内に移り、バタン、と音を立てて扉を閉める。ガタ、と動揺した物音が奥から響く。資料室なのだろう。立ち並んだ木の本棚に納められた資料の間から、細い光が漏れていた。
 森の中の、細い小道を進んでいくようだった。よく磨かれたフローリングに、波打つ水のような光が影を浮かび上がらせていた。それを踏みしめるように、菊は足を進めて行く。一歩、一歩、閉ざされた場所の奥へ。扉から見て一番奥の本棚、逃げ場もそれ以上は無い壁を背に、悔しげに眉を寄せてナターリヤが立っていた。溜息をつきながら、カツカツと早足で突き進む。さっと菊の横を通り過ぎようとした腕を、やや乱暴に掴んだ。
「往生際の、悪い……!」
「やっ……やだ! なんで追いかけてくるんだ! ばか!」
「貴女が逃げるから、に決まっているでしょう。素直に待っていてくだされば追いかけたりしませんよ」
 呆れを滲ませて行ってやれば、腕を外そうとやっきになりながらナターリヤは菊を睨んでくる。返された言葉は問いかけに対するものであるように見せかけただけで、ナターリヤが望むものではなかったからだ。そもそも、だからなんで追いかけてくるのか。その理由を、菊は未だはぐらかしていた。さて、と溜息をついて掴んだ腕を背に引っ張り、菊は少女の体を己の胸にぶつけさせた。どん、と体に振動が響くと同時、抱きしめる。
 本棚の間。部屋の一番奥の奥にある薄暗がりで、菊はナターリヤを抱きしめる。やだ、と抵抗する声が耳元で響いた。
「抱きしめるな……! 離せっ」
「駄目です。慣れなさい」
「慣れない!」
 即座に言い返して来るベラルーシの腕は、力いっぱい菊の肩を押して体を離そうとしていた。肩が無理だと悟るや手は下に向かい、己の腰をがっちりと捕まえている腕を押しのけようとする。ナターリヤも必死だろうが、菊も本気で抱いているのだ。ぐぐぐ、と力の押し合いは今日もナターリヤの負けで、ひたすらに悔しげな、殺意すら見え隠れする瞳が菊を射抜かんと向けられる。これが嫌だ、と少女の意思が言っていた。怖い、と。
 得体の知れない恐怖を感じる瞳に笑い、菊はこつ、と少女と額を重ね合わせる。
「なんにもしてないでしょう……? 落ちついてください。大丈夫ですから」
「力いっぱい! 私を拘束してるだろう! なにがなにもしてないだっ!」
「……いかがわしいことも怖いことも、なにもしていないでしょう?」
 訂正して言いなおした菊に、ナターリヤは口を半開きにして考え込む眼差しを送った。無防備な唇。吐息を奪ってしまいたい衝動を視線を反らして堪えながら、菊はナターリヤに回している腕にもうすこしだけ力を込めた。息をつめて、少女の体が腕の中で身動きをする。
「怖くは……ないけど」
「でしょう?」
「すごく……困るし、息が苦しいし、落ちつかない」
 だからやっぱり嫌だ、ともぞもぞ動くナターリヤの頭を、菊は優しく撫でてやる。
「深呼吸できますか?」
「……やだ菊の匂いがする。したくない。ぞわぞわする……」
「いいこ、いいこ。……大丈夫ですよ、ナターリヤさん」
 怖いことも、悲しいことも、なにもありませんからね。頭を肩に抱き寄せながら囁けば、少女の額が首元にぐりぐりと擦りつけられてくる。体重が、体全体にかけられた。体全体でナターリヤを支えながら、菊はふふ、と嬉しげに笑う。
「緊張解けました?」
「……お前もしかして、私をぎゅうってする為に追いかけてくるのか」
「おや、よく気が付けましたね。その通りです」
 抱きしめることに慣れて頂こうと思いまして。にっこり笑いながら告げた菊に、腕の中からは怪訝な表情だけが返ってくる。だらりと下ろされたままの手が、指が冷たく強張っていることに、ナターリヤは自分で気が付けないのだろう。抱きしめる腕を片方解いて、菊は少女と手を繋ぐ。びく、と怯えるように体が震えた。大丈夫大丈夫、と背を撫でてさすってやる。
「怖くないですよ」
「っ……う」
「怖くない。……あたたかくても、怖いことはなにもないんですよ」
 ぐっ、と少女の腕に力がこもる。咄嗟に振りあげられて頬を打った手を、避けることができたそれを、菊は甘んじて受け入れた。恐らく今、少女が一番痛がっていた傷に爪を立てて引き裂いた。それくらいのことを、菊は言った。は、と息を吐き出して目を見開き、ナターリヤは菊を間近から見つめている。感情の凍りついた硝子質の瞳。ゆらりと揺れる、想いの影もなく。
「な、んで……そんな、こと」
「……私は」
 嫌だ。これ以上聞きたくない。聞かない。そう言いたげに少女は、腕の中で耳を塞ぐ。目を強く閉じてしゃがみこんでしまったナターリヤの前に膝をつき、菊は視線の高さを同じにした。
「私は、貴女に触れるのをためらいたくないんです」
「……なんでだ」
 ぎゅうぅ、と目を閉じたまま、少女は菊の姿を見ない。耳も手で塞がれたままだから、言葉もハッキリと届いている訳ではないのだろう。菊は少女の手を握ったまま、せめて優しく響くようにと囁く。
「お慕いしております」
「……なに」
 言い回しの意味自体が分からなかったのだろう。ゆるく眉を寄せて問い返して来るナターリヤは、ぱちりと目を開いて菊のことを見ていた。ゆるく微笑んで、菊は少女と視線を重ね合わせる。恐怖の色は薄く、けれどまだ確かにそこにある。繋いだ手は離さなかった。冷たい指は、温かくなっていた。

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