モノクロームの世界に、じわりと色が滲みだした。虹の七色。はっと息を飲んで瞬きをすればそこはいつも通りの世界で、ナターリヤは雑貨屋の入り口をくぐったまま、茫然と立ちつくしてしまった。今の幻視はなんだったのだろう。ゆっくりとした動きで店内に足を踏み入れ、ナターリヤはゆっくり、その色彩が見えた棚を目指した。乙女たちが好むような雑貨屋に立ち入るのは少女に取ってひどく稀で、歩き方にも気を使ってしまう。
展示されている小物やアクセサリーはどれも華奢で繊細でキラキラとしていて、自身にはとても似合わないし、縁がないようにも思われた。それなのになぜ店内に立ち入ろうとしたのかと問われれば、それは道を歩いている時、なぜかその扉が気になったから、としか言いようがない。可愛らしくメルヘンちっくな店の内装に比べて、扉は質素ないでたちをしていた。童話に出てくる木造りの家の、遠くに失われた温かな印象の扉。
思わずくぐってしまったのはその為だと思いながら、ナターリヤはひとつの棚の前で足を止める。扉をくぐった瞬間に意識を奪われ、鮮やかな幻視を受けたのはこの棚である筈だった。可愛らしい作りながらも素朴な印象の木の展示棚は、手紙を書くことにまつわる品で埋め尽くされていた。耐久性に優れているとも思えないプラスチックのキラキラしたペンに、遊び道具のようなペーパーナイフや鋏。消印を模したスタンプや、シール。
インク壺は十五の色を備えて誇らしげに整列していて、ナターリヤはその一つを指先でつまみあげ、しげしげと眺めてしまった。瓶の中には当然インクが入っているので実用にも耐えうるだろうが、インク壺はその目的に適した形状ではなく、洒落た香水瓶の形をしていた。インクを付けて書くようなペンが一般的でなくなってから、もう随分と長い時が過ぎている。並んでいるペンも、インクが最初から中に入っているものばかりである。
補充しながら長く使うペンは棚の奥にひっそりと一種類しか置かれておらず、なるほどこれは飾りなのか、と思う。気分を楽しむものなのだ。ナターリヤはその小瓶を壊さないように棚に戻し、視線をゆるりと彷徨わせた。まさか、こんなものに意識が引きつけられたとは思えなかった。棚には他にもたくさん道具が置かれていたが、一番多かったのは便せんだ。無地の一番シンプルなものから、目が痛くなるような華美なものまで。
様々な便せんの中に、それは埋もれるようにひっそりと置かれていた。白い紙に等間隔にまっすぐな線が引かれた便せんを飾るのは、ごく薄い青の花。円錐の形で咲く花は、この冬国では見ないものだ。多くは名も知らず、形の珍しさと色合いだけで買っていくのだろうその便せんに描かれた花の名前を、しかしナターリヤは知っていた。実際に見たこともあるし、触れたこともある。冷たい雨の降る、すこし寂しい思い出の中で。
「……ゆうがお」
それとも色が違うので、これは『朝顔』という花なのだろうか。二つはよく似ていて、ナターリヤには二つの写真を並べられても、どちらがどちらなのかよく分からない。それなのに、言葉に出せば指先がじんと甘くしびれた。心が息苦しくなって、ナターリヤは思わず眉を寄せる。呪いのようだった。呪われた、とする方がナターリヤにはよく理解できた。だって呪いでなければ、これはいったいなんだというのだ。こんな気持ちは、知らない。
国としての位置が遠く離れていることを、不意に思い知る。今日は兄に会いにロシアまで来ているからまだしも、ベラルーシに戻れば日本との距離は増すばかりで縮まらない。飛行機の技術が飛躍的に向上し、世界中がインターネットで繋がり合い、数秒で電話も通じ、画面越しに会話できる時代が来ても、純粋な地球上の距離だけは絶対に縮まらない。今ここでナターリヤがこんな風に感じているのが、伝わらないのと同じこと。
この時、この瞬間、日本は朝なのか昼なのか夜なのか。とっさに思いつくことが出来ないくらい、二人の距離は離れていた。ナターリヤがどんな気持ちであっても、それが菊に伝わることはない。菊が今なにをしているのか、ナターリヤには皆目見当が付かないのと同じように。なんだか面白くない気分になって、ナターリヤはまなじりをつり上げて便せんを持ち上げた。この便せんが、こんな所にあるのがいけないのだ。そう思った。
これはぜひとも買って帰って、ちゃんとインクを付けて使うペンで文字を書きいれて、あのなにをしているか分からない男に送りつけなくてはいけない。使命感を感じながら便せんを購入し、ナターリヤは店を出て大きく息を吸い込む。さて、手紙にはなにを書いて送ろうか。先日、つい二日前に届いたばかりの菊からの便りには、もう九月になるのに気温が三十度を超える日が多くて大変です、と書かれていた。別次元の話題である。
九月のハバロフスクの最高気温は、やけに温かい日であろうと二十度を超えることがない。時折吹く冷えはじめた風は、もう遠くはない冬の訪れを住む者に教えてくれる。ナターリヤが普段住まうミンスクも同じような状況であるから、三十度、という気温は言葉にされてもピンと来るものではなかった。ただ、それでもナターリヤは思い出す。耳が痛くなる程の蝉の鳴き声が響く、強すぎる日差しの中、日本を歩いたことがあった。
あれがもしかしたら、三十度くらいなのかも知れない。うん、とナターリヤは頷いて道を歩き出す。菊はそのうち死ぬかも知れないな。縁側でぐったりと横たわる姿を想像するだけに楽しい気分になって、ナターリヤは慣れた足取りで悪路を辿る。でもぼこと隆起し、時々は穴があいているコンクリートの道も、山道だと思って歩けばそう苦になるものでもない。自国もやはり似たようなものなので、純粋に足が歩き慣れているのだった。
そういえば日本の道は、砂利道は多少歩きにくかったものの、今では殆どが綺麗に平らに舗装されている。あれに歩き慣れるなんてことがあれば、国に帰ってくれば転ぶばかりだろう。つくづく、あの国は厄介で恐ろしい。ナターリヤはぐったりしている菊に雪をバケツいっぱい投げかける夢想に心を弾ませながら、ふと道の反対側を見た。どいーんだのばいーんだの、聞き慣れた音が聞こえた気がしたからだ。思わず、溜息をつく。
道のちょうど反対側に、姉がいた。人間がそうであるような正確な血縁関係としての姉かは定かではないものの、ナターリヤは彼女のことを『姉』だと認識していたし、向こうは少女を『妹』として可愛がってくるので、姉妹で間違いはないのだろう。両腕にたくさんの食料品を抱えたライナは、胸と荷物のせいで足元が見えないのだろう。えっちらおっちら歩いてはバランスをくずし、よいしょ、よいしょ、と荷物を抱え直して難儀している。
転ぶのも時間の問題だった。ナターリヤの予想が正確だとするならば、ライナはあと五分以内に、腕に抱えた荷物を道にぶちまけて盛大に転ぶ。深々と溜息をついて、ナターリヤは車道を軽やかに突っ切った。車が来ていようが横断歩道がなかろうが、ナターリヤにそんなことは関係ない。ぐずぐずしていたら、姉が目の前で転ぶのかも知れないのだ。タンっ、と足音を響かせて対岸に到着したナターリヤは、すぐさま姉に手を伸ばす。
掴んだのは道路に激突する寸前だった、ミルク瓶だった。紙パックではないガラス瓶なので、こんな悪路に落ちれば結果は想像するまでもない。はー、と息を吐きだしたナターリヤに気が付いたのだろう。大荷物の間からひょこっと顔を出し、ライナがふわりと温かな笑みを浮かべる。
「あら、ナターリヤちゃん。ありがとうね。助かっちゃった」
「……姉さん」
うふふ、と肩を揺らして笑う表情があまりにも嬉しそうであっても、告げる声があまりに愛情に満ちていてこそばゆく脱力しかけても、言わなければいけないことは、ある。ナターリヤは息を吸い込んで姉を睨みつけ、腕を伸ばすと有無を言わさず荷物を奪い取った。
「どうして一人で買い物なんてしてるんだ! 誰かと一緒に行けってあれほど……姉さん、なんでロシアに居るんだ」
上司から兄さん禁止令を出されてたんじゃないのか、と眉を寄せて問いかけてくるナターリヤに、ライナはすっかり軽くなった腕を振り、うふふ、と笑ばかりで答えない。姉さん、とやや厳しい語調で問いを重ねれば、ライナはだって、と首を傾げる。
「ナターリヤちゃんが遊びに来るってイヴァンちゃんが言うんだもの。美味しい料理いーっぱい作ってあげたいな、と思って」
「姉さん」
「……お姉ちゃんは最近、上司の目をごまかす、という技を覚えました」
重なる妹の追及に耐えられなかったのだろう。ごく僅かに視線を反らしながらも胸を張り、ライナはなぜか誇らしげに言い放った。そこは誇る所ではない。全く違う。反射的にイラつきながら、ナターリヤはなぜ姉がここまで思い切った行動に出たりするのか、その理由をきちんと知っていた。あの超大国がなにか吹きこんだに違いない。ナターリヤに取っては気に食わないことこの上なく、かつ信じられないし信じたくないことだったが。
このおっとりとした姉と、こどもっぽく馬鹿っぽく馬鹿っぽい馬鹿な超大国は、なにやら個人的に親密な付き合いをしているらしいのだ。先日、お姉さんをお嫁にくださいっていうのは君に言えば良いの、それともイヴァンに言えばいいの、と聞いて来た超大国の眼鏡を奪って踏みにじり、レンズを割って髪の毛を二十本程度力技で引き抜いて泣かせたのは良い思い出だ。胸がムカムカして仕方がないので、発言は忘れることにしたが。
あんな男と付き合っているせいで、姉は明るく行動的になった。良いことだ。良い面だけ考えることにして、ナターリヤは改めて呆れの眼差しをライナに向けた。行動的になったとて、姉は姉である。真相は『上司が『国』の個人的な行動には目をつぶることも覚えた』というのが正解なのだろうが、わざわざ指摘して泣かせるのも趣味ではない。やりすぎて監禁されるなよ、と言ってやれば大げさではないからこそ、苦笑交じりに頷かれる。
かつて『ソビエト』としてまとまっていた国家の『国』たちは、他の『国』と比べて個人の自由度が低い傾向にある。それだって百年、二百年も前を振り返れば想像もできないくらい動けるようにはなっているのだが、自由すぎて放任されている超大国と比べれば、姉などまるで籠の鳥と同じであるらしかった。もしもその印象から来る正義感で姉をたぶらかしているのならば、今度こそあの超大国、もぐ。絶対だ。少女は決意を新たにした。
ライナは、なんとなく察したのだろう。やめようね、と優しく言い聞かせてくるのを理解不能のまなざしでしばし眺め、ナターリヤは返事を返さないままで歩き出した。まあ、もしそんなことがあったら、ナターリヤが手出しせずともイヴァンがコルホーズにぶちこんでくれるに違いない。楽しい想像に口元を緩ませ、ナターリヤは悪路を歩いて行く。その隣に並んだライナは妹が抱える荷物を気にしてちらちら視線を寄こし、あら、と瞬きをする。
「ナターリヤちゃん、なにか買ったの?」
「……便せん」
「あらあら。まだお手紙書いてたのね」
あの時私があげた便せんの方でしょう、と問いかけてくるライナは、ナターリヤがせっせと文通している相手を知らない。ナターリヤが誰にも言おうとしないからだ。手紙はいつも差し出し人を確認する前にナターリヤが取り上げてしまうし、相手は誰かと聞いた時に少女がとてつもなく言いたくなさそうな顔をした為だった。危険なことはなさそうなので、放っておいてもいいかな、というのが少女を取り巻く周辺『国』たちの共通した意見だ。
姉として、ライナはもうすこし違う気持ちでその事実を受け止めているのだが。そっと覗き見た妹の表情は、いつからか『人形のように』と形容された凍りついた美しさとは、すこし趣きを変えているように目に映る。息を吸い込んだ唇が、すこし困ったように力を入れて結ばれる。ゆらりと揺れた視線が姉の瞳を見返し、相手を言うか言うまいか数秒悩んだあとに雑貨屋の紙袋に下ろされた。聞いて欲しい、という段階ではないのだろう。
いつか、少女の唇から喜びを持って言葉がこぼれるのを待てばいい。
「いつも、どんなことを書いて送るの?」
二人はゆっくり、道を歩いて行く。市街地から郊外へ。ざわつく人の声がだんだんとまばらになり、車通りも少なくなって行く。足音がやけに大きく響く静まり返った空気は、昔にかえったような錯覚をナターリヤに与えた。まだ背丈が大人の膝くらいだった頃は、よくこうして並んで歩いていた。鼻の奥がつんと痛む。風が冷たいせいだ。ナターリヤはそう思うことにした。
「別に。……元気でいるかとか、この間食べたケーキが美味しかったとか」
「どんなお返事がくるの?」
「元気ですよ、とか。……ケーキがお好きなら、今度会議が終わったら食べに行きましょう、とか」
アイツはそんなことばかり書いて来る、と目を細めて景色を眺めながら言うナターリヤに、ライナはああやはり、と息を吸い込む。確認したことはなかった。けれどあまりに長期に渡る手紙のやりとりは、相手がひとであっては不可能なことだった。親から子へ、孫へ、代々文通しているというのも想像しにくいが、やはり『国』なのだ。ナターリヤは会議が終わったら、と言った。それは『国』同士が集まる国際会議に他ならないだろう。
ナターリヤが特に親しい相手、となると限られてくる。社交的な性格をしているとも言い難い少女であるし、人見知りのけもあるとライナは思っているので、会話を交わす相手でも数えられるくらいなのだ。鳥が飛び立って行くのを遠く眺めながら、ライナはふと心によぎった情景を思い出す。それはいつのことだったか。ナターリヤは会議場に来ていながら部屋を飛び出し、そのまま会議を欠席したことがある。たった一度のことだった。
ベルリンの壁が崩壊して、ギルベルトが『向こう』に帰ってから一度目の会議である筈だった。それがすこし、彼に懐いていた少女には寂しかったのだろう。珍しくもイヴァンの傍から離れてギルベルトの傍らに立っていたナターリヤは、とある『国』を見つけると、ハッキリと顔を輝かせてその存在を指差した。それから、なにがあったのかは分からない。しかし彼の『国』が会議室を飛び出していくのを、ナターリヤは追いかけて行った。
「……菊さん?」
がっ、と音がしてナターリヤが転びかける。でこぼこの道に足を取られかけたらしい。しかし意地で踏ん張って転ばなかったナターリヤは、口をぱくぱくと動かしてライナを振り返った。なにを言われずとも、それが答えだった。
「なっ……な、なにが菊なんだ」
「ふふ。いいわ、まだナイショにしておこうね?」
「ちが、ちがう! 笑うな! ばかっ!」
ぶんぶんと頭を振って否定し、ナターリヤはライナを後に置いて走り出した。道の先には、目指していたイヴァンの家がある。ほんのすこしの距離で転ばなければ良いのだけれど、と思うライナの視線の先、ナターリヤはまたがつっ、と悪路に足を取られて。だんっ、と思い切り地に足を叩きつけ、転ぶのをなんとか回避していた。憎々しげな足音だった。照れかくしなのかも知れなかった。
夜風で窓がガタリと鳴った。身を震わせて起きたのは怖いせいではなく、驚いたからだ。どくどくと波打つ心臓を宥めるように肌の上に手を置いて、ナターリヤは深く深呼吸をする。なんだろう。なんで起きてしまったのだろう。銃弾飛び交う戦場ですら、室内に誰か侵入して来ない限り起きることなどなかったのに。ナターリヤの眠りは深く訪れる。物音で意識が揺り動かされたとて、普段なら軽く呻いて終わりだろう。それなのに。
夜の中で息を吐く。枕元の明りをつけて見つめた時計は、真夜中の三時を過ぎた所だった。カチカチと進んでいく秒針の音が、やけに耳につく。思考はクリアで、すっかり目が覚めてしまったようだった。明りを消して枕に頭を預けるも、眠気はちっともやって来ない。初めての経験ではないが、珍しいことは確かだった。明りをつけない室内は、普段見ているものとは別のもののようだ。ゆっくり瞬きをして、ナターリヤは身を起こす。
枕元の明りをもう一度つける。室内履きに足を通して薄布をはおり、ナターリヤは簡素な書きもの机に向かった。仕事をするには小さいが、ちょっとした書きものをするには十分な大きさだ。ナターリヤはイヴァンの家に来ている間、『国』としての仕事をしない。兄の傍に居る時は兄に集中したいからだ。またそれは、ソビエト時代の名残でもあった。イヴァンの元でナターリヤが動くのはちょっとしたお使い程度で、仕事ではないのだった。
仕事は全て、『国』に置いて来た。ちょっとした休暇を兄の元で過ごしているだけだから、戻ったらやるべきことは山になっているだろう。忙しい日々なのだった。どの『国』でも同じように。だからこれは、忙しくなる前に済ませてしまいたいだけであって、決して我慢できなかった訳ではないのだ。そう、胸の中で言葉を響かせながら、ナターリヤは机の引き出しを開けた。便せんはまだ、雑貨屋の包みに入れられたままになっていた。
デスクライトにも明りを灯す。古くは火を入れなければ灯らなかったそれが、人工の光になってどれくらい経過しただろう。そう昔のことではないのに、上手に思い出すことができなかった。文明の進歩に、『国』も慣れて行く。溜息をつきたい気持ちになりながら椅子を引いて腰掛け、インク瓶のふたを開ける。ペン先にインクを付けて、白い便せんに文字を書きだした。青い花がぼんやりと咲いている。日本に咲く花だ。そう思った。
『眠れないから夜に書いてる』
一行目にそう書き記す。挨拶がないのはいつものことだった。届いて手紙を開封する時間などナターリヤには分からないし、日本とは暑さも寒さもまるで違う。気遣いを記したとて、的外れなことになるのは目に見えていたからだ。それでも日本のことを、菊のことを、すこしだけ考える。どうしているだろう。なにをしているだろう。最後に会ったのは、会議でだった。会議の後に。伸ばされた指先と、強い力で抱きしめた腕を。思い出す。
強く息を吸い込んで、ナターリヤはこみあげて来た気持ちを押し殺した。こんなこと、意味が分からない。思い出すだけで泣きそうにざわめく想いなど、つける名前をナターリヤは知らない。ペンを握る手に力を込めて、二行目を乱暴に書き記した。
『眠れない。お前のせいだ』
ぱた、とペンを投げ出す。もう書く気にはなれなかった。むしろこれだけで十分な気がした。手紙を受け取った菊は慌てるだろう。意味が分からずに眉を寄せるかもしれないが、どうして私のせいなんですか、と脱力するのは間違いなかった。それを思うだけで、ナターリヤの胸はすっとする。もっと困れば良いのだ、あの男は。いつも困らせてばかりなのだから。そうではなくてもっと、もっとナターリヤのことで、菊は困り果てれば良い。
ナターリヤは丁寧に便せんを折り、封筒に入れて封をした。手は、もう菊の住所を書くのに慣れていた。国際郵便の記載ができているかどうかだけをきちっと確認し、ナターリヤは椅子から立ち上がる。室内履きはベッドに戻る途中で脱ぎ捨てて、音を立てて枕に倒れこんだ。眠れなかった。夜風が窓を鳴らしている。怖くは無い。その筈だった。シーツの上に投げ出した指が、ぎこちなく強張っている。ああ、寒いのだ。そう思った。
今ここに菊が居れば、握って温めてくれるのに。どうして居ないのだろう。つまらない気持ちになりながら目を閉じる。眠りは中々訪れなかった。全部全部、菊のせいだった。
不思議なくらい、頭の冴え渡る朝だった。眠れた記憶はないのに、意識がひどく覚醒している。ベッドの上でのろりと体を起こし、ナターリヤは肺の深くまで息を吸い込んだ。意識が澄み切っている。真冬の、一面凍りついた湖を覗きこんでいるようだった。どこまでもどこまでも透き通るそれはしかし不思議に底を見せず、すっと意識を引きこんでしまう力に満ちている。ベッドから起き出し室内履きに爪先をひっかけ、大きく伸びをする。
そうするとやはり眠れなかったせいなのか、体の感覚は鈍かった。動かせることは動かせるが、急な戦闘行為は難しいだろう。それとも、朝食を取れば体も動くようになるのだろうか。クロゼットから適当な衣服を選んで身につけ、ナターリヤは腰に幅広のリボンをきゅ、と蝶々結びにした。いつだったか思い出せもしないくらい昔、イヴァンがくれた古めかしいメイド服に似たものしか持っていないので、どれを選んでも似た印象になる。
フォーマルなドレスやスーツを除いて特別に違う私服といえば、菊から貰った浴衣が一着、自宅の棚に仕舞われているが、それを身に付けたことはなかった。日本とは気候が違いすぎて身につけにくいこともあったし、第一着方が複雑すぎてどうすることもできないのだった。袖を通したいと思ったことは無い。しかし着たいと行って持って行けば、菊は嬉しそうな顔をするのだろうか。それは悪くない想像だった。口元に笑みが浮かぶ。
ナターリヤは寝室を出て、広いばかりの廊下を食堂に向かって歩いて行く。客間と私室のちょうど中間くらいに位置する寝室は、ナターリヤがこの家に住んでいない以上、生活感が染みつかないので仕方がないことだろう。それでもイヴァンがナターリヤが来た時にはその部屋だけを整え、必ず妹をその部屋に眠らせる。昔、まだ同一のソビエトだった時代に少女が眠っていた部屋だからだ。今でもだから、ナターリヤの部屋なのだ。
辿る廊下を進む足は、絨毯を踏む動作すら慣れていた。目をつぶって歩いたとて、ナターリヤはなにごともなく食堂まで辿りつくことができただろう。ここはナターリヤの兄の家であり、そして少女のかつての住みかだった。害するものなど、なにも無いように思えた。無垢な信頼が、安堵で心を軽くする。力を抜いて息を吐き出しても、意識の冴えは収まらず、遠くへ出かけた眠気は帰って来ない。日中、眠くならなければ良いのだが。
今日はどこに出かける用事もなかった筈、とそれだけを確認して食堂へ立ち入り、ナターリヤは小走りに兄に近付いて行く。歳かさのメイドが給仕をしていた。湯気の立つスープだ。
「兄さん!」
「うわっ……お、おはようナターリヤ。あのね、いきなり背中から抱きついたりするのは」
「兄さん兄さん。おはようございます兄さん」
やめようねって何回も言ってるよね、というイヴァンの言葉は、後半に行くにつれ勢いを無くしていた。椅子の背もたれと背中の僅かなすきまに上半身を滑り込ませ、すりすりと頬を擦りつけて甘えてくる妹に絆されたのかも知れなかった。十センチ程度しかない隙間に微塵のためらいもなく体を突っ込むその執念に、恐怖を感じたせいもあるだろうが。ナターリヤは兄の腹に背を回し、ぎゅ、としがみつくように抱きついて背に懐いている。
すりすり、すりっ、と飽きずに頬が背に擦りつけられるのにくすぐったいよと苦笑いして、イヴァンは身をよじって妹の顔を覗き込んだ。
「ナターリヤ。朝ご飯食べられないよ。離れて?」
「離れません。でも兄さんが結婚してくださると仰るのであれば考えなくも」
「しないってば。しないけど離れて……?」
ほら、スープ冷めちゃうでしょう、と言いながら頭をぽんと撫でられて、ナターリヤはまあ良いかな、という気持ちになった。肉厚の大きな手は、ナターリヤの頭をそっと撫でてくる。怖々と触れるのは少女の物言いに怯えているからではなく、多少はその理由も含まれているかも知れないが実の所そういったことではなく、どうすればナターリヤを傷付けてしまわないか、未だイヴァンが計りかねているからだった。それを、知っている。
イヴァンの体は大きい。それに比例するように、力も強い。守ろうとして相手を痛めてしまうことも、可愛がろうとして傷つけてしまうことも、多かったのだろう。幼すぎて思い出せない記憶は確実にイヴァンの中に溜めこまれていて、今もナターリヤにそっと触れることで、兄は妹を痛みや怪我から守ろうとしているのだった。だからこそ触れ方ひとつで、想われていることを知る。大事大事と語るように、イヴァンはナターリヤを撫でるのだ。
だから、たまには素直に離れる日があっても良い。ナターリヤはごく純粋にイヴァンのことを愛していて、困らせたい訳ではないのだった。撫でる手にうりうりと頭を擦りつけ、ナターリヤは椅子と兄の背の隙間から体を引っこ抜いた。ぐしゃぐしゃに乱れてしまった髪を、ごく適当に手で整える。乱れたリボンも結び直してよし、と頷き、ナターリヤは目をまあるくして見つめてくるイヴァンに、そっと首を傾げてみせた。驚いているように見える。
「兄さん。なにかありましたか?」
「な……なにか、あった……の、かな」
自分の内側に対する問いかけ半分、ナターリヤに対する伺いが半分になった、どちらともつかない言葉だった。ナターリヤはイヴァンの意図を読み取ることができず、悔しげに眉を寄せて沈黙する。イヴァンの考えていることなら、なんでも理解しておきたいのに。日常の些細な感情が分からないことは、仕事中の行き違いより悔しかった。どうして分からないのだろう、と考えて、ナターリヤはきっとろくに眠っていないせいだ、と思う。
つまり菊のせいである。あれもこれも全部、菊が悪いのだった。突然目を半眼にしておどろおどろしい殺気を放ち、東の方を睨みつけてあのヤロウっ、と吐き捨てた妹をイヴァンはのんびりと眺めた。うん、と頷く。わりといつも通りのナターリヤである。おかしい所など無いのだった。そう、ナターリヤは妹で、つまりは『少女』なのだ。ぐしゃぐしゃになった髪を手で整えたり、乱れたリボンを気にして結び直してもなんらおかしくは無い筈だ。
今まで一度も、そうしている所を見た記憶が無かっただけで。
「……ナターリヤ」
「はい」
「やっぱり、なにか、あった?」
心配そうに問いかけたイヴァンに、ナターリヤはいっそ悲しげにすら見える表情で眉を寄せ、沈黙を返した。意識の上で、ナターリヤになんら変化はないのだろう。数秒待って、これ以上は問い詰めるのは酷かと思ったイヴァンが、やっぱりいいよ、と言おうとした瞬間だった。ナターリヤは閉ざしていた唇を薄く開き、息を吸い込む。その、花びらめいた唇の色に。イヴァンは今更、ナターリヤの性別が紛れもなく『女』であったと思い知る。
「……眠れませんでした」
「えっと……徹夜しちゃったってこと?」
「夜中に目が覚めて、あとはずっと起きていました。横になってはいましたが」
あとなんか寒いです。今気が付いた、というように付け加えたナターリヤに、そこが一番重要だよね、とイヴァンは額を手で押さえて溜息をつく。おいでおいで、と手を動かして招けばナターリヤは無防備に兄に近寄り、伸ばされた手が顔に触れるのをそのまま受け入れる。前髪をかきわけておでこに手を押し当て、イヴァンはじっとしててね、とナターリヤに言い聞かせる。少女はまるで日だまりで眠る猫のように、うっとりとして頷いた。
しばし、そうして熱を計る。特に高くは無く、低くもないようだった。手のひらでは、その辺りまでが限界だろう。困ったなあ、と息を吐きながら、イヴァンはちょうど食堂に入ってきた姉に、ちょうどよかった、と声をかけた。
「姉さん! ベラルーシ国内に異変は?」
「特に起きていなかったと思うけど……あら、ナターリヤちゃん。どうしたの? 体痛いの?」
「寒いんだって」
国内に異変が起きてないとしたら個人的な体調不良かな、と心配げな溜息をついて、イヴァンはナターリヤの肩に手を置き、くるりと体を反転させた。そのまま背を押してライナに受け渡されるのに、ナターリヤはすこしばかり不満そうな顔つきをする。別に姉が嫌いなわけではない。そういう訳ではないのだが、せっかくイヴァンが優しく触れてくれる機会だったのに、それを打ち切られることになったのはライナが食堂に来たからだった。
あと一時間くらい家の中で迷っていればよかったのに、と本気の呟きを響かせるナターリヤに気分を害した様子もなく、ライナはあらあら、と言って妹の顔を覗き込んだ。少女が眠れなかったことに、聡い姉はすぐに気が付いたらしい。体温が上手く上がらないのかしら、と言って肩からかけていた薄い白のストールを外し、ナターリヤの体をくるくると包み込んでしまう。ライナの体温を移した薄布は、暖かった。それでも、寒い気がする。
おいでおいで、と再度手招くイヴァンに従って足を進めれば、ぬるくなってしまったスープをひとさじ、差し出される。飲みかけだけどごめんね、と言われるのに逆に気を良くしながら口にすれば、素朴な野菜の甘みが溶け込んだ透明なスープが、口からすとんとからっぽの胃に落ちて行く。じわ、と体が温まるようだった。ナターリヤは思わず唇を手で押さえ、ほぅ、と息を吐く。どう、と見つめてくるイヴァンに、視線を持ち上げて息を吸う。
「おいしいです」
「うん、よかった。……まだ寒い?」
「……すこし、温かくなりました。兄さん」
本当のことをそのまま告げるのは、ためらいがあった。それに、完全に嘘をつくという訳でもない。温かくなったのは気持ちだが、それでも先程よりは指先が熱を持ったような、気がする。わずかに視線を揺らしながら告げたナターリヤに、イヴァンはそっか、と溜息をついて。珍しく心配するでもなく、慌てるでもなく、訳知り顔で苦笑するライナに視線をやった。なにか知ってるの、と。ライナはゆうるりと笑い、ナターリヤの頭を撫でる。
「寂しくなっちゃったのね」
「いえそんなことは決して」
「よし、お姉ちゃんが代わりにぎゅぅってしてあげるからね!」
ばいーん、と音を響かせて、ライナは妹に向かって腕をいっぱいに広げた。ナターリヤは青筋を立てて本気で嫌がったものの、背後にイヴァンが居る状態では上手く暴れることもできない。大体、寝ていないせいなのか上手く体が動かせないのだ。逃げ出す前に捕まってしまって、ナターリヤはライナにぎゅうぎゅうと抱きしめられる。息苦しい胸が大きいなんだこの胸はもげろもがれろむしろ私がもいでやるっ、と暴れても離されない。
よしよし、良い子ねー、とあやすように背を撫でられて、ナターリヤは力いっぱいライナの背を抱き寄せた。これは純粋なる嫌がらせである。ナターリヤはそう思って眉を吊り上げながら、ライナに力いっぱいしがみついた。ふん、と鼻を鳴らす。痛がれば良いのだった。
「……ねえ姉さん?」
「なあに、イヴァンちゃん」
「してやったりって顔してるけど、痛くないの?」
姉妹がもちもちにくっついて抱きしめ合っているのをそーっと伺いつつ、イヴァンが心配そうに問いかける。必要以上の力を無言でこめ続けているナターリヤは、そんな兄の言葉にぷいと顔を反らしてみせた。ライナはくすくすと笑いながら、ナターリヤの髪を手で梳いてやる。
「大丈夫よ」
「そう? 本当?」
「本当。それに……ちょっと痛いくらいは、慣れているもの」
ごくちいさな呟きは、密着しているナターリヤにしか聞こえなかっただろう。聞こえていたら、イヴァンは分かったような分からないようなあいまいな笑顔で、ふぅんと呟いていたりなどしない筈だからだ。ぎぎぎぎぎ、と呪いの呻きをあげてナターリヤは思う。覚えていろ、超大国。今度会ったら絶対に、その腕折ってやる。ばっきばきにだ。必ずだ。ふんっ、と鼻を鳴らして胸に顔をうずめてくる妹の頭を撫で、ライナはくすくすと笑う。
「ね、ナターリヤちゃん」
「なんだ」
「お姉ちゃんでも、すこしは足しになる?」
寒いのも、寂しいのも、悲しいのも。すこしだけ、このぬくもりに溶かしてしまうことはできる、と。そっと囁いた言葉に、ナターリヤは深く息を吐きだした。だから、そんなのではないと言うのに。眉を寄せながら抗議しようにも、憎らしいことに姉の体温はとてもナターリヤの心を落ちつかせるものだった。ずっと昔、この腕に抱かれて眠ったことがある。その時も温かかった。温かくて、とても安心できた。そのことをようやく、思い出した。
すこしだけなら、とナターリヤは頷く。すこしだけなら冷たいことや寂しいことが、和らいで行く気がした。そう、と微笑んでライナはナターリヤの額にキスを落とす。くすぐったく身じろいだ少女に、ライナはさっぱりとした笑顔で言う。朝ご飯にしましょうか。ナターリヤはこくりと頷き、姉から体を離す。急に眠くなって来た。朝ご飯を食べたら、すこしだけ眠る。それから手紙を出しに行こう、と思って、ナターリヤは椅子の背もたれを引いた。
お前もばっきばきにしてやろうか、とだけ書いた怪文書は、ホラーが心底苦手な超大国を震撼させるに十分なものがあったらしい。選びに選び抜いた血色のインクにおどろおどろしい書き文字と、古く黄ばんだわら半紙の組み合わせは思う以上の効果を発揮したのだった。嫌なんだぞっ、ぜーったい嫌なんだぞっ、と怯えながら抵抗して議長席に近寄ろうともしない『アメリカ』の姿を机にひじをついて眺め、『ベラルーシ』はせせら笑う。
議長席の背もたれに画鋲でとめて置いたから、もうそこに背を触れさせるのが嫌なのだろう。丁寧に敷き詰めたまきびしは有志の手によって撤去されてしまったが、精神的な恐怖は本人が克服する他はない。ばっきばきにされるの嫌なんだぞっ、と涙目で叫ぶ『アメリカ』を叱ったりあやしたりしているのは『イギリス』と『カナダ』だったが、今一つ効果は出ていない。時計はとっくに会議開始時間を過ぎているが、これではまだだろう。
どでかいこどもが落ちつくには、あと一時間はかかるに違いない。口元に手をあててあくびをかみ殺し、『ベラルーシ』は眠気でいまいちハッキリしない意識に眉を寄せる。先日、『ウクライナ』が抱きしめてくれてから数日は普通に眠れたのだが、姉妹といっても同じ家に住んでいる訳ではない。それぞれの国に帰ってからは夜ごとに抱擁を求めに行くのも馬鹿らしく恥ずかしく、よって数日、『ベラルーシ』は殆ど眠れていないのだった。
夜が怖い訳ではない。一人が寂しい訳ではない。ただ一人でベッドに横たわっていると、指先の冷たさを思い出して胸がどうしようもなくなるのだった。悲しい気分が一番近いのかも知れない。喪失感、とも人は呼ぶのだろう。なにを失ってしまったのか、なにが悲しいままなのか、それを『ベラルーシ』は自覚できないままなのだけれど。ふぁ、と浮かんで来るあくびをかみ殺して、『ベラルーシ』は議場にぼんやりと視線を彷徨わせた。
どうしてだろう。やけに眠い。ここ数日遠ざかっていた眠気が、いっせいにやって来てしまったようだった。重たいまばたきを繰り返していると、円卓のちょうど向かい側に座っていた『日本』と視線が重なり、呆れながら目配せされる。あれはどうせ貴女の仕業でしょう、と今日の議長に対する悪質ないたずらを呆れながらも責めるまなざしに、『ベラルーシ』はぷいと視線を外す。証拠は残さなかった。証拠がない以上、怒られたくはない。
しかし『ばっきばき』の時点で周辺国家にはなにがなくとも断定できるらしく、先程から『ベラルーシ』に向かって『リトアニア』や『ポーランド』、『エストニア』や『ラトビア』と言った面々がもの言いたげな視線を向けてきていた。その中の、今度はなにが気に食わなかったの、とそっと問いかける『リトアニア』の眼差しを受け止め、少女は目をすぅと細めながら隣の席を指差した。『ウクライナ』は困ったように苦笑して、妹の指を下げさせる。
元ソビエト組とその関係者たちに、脱力まじりの納得が吹き荒れた。『ベラルーシ』さんは無自覚でシスコンですよね、とさらりと言い切った『ラトビア』の口を、大慌てで『エストニア』が塞ぐ。だからなんで君は言っちゃうのーっ、と左右からバルトに責められているが、その発言も行動も、『ベラルーシ』には見えていたし聞こえていた。『ポーランド』はよそ見をしてパルシュキを食べている。よしアイツらまとめて折ろう、と少女は頷いた。
「……ベラちゃん?」
「なんですか、姉さん」
公的な、『国』として出ている場なので、呼びかけこそ血縁関係を示唆するものだが口調は自然と改まったものとなる。もっとも改まるのは口調だけで、『ベラルーシ』の態度にはなんら変化がない。背もたれにふんぞり返るように不機嫌に腰かけて腕を組んだ姿のまま、少女は姉に体を向けた。『ウクライナ』は苦笑しきりでそんな妹の頭を撫で、ちらり、と『アメリカ』に視線を向ける。
「会議始まらないから、お姉ちゃん、ちょっと行ってくるね?」
「……放っておいてもあと一時間だと思いますが」
「一時間、ベラちゃん起きていられる?」
会議が始まればそれはそれ、集中で意識を切り替えることもできるだろうが、その一時間は基本的に退席を許されない待機状態なのだ。寝ちゃうでしょう、と微笑ましげに囁かれ、『ベラルーシ』はむっつりと黙りこんだ。起きている自信はない。じゃあ行って良いです、と本当に仕方がなく嫌そうに送り出す『ベラルーシ』に苦笑して立ち上がり、『ウクライナ』はざわつく議場を静かに歩んでいく。水草の間を泳いで行く熱帯魚のようだ。
誰も気が付かないだけで、『ベラルーシ』の姉は観賞に十分耐えうるのだった。気が付かないで良いのに知ってしまった『アメリカ』は、とりあえずあれだ呪われてあれ。しみじみと心の中で呪詛を響かせ、『ベラルーシ』は再度議場に視線を泳がせた。『アメリカ』を宥める『ウクライナ』の姿など見たくもないからだ。あの優しさを得ていたのは『ロシア』と『ベラルーシ』だけであった筈なのに。取られてしまった、と思えてどうも面白くない。
結局『ベラルーシ』は、姉として存在してくれている『国』が好きで仕方がないのだった。認めてしまえばスッキリしたので、少女はゆっくりと息を吐きだした。これからはもうすこし積極的に、姉と交際相手の超大国の邪魔をしよう、と決意を新たにしながら椅子に座りなおす。眠気がはれない。ゆっくりと、じわじわと忍び寄ってくるそれは深い安堵感にも似ていて不快ではなく、振り払おうと思えないものだった。優しい熱にも似ていた。
あくびをかみ殺して瞬きを繰り返し、顔をあげ、不意に少女は引き寄せられるよう漆黒の瞳に捕らえられる。視線が重なった。それだけの出来事だった。いつから見ていたのか分からないくらい真剣に、『日本』は『ベラルーシ』を見ていた。研ぎ澄まされた刃の切っ先。それを思わせる鋭い睨み。怒りの感情。びり、と肌が痛む。『日本』はなにか不愉快げに『ベラルーシ』を見ていて、視線があってもその感情を隠そうとはしなかった。
いつかも、こういうことがあった。また『ベラルーシ』の上手く理解できない所で、『日本』は少女に苛立っているのだ。私が知っているのは、あなたなんかじゃありません。叩きつけるように引き裂きたがるように、向けられた否定の言葉が耳に蘇る。眩暈がした。なんでだ。どうして、そんな目で。嫌だ。どうして。せっかく会えたのに。こんなに近くにもう居るのに。なにをしているのか、目で見て分かるくらい、近くに居るのに。どうして。
「……き」
「よーし会議を始めるぞ! ヒーローは怪文書なんかに屈さないのさ!」
「今まで完全に屈してただろうがこの大馬鹿っ! ああ、すまないな、『ウクライナ』。手間をかけさせた」
ひとの名を。呼びかけようとした声は途切れ、途中で消え去ってしまった。『アメリカ』はどうやら、復活してしまったらしい。ちいっ、とあからさまな舌打ちを響かせたのが聞こえたのだろう。ひくついた笑顔で、『アメリカ』が『ベラルーシ』を見てくる。
「なんだい? 舌打ちしなかったかい?」
「タイミングが悪い。もげろ」
「もげないよ! 恐ろしいこと言わないでくれ!」
ぎゃんぎゃん叫んで抗議する『アメリカ』の頭を、後ろから『イギリス』の平手が叩いて行った。こら淑女に向かって怒鳴るんじゃない、とたしなめる声に、『アメリカ』は未知の生物を見る視線を育て親に投げかけている。そう形容されるのは激しく気持ち悪いが、ともあれ『アメリカ』は失礼だった。もげて滅べばいいのに、と思いながら『ベラルーシ』は戻ってくる『ウクライナ』を出迎えるべく、椅子から立ち上がろうと机に両手をついて。
体を支え切れず、がたっ、と音を立てて体勢を崩して机に突っ伏した。議場中の注目が集まり、しん、と静まり返る。元ソビエト組からいくつか名を呼ぶ声が響くが、そのどれにも『ベラルーシ』は反応できない。数日の睡眠不足と眠気の反動か、貧血を起こしてしまっていたからだ。意識が白く旋回する。感覚も感情もすぐそこにあるのに、自分では手が届かなくて声を出すことができない。ずる、と上半身が机から滑り落ちてしまう。
尻もちをつくように場に勢いよく腰を打ちつけ、『ベラルーシ』は弱く床の上に身を投げ出した。目が開けていられない。場が、瞬間的にどよめいた。集ったものは全てが『国』だ。そうであるから、それぞれ異常事態には慣れている。戦時中の会議など、お互いにばたばた倒れて意識が回復するまで待つ、などが日常だったこともあるのだ。それでも、こんなに急激に倒れる『国』は滅多に居ない。ベラルーシちゃん、と幼馴染が叫ぶ。
その時だった。だんっ、と強く足音が響き、場がいっそうどよめきを増す。
「『日本』! 待つよろし」
「待ってなど居られますか。行儀の悪さはお見逃しください。こちらの方が近い」
がたん、ばさばさっ、と物音が響く。それは机が蹴りつけられる音と、書類が落ちる音によく似ていた。会議場の机は円を描いている。真向かいに居る『ベラルーシ』の元に向かうとしたら、一直線に横切る方が確かに近道だ。しかし、まさか『日本』がそんなことをするとも思えなくて、『ベラルーシ』は薄く瞼を開いて視線を持ち上げる。だんっ、と再び音が響いた。机に乗せられた靴底が、わずかに見える。それは、『日本』の靴だった。
どうして分かってしまうのだろう。どうしてそんな、些細なことで理解してしまうのだろう。『ベラルーシ』は辛くて開けていられない瞼を閉じ、腕を持ち上げようとして指先をかすかに震わせた。飛び降りる音。すぐに手が繋がれる。
「『ベラルーシ』さんっ! ……っ、聞こえますか、ナターリヤさん。これから医務室に貴女を連れて行きます。良いですね?」
「……やだって言ったらお前どうするんだ」
「聞かなかったふりをするに決まっているでしょう。意識はありますね。なによりです」
体に痛い所はありますか、と菊が尋ねる。ナターリヤはそれに、ない、とゆるく首を振った。片手がゆるく解かれ、少女の背に回される。もう片方は膝裏へ。背を肩から胸に寄りかからせるようにして抱き上げ、菊は少女に辛いですか、と囁きかけた。ナターリヤは目を閉じたまま頷き、手さぐりで菊の服を握り締める。ぎゅぅ、と腕に力が込められた。歩きますからね、と囁き、菊は最後になってそれを問いかけた。国内に異変ですか、と。
『ベラルーシ』はもう一度否定に緩く首を振り、青年の腕の中でぐったりと脱力する。
「菊」
「はい」
「……なんで怒ってたんだ」
ゆるく、風が動くのを感じる。本当に慎重に振動が響かないように、菊はナターリヤを運んでいるらしかった。深々と溜息が付かれる。今聞きますか、と言わんばかりだった。ざわめきは遠く、少女の耳を通り過ぎて行く。うとうとと意識がまどろんだ。
「……勝手な嫉妬ですよ」
「……ん、ぅ?」
「眠いなら寝ておしまいなさい。大丈夫。安全に運んであげますから」
ね、と囁きが肌のすぐ近くで響く。くすぐったくて、ナターリヤは菊の肩に頬を擦りつけた。世界の音を遮断するように、耳が手で覆われる。ぐらりと旋回する眩暈に抗わず、ナターリヤは意識を手放した。抱きあげられているからなのか、全身がぽかぽかと温かい。まどろみの中で、夢を見た。幸せな夢だった。
眠っていたのは、本当に僅かな間であったらしい。ふわりと体に意識が戻って来て、ナターリヤは瞼を持ち上げる。まだ菊に抱きあげられたまま、というのはすぐに分かった。心臓の音が耳のすぐ傍でなっていたからだ。規則正しい、心地良い音。乱れもしていないのが、僅かばかり悔しい気がした。ここは何処だろう。目覚めたばかりの瞳は鮮明な像を結ぶことを拒み、ナターリヤは眉を寄せて何度か瞬きをする。静かに扉を閉める音。
消毒液のにおいが漂う白い部屋だった。医務室に到着した所で、ナターリヤは目を覚ましたらしい。あ、起きた、とのんびりと呟き、先に行ってベッドを整えて居たらしきイヴァンが二人に近寄って来る。等身大の人形のように腕に抱えられている妹を、イヴァンはごく心配そうな顔つきで覗き込む。乱れた前髪を手で整える仕草は優しく、ナターリヤはゆるりと目を細めて兄に微笑んだ。イヴァンはにこ、と機嫌よさげに笑い、視線をあげる。
「わあ、菊君ったらどうしたの? ひっどい顔」
「……一応聞いておきますが、なにが気に食わないので?」
「もう運んでくれなくて良いよ?」
つまりその腕を離せってことかな、とにこにこしながら言い放つイヴァンに、菊は微笑を唇に刻む。
「お断りします」
「もー、菊君は仕方ないね。僕の妹に軽々しく触れるな、って言わなきゃ分からないの?」
「ご安心ください。軽い気持ちで抱き上げている訳でもありませんので」
頭の上を飛び交う会話と感情は、寝起きで疲れきっているナターリヤが理解するには少々重たすぎた。ふわ、とあくびをしてくったりと菊の肩に頭を預けると、イヴァンの背から声が響く。
「こら、二人とも? ナターリヤちゃんを早く寝かせてあげて?」
「ライナさん……すみません」
「こちらこそ。イヴァンちゃんがごめんね」
ナタちゃんが血縁と幼馴染以外にこんなに無防備なのを見るのが初めてで、ちょっと面白くないだけだと思うのよ、と。さらりと言い放ったライナにイヴァンはもの言いたげな視線を向けるが、姉は笑顔を浮かべるだけでフォローもなにもしなかった。あら違うの、と視線で問いかけられたイヴァンは、上手く切り返せずに黙りこむ。珍しいものを見てしまったと思いながら、菊はまたうとうとしだした少女をベッドに下ろそうと、医務室を進む。
ぎっ、と体重をかけられたスプリングが軋む。その音と衝撃で、またナターリヤはぼんやり目を覚ます。
「……う」
「ああ、すみません。今静かになりますからね。……ご気分は?」
「菊? ……菊、きく」
眠りの中を彷徨う瞳で、ナターリヤの手が菊の服の袖を掴み、弱い力でひっぱる。
「……きく」
「はい」
「もう、怒って、ないのか?」
少女の指先が頬を辿り、唇を掠めてぱたりと落下した。もう、眠くて眠くて仕方がないのだろう。むずがる幼子のように難しげな顔をして、ナターリヤは目覚めきれない瞳で菊のことを見つめていた。もちろんですよ、と菊は囁く。じわりと胸を染め上げて行く愛しさに、自然に笑みが浮かんだ。
「怒っていません。……怖がらせましたね」
「……おまえなんか、ぜんぜんこわくもなんともない」
「はい、はい。ふにゃふにゃ言っていないでお眠りなさい」
私はすこし貴女のお兄さんとお姉さんと話すことがありますが、ちゃんとお傍にはおりますからね、と。言って身を離そうとした菊の指を握って引き留めながら、ナターリヤはうとうとと考えた。お兄さんとお姉さん。お兄さんとお姉さん。菊にそれに該当する存在は居ない筈だし、第一、貴女の、ということわりが入っていた。それはつまり。それはつまり。それは、つまり。菊がイヴァンとライナに話があり、二人がこの場に居るということだ。
悲鳴を噛み殺して身を起こしたナターリヤは、強い眩暈を感じてベッドにくず折れる。二回目の視界のホワイトアウトは、すこし眠ったおかげなのだろう。回復は数秒で行われ、ナターリヤは信じたくない気持ちでそろりと顔を上げた。イヴァンと目が合う。隣に居る姉の姿も目に入った。よし、菊を刺し殺して兄さんと結婚しよう。今ならば流れと勢いで了承してくれるかも知れない。うん、と頷いたナターリヤから、菊は数歩離れた。
察したらしい。その数歩を動く元気のないナターリヤは憎々しげな舌打ちを響かせ、菊をぱたぱたと手招いた。ちょっと来い刺す、と可愛らしくない呼ばれ方をした菊は、ナターリヤに向かってにっこりと微笑んだ。
「嫌ですよ」
「うぅ……! お前を刺せば私は兄さんと結婚できるんだ!」
「はいはい、寝起きに妙なジンクスを考えださないでくださいね。元気はあるようでなによりです」
倒れるからなにかと思って慌てたじゃないですか、と溜息をつく菊に、ナターリヤはその事実を改めて思い出した。そうだ、会議開始前に無様に意識を失ってしまったのだった。原因は寝不足だ。自分でもよく分かっていたので、ナターリヤは拗ねた目で菊を睨む。
「お前のせいだ」
「……はい?」
「ここ数日、満足に眠れなかった。お前のせいだ。お前に会えたから眠くなったんだ」
会えなくて不安で眠れなくて、会えて安心して眠くなってしまった、としか菊には聞こえなかった。思わず顔を赤くしてしゃがみこむ菊を、ナターリヤは不審者を眺める視線で睨みつける。なにしてるんだ、と言わんばかりだった。極めてこちらの台詞ですと思いながら立ち上がり、菊はどうしたものか、と考えた。正直力いっぱい抱きしめたくてたまらないが、さすがに姉兄が目の前に居る状況でそれはできない。死にたくはないからだ。
どうだ、お前のせいだろう、とばかりしたり顔でベッドに座りこんでいるナターリヤに、ふふ、と穏やかな笑みが向けられる。
「心配ないみたいね。イヴァンちゃん、私たちは会議に出ましょう? 菊さん、ナターリヤちゃんをお願いします」
「僕がついてるよ?」
「イヴァンちゃん。イヴァンちゃんが一緒だと、ナターリヤちゃんは寝ないで起きてるわよ?」
そしてここは離れ部屋で密室にも出来てさらにはベッドもあります。にこりと笑いながら告げたライナに、イヴァンは改めて妹の恐怖を思い出したらしかった。青白い顔で視線を彷徨わせ、うん、そうだね結婚を迫って来ない訳がないね、と頷いている。
「じゃあ菊君……頼むけど、分かってるよね……? なにかしたら君んトコに蟹の輸出とか全面ストップにするよ?」
「よくもそんな地味にすさまじい嫌がらせを考えるものですね! 国民の食卓が大打撃じゃないですか! しませんよ。……しませんとも」
「なにかあったらお姉ちゃんを呼んでね。すぐに来るからね」
断言の後の二回目は、視線を思い切り彷徨わせながらの言葉だった。ライナは仕方なさげに微笑みながらナターリヤにそう言い残し、不安と懸念でいっぱいの顔をしたイヴァンを連れて部屋を出て行く。ぱたん、と扉が閉まって二人分の足音が遠ざかって行く。はあ、と溜息をついて菊はベッドの傍に歩み寄り、パイプ椅子を引き寄せ、腰かけた。ナターリヤはベッドの上で脚を抱えてしゃがみこみ、膝の上に頬を乗せて菊を見つめる。
ふ、とおかしげに青年は笑った。
「なんです? 眠い?」
「……眠い」
「眠ってしまって良いですってば。大丈夫。なにもしません」
眠っている貴女をただ守るだけですから、と告げられて、ナターリヤはきゅぅと眉を寄せる。内容はともかく、菊の声は耳に優しく触れていた。安心して、すぐにも眠ってしまいたくなる。きく、と呟いて、少女は息を吸い込んだ。
「眠れないのは、本当にお前のせいなんだからな……」
「……そうなんですか?」
眠ってしまいなさいな、とあやす微笑みで伸ばされた菊の手が、ひんやりとナターリヤの頬を撫でて行く。ふ、と息を吐き出してナターリヤは目を伏せた。
「お前のせいだ」
「……はい」
「お前が……ぎゅって、するからだ」
肌の滑らかさを楽しむように動かされていた指が、びくりと震えて停止する。ナターリヤは視線をあげる事が出来ない。その理由も分からないまま、少女は青年に手を伸ばした。
「……眠れないんだ」
手指はぎこちなく迎え入れられる。指を絡めるように手を重ね、菊は静かな声ではい、とだけ言った。言葉を促されている。そのことが分かって、胸が苦しかった。くるしいばかりだ。菊はいつも、ナターリヤをくるしくばかりする。
「寒い……」
「はい」
「お前が、私をあったかくするから……! それなのに私をひとりに、してっ」
くっと指が曲がる。ナターリヤの肌に爪が食い込むほど強く、菊は手を握り締めていた。痛い、とナターリヤは言わない。それよりずっと、ずっと、息がつまる程体の中が痛かった。心臓のすぐ近く。あるいはその中。どこかに宿っている筈の感情、気持ち、心そのものが。ひどく痛い。
「ひとりにして……さむいのに……お前は私によく分からないことばかり言う!」
「それは」
「お前、私のことが好きなら好きってい」
言え、とその言葉は。衝動的に重ねられた唇の狭間に消えてしまった。は、と息が唇を濡らす。ナターリヤはぎろりと菊を睨み、唇をごしごしと繋いだままの手で擦る。
「……なにもしないって言ったろう」
「すみませんちょっと……反射的に絞め殺したくなるくらい、貴女が可愛くて」
「お前は本当にそうやって、意味の分からないことばかり言う……」
お前の指もばっきばきにしてやろうか、と手に力を込めると、菊は苦笑いをして少女の桜色の爪に口付けを落とした。む、とナターリヤは眉を寄せる。そんなことより、言葉だった。分かりやすい言葉で言わせなければ、とりあえず気が済まない。おい菊、と言葉を求めれば、青年は困った顔つきで胸に少女の頭を抱き寄せる。心臓の音が聞こえた。ぎゅぅ、と抱きしめられると温かくて、ナターリヤの意識はうとうととまどろんでしまう。
少女が安心して眠くなる、と分かってやっているのだろう。良いこ良いこと撫でながら寝かしつけようとする菊の背に爪を立て、ナターリヤはコノヤロウ、と毒々しく吐き捨てる。
「ごまかそうとするな……! ばかっ」
「また今度言ってあげますよ。おやすみなさいな、眠いのでしょう?」
「ううぅう……! い……いいか勘違いのないように言っておくが、べつに私はお前がいないと眠れない訳じゃないんだからな! 眠れるけど、あんまりになるだけなんだからなっ。お前が私をあったかくしたから、それなのに一人にして、寒いのがいけないんだからな……」
後半は、もうなにを言っているのか自分でもよく分かっていないのだろう。眠たげな目つきでずいと顔を寄せて抗議されるのに苦笑して、菊は優しく少女の唇をついばんだ。まあ、これくらいは許されるべきだろう。おやすみのキスだと思えば、十分なにもしていない、と言い張れる範囲だった。言葉はもう少ししたらあげますよ、と囁いて、菊は体温にすり寄って来るナターリヤの頭を撫で、くすくすと笑いながら囁いた。おやすみなさい。
「愛しい、私の……」
囁きは、夢に溶けはじめたナターリヤには届かず。ただ優しく、空気を震わせた。
夢を見た。
誰かと手を繋いでいた。
目を覚ます。菊が、手を繋いだまま眠りこんでいた。力を入れて引っ張っても、がっちりと掴まれた手のひらは離れることがない。手が汗でベタついている。不愉快な感触だ。気持ち良くなど決してない。それなのにナターリヤは無性に安心して、息を吸い込みながら菊の名を呟く。この手は離れることがないのだ。たとえ暴徒の波に揉まれても。よしんば離れてしまっても、この手はきっと、ナターリヤを探して安全な場所まで引いて行く。
名前も知らない幼子が、どこかで笑ってくれた気がした。