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 2 いと遠く

 会議に出席出来ない『国』の為の部屋が用意されたのは、歴史的にそう古くからのことではない。『シーランド』がちょこまかと『国』の足元を走り回って認知を迫るのに困り果てた『イギリス』が、対処のひとつとして始めたことだからである。それなのに、その部屋が用意されるのは何時しか当たり前のことになっていた。遠回しに認知してしまっているようなものなのだが、『シーランド』はそれに気が付いているのか居ないのか、口からの断定を求めて奮闘を続けているのだった。
 会議中、幼い少年の世話をしているのは『香港』である。英連邦として動きまわることが多い『香港』だから、『シーランド』の実質的な兄役である。二人の仲が良いことに加えて、青年は会議に必ず出なければいけない立場ではない。出席をほぼ義務付けられた『国』でありながら強制しきれない立ち位置は、彼があくまで『都市』として存在する『国』だからだろう。『セボルガ』や『ワイ公国』といった特殊な『国』にこそ近い『香港』は、だからこそ好き勝手に動き回り、『シーランド』の世話を引き受けているのだった。
 もっとも、『中国』の秘書代わりや『イギリス』の手伝いをすることもあり、『国』として会議に出席することもあるので、世話役になるのは全体の七割か、八割程度の比率ではあるのだが。それにしても慣れた仕草で『シーランド』と遊ぶためのトランプをかき混ぜていた『香港』は、部屋の扉が開く音に気がついてふと視線を持ち上げた。会議はすこし前にはじまったばかりである。会議を抜け出して二人の顔を見に来る困った保護者や、オヤツを持ってきてくれる英連邦の長女がやってくることもあるが、それにしても早すぎる。
 同じように扉の方を見た『シーランド』が、あ、と嬉しそうな声をあげて笑う。
「『台湾』さん! ですよ! ……ね?」
 見覚えのない相手であるから、すなわち『台湾』であると推測したらしい『シーランド』は、視線を『香港』に向けてやや不安げに首を傾げてみせた。万一間違っていたらどうしよう、と思ったらしい。安心させるように頭を撫でてやりながら、『香港』は無造作に頷いた。
「イエス。湾、こっち来れば?」
「うん。……ええと、こんにちは。はじめまして……ピーター君?」
「はい、ピーターですよ。でも『シーランド』と呼んでくれてもいいのです」
 えへん、と胸を張って告げる幼い少年の言葉はもうそれ自体が初対面の『国』に対して告げるワンフレーズのようなもので、焦りや悲しみ、切迫した意思を感じさせるものではなかった。だからこその安堵に胸を撫で下ろしながら、『台湾』はそろそろと二人の座る場所へ歩み寄る。『シーランド』の隣、『香港』の正面にある椅子を引いて腰をおろし、少女はそっとてのひらに山盛りになっていた飴とチョコレートを机に下ろした。
 小石が土を叩くに似た音が響き、チョコレートが『シーランド』の手元まで転がって行く。『シーランド』はそれを指で摘みあげると礼儀正しく『台湾』に返し、それでいて期待に輝く甘い瞳で少女を見た。
「……食べていいヨ?」
「ありがとうなのですよー!」
 きゃあきゃあと柔らかに響く歓声をあげて、『シーランド』はチョコレートの包装紙を破り、ぽんと口の中に入れた。『香港』は苦笑して『シーランド』の頭を撫でると、手元に置いていたトランプをトン、と机に打ち付けるように端を揃える。
「湾、ありがとう的な。で、それどうしたの?」
「もらったんだヨ……。香は、あの」
 見てなかったの、と怖々と口にする『台湾』に、『香港』はにっこりと笑顔を向けた。
「見てたけど?」
「じゃあなんで聞くのよー!」
「意地悪に決まってんじゃん?」
 ものすごく楽しそうな輝く笑顔を浮かべた『香港』の、飴に向かって伸ばされた手を少女はぺちりと叩き落とした。不満そうな顔を向けられるのにこちらの表情だよと唇をとがらせつつ、『台湾』はチョコレートをひとつ摘みあげ、青年の手へと押し付けた。
「飴は駄目。チョコなら良いヨ」
「……太るんじゃね?」
「香はチョコもいらない。湾、理解したヨー」
 さっとチョコレートを取りあげようとするも、『香港』の動きの方が早かった。青年は手を軽く握り締めるようにしてさっと少女の前から遠ざけ、己の膝元まで移動させてから苦笑を浮かべる。やりとりは何時も通りのちょっとしたコミニュケーションで、二人の間に刺々しい空気は流れない。ちゃんと分かっているのだろう。緊張した素振りもなく、『シーランド』は不思議そうに問いかけてくる。
「湾、が名前なのですか?」
「名前……うーん。……うん、そう、だヨ? ……そう、かな?」
「そういうことにしといて良いんじゃね?」
 彼らは『国』として己が守護し愛する国の名を背負うが、それとは別に意思を持つ一つの存在として、『個』としての名前を持っている。『シーランド』はピーター・カークランドであり、香の場合はカオル・カークランド。あるいは漢字で香、と表す。二種類の名があるのは彼に名が与えられた時期が英国に支配されている期間のことであり、漢字の表記を得ているのは名付けた『イギリス』の気遣いでもあるのだろう。
 対して、『台湾』にはそれがない。少女に取って『国』と『己』の呼び分け、境界線というのはひどくあいまいなものであり、同一のものではない意識があるものの、完全に分離はしていないのだった。ずっと昔に、幼い『台湾』を『オランダ』は湾、と呼んだ。それは正式な二文字を呼ぶよりは親しく、それでいて『国』としての対峙から離れるものではなかった。それが、そのまま呼び名として今まで来ているだけで、少女はひとの名を持っているような、持たぬようなあいまいな状態なのだった。
 それでも亜細亜の親しい『国』は、公的な場では少女を『台湾』と呼び、個人的な親しみを込める時には『湾』と呼び分けた。そうであるから事実上、『台湾』の名は『湾』なのだった。『オランダ』の呼び名が、少女がかつて口にした『蘭』で、漢字文化圏では決まってしまったように。それは『オランダ』を呼ぶ『台湾』の名前だ。『台湾』を呼ぶ『オランダ』の名前がそうであるように。その名を囁かれるたび、『台湾』は彼の人を思い出すことができる。事情を知る『香港』の曖昧な問いかけに、だから『台湾』は迷いながらもしっかりと頷き、難しそうな顔つきをしている『シーランド』に微笑んだ。
「そうだヨー。だから、湾、と呼んでくれると嬉しいヨー」
「分かりましたですよ! 僕のこともピーターと呼んでくれていいのですよ。……会議に出られないなら、これから僕と一緒に遊んでくださいなのですよ?」
 そっと上目づかいに伺ってくるピーターは、少女には断りがたい魅力に満ちていた。胸がきゅん、となったので腕を伸ばすと、ピーターをぎゅぅっと胸に抱き寄せる。幼い少年はわずかに驚いた声をあげるものの、抱きしめられるのは慣れているのだろう。恥ずかしそうにしながらも湾の腕の中に収まり、香にとびきりの笑顔を見せている。可愛いなあ、と心底思っている息を吐きだして、香もピーターの頭を撫でる。ピーターはくすくすと嬉しげに肩を震わせて笑い、離してくれた湾に満面の笑みを浮かべて首を傾げた。
「湾は、ポーカーできるですか?」
「……あんまり詳しくないヨ」
「じゃあ、神経衰弱にするのです! カオル兄ちゃん、並べてくださいですよー」
 ちいさな手で机を叩きながら要求するピーターに頷いて、香は整えたカードを手に取り、一枚一枚等間隔に並べて行く。十三×四の綺麗な模様を描き出して、香はじゃーんけん、と言って手を振りかぶった。ぽん、と元気よく言ったのはピーターで、楽しげな笑みは結果を見るとなおのこと輝いた。一番ですよー、と両手をあげて喜ぶのに微笑ましくなりながら、湾はピーターがカードをめくるのを眺めていた。
 湾の順番は三番目だから記憶しようとカードを眺めつつ、気持ちがどうしてものんびりとしてしまう。ピーターは迷わず一枚目をめくり、二枚目もめくってカードを摘みあげた。同じ絵柄だったからである。幼い少年の指は迷わず動き、次々とひと組のペアを完成させていく。トリックを疑うというより、それはどこか魔法じみていた。
「……で、さあ」
「え?」
「や、雑談ってか質問って言うか? ピーターは全部当てるから俺の順番回って来ないし。な、ピーター」
 机に肘をついて手に顎を乗せ、のんびりとした態度で問う香に、ピーターは真剣な視線をカードから動かさないままに頷いた。すんなりとめくられては組み合されて行くカードは、ピーターにとっても香にとっても不思議ではなく、当たり前のことらしい。自信に満ちた態度にそういうものかと思いながら、湾は香に意識を向けた。
「いいヨ? なに?」
「『オランダ』さんに会ってたけど」
「……うん」
 そこはかとなく嫌な予感を覚えながらあいづちを打つ湾に、香は両手で少女を指差しつつ、直球で尋ねた。
「告白してきた?」
 カードに手を伸ばした姿勢のまま、べしょんっとピーターが机の上で滑る。なにを聞いてるですか、と驚きと非難の入り混じった表情でピーターが視線をあげるが、湾は気にした様子もなく首をゆるく振る。
「顔見たらなにも言えなくなっちゃったヨー……」
「あれだけ好き好き言ってたんだから、いつもみたいに言えばいいだけじゃん? ちょっと本人が目の前に居るだけだって」
「ちょっとじゃないヨー。随分違うヨ……」
 確かにエア告白は随分してきた記憶があるが、本人が目の前に居るというのはそれだけで衝撃なのである。だって体温があって息してて笑ってくれて話してくれて名前呼ぶんだよ、と主張する湾にどんな想像をして告白していたんだと言いかけて、香は言葉を飲みこんだ。恋しい南国の少女を思い浮かべる。確かに、それは言えない。仕方ないっすね、と納得の頷きを見せた香に湾もこくこくと頷いた。
「でも、ちゃんと告白したいヨ……。好きなんだヨー」
「知ってる、知ってる。まあ、焦らないでじっくり行けば? これからは会えるんだろうし」
 一度連れてきたなら、これからも同行は許されるだろう。二度目がないと言う『中国』ではないし、今回もなんだかんだと押し切られたのは向こうなのだ。直前まで『我の可愛い娘が毒牙にかけられたらどうするあへん!』と大変混乱した叫びでぐるぐると考えていたようだが、連れてきたのなら腹は決まっているのだろう。実行すれば最後まで味方で居てくれる、情のある相手が『中国』なのだから。それは時にうっとおしい程の庇護ではあるのだが、温かな愛情であることは確かなのだった。はあ、と意図せず同時に溜息をついた湾と香を見比べながら、ぎこちない動きでピーターが顔を持ち上げる。
「あの……湾は、『オランダ』が好きなのですか?」
「うん。大好きだヨー」
「それは……あの」
 こくり、と喉を鳴らしてピーターは問いかける。それは親愛ですか、それとも恋なのですか、と。同じ『国』という存在とはいえ、初対面の相手に告げる言葉としては重いものであったのだろう。緊張しきりのピーターに苦笑しながら、湾はさらりと言い放った。
「恋だヨ。恋。……四百年でも、五百年でも、ずっと会いたくて。ずっと、ずっと……傍に居たくて、名前を呼んで欲しかったの。もう一回、蘭って呼んで、湾って呼んでもらえるなら、四百年でも五百年でも待てるって思ったのヨ」
 あの声で、名前を呼んでもらえるなら。その瞬間まで恋をして、その瞬間に恋をすると決めていた。そうすると分かっていた。そうなるとずっと思っていて、そしてきっと、その通りになったのだ。
「ん、頑張って告白しな。湾」
「うん。……なに? ピーター」
 そっと背を押すような応援の言葉に頷き、湾はなんとも言えない表情で沈黙しているピーターを見た。ピーターはとても言葉に迷う仕草を見せながらもそろそろと口を開き、知ってるかも知れないですが、と呟く。
「……『オランダ』は、ロリコンだって聞くのです」
「う、うん」
「湾は、ちょっと大きいと思うのですよ」
 ぼそりと落とされた言葉に、湾は胸を押さえて沈黙して。ガンバルヨ、と灰色の声で囁いた。それしか言えなかった。どう努力すればいいのか分からないが、とりあえず、『オランダ』に嫌われていないことは確かなのだ。そう思えば、時間つぶしに飴とちいさな人形をくれたことはこども扱いであるのだし、希望があると思えなくもなかった。幼子のような扱いをされたい訳ではなく、年頃の少女として認められないのが本当なのだが。
 そっと吐きだされた溜息は確かに恋に色づく少女のもので、感情を育たせきらない未熟な、幼子のものではありえなかった。それにしても、複雑すぎるものではあったのだけれど。湾は首にぐるぐるに巻きつけられたマフラーを手で握り、鼻先を埋めて息を吸う。煙草の匂いがした。あの日とはすこし違う、けれどそれは、『蘭の煙草』の匂いだった。



 自己紹介と近況報告だけでゆうに三時間はかかるのはどうかと思うが、『国』の数が多ければそれは仕方のないことである。ようやく終えた実のない一日目は、それでも主催という緊張感からなのか、耀の体に重たい疲労を蓄積させた。椅子の背もたれに体を預けたまま、ぐっと両手足を伸ばして息を吸い、吐きだす。はあ、と声も出して脱力すれば、隣からは忍び笑いが響いた。手を伸ばして指で額を弾けば、笑いながら腕を柔らかく退けて遮られる。なんですか、と楽しげな声で問われて、耀はくたりと身に力を入れないまま、視線だけを動かして菊を見た。
「それは我の台詞あるよー……なにを笑ってるあるか」
「いえ、お疲れのようでしたので。珍しいこともあるものだな、と思いまして」
 肩でもおもみしましょうか、との言葉はからかい交じりに耀を老人扱いするそれだったが、頭の芯まで疲れているからなのか反射的な怒りは鈍くしか感じなかった。頼むあるー、とぐったりとした響いた声におやおやと笑みを深め、菊は手元の書類をさっと整理して鞄に仕舞ってしまうと、素早い動きで立ち上がった。そのまま椅子の背に回れば、ぐなぐなと体を持ち上げながら耀が疲れた様子で目を閉じる。近年稀に見る疲労具合だった。
 触れますよ、と驚かさないように一声かけてから手を伸ばし、菊は耀の肩に手のひらを置いた。ぐ、と力を入れて揉みほぐすが、鉄板のように硬い訳ではない。肉体的な疲弊より、精神的な消耗が激しいだけなのだろう。それでも丁寧に肩や背中、腰や腕などを揉みほぐしていく菊に、耀は目を閉じたまま満ち足りた息を吐きだした。温泉に入って酒が飲みたいあるよー、と弱々しい声で吐きだされるのにこの会議が終わったら私の家に招待しますよと笑えば、よろしく頼むとばかり首がこくりと頷いた。なんだってこんなに疲れているのか、と呆れの濃い心配を胸に浮かばせ、数秒考えて、菊は二つの理由を思いつく。ひとつは、耀の側近の体調不良による不在。もうひとつは菊の愛娘にして耀の愛娘でもある湾が、会議場に来ている、という事実。
 単に『国』として来ているだけならば、耀とてこれほど消耗はしないだろう。少女は長年の途切れた恋を繋がせる為にここに来ていて、それを耀は止めることも出来ないのだった。この場で往生際悪く止めるくらいなら、そもそも連れて来はしないのである。結婚式前夜の父親の気分ですよねえ、と肩を叩きながらしみじみ呟く菊に、耀は心底溜息をついてから頷いた。まさしくそうだったからである。ただし、式には今でも反対している気分だが。
「相手が悪いあるー……なぁんでよりにもよってあのロリコンあるか。勝ち目がねえある。泣くのが見えてるある。あああああ、湾が泣くとか……我は耐えられねえあるよ」
 どうして香とか勇洙で手を打たなかったあるか、としょんぼりした声でぼやく耀に、菊は苦い笑みを浮かべた。
「手を打つ気分で、恋の相手を選ばれたらそれはそれで認められないものがあるんですが。耀さんはそちらの方がよかったんですか?」
「良い訳ねえあるよ。香だったらあの眉毛の呪いを解いてから、勇洙ならおっぱい揉む癖を矯正させてから、我と戦って立ち上がってきたら交換日記から許可してやるある」
 首筋を指で揉みながら、二秒だけ考え、菊は武器の有無を問いかけてみた。中国は国が微細に別れて戦っていた時期が長かったからなのか、とにかく武器の種類が多彩なのだ。近代的な銃火器よりも剣や槍といったものの扱いが得意であることを知っているので尋ねてみたのだが、耀はちらりと呆れの目を向け、使わないある、と言った。
「素手あるよ、素手」
「素手ですか……それはまた、なんと言いますか」
「花嫁をさらって行く男を殴るのは父親の役目あるねー」
 楽しみある、と目を細めて口元を綻ばせ微笑する耀は目の毒になりかねない美しさで、菊は若干視線を反らしながら溜息をついた。これは本当に、心から楽しみにしている時の表情だ。まったく貴方も実際ろくでもないことばかりするのだから、と思いつつ、菊は大事なことを口にする。もちろん、と。
「私にもその権利はあるのですよね?」
「……日本刀と弓、どちらにするつもりある」
 ふむ、と考え込む仕草で遠回しに権利を肯定する耀に、菊はふわりと穏やかな笑みを浮かべた。
「嫌ですねえ。使いませんよ、武器なんて。ただ公平を期して、耀さんが殴るなら私は蹴るとか踏みにじる方向で行こうかな、と思うくらいです」
「どこの世界の公平さで考えたのか、今の俺には理解できないんだぜ! あと俺は湾は純粋に可愛いと思うだけでそういう気持ちはないのでやめてください」
 耀を中心に右側が菊、左側に勇洙の配置であったので、帰り支度をしながら会話が嫌でも聞こえてしまったらしい。韓国の伝統的な衣装に身を包みながら特徴的なくるんを大泣きさせ、勇洙は青ざめた顔で降参の形に両手をあげている。二人は勇洙にちらりと視線を向けた後、それぞれの思考による沈黙を挟んで問いかけた。
「でも、勇洙は湾の胸には興味ないじゃないですか? 意識してるとか」
「違うんだぜ! 女子にやったらセクハラなんだぜ! 俺はそんなことしないんだぜ!」
 不当な疑惑に対して損害と賠償を要求するんだぜ、と言い募る勇洙に、『口にハバネロ突っ込んで黙らせますよ?』と柔和な笑みで菊は告げる。両手で口を押さえて青ざめる勇洙に対し、耀はのんびりとした様子で首を傾げた。
「あんなに可愛い湾にどうこう思わないなんて、ちょっとどうかしてると思うある」
「兄妹愛なんだぜ! きょうだいあいなんだぜーっ!」
「ああ、でも湾は年下には興味ないとか言ってましたしねぇ……」
 半泣きでさりげなく己が兄であると主張するのをばっさり切り捨て、菊が納得の頷きを見せた。耀もそういえばとばかり頷いたので、勇洙はばたりと机に倒れ込んでしまった。先程の耀より疲れ切った様子だったが、二人は特に気にしなかった。いつものことだからである。案の定、すぐに疲れているとは思えない機敏な動きで上半身を持ち上げた勇洙は、俺はもう帰るんだぜ、と主張しはじめる。会議から直帰の起源は俺なんだぜ、と騒ぐのを適当に受け流しつつ、菊は耀からマッサージの手を引いた。耀は心地よさそうな深い息を吐きだし、幾分か回復した様子で椅子から立ち上がると、ぐるりと会議場を見回した。これから部屋を移して交流会を目的とした夜会が開催されるからなのか、思っていたよりも部屋の人数は減ってはいない。
 三割か、四割程度が勇洙のように夜会に参加せず帰ったり、国内観光に繰り出す為に退室しているが、半分以上は座っていた椅子か、あるいは仲の良い『国』の元まで移動して雑談を繰り広げている。ドレスアップしたナターリヤがイヴァンに結婚を迫るのは何時もの光景であるし、会議中にいっぱい我慢したからとアルフレッドがライナを抱きしめて充電しているのもそれなりに慣れた光景で、アーサーを中心に集まったらしいフランシス、マシュー、シェリといった面々が相談事なのか口々に言葉を紡ぎ続けているのも普段通りのものだった。『セーシェル』、シェリ・カークランドの名を持つ南国の少女は、白いワンピースタイプのドレスを似合っているかどうか見て貰っているのだろう。三人共にとても似合っているとの評価を与えられて、とても嬉しそうにくるりとその場で回ってみせ、全身を改めて見せびらかしたりしている。大体はその場に香も参加している筈なのだが、今日に限ってその姿がない。
 ピーターも同様に姿が見えなかったから、おやと不思議に思い、耀は会議場にくまなく視線を走らせた。『香港』に言いつけたい用事は特にないのだが、彼の保護者役の一人として、居場所くらいは知っておきたかったのである。ほどなくして香は見つかったのだが、その光景に思わず、耀は無言で眉を寄せた。視線の先を辿った菊も、数秒言葉を失ったあと、おやまあ、と呟いたきりそれを見つめてしまっている。その隙を見計らって走って逃げた勇洙は、ちょうど二人の視線の先、香と海と湾が顔だけをひょこりと覗かせている扉をくぐって会議室を出て行った。ええと、と菊が言葉を探しながら唇を開く。
「あれは、いったいなにをして……?」
「……若者のやることは、我には本当理解できないあるよ」
「あ、でもなんとなく分かった気がします」
 ほら、良く見て下さいと菊が指差したのは湾だった。見つめていると、湾は視線を一か所に固定させたまま緊張に身を強張らせて動こうとせず、時折、両手で頬を挟んで俯いたり、首を振ってなにかを堪えるような仕草をしていた。その少女の視線を追って行くと、まっすぐ長身の男へと辿りついた。『オランダ』は窓を薄く開いて煙を外に逃がしながら煙草を吸っていて、夜会に参加するにしてもしないにしても、もうすこしその場を動こうとはしていなかった。つまり、湾は彼を待っているのだ。香と海は、少女に付き合ってあげているのだろう。二人とも末っ子体質であるというのに、妙に面倒見の良い性格をしている。
 耀はなんとも言えない表情で肩を落とすと、あまり面白くもなさそうにてのひらを持ち上げ、人差し指で何者かを指差した。三人組の方角ではない。すい、と視線を動かせば、その先に居たのはイヴァンに馬乗りになって結婚を迫る少女の姿だった。
「我はもう良いある」
「はい」
「自分の女の面倒は、ちゃんと見てやるものあるよ。菊」
 もちろん菊とて、ちょっとねえ君はやくこっちに来てナターリヤどうにかしてよっ、と全力で訴えかけるイヴァンの視線に気がつかなかった訳ではなく、己の名を呼ぶ叫び声が聞こえていなかった訳ではない。ただ、耀を優先させて無視していただけである。もういいのですか、と苦笑する菊に寛容な仕草で頷いて、耀は菊の頭にぽん、と手を乗せた。
「ありがとうな、菊。助かるある」
「いいえ。それでは、耀さん。また明日」
「ああ、明日。……夜会には出ないあるか?」
 ナターリヤがドレスアップしているので、当然、エスコートとして菊は出席すると思っていたのだ。去って行く背に問いかければ、菊は苦い笑いで振り返り、告げる。
「見せびらかしたくないんです。あまりね」
「……ほほーう」
「ニヤニヤ笑わないでください」
 しっし、と視線を払うように手を動かし、菊は今度こそまっすぐにナターリヤの元へ歩いて行く。馬乗りになっている少女の脇に手を差し入れて持ち上げる仕草は親しげで、回収作業に慣れているようだった。即座に走り去るイヴァンを追いかけることもなく、ナターリヤは菊の服を掴んで猛抗議していた。あれはあれで、上手くやっているのだろう。くつりと喉の奥に笑いを染み込ませながら、耀はふと空気が動いたのを感じて窓辺の男に視線を向けた。細く開いていた窓を閉じ、壁から背を離して、煙草を携帯灰皿でもみ消している。そろそろ帰る様子だった。



 動きがあった瞬間に頑張ってと言い残して、ピーターと香は室内へと身を滑り込ませてしまった。手を繋いで仲良くアーサーが居る方へ歩いて行くのを見送りながら、この時に居てくれないのなら一体どうして一緒に居てくれたのかと思いかけ、湾は気持ちを落ち着かせる為に息を吸い込んだ。緊張疲れし過ぎない為と、混乱してしまうのを抑える為、そしてすこしの勇気で背を押してくれる為だった。告白したい、告白する、と言った湾の応援の為に、今まで二人は傍に居てくれたのだった。
 想いを告げるのは、一人でしなければいけない。当たり前のことで、大切なことだった。湾はマフラーの端を手で握りながら、ゆったりと歩んでくる蘭を見つめる。長身の男は最初から少女の元へ来るつもりで、湾に視線を向けながら歩いて来ていた。視線が重なったのは、だからごく自然なことだったのだ。首が痛くなる視線の角度は、しかしエントランスでそうであったように、すぐ解消される。大股で歩いて来た蘭は戸口に居た少女に両手を伸ばすといとも簡単に引き寄せ、抱き上げてしまうと歩む速度すら変えずにその場を立ち去って行く。
 いくつかの、ぽかんとした視線が追いかけてきた気がしたが、錯覚ではなかっただろう。蘭の腕に腰かけるような姿で数歩運ばれて、はっとした湾は、慌てて男の肩を手のひらで叩いた。
「蘭、蘭! 歩けるよ!」
「知っとる。ええから大人しくせえ」
「ぐ、ぐらぐらして、怖いの」
 とにかく下ろして欲しくて告げた言葉は、湾の耳にさえ嘘くさく響いた。男は少女をしっかりと抱き上げていたから早足で歩かれても体がぐらつくことなどなかったし、不安も、怖さも感じなどしなかった。蘭は訝しげな眼差しを少女に向けたが、可憐な頬がうっすらと桃色に染まっているのを見て察してくれたのだろう。ゆるく息を吐きだすと腰を屈め、湾の爪先を床に触れさせてやった。爪先から踵が床を踏み、腕が離されると湾は安堵に大きく胸を撫で下ろしたが、恥ずかしさに染まった頬の赤みは中々引いてくれなかった。
 ぱっと両手を押し当てながら恨めしそうに見上げると、男は湾の前に片膝をついて、視線の角度を水平に近くしてくれている所だった。例え雨でぬかるむ地面であろうと、ためらいなくそうしたであろう仕草で。会議室から数歩だけ離れた太い廊下の右端で、蘭は少女に苦笑を向けた。
「……騒がしいかと思うての」
「大丈夫。騒がしいの、慣れてるヨー。……蘭、会議、おつかれさまネ」
 そうするのには少しばかりのためらいを乗り越える勇気が必要だったが、湾は囁きを落とした後、床からそっと踵を持ち上げた。ぐっと背を伸ばして、蘭の頭をぽんぽん、と撫でる。ぎこちない仕草を、数度繰り返しただけで体が思い出す。蘭も、記憶が蘇ったのだろう。くすぐったそうに微笑すると、ありがとうの、と囁いて湾の頭を撫でてくれた。大きなてのひらは記憶と同じ温かさで、少女の髪に触れて行く。つかの間笑いあって、湾はよし、と息を吸い込んだ。
「あのね……?」
 ん、と柔らかな声が言葉を促す。うん、と頷いて、湾は言葉を囁いた。
「蘭が好き」
 伸びてきた手が少女の頭を引き寄せて、柔らかな髪をくしゃくしゃに撫でる。瞳には甘やかな笑みが浮かんでいて、湾の言葉を純粋に喜んでいた。それは良いことだ。間違いない。けれど、喜びきれない。笑いながら髪を撫でる手を捕まえて、湾はもう、と憤慨した声をあげた。
「違うよ! ちゃんと聞いて、蘭。私、もうこどもじゃないヨ!」
「ほんな主張するようで、まだまだねんねやざ。……ほーけ、好きなんか」
 くつくつと嬉しげに喉の奥で笑いながら、蘭は好き勝手に湾を撫でて愛でている。それは確かに愛情のこもった仕草だったが、どうしたって満足しきれるものではない。
「いじわる! こども扱いしないで欲しい、言ってるヨ!」
「例えば?」
「たとっ、たとえば……?」
 なにを言われたかよく分からない顔で、湾はこてりと首を傾げてしまう。恥ずかしさと悔しさ、興奮が入り混じった顔は真っ赤に染まっていて、それなりに男の目を楽しませた。蘭はくつくつと笑いながら目を細め、湾を落ち着かせるように指の背で頬を撫でる。
「例えば、どんなや。言うてみい」
「……好きって言ったら、告白だヨー。湾は、蘭が好きなんだよ? だから、こども扱いしないでちゃんと返事して?」
 ふくらみの薄い胸を手でぱしぱし叩いて鼓動を静め、深呼吸しながら湾はもう一度想いを乗せた言葉を紡いだ。それなのに、また、蘭は真剣には受け取ってくれない。ふむ、と至って気楽に考え込む素振りを見せると、頬をぷうぅっと膨らませる湾に苦笑し、指先をちょいちょい、と顔の前で動かした。もうすこし傍に寄れ、という意味だろう。ドキドキしながらそっと身を寄せた湾に、男はふと真剣な表情で沈黙する。
「ら……」
 名前を呼ぼうと開きかけた唇が、息を吸い込む音を立てて制止した。それは少女のてのひらが男によって引き寄せられたからで、手の甲に口唇が押し当てられたからだ。はたはたと鈍い動きで瞬きを繰り返し、湾は視線を外すことを許してくれない男を見つめる。なにもかもが、視線を近くに重ねたままで行われた。言葉はなく。音もなく。感情と真意が読めないままに。吐きだされた息が、ざわつく肌の表面を撫でる。瞬間、口唇で触れられたことを理解して、少女の羞恥が爆発した。素早く手を引っ込めて後ずさるのを喉を震わせながら見送り、蘭は手で前髪を乱し、目を細めて微笑する。
「こんくらいで赤うなるようではの。ねんねやざ」
「う、うぅ……うぅー!」
「湾」
 今にも噛みついてきそうな、恨めしそうな表情で唸る少女に苦笑して、蘭は再び湾のことを手招いた。湾は逃げるかどうするか迷うそぶりを見せながら、未だ片膝をついたままの男に、じりじりと近寄って行く。自覚しない怯えに全身を強張らせて警戒する少女にくつりと笑いながら、蘭は両腕を伸ばして湾を引き寄せた。たたらを踏みながら腕の中に飛び込んで来た体は一瞬だけ強張り、しかしすぐに体の力を抜いてしまう。そこが安全な場所だと、思っているのだろう。ねんねやなぁ、としみじみ思い、蘭は不満げに唇を尖らせる少女の、柔らかな髪をゆっくりと手で梳いてやった。
「良いこやざ、今日はもう帰り。よく休んで、温かくして眠りや。また明日の」
「……蘭、夜会には出ないの?」
「帰る」
 言い切った蘭に、湾は安堵した様子で一度だけ頷き、己の首元に手をやった。巻かれていたマフラーを解き、蘭の首にくるくると巻きなおす。立たれて居れば苦労しただろうが、視線と同じくらいの高さに首があったので、仕草としては楽だった。巻いたヨ、と囁けばそーけ、とそっけない返事の後、また頭が撫でられる。前髪がかきあげられ、額に口付けが送られる。また明日の、と囁かれ、湾はこくりと頷いた。
「おやすみなさい、蘭」
「ん。ええ子での」
 くしゃくしゃと頭を撫で、蘭は足早に廊下の先へと歩いて行ってしまった。その背が見えなくなるまでじーっと見つめて、湾は頬を手で押さえながら溜息をつく。どう考えてもこども扱いだ。昔と、態度が全然変わっていない。それを七割くらい嬉しく思いつつ、残りの三割は恋する乙女として複雑な気持ちを味わいながら、少女はホテルの宿泊階へ行くことにした。会議中、湾には『台湾』として、他の『国』と同じように寝泊まりする為の一室が与えられている。おやすみなさいを告げた以上、なんとなく眠らなければいけない気がしたのだった。幸い、緊張のしすぎで、なんだかとても疲れている。エレベーターに向かって歩きながら、湾は口元に手をあて、あくびをした。眠れそうだった。



 扉に張りついて出歯亀をしていた面々の顔が、そろそろと室内に引き戻される。誰かがごくりと息を飲む音がして、それから視線はいっせいに『ベルギー』に集中した。言いたいことは分かる。女性も途中まで出歯亀に参加していたので、彼らの視線の意味は十分に理解していた。会議場は恐ろしいほどの静寂に満ちていたが、打ち破るきっかけを誰ももたなかった。やがて『ベルギー』は集中する視線を遮るように顔の前に手をあげ、すう、と肺の奥まで息を吸い込む。
「……質問は一人いっこまでにしてな?」
 戻って来たざわめきが『ベルギー』から意識がそれたことを示したが、顔の前から手を離すことができなかった。そのままぺたりと頬にくっつけて、『ベルギー』は深々と息を吐く。まったく、なんてことをしてくれたのだあの『兄』は。緊張しきっていた少女はともかく、男が覗き見る視線に気がつかなかったとは思わない。分かっていて見せていたとするなら、それは場に集った者全てへの牽制に他ならないだろう。明らかな独占欲に、気がつかなかったのは少女ひとりきりだろう。父親役を自称する保護者たちは、未だ頭を抱えて机につっぷしたまま顔が持ち上がらなかった。復旧には時間がかかりそうだ。そんな中、『ベルギー』に歩み寄って来たのは『ハンガリー』だった。
「ベル、あの」
「エリザ……。うち、疲れたわ」
「うん、おつかれさま。ベル。ごめんね、ひとつだけ聞いて良い?」
 お互いに愛称を口にする気を使わない関係だからこそ、『ベルギー』は素直に頷くことが出来た。返答に困る質問ではないと、無意識の信頼もあるだろう。はあ、と溜息をついてしまう『ベルギー』に苦笑しながら、『ハンガリー』は問いかけた。
「『オランダ』さんって」
「うん」
「……ロリコンじゃなかったの?」
 視線を向けていた者たちがとりあえず聞きたいことの、一番最初に来るのが恐らくそれだろう。『ベルギー』は泣きそうな気持ちで目頭を押さえながら、よく分からないと首を振って沈黙する。確かに『オランダ』はちょっと、かなり、どうしようもなく幼子が好きだが、その好意が純粋な可愛らしさを感じてのことか恋愛対象としてのことなのかを、これまで誰も問い正しはしなかった。普通は聞かないだろう。『ベルギー』も、だから本当を知りはしなかった。頭痛を感じながら息を吸い込み、『ベルギー』は呟く。
「おにいちゃんのことなんて、知らへんわ。もう……」
 自分で思っていたよりずっと弱々しく、泣きそうに響いた声だった。溜息をついた『ハンガリー』は慰めるように『ベルギー』を抱き寄せ、ぽんぽんと背を撫でる。それ以上、質問はどこからも飛ばなかった。

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