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 3 花

 時刻を指定しておいた携帯電話が、軽快な音楽を奏で出す。慌てずに持ち上げて適当にスイッチを押せば、画面には予定時刻が来たことを知らせる表示があり、『オランダ』は伏せていた視線を持ち上げて辺りを見回した。男が居るのは会議場となったホテルのロビーである。エントランスが見える位置に陣取っているのは昨日と同じだが、決定的に違うのは『オランダ』がソファに腰かけている点だった。二人掛けのソファの作りはゆったりとしていて、細身の者なら三人でも座れるくらいだろう。
 濃く深い、落ち着いたワイン色の生地は手にしっとりとした感触を与える上質なもので、べっこう色になるまで磨かれた机はいかにも高級そうなものだった。それでいて押しつけがましい下品さがないのは、さすがに選び抜かれた一流の品であるからだろう。『オランダ』は特になんの感動もない視線で家具と、周囲をうろつく『国』らの姿を一瞥し、読んでいた書類を机の上に置いた。手持ち無沙汰になった指先が煙草を探して彷徨うが、『オランダ』は舌打ちをしただけでそれを取り出しはしなかった。代わりにポケットから取り出したのは昨日『台湾』に与えたものと同じラズベリーのキャンディーで、包装紙を破って中身を取り出し、『オランダ』はそれを口の中に入れる。特に禁煙している訳ではないので、その飴を口にするのは久しぶりのことだった。
 男には甘みの強すぎるそれは、けれども少女の口にはぴったりなのだろう。それを思えば、吐きだす気にはなれなかった。さて、そろそろだろうと思いながら腕時計に視線を落とせば、時刻は会議開催の二時間前を示している。場に姿を見せているのはホストである『中国』と、なんのかんのと手伝っているらしき『日本』、引きずられてきたらしき『韓国』と、道連れの栄誉をたまわった『香港』といった亜細亜の面々で、欧州の者たちは当たり前のようにいなかった。二時間も前であるから、『オランダ』も普段であれば、まだゆったりと部屋でくつろいでいる所だ。
 亜細亜四人組からちらちらと説明を求める視線が向けられるが、『オランダ』はごく自然にそれを無視した。カチ、と音を立てて長針が進む。『オランダ』が改めてエントランスへ視線を向けた、その時だった。薄桃色の少女が飛び込んできて、まっすぐに『オランダ』の元へ駆けてくる。視界の端で、亜細亜四人がそれぞれに頭を抱えたり、額に手を押し当てるのが見えた。『台湾』に、彼らの姿は見えなかったのだろう。でなければ彼らに挨拶もなく『オランダ』の元へ直行するなんてことを、少女は決してしない。『台湾』は寝泊まりする部屋をホテルの上の階に持っていたから、外に出かけた帰りなのだろう。飛び込んで来た少女からは朝の瑞々しい空気の名残と、果物のような甘い香りが漂っていた。
「蘭、蘭! おはよう!」
「ん。おはようさん」
 駆け寄って来た少女は満面の笑みで頷くと、『オランダ』の前でいったん立ち止まった。ソファには一人分のスペースがある。そこに腰かける様子は見られなかった。『台湾』は『オランダ』の手元にさっと視線を走らせて火のついた煙草がないことを確認すると、ソファに片手をついて身を乗り出し、踵を床から持ち上げた。そのまま、よいしょ、とばかりに『オランダ』の膝の上に乗ってくる。不安定にぐらついて落ちないように腰に手を回して抱き寄せてやりながら、『オランダ』は思わず、眉を寄せた。
「なんや、湾。怖いことでもあったか?」
 甘えるように『オランダ』の首に腕を回しながら、『台湾』はごく純粋な表情で不思議そうに首を傾げてみせた。ぺたんと体をくっつけるように倒して、『台湾』はないヨ、と言い切る。
「用事もないヨ。朝のあいさつだよ?」
 膝の腕に抱き上げて頭を撫でてやるのが、そういえば昔の朝の一連の動作であった記憶が、ある。ああやってたわ、と思いながら腕を持ち上げ、『オランダ』はぽんぽん、と少女の頭を撫でてやった。『台湾』はごく幸せそうにくすくす、と笑って『オランダ』の肩に頬をくっつけてしまう。離れたり、ソファに座りなおす気はどうもないらしい。ご満悦の笑顔は、飼い主にくっつけて嬉しくてたまらない子猫のようだ。苦笑しながらよしよしと頭を撫で、『オランダ』は机に置いておいた書類を手に取った。
「せわしないから、構ってやれへんぞ?」
「いいヨー。邪魔しないで良いこにしてるヨー」
「……ねんねやな」
 昨日の主張を思い出してからかってやれば、『台湾』はむーっと不満げに目を細めてみせた。ぐりぐりと額を肩に擦りつけつつ、至近距離で睨んでくる。
「蘭がちっとも相手にしてくれないから、もう好きに甘えることにしたんだヨ」
「ほーけ」
「ばか。いじわる。だいすき、蘭。蘭、大好き」
 そこだけ切実な響きを帯びて告げてくる『台湾』に、『オランダ』は苦笑しながら頭を撫でてやった。言葉は返されない。またそうやってちゃんと聞いてくれないー、と深々と息を吐き、『台湾』は『オランダ』の心音を聞きたがるようにそっと目を閉じてしまった。害もないので好きにさせていると、意識にこちらへ向かってくる気配がひっかかる。ふと視線をあげれば『日本』がやや苦笑しながら、『オランダ』にごく軽く頭を下げた。傍まで近寄られれば、『台湾』も気がついたのだろう。ぱっと目を開けると『オランダ』の膝の上からするりと抜けだし、床に靴をつけて立ち上がった。
「『日本』さん、おはようございます」
 そう告げた『台湾』は、それがごく当たり前のような態度で『日本』に優雅な一礼をした。特別な仕草はなにもない。ただ背をまっすぐに伸ばし、腕と指先にまできちんと力を入れて、頭を下げただけの簡素な一礼。だからこそ、見惚れるほどに美しく映える仕草だった。顔を上げた『台湾』に満足そうな笑みを浮かべ、『日本』も同じようにして『台湾』と、『オランダ』に向かって礼をする。
「おはようございます。『台湾』さん。『オランダ』さんも」
「おう。どうした」
「いえ、こちらに『台湾』さんがいらっしゃったので、ちょうど良いかと思いまして」
 紹介しておこうと思って今まで時期を逃していたものですから、と微笑み、『日本』はちょうどその時背後を兄に向って駆け抜けて行こうとした『ベラルーシ』の腕を、振り返りもせずに掴んだ。急に繋ぎとめられた少女はバランスを崩して転びかけるものの、予想していた『日本』がそっと抱きとめたのでことなきを得る。彼方から、半泣きの声で『ロシア』がありがとうよろしくねええええ、と叫んでいるのが『台湾』の耳にも聞こえた。『ベラルーシ』は手首を掴む『日本』の手を外そうとやっきになって暴れながら、己にとっては見慣れない少女をひと睨みする。
「『日本』!」
「はいはい、暴れないでくださいね」
「私は今忙しいんだ! お前に構ってやる時間はない! ばか!」
 離せ離せを暴れながら、『ベラルーシ』の目が威嚇するように『台湾』を睨んでいる。こら、と瞼の上に手を置いて窘めながら、『日本』は『ベラルーシ』の顔を覗き込む。
「どうしたんです? そんなに不機嫌で。可愛らしい顔が台無しですよ」
「人前で可愛いとか言うな! お前が悪い!」
 お前のせいで今日も兄さんと結婚できなかったじゃないか、と叫ぶ『ベラルーシ』は、そこでようやく睨む対象を『日本』へ変えた。怯む様子もなく苦笑して、『日本』はぱっと『ベラルーシ』の手首から指を離してやる。
「さ、『ベラルーシ』さん。貴女は恐らく初めて会うでしょうから、紹介させてくださいね」
「は?」
 訝しげな低音にも微笑みを深めただけで、『日本』はひらりと手を泳がせた。そして『台湾』に向かって、『ベラルーシ』を指し示す。
「『台湾』さん。こちらが、『ベラルーシ』さんです」
「……こ、こんにちは? 『台湾』です」
「おい『日本』。どういうつもりだ」
 ぎこちなく、困りながらもとりあえず挨拶をした『台湾』とは違い、『ベラルーシ』は訝しげな表情を崩さないままだった。その差異に溜息をつきながら、『日本』はまったく、と『ベラルーシ』を見つめる。
「あのですね、『ベラルーシ』さん。彼女は私が一時期お世話をしていた『国』で、身内のようなものなんです。娘くらいには思っています」
「知ってる。それが?」
「ですから。家族に貴女を紹介しているだけですよ、可愛いひと」
 にこりと笑みを浮かべて言い放った『日本』に、『ベラルーシ』よりはやく、『台湾』が言葉の意味を悟って赤くなる。つまり、そういう仲であるということなのだろう。『台湾』に数秒遅れて理解した『ベラルーシ』は、なにやら眩暈を感じたようだった。ぐらりと上半身を反らした後、『日本』からじりじりと距離を取って行く。
「どうして……お前はそうやって……私に一言の断りもなく……っ!」
「予告したら貴女、逃げるじゃないですか」
「当たり前だ! 恥ずかしいことするな! 馬鹿っ!」
 しれっと言い放つ『日本』に抗議の叫びをほとばしらせ、『ベラルーシ』はさっと身を翻して走り去ってしまった。方角が『ロシア』が消えたのとは逆であることだけを確認して、『日本』はあっけに取られる『台湾』と『オランダ』に目を戻し、にっこりと笑った。
「用事はこれだけです。お邪魔しました」
「……『日本』」
「はい?」
 頭の痛そうな声を出す『オランダ』は、『日本』とは空白期間もあるものの、それなりに長く古い付き合いだ。笑顔に隠れて見えない本心も分かってしまって、だからこそ呆れの眼差しを送って言う。
「いじめてやるなや」
「あなたこそ。……湾さん?」
「え、え。……は、はい!」
 慌ててぴし、と背を伸ばして返事をする『台湾』を可愛がる目つきで笑い、『日本』は穏やかな仕草で少女の頭を撫でてやった。『オランダ』とは、また違う安心感をもたらしてくれるてのひらだ。思わずほっと肩の力を抜くと、『日本』は静かに肩を震わせる。
「いいですか? なにかあったら、ちゃんと言うんですよ? 私が『オランダ』さんのこと、こらしめてあげますからね」
「蘭、そんなことしないヨー。でもなにかあったら言うね」
 どうもありがとうございます、と礼儀正しく告げる『台湾』に父親か祖父、あるいは教師が出来の良い生徒に対して向ける満足げな微笑みを浮かべ、『日本』は『オランダ』に薄い微笑みを受けて歩き去って行った。当然のように『ベラルーシ』が消えた方向へ歩んでいったので、亜細亜組の会議前の打ち合わせは『日本』がこちらへ歩み寄って来た時点で終わっていたらしい。声をかけて来た真意を考え、『オランダ』はゆるく息を吐きだした。『台湾』に『ベラルーシ』を紹介してみせたかったのも本当だが、あれは遠回しに示された牽制への回答で、もうひとつ、『オランダ』への注意だろう。あまり、『台湾』さんをいじめないでくださいね、と言う。
 よじよじと膝に上りなおす『台湾』を先程と同じうように抱きとめてやりながら、ある意味苛められているのはこっちや、と『オランダ』な内心で苦く思うが、表情にも言葉にも出さなかった。『台湾』は借りて来た猫のように従順に『オランダ』の腕の中に収まり、男が書類から視線をあげないのを見ると、そっと窺うように首を傾げた。
「蘭、まだ忙しい?」
「……当分はの」
 そういうことにしておいた方が、『オランダ』には都合が良かった。そうしておけば『台湾』と意味のないおしゃべりを交わさなければいけないこともなく、ただ、腕の中に閉じ込めるだけで事足りる。黙々と文面に視線を走らす『オランダ』に、『台湾』は不安げな声で囁いた。
「じゃま?」
 そう思うならば、そもそもこの場所には座っていない。ふー、と息を吐きながら『台湾』の頭を撫でてやり、『オランダ』は静かに言いきった。
「良い子にしとれ」
「居てもいい?」
「……ここ以外、どこ行く気やざ」
 腰を抱き寄せる腕に力を込めて体を密着させれば、『台湾』は一瞬だけ体をびくつかせたものの、すぐにやわやわと力を抜いて行き、やがて『オランダ』にぺったりとくっついてしまった。首元で呼吸のたびに空気が動いているのは、ややくすぐったいが我慢できないものでもない。
「蘭……蘭、蘭」
「ん?」
「……らん」
 安心できる場所と、懐かしい匂いと、体温と声に意識が解けた声だった。視線を向けずに頭を撫でてやると、子猫のように擦りつけて甘えてくる。しばらくそうして手に懐かれるままにしておくと、ふ、と少女の体から意識が抜け落ちるのを感じた。目をやると『台湾』は『オランダ』の肩に頭を持たれかけさせたまま、安堵しきった表情で眠ってしまっている。よく見れば、うっすらとクマが浮かんでいた。疲れで数時間は眠ったものの、緊張しきった意識が真夜中に目を覚まさせてしまい、そのまま朝まで起きていたに違いない。
 昔も時々、『台湾』はそうなった。『オランダ』が会いに行けると知らせを出すことが出来た時には必ずそうで、出迎えて挨拶を交わした後、こうして膝の上で眠ってしまうのだった。あの時、ともすれば男の体の影に包まれて隠れてしまうくらい小さかった幼子は、すっかり年頃の少女に成長している。全く、と思いながら『オランダ』は身を屈め、『台湾』の顔を見つめる。そして指の腹でゆっくりと、黒ずんで浮かぶクマをなぞった。
「……眠りや、ゆうたやろうの」
 指を離しながら、少女の髪を一筋巻きとる。そのまま引き寄せて、口唇を押しあてた。眠る『台湾』は気がつかない。だからこそ静かに口元を緩め、『オランダ』はおやすみ、と囁いた。



 会議の為の資料は、一冊の本のように分厚かった。クリップでは太刀打ち出来なかったので穴をあけて紐で閉じた紙束を腕に抱えるようにして、『中国』はあれやこれやと思考を巡らせながら廊下を小走りに歩んでいく。会議開始まで、あともう十五分しかない。やるべきことはやりつくしたし、準備も完璧だと思えるくらいに終わっている。それでも気持ちが落ち着かない理由を、『中国』はちゃんと分かっていた。
 愛らしい反抗期娘の姿が見えないからだ。すこし前まではロビーの、エントランスから入って来た者なら誰の視線にでも止まる位置に陣取っていた男の腕の中で眠っていた筈なのだが、すこし前、『中国』が通りがかった時には二人とも姿を消していた。会議開始直前だからだ。『台湾』は出席を許されていないが、『オランダ』にはその場に居る義務がある。だからなのだ。そう言い聞かせても乱れた感情が元通り落ち着きを取り戻すことはなく、『中国』は苛々と折れた紙の端を指で押さえ付けながら、廊下に差し込んでくる光の揺らめきを睨みつけた。
 分かっている。気の回し過ぎだ。心配のし過ぎでもある。本物の小娘でもあるまいし、『台湾』は分別をわきまえている、筈だ。その筈だ。絶対だ。『中国』は少女に貞淑であれと言い聞かせた覚えこそ無かったがつつしみを持てとは教育した筈だし、その前には『日本』の手にあったのだ。教育の方向性は愛らしい大和撫子ですと言い放った『日本』の言葉を信じるならば、『中国』の心配はゴミ箱に今すぐ捨ててくるべきだった。それに、と『中国』は苛々を打ち切るように会議室の扉を二十メートル程先に睨みながら、己に言い聞かせる。本人の口から断言こそされていないものの、周囲の噂と『中国』の認識が正しければ、あれは幼児愛好者である筈だった。
 ロリコンというヤツである。それに照らし合わせるのであれば『台湾』は絶対に安全な筈で、そうでなければいけない筈だった。その単語の定義する所が、年頃の少女まで拡大されていなければ。十分前になったら、『香港』に頼んで『台湾』の居場所を探って来てもらおう、と『中国』は決意する。彼ならば会議中も自由に動き回れるし、会議室にそっと滑り込み、結果を『中国』に耳打ちしてまた出て行くことも可能なのだ。全く良い身内を持ったものだと思いながら、『中国』は会議室に向かって歩みを再開する。その時だった。
「『中国』」
 その声が特徴的な語尾を持たなかったからと言って、『中国』には認識を誤らせるものには成りえなかった。即座に足を止めて息を吸い込み、振り返る。そして次の瞬間、『中国』は手に持っていた書類を彼方へとぶん投げた。どうしてそうしたのかは、『中国』にさえ理解できない。反射的な動きだったからだ。後方で投げ捨てられた書類が、奇跡的に誰にも当たらずに床に落ちた音がするが、振り返る気にすらならなかった。前方の男目掛けて投げつけるのが一番良かったのかも知れないが、冷静な思考が戻って来たのは書類が手から空に解き放たれた後で、全く持って後の祭りでしかなかった。
「あ……あ、あいやー! ななななな」
「どうしたんですか兄貴! 驚愕の起源は俺なんだぜ!」
 騒がしく叫びながら会議室の扉を開け放ち、顔を覗かせた『韓国』も、しかし同じく目をまあるくして動きを凍りつかせた。どうして貴方がたと来たら静かに驚くことが出来ないんですか、と溜息混じりに顔を覗かせた『日本』も同様に。おやまあ、とばかりにぽかんと口を開けて、『中国』を騒がせた光景を見ていたが、場に集う全ての『国』がそうしていただろう。視線の集中砲火を浴びているにも関わらず、『オランダ』は煩わしそうに眉を寄せただけで、声を荒げすらしなかった。
 その腕にはしっかりと、眠る『台湾』を抱き上げている。横抱きにされた『台湾』は、閉じたまぶたを震えることすらさせなかった。穏やかに上下している胸が、少女が深い眠りについていることを示している。抱え上げている腕から零れた黒髪が、床に直角になるよう垂れ下がっていた。『オランダ』が一歩を踏み出すと、髪が振動で柔らかく揺れる。何度も丁寧に梳られた黒髪は、絡みあわぬ絹糸のようにうっとりと艶やかだった。
「よく寝てての。置き去りにするのは可哀想やざ」
「……我は、お前をそんなコに育てちゃった覚えはねえあるよ……?」
 ようやくなんとか心の落ち着きを取り戻し、『中国』は溜息をつきながら『台湾』の顔を覗き込む。笑いを堪えている風でもなく、深く穏やかな呼吸が繰り返されているので、これはもう本当に眠っているのだろう。責任を問いただしたい気持ちで振り向いた『中国』に、『日本』は明後日の方角に視線を逃がしつつ、両手を大きく振って疑惑を否定した。その隣で『韓国』が不当な疑いに対して謝罪を要求するんだぜっ、と騒ぎでいるが、それはもう何時ものことだった。無視して『日本』だけをじっとりと見つめていると、やがて眉間に皺を寄せながらも視線が戻される。
 『中国』を嫌そうに見つめ返す視線は、それでもやはり自分はそんな教育をした覚えがないと告げていて、一歩も譲りなどしなかった。もちろん、『中国』にもそんな記憶はない。とすると、残されたのは一人だ。お前のせいあるかと睨みあげてやれば。『オランダ』は甚だ心外であると告げるように無言で睨みを返してきたが、どことなく否定しきれていないように、『中国』には見えた。試しに脛を靴先で蹴りつけてやると、『オランダ』は身じろぎをする程度の抵抗しかせず『中国』の叱責を受け入れた。つまりは、そういうことなのだろう。
 妙なすりこみすんなある、と吐き捨てれば、『オランダ』は深く息を吐きだして首を左右に振った。そういうつもりではなかったと言っても、言い訳としてしか響かないことを熟知しているのだろう。また、眠る少女の意識を無暗に揺らすことはしたくないらしかった。男は極力響かないような声で『中国』の名をもう一度呼ぶと、腕時計と会議室の扉に視線を走らせた。
「……眠らせる場所に、連れてく時間くらいあんな?」
「潔く遅刻しろある。……間違っても上には行かせねえあるよ。ちょっと待つよろし」
 本来なら『台湾』が寝泊まりしている部屋に連れて行かせるのが一番だが、そんな訳にも行かないだろう。『中国』の胃が心配でどうにかなりそうだし、なにより気がついた時に『台湾』に八つ当たりされかねない。年頃の少女であるから、とにかく他者が部屋に立ち入ることを嫌うのだった。私的な空間であれば、性別など関係なくそう思うものであるにしても。『中国』は身ぶり手ぶりで『日本』と『韓国』に会議開催準備を進めて置くように指示すると、腕時計に目を落とし、予定時刻より二分が経過していることを確認した。
 欧州の一部の『国』はまだ姿を見せる気配すらないので、まあ、大丈夫だろう。『中国』は無言で待っている『オランダ』に視線を戻すと、会議室前から南側に続いて行く廊下を指差した。『オランダ』の視線がそちらに向いたのを確認し、『中国』はゆっくりとした口調で説明する。
「会議室から三つ先の部屋が空き部屋ある。ソファがあるから寝かせてくるよろし。五分以内に部屋から出てこなければ……分かってるな?」
「ほやの」
「さっさと行くよろし」
 それでとっとと会議室に来い、と笑顔で言い放った『中国』に呆れた視線を向けて、『オランダ』はゆっくりと足を進めて指示された部屋へ消えて行く。足で扉を蹴り開けていたが、両手がふさがっているので仕方がないだろう。足跡が扉についていたら、あとで損害賠償を請求すればいいだけの話だ。そう己に言い聞かせ、『中国』は『オランダ』が出てくるのを待たずに会議室へ入った。いくら欧州の半分以上の国が未だ姿を見せていないとはいえ、『中国』は今回のホストなのである。これ以上の遅刻は望ましくないだろう。
 室内は緊張感に満ちたざわめきで揺れていたが、出席している『国』の多くの表情は共通していて、そして視線も一カ所に集まっていた。机に突っ伏して、『ベルギー』は顔を上げようとしない。かすかに肩が震えているのは、笑っているのか嘆いているのか、どちらの様子にも見えた。告げる言葉を持たないのが、『中国』を始めとした『国』たちに共通することだ。優しく放置することに決めて、『中国』が議長の椅子を引いて腰掛ける。その音に触発されたかのように、『ベルギー』は顔を上げようともせず、どんよりとした声を響かせた。
「おにいちゃんなんか嫌いやわぁ……」
 なんであんな目立つことばかりするん、と彼方に向かって問いかける涙声の囁きに、返事を出来る当人は未だ会議室に現れていなかった。『ベルギー』に実質的な被害こそ現れていないだけで、兄の行動を理解できない妹の嘆きは相当のものだろう。なにかあるたびに説明を求められる視線も、『ベルギー』の混乱に拍車をかけているようだった。柱時計に目を向ける。五分以上が過ぎていたので、『中国』はゆったりと、微笑みながら頷いた。『オランダ』はまだ姿を現さない。保護者として殴るくらいは、しても許されるだろう。『日本』が穏やかな笑みで内心を読んだ同意を示して来るのに満足して、『中国』は投げ捨てられたせいでぐしゃぐしゃになった紙束のしわに、手を叩きつけた。



 意識の端で指定された五分があえなく過ぎ去ったのを感じながら、『オランダ』は深々と溜息をついた。遅刻常習組のせいで会議は未だはじまった気配を見せないが、『オランダ』がここから立ち去れる見込みも現れはしなかった。男はソファに対して中途半端に腰を屈めたまま、『台湾』を腕に抱き上げて困惑している。少女のほっそりとした指先は『オランダ』のマフラーをしっかりと握り締めていて、離そうとはしていなかった。まさか起きているのかとも思うが、『台湾』の呼吸は一定していて、瞼は印象的な黒い瞳を覆い隠したままだった。
 演技であれば一流女優になれる所だが、この少女にそんな器用なことが出来ないのは男が一番よく知っている。女らしく感情を隠してふるまうことも、『国』として嘘と知りつつ真だとして語ることもそれはそれでするだろうが、『台湾』は良くも悪くもまっすぐに素直な性質だ。これ程までに演じることができるなら、もっと上手く立ち回っていることだろう。どうしたものかと息を吐き、『オランダ』はさらに腰を屈め、とりあえず『台湾』の腰から下だけをソファに寝かせてやった。
 上半身をもう片方の腕で倒れないよう抱き寄せてやりながら、『オランダ』はそっと、片手でマフラーを解いて行く。ほどなく少女の膝元にとぐろを巻くように落ちたマフラーを見つめ、『オランダ』はゆっくりと『台湾』の体をソファに横たえた。辺りを見回すが、接客の為の一室だからだろう。室内には向い合せに置かれた上質なソファと椅子くらいしか物がなく、体にかけてやれるような布は見つけられなかった。幸い、日差しが心地よく空気を暖めている。風邪をひいたり、体調を崩すことはないだろう。『オランダ』は眠り続ける少女の頬に手のひらを滑らせると、ぬくもりを宿したがるように拳を握る。
「……起きて、泣いて探さんでおくんねの」
 昔から寝つきの良かった『台湾』に、苦労した記憶はほとんどない。雷が落ちるような派手な音を除いては物音に目覚めることもなかったし、抱き上げて移動させてもむずがるようなこともしなかった。その代わり、幼子は寝て起きて傍に『オランダ』が居ないと、泣きながら彷徨ってその存在を探したのだ。いつも。ゼーランディア城でも。その後、二人が会えなくなっても。時折そういうことがあったと、会えない時期に『日本』からそれを耳打ちされたことがある。その瞬間、胸に走ったあさましい感情を、誰かに告げたことはない。口元にゆるい笑みを浮かべながら立ち上がり、『オランダ』は眠る『台湾』の髪に指を通した。美しい髪を際立たせるように、桃の花飾りが揺れている。



 扉の閉じる音がした。



 懐かしい匂いに包まれて目を覚ますと、案の定、己の手がマフラーを握り締めている。ぼんやりとそれを見つめながら、蘭は困っただろうなぁ、と考えた。無理に取り返さず、与えてくれたのは優しさなのか、そのものに執着がないのかどちらなのだろう。よく分からずに身を起こせば、あ、と嬉しそうな声が響く。
「起きたのですよ! おはようございますなのですよ」
「おはよ、湾」
「……おはよう、香。ピーター。……おは、よう?」
 横たわっていたソファの向かいに腰を下ろして、香とピーターは手にトランプを持っていた。机を見れば、どうも七並べをしているらしい。並びを見ただけでは優勢がどちらなのか分からなかったが、二人とも難しげな顔をしているので一進一退なのだろう。頭を振って息を吸い込み、湾はぱちん、と目を開いた。
「蘭はっ?」
「会議だと思うけど」
「わ……私は、なん……え?」
 記憶が、どうも上手く蘇ってくれない。朝の散歩から帰って来て、エントランスで『オランダ』に会ったことは思い出せた。膝の上に乗り上げて甘えたことも、『日本』に挨拶をしたことも、『ベラルーシ』を紹介されたことも。膝に座りなおして気持ちが良かったことも思い出せるが、どうもその辺りで記憶が途切れていた。眠っていたことは理解できる。深い眠りから、たった今目覚めたことも。分かるのだが繋げてしまいたくなくて、少女はぐるぐると思考を巡らせながら頬に手を当て、息を詰める。ぺちりと音を立てハートのエースを出しながら、香は呆れたように言った。
「『オランダ』さんの膝の上で寝ちゃった的な」
「きゃあああ!」
 羞恥と混乱、己に対して信じられない気持ちもあるのだろう。甲高い悲鳴を上げた後に絶句してしまった少女を眺めて、香はピーターと視線を交わし、無言のままに頷きあった。その後、『オランダ』が『台湾』を抱き上げてここまで運んだことも、その光景を会議遅刻常習組以外の『国』が目撃していることも、言わないで居た方が良いだろう。もしかすれば遠からず少女の耳に届いてしまうが、今この場では黙っているのが賢明だった。二人とも、女性を泣かせる趣味などないのである。ソファの上でひとしきりじたばたした後、湾は大きく息を吸い込んだ。
「お……重くなかったかな……私」
「え? そこ?」
「ダイエットするヨ! 明日からダイエットだヨ!」
 思わず突っ込んだ香に真剣な表情を向け、湾は決意した表情で言い放った。膝の上で寝込んでしまっただけでこれなので、抱き上げて運んだことがバレたらたった今から絶食しかねない勢いだ。事実から可能な限り遠ざけておかなければと思いつつ、香は少女の全身にざっと視線を走らせる。
「……湾」
「なにヨー」
「それ以上細くなったらマジ折れる。ダイエット中止のお知らせ的な」
 保護者たちだって、きっと香に同意してくれるに違いない。大体からして湾の体は、肉感的とは言い難いくらいなのだ。ふくよかでもなければ、凹凸が激しい訳でもない。あくまで少女らしいまろやかな印象があるだけで、抱き締めれば柔らかいだろうが、それは単に筋肉質ではないというだけのことだった。とんでもないヨ、と言いたげな表情で湾が息を吸い込むのを見て、香はあまり紳士的でない一言を叩きつける。
「ブラのサイズ上がったって喜んでたくせに」
 あーあ、とわざとらしい溜息をついて、香は少女の胸元に視線をやった。保護者が居れば当然怒られたであろう視線は、凍りついた空気を泳ぐばかりで咎められはしない。少女の視線がぎこちなく、己の胸元に下ろされる。
「湾は昔から胸から減るし?」
「う……うぅ」
「前のサイズ捨てたとか言ってた気がするし、買い直しじゃん?」
 まあ湾がそれでいいなら試してみるのもありじゃん、と嘯き、香はこれだからなにもかも分かっている身内は嫌なんだと涙目で睨んでくる少女に、紳士譲りの微笑をきらめかせた。
「で、やんの? ダイエット」
「しないよ! ダイエット中止のお知らせだヨ!」
「……心配しないでも、湾は細いし綺麗だと思うのですよ」
 そっと、控えめに告げられたピーターだけが、この場に存在する紳士だった。慰められながら頷き、湾は溜息をつきながら己の体に手で触って行く。ひとしきりぺたぺたと輪郭を確かめてから諦めの表情で首を振り、少女は寝乱れた髪を整えるべく、まず花飾りを取ろうとした。それなのに、記憶している位置に花飾りがない。
「……え?」
 手を当てている部分で、問われずとも察してくれたのだろう。香はカードを手に持ったまま立ち上がり、ざっと床やソファに視線を走らせた。
「……なくね?」
「うん。……あれ?」
「いつもの? 桃の花の?」
 落ちてどこかに引っかかっていないか改めて服を探りながら、湾は向けられた問いに頷いた。桃の花飾りは取り立て高価なものではないが、気に入って使っているものだ。無くしたとは思いたくなかったし、落としたならば探しに行きたい。ピーターは七並べの続きを諦めた様子でカードを机に置き去りにすると、部屋の隅まで歩いて探し、ソファの下を覗き込んでから首を振る。
「この部屋には落ちてないですよ……。廊下かも知れないですね」
「ん、探しに行くだろ? 湾」
「……うん」
 気落ちした様子の少女の手を引いて部屋を出ながら、香はまさかの可能性を思い描きつつ、それを口には出さなかった。部屋に入る時に気がついていれば確信的に思えただろうが、その時の光景を思い描けないので疑問だけに留める。エントランスで見かけた時、少女の髪には花飾りが揺れていた。それから今まで、髪に触れられる程近くに居たのは、一人しか居なかった。廊下を探しても、エントランスやロビーまで見に行っても、桃の花飾りを見つけることは出来なかった。それから数日、探しても見つけることは出来ず。会議の日程が終わった。



 なんの前触れもなく背中を蹴りつけられたのは、帰国する寸前、空港での出来事だった。周囲を取り囲んでいた護衛がぎょっとした視線を向けるのを手で制しながら、『オランダ』は咳き込みつつ、ある程度人物の予想をして振り返る。目を見開いたのは、不機嫌な顔をして立っていたのが考えた誰でもなかったからだ。『ベラルーシ』は『オランダ』を蹴ったことで乱れた髪を神経質に手で払いながら、眼光鋭く睨みあげてくる。『香港』や『日本』ならばともかく、そこに『ベラルーシ』が居たのは全く考えつかなかったことだ。思わず辺りに視線を走らせるが、『日本』が一緒に居る様子もない。あるいは蹴るだけ蹴って居なくなったのかも知れないが、その考えはあまりに突飛に過ぎた。
「……お前がどういうつもりなのかは知らないが、ひとつだけ言っておく」
 不機嫌な表情も氷のように冷たく響く声も、少女が明らかに不機嫌であることを告げていた。その不機嫌は『オランダ』にだけ向けられており、なにかの間違いや八つ当たりではないことを示している。『ベラルーシ』は息を吸い込み、『オランダ』の前で呼吸をするのも嫌だと言わんばかり、眉を寄せながら言った。
「盗むのは気持ちだけにしておけ。窃盗は犯罪だ」
「……そうやざ」
「……よくも、ぬけぬけと」
 平然と返された言葉に、『ベラルーシ』は神経を逆なでられた表情で足を持ち上げる。もう一度蹴るつもりなのだろう。スカートなのにようやるわ、と呆れながら見つめていると、彼方から走り込んで来た人影がそれを止める。な、と驚きの声を上げたのは少女の足を掴んで止めた『日本』で、『ベラルーシ』に動揺は見られなかった。そろそろだと思っていたのだろう。足首を捕まえられたまま、『ベラルーシ』は心底嫌そうに息を吐きだした。
「元はと言えばお前が悪い」
「どうしてですか」
「身内とか娘とか言ってた。だからだ」
 つまり、そういう理由で『ベラルーシ』は『オランダ』を懲らしめに来たらしい。心当たりの十分ある男は簡素な質問で納得したが、『日本』は深々と溜息をつき、『オランダ』ではなく『ベラルーシ』を見つめる。あのですね、と言いながら足首を開放してやり、『日本』は淡々とした口調で白銀の少女に言い聞かせた。
「お気持ちはありがたいですが、すこし放っておきましょう。大丈夫。悪いようにはなりませんよ。……ああ、『オランダ』さん」
 そこで初めて、場に『オランダ』が居ることを思い出したかのような口調で、微笑みながら『日本』が振り返る。察した『ベラルーシ』が青ざめた表情で逃げようとするのを捕まえながら、『日本』は笑顔を崩さないまま囁いた。
「二度目はない、と心得てください」
「……おう。すまんの」
「なにか考えあっての事でしょうから。昔の馴染みでもありますし、彼女が蹴ったのと引き換えに一度だけ見逃して差し上げますよ。はいはい、逃げないでくださいね。全く、貴女という人は、どうして私に一言の断りも無く誰かを襲撃したりするんですか」
 それは言っておけば誰を襲撃したとしてもある程度見逃す、というように聞こえたが、『オランダ』は深くを考えないことにした。さようなら、とばかりに投げやりな態度で手を振る『日本』に苦笑しながら、『オランダ』は訳が分からないと困惑する護衛を引き連れ、場を立ち去って行く。桃の花飾りが、ポケットの中で揺れていた。留め具の壊れたそれに指先を触れさせながら、『オランダ』は落ち込んだ少女の顔を思い出し、すまんの、と呟く。言葉が届かないことは、知っていた。

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