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 4 しのぶれど

 本気になれば逆らえない訳ではないのだが、気分的になんとなくそうしにくいように誘導していくのがこの上なく上手い相手。香にとっての菊は、そういう相手だった。冷静に比べて行けば勝つ算段は付けられるのだが、いざ相手を前にして言葉を交わしてしまうともう駄目で、勝てない気がする、と心が思ってしまう。つまりは、厄介な相手なのだった。耀なら泣き落としでなんとかなりそうなのに、菊は本当に攻略の手掛かりすらつかめないのだ。敵に回したくないので、味方であって欲しい。
 しみじみとそう思いながら、香は薄いレンズの眼鏡をかけて読書をしている菊を見つめた。老眼鏡なんだぜ、とからかった勇洙は口にハバネロを突っ込まれて撃沈し、畳に横たわったままピクリとも動かない。もちろん勇洙は、菊の目が悪くないことを知っている。その上で気分を出したいからと言ってかけられた眼鏡をからかったので、怒られるのも仕方がないだろう。幾分過剰な報復であるとは思うが、これくらいしなければ勇洙が黙らないことを、亜細亜の『国』ならば皆知っていた。
 やがて、多少は回復したのだろう。もぞもぞと動いた勇洙は口からハバネロを取り出し、ぽいと庭に投げ捨てて、また動かなくなる。ひどいんだじぇ、と漏れ聞こえた泣き声はろれつが回っていなかったが、静かにしてくれるのはあと十分が限度に違いない。つかの間の静寂を楽しみながら、香は平然と読書を続けている菊に、声をかけようとして息を吸い込む。しかし言葉を上手く見つけられずに、息だけが吐きだされて行く。話題にしたいのは一つだけだった。そうと知っていて、どうして『オランダ』を見逃したのか。どうして湾にそれを知らせてやらなかったのか。その真意を問いたいのだが、香が気が付いていることに気がついてすぐ、菊はもう言葉を告げていた。理由なくそんなことをする方ではありませんから、その時が来るまで待ってあげましょうね、と。
 有無を言わさなかった囁きに香は頷きこそしたものの、納得していないのが本当だ。だって湾は悲しんでいたのだ。落ち込んでいたのだ。教えてやるべきではないのだろうか。もんもんとした気分が胸に溜まり込み、勝ち目のない相手に挑ませようとしたその時だった。台所からばたばたと走ってくる音が聞こえ、ふすまが勢いよく開かれる。
「湾は!」
 だん、と決意も高く足を踏みならした少女からは、バニラエッセンスの香りがした。
「蘭に告白したいのよー!」
「……パウンドケーキ、上手に焼けた的な?」
「せんせが今切ってくれてるヨー。味の感想聞かせてね、香。勇洙、菊さんも」
 少女漫画を読んでいたら手作りのお菓子を持って告白しに行って成功する話があってそれがすごく素敵だったという理由で、近隣の『国』を味見係として呼び寄せた恋する少女の髪に、桜の髪飾りが揺れている。桃の花飾りを無くしてしまった湾に、菊が送ったものだった。ささやかな罪滅ぼしも兼ねているのだろう。それを見るたびに香は複雑な気持ちになるが、湾はそれなりに気に入ったらしく、しばしば髪につけては出歩いていた。今日付けているのは、オーブンを菊の家に借りに来たからだろう。本にしおりを挟んで閉じ、少女に視線を向けた菊はふわりと表情を和ませる。
 どんな理由あってにせよ、贈り物を愛娘が身に付けていてくれることが嬉しくてならないらしい。まさかその為に言わなかったのでは、と疑惑が持ち上がるが、菊の手の届く範囲にハバネロが置かれているうちに問いかけるのは自殺行為だった。今度、勇洙が居ない時を狙って訪ねるのが良さそうだった。それが有効と見てから、勇洙を黙らせる為にわりと常に菊はハバネロを携帯している。ふわ、と漂うバニラエッセンスの香りが強くなった。ふと視線を向けると、切ったパウンドケーキを乗せた皿を持ち、耀が倒れたままの勇洙を眺めている。
 たまご色のふんわりとした断面は、アーサーのスコーンに慣れてしまった香の目から見ても、十分美味しそうに見えた。
「……勇洙はなんで倒れてるあるか?」
「菊にいじめられたんだじぇ。したがばかになってるんだじぇ。あいごー」
「どうせ胸揉むか……老眼鏡だなんだの言ったんじゃないあるか?」
 すいと視線を泳がせて、菊が眼鏡をかけていることに気がついたのだろう。ちゃぶ台にパウンドケーキの皿を置きながら言う耀に、菊と香が同時に頷いた。よろよろと起き上がった勇洙は反省の色もなく言ったらハバネロ突っ込まれたんだぜ、と叫び、耀にお前を黙らせるのに良い手あるな、と言われてしょげている。よしよし、と勇洙の頭を撫でながら、湾は不思議そうに首を傾げた。
「勇洙、キムチは好きなのにハバネロは駄目なんだよネー?」
「別物なんだぜ! 湾だってケーキは食べても砂糖はそのまま食べないんだぜ?」
「でも、世の中には砂糖そのまま口にした方がマシなケーキもある的な」
 思わず呟いてしまった香に、憐憫の眼差しが向けられる。誰が作ったなんのことなのか、誰も問わない優しさが痛かった。耀が袖口で目頭を押さえながら、パウンドケーキの皿をぐいぐいと香に押しやる。たくさん食べてくださいね、と囁き、菊は香にフォークを差し出した。勇洙も湾も涙ぐみながら頷いたので、恋する少女の手作りケーキを一番目に味わうのは、香ということで決定したらしい。アーサーが知ったらマジ泣きすんだろうな、と思いながらフォークを手に持ち、香は顔の前で手を合わせ、パウンドケーキに向かってゆるくお辞儀をした。
「いただきます」
「どうぞ、召し上がれ」
 期待に満ちた表情で湾に告げられ、香は緊張しながら頷いた。大丈夫。これは少なくとも食べものの見かけをしているし、黒くなっていないし、異臭もしていないし、変な色の煙も出ていないし、本能が激しく警鐘を鳴らしていたりもしない。だから大丈夫、と英連邦として培われた『手作りの食べもの』に関する恐怖の気持ちをねじ伏せて、香はパウンドケーキを一切れ取り皿に移動させ、そーっとフォークで突き刺した。
 爆発しない。よかった、安全だ。危険物処理班より慎重な手つきに湾は困惑の表情になったが、すぐに仕方のないことだと諦めたらしい。そろそろと一口分がフォークで運ばれて行くのを、息を止めて見守っている。視線を痛いくらい感じながらもぐもぐと顎を動かし、香は安堵感で泣きそうになりながらパウンドケーキを飲みこんだ。ふぅ、と吐息が漏れる。
「マジ美味しいんだけど」
「ほ、本当? 本当?」
「うん、マジで。パウンドケーキの味する」
 もちろん、パウンドケーキなのだからその味がしなければおかしいのだが、香としては最大の賛辞のつもりだった。それを作って、そのものの味がするということが奇跡なのである。ようやく安心しながらもう一口を食べると、味わう余裕も出てきてちゃんとした美味しさも分かった。たまご色の生地はしっかりとした存在感がありながらも口どけがよく、バニラエッセンスとレモンの香りをいっぱいに広げて喉を通って行く。多少甘みが勝ちすぎる気もしたが、紅茶や珈琲を一緒に楽しむのであればこれくらいが適切なのだろう。
 表面の焦げ目も香ばしくアクセントになっていて、ぶ厚めの一切れを最後まで飽きさせはしなかった。大人しく食べることに没頭し出す香を見て、勇洙も一切れに手を伸ばし、菊と耀も己の分を確保し出した。湾は一切れを自分の前に置いたまま、緊張した表情を崩さず、そわそわと味見係を見守っている。勇洙は一切れを食べ終わった後に無言で二切れめに手を伸ばし、無言で合格点であることを示していた。耀はゆっくりと味わいながら美味しいあるよ、と囁き、菊は満面の笑みで頷いて見せた。
「これなら、きっと喜んでくださいますよ」
「ありがとうございます。……蘭、喜んでくれるといいな」
 ほう、と溜息をつく少女は思い詰めた様子であるので気がつかないのだろうが、香と勇洙は無言で視線を交わし合い、深々と頷いた。喜ばないなんていうことがあれば、まず間違いなく菊と耀が『うちの娘の作ったものになにか問題でも?』と言い出しかねない。現に、そんなことは万に一つもありえませんよ、と笑う菊は腹の底でなにを考えているのか悟らせないまでも、たくらみのある素振りで耀に視線を流していたし、眠れる獅子は艶やかな微笑で頷きを返していたからだ。
 どうしても関わり合いになりたくないのだが、どうしても逃げられる気がしなかった。本格的に英連邦に引っ越すことを考えた香を、勇洙が真面目な顔をして引き留める。ご飯美味しくないんだぜ、と真剣にそれでもいいのかを問いただされ、香は目頭に指を押しあてた。ご飯が美味しいまま、平和に過ごせる場所に所属したかった。沈痛なものと物騒な思惑を分かち合っているのに気が付きもせず、湾はよし、と拳を握って決意を口にする。
「蘭に告白するよ……!」
 さっき聞いた、とは誰も言わなかった。さっきも、聞いたからである。呆れかえった表情で首を振り、耀が溜息をつく。
「さっさとして来るよろし」
「頑張るんだぜ! 告白の起源は俺なんだぜ! 幸せの起源も俺なんだぜ! でも聞き飽きたから早く言えば良いと思うんだぜ」
「ってゆーか……三ヶ月くらい前から? マジ毎日で耳タコなんだけど」
 うんざりした表情でそれぞれに言われ、湾はむっとしながら唇を尖らせた。それはまあ、この間の会議が終わってからというものの、決意が揺るがないように毎日言っているのは湾なのだが。もうすこし温かみのある応援をしてくれてもいいと思う、と不満げな視線を彷徨わせれば、菊はその意思を穏やかに受け止めつつ、苦笑した。
「……言えないんですよね?」
 連絡手段なら、それこそ山のようにある。電話でもメールでも良いし、手紙だって出せるだろう。それは今までもそうだったのだが、国際的な場に現れた以上、それは耀を介さず行えるということを意味する。検閲がないのである。それなのに、言葉のひとつ送ることが出来ないのは、躊躇いと戸惑いがあるせいだ。だって、湾は言ったのに。ちゃんと、好きだと言ったのに。真剣に受け止めてくれなかったのは、向こうの方なのだ。甘く緩んだ笑みで喜ばれたので迷惑がられていることだけはないと己に言い聞かせながらも、成長した幼子を可愛がる気持ちと、その恋を受け入れてくれるかでは、また話が違ってくる。言葉にならない不安と期待を持て余し、湾は菊の囁きに重々しく頷いた。
「言えないんです……。き、菊さんは」
「私? が、どうか?」
「……菊さんは! どうやって告白したのか教えてください!」
 勢いで言ってしまったが、そうしてから、それは素晴らしいアイディアであるように少女には思えた。目の前に、恋愛を見事成就させたお手本が居ると言う事実に、どうして気がつかなかったのだろう。ちゃぶ台に肘をついて手を組み、湾はお願いします、と身を乗り出して菊に迫った。菊は持っていたフォークを取り落とし、咳き込みながら待ってください、と仕草で告げている。あーあー、と言わんばかりの香と耀、勇洙は懸命にも口出しせず、ことの成り行きを見守っていた。
 恋する少女を止められる存在が居るとしたら、相手役の男だけなのである。暴走したナターリヤを止めることが出来るのが菊だけである以上、その法則はかなりの確率で正解である筈だった。ぜいぜいと息を整えながら、菊はええと、と言葉を濁して湾と向き合う。
「ナターリヤさんに……聞いてからで、ないと」
「減るもんじゃねえし、教えてやるよろし。プロポーズの言葉を聞かれたのではあるまいに……それともプロポーズで告白したあるか?」
「話をややこしくしないでください!」
 ニヤニヤしながら横槍を入れてくる耀に、菊は赤い顔でちゃぶ台に拳を叩きつけた。
「私はごく普通に、口説いて口説いて口説き落としただけです!」
「だ、そうあるよ。湾」
「……あああああ!」
 涙ぐましい努力あったあるねー、とニヤニヤ笑いながらつつく耀は、湾に矛先を向けられない代わり、菊にそれをすることにしたらしい。菊にしてみれば不運なことに、耀は二人の当時のやりとりを大部分知っている一人だ。やめてくださいと呻かれるのをさらりと無視し、耀はにっこりと楽しげに笑った。
「確かにお前は頑張って口説いてたあるなー。文通もしてたあるね。誘導して『好き』とか書かせた文面を手にした時の、嬉しそうな顔ったらなかったある」
「やめてくださいって言ってるじゃないですか……! 大体、貴方それを見た時引いてたくせに! どうして今言ったりするんですか……!」
「お前がちっとも湾のアドバイスに乗り気じゃねえからあるよ。にーにが力添えしてやらなければいけねえと思ったある」
 お前の育て親として、にーにとして、湾の父親としての義務あるね、とさらりと告げられて、菊はちゃぶ台に突っ伏したまま動かなくなった。伏せられた表情は分からないが、耳がうっすらと赤くなっているので、照れて言葉も出なくなってしまったのだろう。あんまり苛める、よくないヨー、と湾のフォローにさらに落ち込んだようにごすんとちゃぶ台に頭をぶつけ、菊はうつろな目で顔をあげる。
「……心が折れました」
「お前はもうちょっと精神を鍛える必要があるあるな」
「折れましたので私はもうアドバイスできそうにありません残念ですすごく残念です! ですが、湾さん」
 にこ、と菊が浮かべた笑みは、投げやりのようであり悟りを開いたようであり、生贄の存在を思い出したかのごとく、爽やかに清らかにきらめいていた。
「参考になりそうな方にアドバイスを求めるというのはどうでしょうか。私ではなく。ええ、ええ! 私ではなく! 他の方にっ!」
「だ、誰に、聞けばいい、ヨー?」
「ヒーローです」
 ちょうど良く彼が日本に観光に来ていることなど私にはお見通しなんですよおおおおっ、と叫びながら携帯電話が近くにあるにも関わらず黒電話がある位置まで走って行った菊を見送り、耀はやれやれ、と首を振った。
「そーんなに自分の言うのが嫌あるか」
「あれじゃないすか? 口利いてくれなくなる的な」
「痴話喧嘩の起源は俺なんだぜ!」
 お前はまた逆鱗を踏んでハバネロ突っ込まれたいあるか、と呆れの視線を向けられて、勇洙は笑顔で口に両手をあてた。なんにも言ってないの起源も俺なんだぜ、とウインクをした後、勇洙は何事もなかったかのようにパウンドケーキを食べ始める。三切れ目だ。場が持たなかったのかも知れないが、気に入ってくれたのだろう。ありがとう、と湾が呟くと、勇洙は嬉しそうな笑みで少女に手を伸ばし、もふもふと柔らかい髪で遊ぶよう指先を撫でさせた。
「自信持つんだぜ、湾。大丈夫なんだぜ?」
「うん。……うん、ありがとうだヨ、勇洙」
「騒がしくなければ良い子あるのになぁ……」
 揉むのも駄目に決まっているあるが、と溜息をつく耀に、香も心から同意した。勇洙は気にした様子も無くパウンドケーキを幸せそうに食べ、戻って来た菊に気合の入ったウインクをした。当然騒ぎが聞こえていた菊は苦笑して勇洙を撫でてやると、落ち着きを取り戻した様子で湾に微笑みかけてくる。
「すぐ、来てくださるそうですよ。五分くらいで」
「なんて言ったんですか? 脅し的な?」
「脅しなんてしていませんよ、香君。好きなだけ惚気ていいから早くいらっしゃい、と言っただけです」
 本当に近くに遊びに来るとは聞いていたので、タクシー捕まえれば本当に五分位で到着するとも思いますし、と菊が言い終わる前に、勢いよく走って来た車が停止する音が響いた。まだ三分も経過していない。思わず沈黙した亜細亜の『国』の元に、お釣りはいらないよっ、と元気よく言い放つ青年の声が聞こえてくる。間違いない。アルフレッドだ。菊は柔和な微笑みを玄関の方向に向け、愛の軌跡とかそういうのですかねえ、と適当なことを言って現実を受け入れようとしていたが、香はそれよりも納得できる理由があったので、額にてのひらを押し当てて息を吐きだした。
 つまるところ彼は、摩訶不思議老大国の『弟』なのである。アーサーが魔法によって奇跡を起こすとするならば、アルフレッドは夢とか希望でそれを呼びこんでしまえるのだろう。さすがは夢と魔法の王国を作った国の『国』である。それぞれの思惑でなんとなく沈黙してしまう亜細亜の元に、どたばたと元気の良い足音が、勝手知ったる家だとばかり上がり込んで来た。今更であっても出迎えの為に菊が立ち上がるのと、音高くふすまが開かれたのは、殆ど同時のことだった。
「やあ、菊! 俺の可愛いライナへの愛を語って良いって本当かいっ!」
「いらっしゃいませ、アルフレッドさん。ええ、まあご自由にどうぞ。あと、彼女の質問に答えてくだされば幸いです。というか、そちらがお呼びした主目的です」
「えー。なんだい、なんだい。彼女の可愛いトコをいーっぱい話して良いっていうから来たのにさー、話が違うんじゃないのかい?」
 むくれた表情で腕組みをする超大国の青年は、本当に観光に来ていたのだろう。スーツではなく、ジャケットを羽織れば改まった場でも通用するような格好ではなく、ラフなパーカーにジーンズといういで立ちだった。足元はスニーカーだったことが簡単に想像できる、動きやすく気楽そうな格好である。延々と文句を続けそうなアルフレッドに微笑みを絶やさず、菊は話してくださっても構わないんですよ、と湾を指差す。
「ただ、困っている女性を助けて差し上げるのもヒーローの努めでは?」
「うーん。そうなんだけど、そうなんだけどさー、そうなんだけど、さー……。うん。……うん、仕方がないな。分かったよ。ええと、君? なんて言ったけ……『台湾』? 戦後にちょっと会ったことあるよね、俺のこと覚えてる?」
 先日の会議の時に湾は蘭のことばかり追いかけていたので、年若い超大国と顔を合わせるのは久しぶりのことだった。アルフレッドが言うように、二人は一度、顔を合わせたことがある。日本が第二次世界大戦に負けてから、中国に引き渡されるまでのつかの間。遠目に一度、視線を交わしただけで、そこに会話はなかった。憎しみも悲しみも、二人の間には存在しない。ただ奇妙な気まずさがあって、湾はおずおずと挨拶の為に差し出されたアルフレッドの手をじっと見つめ、それから片手を差し出した。ぎゅう、と手を握り合わせる。
 不思議な気分だった。湾はそっと視線を持ち上げて、ごく軽く眉を寄せているアルフレッドを見上げる。蘭よりずっと、視線が近くにあって首が疲れなかった。そのことをなぜか寂しく、そしておかしく感じて、少女は笑う。
「覚えてます。大丈夫ヨ。お久しぶり、です? 湾と呼んでくれると嬉しいヨー」
「うん、よろしく。湾。俺はアルフレッド・F・ジョーンズだよ。アルフレッドって大体のひとは呼んでるけど、君が呼びやすいようにしてくれればO・Kさ!」
「じゃあ、アルフレッドさんって呼ぶヨー」
 自然と笑みを交わし合って、二人は殆ど同時に、ほっと安堵で胸を撫で下ろした。馬鹿みたいなぎこちない緊張はすぐに消えてしまったから、アルフレッドは普段通りに満面の笑みで、それでさ、と言葉を促した。
「君、困ってるんだって? どうしたの?」
「……あのね?」
 そう尋ねられて、即座に言葉を返せるのであれば、きっとアルフレッドが居なくても大丈夫だった筈だ。そう思いながら立ったままだったことにも気がついて、湾はとりあえず座って話しよう、とアルフレッドの服を引っ張り、スペースを開けさせてからしゃがみ込む。元々、そう広い居間でもないので、四人の男と少女とちゃぶ台に取り囲まれて、アルフレッドは狭そうに身じろぎをしている。申し訳なく思いながら、湾は静かに息を吸い込んだ。そして、言葉に出す前に気がついて、湾は菊に視線を向ける。
「え? なんて聞けばいいの……?」
「先程と同じでいいのでは? アルフレッドさん。ライナさんになんと言って告白したんですか?」
 ごふ、と音を立ててアルフレッドは咳き込んだ。恐らく、不意に異性への告白文句を尋ねられた時の、ごく一般的な反応だろう。アルフレッドは怒りとは別の感情で顔を真っ赤にして、ちょっと待っておくれよ、と裏返った声で叫んだ。
「俺が呼ばれたのはそういう理由なのかいっ?」
「ある意味、愛を語るで間違ってはいないじゃないですか。さあ、どうぞ」
「君! もしかしなくても自分が言いたくないからって俺の事呼んだんだろう!」
 なんで俺なんだい、と全身全霊で疑問を呈しながらも、アルフレッドの言葉は真実を射抜いていた。しかし菊はのらりくらりと交わす笑みを浮かべて、どうでしたっけねえ、と首を傾げている。先程の動揺具合は、気の迷いとしか思えない堂々たるしらの切りっぷりだった。これだから勝てる気がしないのだ、と勇洙と並んですっかり傍観を決めた香の視線の先で、アルフレッドはうー、と呻きながら湾へ視線を戻した。唐突に、香は気がつく。
 思い人に告白をした言葉よりなにより、湾に、年頃の少女に向かってそれを語らなければいけない、というシチュエーション自体がもはや拷問にほど近い。菊でさえ逃げたのだから、外見年齢十九歳であるアルフレッドには羞恥の極みだろう。苛めである。同じ男として同情を禁じ得ない面持ちで沈黙する香の耳に、なんだか精神的に半分くらい死んでいそうな青少年の声が届く。
「なんで、俺なんだい……」
「年上に告白して、成功した方の心当たりが他に居なかったからですが?」
「俺は男で、ライナは女性だよ! 性別が逆じゃないかい! 参考にならないよっ!」
 だから無理、とアルフレッドは言おうとしたのだろう。恐らくは。しかしそれを叫ばせるより早く、菊は困りましたねえ、と目を細めて微笑する。香は思わず後ずさろうとして、壁に背をぶつけた。隣では勇洙が、あいごおぉ、と泣き声をあげて首を振っている。湾も口元に手を当て、我が事でないと分かっていながら一歩、足を引いている。暢気にしているのは耀一人だった。早めに降参しておおき、若造、と告げられた言葉は耳触りだけ優しかったが、呼称が全てを裏切っていた。アルフレッドは恐怖に身を震わせながら、最後の抵抗とばかり口を開いた。
「君たち、過保護なんじゃないのかいっ……?」
「なにか悪いことでもあります? 過保護」
「愛してるってことあるねー。なーんも悪いことねえあるよ」
 公的な場で『国』としてならともかく、私的な場所である。生きてきた年月に差があり過ぎる以上、抵抗するのはあまりに無意味だった。君たち本当にどうかと思うんだぞっ、とアルフレッドは叫んだが、それは事実上の降伏宣言として響き渡る。おやまあ、と視線を交わし合う菊と耀を絶対に視界に入れないよう体を反転させ、アルフレッドは今まで見聞きした恐怖を捨て去りたがる勢いで、さあ、と湾に声をかけた。
「な、なにが聞きたいんだい? その、なるべく答えやすいことにしておくれよ!」
「え、えっと、じゃあ……あ、ぐっとくる仕草とか教えて欲しいヨ!」
「ぐっと来る仕草ー?」
 うーん、と首を傾げるアルフレッドは、心当たりが多すぎて悩む表情をしていた。
「……それって、性的に?」
「もちろんだヨー」
 慎重に問いかけたアルフレッドに対して、湾はさらりと言い放った。そっか、と幾分気が楽になった様子で頷き、アルフレッドは突き刺さる亜細亜の視線を無視し、とびきりの一番を応えるべく、己へと問いかけた。ややあって、そうだなぁ、と声が響く。
「誰も見てないと思って、ブラジャー直したりする仕草とか、かなりクルよ。こう、胸を自分でもってもぞもぞしたりする、アレ」
「……チェンジだヨー」
「えええ! 駄目かいっ? かなり好きなんだけど!」
 アルフレッドは、全くちっとも分かっていない。そんな視線で嘆かわしげに首を振り、湾は無言で己の胸を、服の上から手のひらで触った。ぺたぺたと触っている仕草を見て、さすがに分かったのだろう。ああ、と理解者のひらめきで、アルフレッドは頷いた。
「君、彼女より胸ないもんね!」
「あ、亜細亜は美乳時代に突入したんだヨ!」
「俺は巨乳が好きだよ! 彼女限定かも知れないけど!」
 もしかしてものすごく聞く相手を間違えたのでしょうか、と真剣な表情で首を傾げる菊の隣で、耀は深々と息を吐きだしている。耀の教育方針は貞淑であれ、菊の教育方針は大和撫子であれとした筈なのだが、どこで間違えてしまったのだろうか。よく分からなかった。すくなくとも、美乳とか口に出すような娘に育てた覚えはなかった。
「蘭は……蘭は、つるぺったんな幼女が大好きだから大丈夫ヨ!」
「俺はそれが彼女なら幼女でも愛せるよ! ロリコンの汚名だって彼女の為なら喜んでかぶって見せるんだぞ!」
「私だって蘭なら、ちっちゃくても愛の告白くらいしてみせるヨ! 蘭の為ならショタに目覚めてみせるよっ!」
 高次元な愛を語り合う低次元な口げんかに、菊は視線を反らして溜息をついた。あ、分かった、お前の二次元萌えのせいでこうなったあるね、という納得の視線がとても痛い。否定しきれない気持ちになってきたからこそ、なおのこと痛い。そんな目で見ないでください、と言いながら耀の肩を言い争い続ける二人に向かって押しやり、菊は真面目な顔で言い放つ。
「さ、耀さん。責任を持ってあの二人を止めて来てください」
「我が、なんの責任を、持つあるね……!」
「私を誘導尋問したのは貴方でしょうが!」
 そもそもそこで突っ込んで来なければ穏便に誤魔化せたんです、と叫ぶ菊に、お前が答えなかったからこういうことになってるあるっ、と耀も主張しかえす。そのまま水掛け論を展開していく二人を安全圏から眺め、香はよく分からないけど喧嘩の起源も俺なんだぜ、と主張している勇洙を指で突っついた。
「勇洙」
「なんだぜ?」
「帰らね?」
 勇洙はアルフレッドと湾を見て、菊と耀を見て、香を見て満面の笑みで頷いた。異論など欠片もないらしい。勇洙はさっとちゃぶ台に近寄ると二切れだけ残っていたパウンドケーキを持ってきて、一切れをくわえ、一切れを香に差し出した。もぐもぐと美味しそうに頬張りながら玄関に向かい、勇洙は聞こえない程度の声で、そーっと囁く。
「お邪魔しましたなんだぜー。また今度来るんだぜ」
「ところで」
 もぐもぐごくんとパウンドケーキを飲みこみながら、香は思い当たった顔つきで眉を寄せた。
「これ、全部食べちゃってよかったんだっけ?」
 皿に乗せられていた、最後の二切れがこれだった筈だ。そう問う香の手にはもう欠片もなく、勇洙もちょうど、最後の一口を飲みこんだところだった。訝しげな、ぎこちない動きで勇洙は首を傾げる。
「……駄目だったんだぜ?」
「試作品なら良い的な。本番だったら劇ヤバな感じじゃん?」
 もしかしたら二本作って、一本を切って持って来たのかも知れなかったが、あいにく二人は製菓の知識に乏しかった。たとえば、一度にどれくらいの量を作るものなのか、どれくらいの手間をかけるものなのか。二人の記憶が正しければ、湾がこれを作る為に菊の家に来たのは午前九時を少し過ぎてから。台所に消えたのは十時過ぎで、出てきた時刻は十二時半だった。二人は無言で顔を見合わせて、もしもの時の為に全力で玄関から飛び出した。本番でなかったことと、もう一本、予備があったことを祈るしかない。背後からはまだ、喧嘩を続ける声が聞こえていた。追いかけてくる怒りの声は、無かった。幸いなことに。
 どうやら試作品であったことを二人が知ったのは、それから数日後。湾が送って来た試作品試食のお礼メールを受け取ってからの事だった。



 会議の時にしか会えないのと会議の時だけしか会えないのでは随分意味が違ってくるが、湾にしてみれば現状はどちらでもあり、どちらでもなかった。国交がある限り、少女は『国』として『オランダ』に会うことが出来る。ひとがそこに旅行へ行く手段を持つ限り、湾は蘭に会いに行くことが出来た。けれどもそうしないのは、『国』として会うだけの理由がなく、少女が男の顔を見に行くきっかけを口に出すことが出来ないでいるせいだ。会いたいのは自分だけなのかも知れない、と思うだけで少女の胸は切ない悲しみで息を苦しくさせたが、否定しきる理由を湾は持ってはいなかった。
 あの日、ゼーランディア城で二人の手が離れてしまってから、長い時間があった。世界は幾度もの戦乱を迎え、幾度目かの平和を享受していたが、世の中がどんな状況であっても、蘭は台湾に足を踏み入れたことがなかった。それを誰から聞いた訳でもなく、少女は『国』として確信を持っていた。己の国土に『国』が足を下ろせば、それは漠然とした感覚として伝わるのだ。個人として旅行に訪れていても、『国』として忍んだ視察であっても、変わらない。彼らが『国』といういきものである以上、それはどうしようもない知らせであり、だからこそ『台湾』は『オランダ』が一度として己の国土を踏まなかったことを知っていた。
 その理由は知らない。会いたくなかったというのとは違う感情であったことだけを、頑なに信じているだけだった。再会を笑って喜んでくれたのだから、それだけは絶対に違う筈だった。それなのに足がすくんでしまうのは、今日こそ、と思っているからだろうか。湾は会議が終わったと見ると自分の部屋に走って戻り、綺麗にラッピングした紙袋を持ってエントランスまで戻って来た。今日は引きが早いのか、すでに会議室はしんと静まり返って施錠されていたし、ホテル内に留まっている者もすでにまばらなようだった。
 バニラエッセンスと瑞々しいレモンの香りを吸い込みながら、湾は不安げに視線を彷徨わせ、蘭の姿を探す。会議が終わったら渡したい物があるから待っていて欲しい、ということは伝えてあった。約束を破って帰ってしまうような相手ではないし、なにかあって呼び出されたのであれば、それを伝える者が必ずどこかに居る筈だった。見知らぬ誰かを探し始めるより早く、視線が蘭の姿に惹きつけられ、巡り合う。
「蘭!」
 男はロビーの端にある喫煙室で、煙草を吸っていた。硝子張りの部屋だったが、外の声が聞こえるように設計されているのだろう。駆け寄ってくる湾を見咎めた蘭は無言で離れた場所にあるソファを指差し、そこで座っているようにと少女に求めた。煙草を吸っている場所に来させたくないのだろう。ゼーランディア城で過ごした九ヶ月間と、再会してからの合わせても十にはならない短い日数。蘭は相変わらず煙草を吸っていたが、頑ななまでに湾に煙を吸わせようとはしなかった。
 少女としても煙はあまり好きではないのでありがたくもあるが、蘭のものであれば平気だと、そう思えるのに。わざわざ行って咎められるのも気が進まない行為なので、湾は素直に指示されたソファへ向かい、腰を下ろして紙袋を膝の上に乗せた。甘い香りが鼻先まで届く。あれから練習を重ねて、試作品よりは随分と美味しい出来上がりになっている、筈だった。何回も試食しているうちに美味しい感覚がよく分からなくなってしまったので、これがとびきり美味しいのか、感動的に美味しいのか、それなりに美味しいのか判断が付けられないでいる。不味くはならなかったことで、良しとしなければいけないのかも知れない。
 ん、と拳を握って気合を入れ直していると、マフラーを巻きなおしながら、蘭が大股に歩んでくるのが見えた。笑顔は意識しないでも、きっと一番素敵なものを浮かべられただろう。にこにこと嬉しく出迎えると蘭は目を細めて微笑し、湾の頭にぽん、と手を乗せてから少女の隣に腰を下ろした。
「蘭、あのね! あ、あの、あのね……! 甘いもの、すき?」
 歩んで来た時から蘭の視線が紙袋に向けられていたので、今更無かったことにはもう出来ない。必死になって尋ねると、蘭は甘い匂いの発生源をじっと見つめたまま、しっかりと頷いた。
「好きやざ。……こさえてくれたんけ?」
 うん、とも言えなかった。首を振るのが限界で、湾は蘭に紙袋を差し出した。受け取った蘭は、会議後でやや空腹だったのだろう。すぐに袋を開けると一切れを取り出し、少女がなにを告げるより早く、一口を頬張ってしまった。胸の前で祈りの形に手を組む湾の頭の中で、香や勇洙、菊や耀の感想がぐるぐると渦を巻くが、なんの足しにもならなかった。一つ一つ手順を思い出して失敗をしなかったことを確かめて、それでもまだ不安を消せない湾に、蘭はあっと言う間に一つを平らげ、指を舐めながら苦笑する。
「うめえこと出来とるわ」
「……ほんと?」
「口開けてみい」
 食べたら分かると新しい一切れを差し出されて、唇を震わせたまま、湾は数秒だけ思い悩んだ。これは蘭の為に作ったもので、蘭の為だけに作ったものだから、もちろん味見はしたけれど、一口だって自分の口に入るのは想定外の出来事だった。しかし、あーん、の誘惑に耐えきれるものではない。恐る恐る唇を開いた湾は、蘭が手に持ったままのパウンドケーキに、真珠のように白い歯を立てる。ほんの僅か、一口分。赤い唇の奥に押し込んで、湾は息を吸い込んだ。
「おいしい」
「やろ? 心配しすぎやざ」
 唇についた屑を親指で払われて、湾は鼓動が跳ねるのを感じながら気がつく。男は、いつもしている手袋をしていなかった。ケーキを食べる為なのか白手袋はソファの膝上に置かれていて、少女の頬に触れているのは直接体温を感じる肌だった。意識の全てが、ぬくもりに奪われる。好きな気持ちで苦しいくらいなのに、そう思っているのは湾だけのようだった。そのことが、正常な呼吸を奪って行く。息苦しく反らされた喉が、嫌な音を立てて息を通した。
「……蘭」
 それなのに、苦しいと思っているのはきっと湾だけなのに、蘭は顔を歪めて少女の頬を両手で包み込んだ。楽にはならないのに。苦しいばかりが積もって行く。
「蘭。蘭、あのね……あのね、蘭」
 積もって、降り積もって、重なって。
「私、蘭の、こと」
 零れてしまった。
「好き……!」
 溢れてしまった。それは濁流のようだった。息など出来ない。意思の元に抵抗することも出来ない。ただ押し流されるままに、言葉が零れて、溢れて行く。そうしないともう息が出来ない。
「好き。好きよ、蘭。好きなの、大好き。好きで、好きで……ずっと、ずっと好きだった。会いたかった。会えて嬉しい。嬉しいよ、蘭。嬉しくて、好きで、それだけになっちゃうよ……!」
 それなのに、どうして受け止めてくれないの。どうして恋だと分かってくれないの。これは恋。これが恋。これこそが、これがそうでないなら他のなにもそうとは呼ばないくらいに。この気持ちが恋で、まっすぐに一人だけに向いているのに。
「……蘭。蘭、ねえ……蘭」
 受け止めてくれる筈の、そうして欲しいたった一人は苦しげに顔を歪めるだけで、言葉を返してはくれなかった。瞳は反らされない。頬を包み込んだ手は離されない。なにかを堪えるように細められた瞼の、瞳の奥にある感情が、少女の元まで降りてこない。それは深く深くにあって、触れることが出来ないものだった。遠く、遠く。雨が降るからと、城壁まで迎えに行った時のことを思い出す。あの日見た、横顔を思い出す。海に向けられていた、空に向けられていた、言葉にならない苦しげななにか。それがまだ奥底に残っていて、蘭をひどく苦しめている。それなのに、それがなんなのか、少女には分からない。分かるのはこんなに言っても、蘭が言葉を受け入れてくれないということだけだ。
 理解はしている。分かってくれてはいる。それが恋だと。少女の恋なのだと。まっすぐ己に向けられているのだと分かっていて、拒絶はしていない。それだけだ。表面に触れて撫でて行くだけ。奥底までは届かない。撫でる手の温度は変わらない。優しく、優しくされるだけ。その優しさはずっと変わらない。変わらないものを求めている訳ではないのに。それなのに、向けられる想いは確かに愛で、どうしようもなくすれ違う。
「蘭……ねえ、蘭。ねえ、お願い。お願い、言ってヨ。聞きたいよ……!」
 両手を伸ばして、湾は男の胸元に触れた。その下にある心臓に触れたがるように、ぎゅぅと服を握り締める。心臓には想いが宿るという。言葉には願いが乗るという。
「私の、こと」
「……湾」
「嫌いじゃないって、言って。言ってよ……言って、言って、蘭。一回でいいヨ。一回で、ちゃんと覚えるヨ。もう一回言って欲しいなんて、ぜったい、絶対言わないヨ……!」
 あの日の言葉のように。胸に刻み込んで、記憶に刻み込んで、耳の奥に何度も木霊させて、決して忘れないでいる。それなのに、蘭は言葉をくれなかった。一回も、たった一言ですら、湾の望む言葉をくれなかった。お願い、とむずがる少女のてのひらに指を這わせ、蘭は無言でアルファベットを書き綴り、口唇を押し当てる。誓いのようだった。分からない、と湾は首を振る。それは昔告げられた、アルファベットと同じようだった。少女は、今でもそれを思い描ける。恐らく、ひと文字も間違ってはいない。
『Je Maintiendrai』
 今でも耳に残る囁きを、綴られる意味など分からない。



 たとえそれが、愛なのだとしても。

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