勿忘草の海底に眠る、白い小石の夢を見ていた。細かく立ち上る気泡は雫になれなかった悲しみで、海の底は差し込んでくる光で温かくて穏やかで気持ち良かったけれど、たった一人でとても寂しかった。そんな夢を見ていた。目を覚まして、ようやくそれが夢なんだと気が付けた。泣いていたのかも知れない。枕の表面はやや湿っているようで、頭が重たく痛みを発している。湾はベッドに手をついてゆっくりと体を持ち上げ、明るい室内に視線を巡らせる。数日留守にしただけなのに、自分の部屋がとても落ち着ける場所に思えてしまうのは、外で心が傷ついてしまったからだった。
それを傷とは呼びたくないのだけれど、気持ちが痛んでしまうのは確かなことだった。振られた訳ではない。確定していないだけだ。それだけだ。鼻をすすって息を吸い込み、湾は落ち込み気味に息を吐きだす。今日は未だ、会議の途中である筈だった。湾に帰国が許されたのは正式な会議出席国として招かれていなかったからと、ホストに『中国』がごり押しして認めさせてしまったからだ。不在でも会議進行上問題ない、とされた己の立場を喜べばいいのか悲しめばいいのか迷い、湾はなにも感じなくなっている心に気がつく。
思わず眉を寄せ、てのひらを胸に押し当てるが、鼓動は規則正しく刻まれていた。気持ちはどこに宿っているのだろう。ひとと同じ形をしたこの体の、どこにあるものなのだろう。それは頭より心臓の近くにある気がして、湾は唇を強く噛み締めた。己という土地に戻って来たからなのだろうか。動かない感情を宿していることが、国民に対してひどく申し訳ないような気がした。『国』が一番に愛するのは、大事にするのは、まず己の国民、国土であるべきなのだ。誰に教わった訳ではなく、少女はそれを知っていた。
大切な知識に目隠しのまま育てられたからといえど、それは『国』の本能が教えてくれる。大事なのはひとだった。愛するものは国民で、守るべきは国土だった。それだけだと割り切れれば、どれだけ楽になれただろう。浅い息を繰り返しながら、涙が浮かびあがって来たのを感じて少女は強く首を振る。泣きたくない。涙を流したくはなかった。だってそんなのはまるで失恋してしまったようで、手酷く拒絶されてしまったようで、それとは違うのだから。
蘭は湾の想いを拒絶しなかった。受け取ってくれなかった。それだけのことだ。たったそれだけの事実。好きの言葉もない代わり、嫌いではないとも告げてくれなかった。見ていた夢を思い出す。すでに細部は忘れていたが、海の底から気泡と共に、見上げた水面は勿忘草の色をしていた。勿忘草色の海。温かくて守られていて、それはどこか閉鎖していた世界だった。白い石はひとつきり、ひとりきり、あの場所で寂しいと泣いていた。温かくても明るくても、守られていても、望むものはみんな、勿忘草の水面の向こうにある。それを白い石は知っていた。手が届かないことを知っていた。
気泡のような溜息を吐きだし、湾はベッドから下りて窓の外を見る。空はとても綺麗に晴れていた。まさしくお出かけ日和だろう。全く心を弾ませないまま青空を見上げ、少女は無言で目を細める。今すぐ曇れ、と心底思った。青空を呪ったのは初めてだった。
あのまま、時を止めるように。過去から連れ去ってしまうように。記憶の中でそうしたように城の中に大切に閉じ込めておけば、少女はきっと泣かなかった。開かれた世界は、同時に終わりを意味している。だから少女が姿を現したことこそ、永遠に近かった別れと片恋の終わりなのだ。まっすぐに伸ばされた、あの手を取ることができない。それこそ己の望みでもあると、理解して、なお。守ろうとしたのは思い出ではなく、少女の存在そのものであると言うのに。ぐるりと矛盾に満ちた円を描く胸中を持て余しながら、『オランダ』は舌打ちさえしかねない不機嫌で会議場の扉を押し開き、乱暴に閉めた。
大きな音に数人が振り返るが、会議開始までもう間もなく、すでに多くの『国』が集まっているから意識はすぐ散ってしまった。『オランダ』はどうにも波立って落ち着けない気持ちをねじ伏せたがるよう、視線を彷徨わせて『中国』を探す。彼の傍に少女が居ないことは知っていた。『台湾』はこの部屋の中に入らない。会議場に現れても居るというだけで、会議室でその姿を見かけたことはなかった。少女が腰かける場所は決まってロビーのソファか、さもなければ『オランダ』の膝の上だった。
ソファのスプリングを軋ませるより、膝の上に甘えていた回数の方がずっと多いだろう。ネームプレートが置かれた指定席の椅子を引くのと同時、『オランダ』の視線が『中国』を見つけ出す。向こうは入室した時から、男の姿を捕らえていたのだろう。視線が重なるのを待ち焦がれた怒りが、針のごとく危険な意思として突き刺さる。それで、『オランダ』は理解した。エントランスに『台湾』が姿を見せなかった理由と、そしてあの日、別れてからの少女の感情を。離さなければいけないと保護者が判断する程、湾が感情を乱したのだとすれば、それが喜びである筈がなかった。
分かっていたことだ。それでも、泣かれるのは辛かった。視線を反らし、溜息をつく。着席をした所で、横から椅子の脚が蹴られる。
「ベル……『日本』、なにしとんのや」
「それはこちらの台詞としか言いようがありませんが、そうですね。『ベルギー』さんに席を変わって頂きました」
事情を話したら快く移動してくださいましたよ、と柔和な笑みを浮かべて『日本』は椅子に座っていた。『中国』付近に視線を彷徨わせると、すぐに『ベルギー』を見つけることができた。『ベルギー』はだって悪いのおにいちゃんやもん、と言わんばかりの満面の笑みで『日本』に頷き、『オランダ』にひらひらと手を振った。ロビーで粘っている間に席替えしたのだろう。蹴られるまで気がつかなかったうかつさにげっそりした気分を味わいつつ、『オランダ』は低く声をひそめた。
「湾は」
「帰国させました」
取り付く島もない返答だった。理由など聞かずともあなたが一番よく分かっているでしょう、と言わんばかりの微笑みに、『オランダ』はにぶく眉を寄せながら視線を机へと流した。会議開始時刻は過ぎている筈だが、未だに開会は宣言されない。遅刻組を探して、何人かが走りまわっているせいだった。いつものことながら、今回ばかりは恨めしい。あと二十分は落ち居つくことが出来ないだろう。
「彼女は、私になにも言いませんでしたよ」
「ほーけ」
「ええ。……けれど、彼女がなにも感じなかったとは、ゆめゆめ思わないでくださいね」
湾は泣くばかりでなにも語らなかった。悲しいと言うばかりで、なにがとも、誰に対してとも囁きはしなかった。かすかな傷ですら与えたくない想いが、守るのはなんだろう。『オランダ』はなにも言わずに腕組みをすると、椅子に深く腰掛けて目を閉じてしまう。目の下にはうっすら、クマが出来ていた。昨夜はゆっくり眠れなかった。切れ切れに、なにか夢を見ていた気がする。寂しい印象だけが残っていた。バニラエッセンスとレモンの香りに包まれた、少女の絶望的な嘆きを思い出す。眠れそうにはなかった。
新しい靴を石畳に遊ばせに出かけることで青空の理不尽さと折り合いをつけて、湾は家の外へ出た。引きこもりたかった気もするが、気分が落ち込んでいくだけなので仕方がない。穏やかさは心の慰めにはなるが、少女の傷を癒してくれはしなかった。空気は暖められて乾燥していたが、とびきり澄んでいて気持ちが良い。思い切って下ろした真新しい服を嬉しい気持ちではためかせ、湾は石畳を飛び跳ねるように歩いて行く。
靴ずれが出来てしまうかも知れないが、それを気にして歩く気にはならなかった。木々の梢を涼しげに鳴らして吹く風が、少女の靴を撫でスカートの裾をはためかせながら、髪をくるくると巻きあげて行く。大気と遊ぶように道を行く少女を、『国』だとすぐ分かる者はすくないだろう。己の『国』の姿形より、雑誌や映画に登場する俳優の方がひとの記憶には残りやすいし、彼らの方がずっと有名なように湾には思えた。それでも遠巻きに、寄せられる視線は尊敬や崇拝が奥底にある感嘆で、それは単純に母国に対する愛を『国』の身に感じさせた。
母国に対する想いは必ずしも『国』の身に寄せるそれとイコールではないが、国民は確かに少女の踏む地を愛していたし、湾という存在を一人の少女として大切に思っていてくれていた。恋に傷ついた少女が泣きながら親友に胸中を打ち明けるのと同じくらい、彼らの想いは湾の気持ちを穏やかにさせてくれる。胸にこびりついた真珠色の悲しみの欠片が、ひとつひとつ、零れては石畳で音を奏でた。道を行く者は地元民が半分、観光客が半分といった所だろうか。天気も良いので皆、楽しそうに歩いている。ある者は店先を覗き込み、ある者はガイドブックを片手にメニューを睨みつけ、またある者は景色にカメラを向け、ある者はただ風景に見惚れていた。
そのなにもかもが誇らしい。少女は微笑みながら足取りも軽く進み、やがて視線の先に観光客が群がる建物を見つけ出す。湾はそこで暮らしていたことがある。そして今日は、どうしてもそこに訪れたかった。だれより少女は、その名を知っていただろう。ゼーランディア城。かつて切り立った崖のすぐ傍、海のすぐ傍に佇んでいた城は周囲の埋め立てが進められた為、あの時ほど波音は近くに聞こえなかった。今はもう、深夜の静まり返った時間に耳をすませなければ、砕け散る波の音など分からないくらいに、辺りは生活音に満ちている。
それでよかったのかも知れない。海が見えれば、湾はあの日の帆を探してしまっただろう。連れて行って欲しかった。記憶の中で、幼子はまだ泣いている。沈み込みかける気分を微笑みで打ち払って、湾は観光客用の入り口を避けて通り、城壁をぐるりと回り込んで裏門へ回った。背の高い木や建物の影になって分かりにくいが、そこには黒く錆びた鉄のちいさな門がある。その存在を知っているのは今や湾と政府の一部、それから地元の悪戯な少年少女と蘭くらいのものだろう。
それとも彼は、忘れてしまっただろうか。あの日。その後九ヶ月にも及ぶ籠城がはじまる日、湾は蘭の腕に抱き上げられ、このちいさな門を通って入場した。遠い昔のことだからだろうか。記憶はそこまで鮮明なものではなかったが、それでも湾は覚えていた。夕刻の空は不吉な程赤く、浮かぶ雲は色を抜い程に白く、吹く風は嫌な湿気を孕んでどこか生温かった。世の全てが不吉と動乱を告げていた日、それでも湾の気分は安心して、落ち着いていた。嬉しくすらあった。
あの腕の中が、世界で一番安全だった。どこよりも落ち着ける、大好きな場所だった。その時から、湾は蘭がずっと好きだったのだ。はぁ、と息を吐きだし、少女は錆びのない綺麗な鍵を取り出し、鍵穴にそれを差し入れた。普段は手入れもしていないせいで、鍵を開けるのには結構な力と、時間がかかる。やがて悲鳴のような音を立てながら鍵が開けられ、歪んで出来てしまった隙間に体を滑り込ませるようにして、湾はゼーランディア城へ入った。城に居る者の目を盗むように作られた複雑な通路を進んでいくと、すぐに内装や景色を楽しむ観光客の群れにもぐりこむことが出来る。
かつてはなかったざわめきに複雑なものを感じながら、少女は窓の外の景色に心奪われることなく、内装の手入れの整った美しさに目を奪われるでもなく、無感動な足取りで廊下を進んでいく。不思議なほど、思い出は蘇らなかった。それはいつも湾の心の片隅で色鮮やかに動いていたから、その場に居たとて改めて思い出せることは殆どない。記憶を深くなぞりなおすように足を進め、少女は立ち入り禁止の札がかかった部屋の前で足を止める。そこを開放しないで欲しい、と頼んだのは湾だった。
扉に指先を押し当て、唇をかたく閉ざす。辺りには数人の観光客が居たが、誰も湾には注意を払わなかった。扉の向こうに、切り離して封じ込めた大事な思い出が息づいている。
「……湾?」
はっとして振り返り、湾はそこに立つ香の姿に目を見開いて息を吸い込んだ。なにも落胆することはない。当たり前だ。彼がここに居る筈もない。それなのに開いた目からは涙がこぼれそうで、それを堪える為に中々言葉が出てこなかった。驚いた様子で立ちつくす『香港』の隣には、湾には見覚えの薄い少女が、南国風の白いワンピースを着こなして立っている。全くの初対面ではないと思うのは、きちんと挨拶をした記憶がないだけで、お互いに会議場で顔を見ていたからだ。
二人の背から、ひょこりと顔を出して『シーランド』もそこに立っている。実に三人の『国』が己の国土に、しかもすぐ近くに居たのに気が付きもしなかった己を『台湾』は恥じた。その恥ずかしさでようやく、冷静さが戻ってくる。息を吸い込んでさっと扉から手をひっこめ、湾はその部屋を背に隠すように立ちなおした。
「香……どうして、ここに? それと、一緒に居るひと紹介して欲しいヨー」
「……観光的な。俺らは今回、もうお役目ごめんっていうか、良いから遊んでこいよってアーサーが言ったから。湾、彼女は『セーシェル』だ。シェリ・W・カークランド。シェリ、彼女が湾。『台湾』」
「はじめまして。お会いできて嬉しいです。カオルから話は聞いてたし、顔も見たことあるけど……ちゃんとは、はじめてですよね? 湾ちゃん、って呼んでいいですか?」
偶然とはいえ、気に入って買った新しい服と靴であったことを湾は神様に感謝した。差し出された手をそっと握って、湾は同じ年頃に見えるシェリに微笑みを返す。
「はい。はじめましてです。こちらこそ、よろしくだヨー。シェリちゃんって呼んでいい?」
「ノーだ」
貝殻のように繊細な響きの、綺麗な名前だと思った。ドキドキしながら尋ねると、きっぱりと否定の声を上げたのは、本人ではなく二人を見守っていた香だった。ピーターは大人げないと言わんばかりの眼差しで香を見上げていて、シェリはどちらの味方とも言えない表情で苦笑している。
「……どうしてヨ」
「シェリって呼ぶのは英連邦。俺がそう決めたから、湾はノーだ」
「……セー、とか、セイとか、呼んでくれる?」
南国の少女本人は、香と全くの同意見ではないにしろ、その扱いを諦め交じりに受け入れているらしかった。苦笑して求められたので、湾はセーちゃん、とシェリのことを呼んでみる。呼び名は恐らく、『セーシェル』から持って来たのだろう。私と一緒ヨ、とないしょ話のように声をひそめて囁けば、シェリは目を瞬かせた後、光の欠片のような明るい笑みを浮かべた。『台湾』の湾ね、と手を繋いでくすくす笑いあう二人に、香がまあいいんじゃね、とばかり頷いている。
こんな大人になるのは止めようと思うのですよ、としみじみ思っている視線でピーターは兄を見上げ、それから湾に気遣わしげな視線を向けた。言葉をかける前の間と吸い込んだ息の深刻さが、少女がなぜ会議期間中に自国に戻っているのか、その事情を知っていることを示していたが、それに湾は気がつかなかった。
「湾は、ここでなにしてたですか?」
「遊びに来たんじゃね? 自宅があるのこっちじゃないかった的な」
「こっちにも家、作ってあるんだヨー。……遊びに来ただけ」
シーランドのように純粋に無理であるという事情がない場合、大体の『国』は国土の中にいくつか自宅を持っている。主に使っているのは首都にあるものだが、気分転換や気まぐれに泊まれる先として、観光地の近くに家を構える者も少なくない。湾もゼーランディア城に歩いて来られる場所にちいさな家を持っており、帰って来てからまっすぐにそこに向かい、目覚めてここに向かったのだった。そっか、と頷く香の仕草はさりげなかったが、湾はなんとなく感じ取ってしまって苦笑する。
きっとこのあと、三人は湾に会いに来てくれるつもりだったのだろう。予定を狂わせて申し訳なく思いつつ、もうすこしだけ一人にして欲しかった。無意識に体を引いてしまう湾を繋ぎとめたがるように、シェリが手を伸ばして腕を絡めて来る。
「……案内して欲しいなって思うんですけど、駄目ですか?」
「シェリお姉ちゃん、無理言ったらダメですよ」
断っていい、という逃げ道をすぐに作ってくれるピーターがありがたかった。胸に温かい気持ちを抱きながらシェリを見て、湾はそっと唇を開く。
「……セーちゃんだけ、なら。いいヨ」
「え」
「え。……えっ、あ……だ、だって、香は大体知ってるヨ? 案内するトコ、もうないヨ!」
香港が中国に返還された祝いとして、『香港』が近隣の国を観光巡りしたのはそう古い記憶ではない。日本では各地の温泉巡りをしたらしいし、台湾では美食に舌鼓を打たせたりもしたが、このゼーランディア城も案内した記憶がある。その時はまだ無邪気に、隅々までも回って説明した筈だった。だから香は、知っている筈だ。三人同時の戸惑いの声にこそ思わず声をあげて、湾はしどろもどろになりながらそれらしい言葉を引きずり出し、シェリの腕を胸元に抱き寄せた。同じ女同士だ。南国の少女はすぐに分かったようで、物分かりの良い笑顔を浮かべて香とピーターに言い放つ。
「二時間後に待ち合わせで、いいですよね?」
「……なにかあったらすぐ連絡しろよ」
「うい。それじゃ湾ちゃん、行きましょう!」
携帯電話を示して言う香に頷いて、シェリは湾の腕を引っ張ったまま歩きだした。促されてついて行きながら、湾は振り返って香とピーターを見た。行ってらっしゃい、とばかり手が振られている。それに微笑んで頷き、湾は絡めていた腕をそっと解き、手を繋ぐ。そちらの方が好きだった。シェリは笑って、手を繋ぎ直した。
城の説明は口頭でざっと終わらせ、湾は南国の少女を連れて城壁に続く階段をのぼって行く。湾に会うまでも三人は城内の観光をしていただろうし、シェリが少女を連れだしたのは詳しい説明を求めてのことではなかったことは明白であるので、特に言葉は向けられなかった。ただ、そうしたい気持ちになって、湾はぽつりぽつりと言葉を落としていく。香やピーターは好きだが、きっと男性の前では言えなかった言葉だ。飴をくれたのヨ、と呟く湾に、シェリはただ頷いた。
それで十分だった。言葉が欲しい訳ではなかった。聞いてくれれば十分だった。城壁と階段を区切る扉は時代ごと付け替えられていたが、軋む音が重たく響くのはいつも変わらないことだった。顔をしかめながら城壁に立ち、海風に身を躍らせながら湾は囁く。それは歌だった。誰に聞かせる為のものでもない、もちろん、目の前の少女に奏でる為のものでもない。
それはかつてこの場に立っていた『オランダ』に、未来から語り聞かせる愛だった。響きはよく晴れた空に吸い込まれるように砕けて行き、やがて梢を揺らす風と遠くに砕ける波音にかき消され、無くなってしまう。ふ、と息を吐きだして湾は目を細める。光が強くて、ここは眩しい。
「……この城で」
シェリは湾の前に立って、言葉に耳を傾けてくれていた。南国の少女は、ただ湾の声を聞き届ける為にそこに居てくれて、そのことがなにより嬉しかった。喉が引きつる。
「この場所で、蘭は……私を手放す準備ばかりしていたの」
そのことを、いくら幼くとも『台湾』は分かっていた。身の内を食い破るように、国が揺れていたのだ。『国』として分からない訳がない。時の流れは時代のうねり。何者かが声もなく音もなく、『台湾』の耳元で囁いていた。その囁きを思い出す。
「一人で大丈夫なように、なんにもしなかったのに……もうすこしで終わりだって、自分だけ覚悟してたんだヨ」
「……男のひとって、ずるいですよね。いつも自分ばっかり、納得しちゃって」
「ずるいよネー。頭に来るヨ。でも」
息を吸い込む。あの日はもう記憶の中でも遠いのに、すぐ傍にまだ居るような気がした。あの別れのまま、もう二度と会えないと思っていた。『国』の身であっても、二人の間には永遠があって。あの部屋に閉じ込め記憶のように、誰の目にも触れられず、朽ち果てもせずに留まるだけだと思っていた。もう一度出会えるなんて、思えなかった。どうして会いたいと思ってしまったんだろう。どうして会えないままで我慢していられなかったんだろう。心が悲鳴をあげる。そんな簡単なこと、自分が一番よく分かっていた。
「でも……ずっと、好き、で」
「……うん」
「嫌いになんてなれないよ……!」
空が晴れていて、空気が乾燥していて、息は喉をつまらせて気持ちを苦しくするばかりだった。胸で凝る気持ちをどこかに遠く返してあげたくて空が見える場所に来たのに、ちっとも楽にはならなかった。うん、とちいさく呟いて、シェリは泣けもしない少女に手を伸ばし、そっと胸に抱き寄せた。背を撫でれば、体の中で渦巻く感情がちいさな震えとなって現れているのを感じる。悲しい、と言っていた。全身全霊で、悲しいと。悲しい程に好きで、かなしくて、愛しくて。どうしようもないと、息をしていた。
「セーちゃん。セーちゃん……わ、わた、し、どうしよう……どうすれば、いいか、分からないヨ。蘭、私に、どうして欲し……」
「うん」
「好きになって……? 蘭、私のことちゃんと、好きになって欲しいヨ。それが無理なら、せめて……好きって、ちゃんと受け止めてヨー……」
どうしてなんだろう、とシェリは思う。あんなことまでしておいて、どうしてあの長身の男は、湾の気持ち一つ受け止めてあげることをしないのだろう。新しく出来たばかりのこの友達はきっと知らないだろうが、眠る湾を抱きあげて運ぶ蘭の姿を、シェリは遠くから目にしていた。その時の表情を、息をとめて見つめていた。あれは恋ではない。それでも、恋ではないだけだ。
かつて恋だったものを核として、愛情を込めて蘭は湾を見つめていた。その上で、各国の前で少女を姫抱きしてみせたのだから、意味はもう明白に過ぎる。あんな風に手を出すな、と言っておいて。この存在は自分のものだと主張しておいて、こんな仕打ちはあんまりひどすぎる。だからシェリは、言ってしまうことにした。アーサーにも香にも、ピーターにもマシューにすら、男心がどうとか他人の恋道に口出しはどうこうと散々言われたが、まったく彼らと来たら本当に分かっていないのだ。男心がどうした、と頬を張り飛ばしてやりたい。
大事なのは、恋をして痛む少女の胸を守ることだ。男はまったくなんの役にも立たない。
「湾ちゃん、あのね。大丈夫ですよ。大丈夫……」
「……Je Maintiendrai」
「……ふえ?」
意気込んで、大丈夫、愛されてるんですよ、と告げようとした矢先のことだった。湾の唇から零れ落ちた、シェリには耳馴染みのある言葉に、つい間の抜けた声が出てしまう。『最後の楽園』と『美しい島』は互いによく分からないような視線を交わし合い、瞬きをして、どちらともなく頬を赤らめた。湾にしてみれば告げられた言葉が零れてしまっただけで、言葉を遮りたかった訳ではなく、その意味すら未だに分からないままなのだ。調べようと思えば、いくらでもそれは出来ただろう。分からないままにしておきたかったのは、決別の言葉ではないと信じていたかったからなのだ。
意外そうに硬直したままのシェリに首を振って、湾えい、と気合を入れて息をすいこむ。
「な、なんでもないヨ……!」
「なんでもなくないですよ。え? ……ちょ、あの……ちょっと待って」
待って、待って、と離れようとする湾をさらにぎゅうぎゅうに抱き締めて、シェリは混乱する己の気持ちを宥め、少女の事も落ち着かせようと、背をぽんぽんと撫でてやった。
「あの、今の、もう一回言ってくれますか? フランス語ですよね?」
「……オランダ語じゃなかったヨ?」
「フランス語ですよー。多分ですけど、もう一回聞けば分かると思います」
期待に満ちた瞳で見つめてくるシェリに、湾は困って視線を彷徨わせた。
「悲しい、意味だったら……」
「大丈夫ですよ。フランス語はね、愛を囁く為の言葉だって『フランス』さんが言ってました。彼の国自身がそう言うんですから、間違いなんて絶対にないです。……『オランダ』さんが、言ったんですか? 湾ちゃんに」
期待をしていいのかも、分からなくて。眉を寄せながら頷く湾に、シェリはなんだ、と明るい表情で笑みを浮かべた。大丈夫ですよ、と言い聞かせる。大丈夫、大丈夫。だってシェリの目から見て、彼はあんなにこの少女を愛しているのだから。それを伝えていない理由も、想いを受け入れていない訳も、シェリには分からないけれど。なにかが怖いんだろうな、とは思う。でもその怖さは、こんな風に女の子を悲しませるものではあってはいけないのだ。
すぐにパブって天使にもなってすぐ泣くわりとどうしようもない紳士は、けれど紳士らしく、『イギリス』として『セーシェル』にこう言った。女の子は大切に。女の子は可愛がって笑わせるもので、決して泣かせるものではない。守るものであって、傷つけるものではない。実際にアーサーが言い聞かせていたのはピーターや香やマシューだったけれど、同じ部屋にシェリも居たので、まあ少女にも告げたとみて間違いはないだろう。笑って、と心の底から願いながら、シェリは湾を見つめる。
「きっと愛ですよ。大丈夫! 大丈夫だから、教えてください」
「……Je」
『Je Maintiendrai』
発音が正確であるか、自信がない。それでもスペルは間違えていないだろう。先日、てのひらに描かれたばかりなのだから。何度も繰り返し、蘭は少女にそれを告げていた。震えながら告げて、湾は抱き締めてくれているシェリの背に腕を伸ばし、手にぎゅぅ、と力を込めてすがりつく。怖かった。ただ、ぬくもりがあれば乗り越えられる気がした。抱きついて来る湾をさらに抱きしめ返しながら、シェリはしばし考え、それは、と呟く。
「国標、ですね。オランダの。……誰がなんと言おうと、みたいな意味のある、強い言葉で、確か……」
「蘭の、国の?」
「『私は、守り続ける』って意味になると思います。だから、『オランダ』さんは、あなたを……湾ちゃんと守り続ける、と。誰になにを言われても、そうすると。そういう、意味の……言葉です」
記憶の中で、言葉が木霊する。蘭はそれを、どんな気持ちで告げたのだろうか。意味を教えてくれなかった言葉を、どんな気持ちで囁いていたのだろうか。守り続ける。それは、なにをだろう。その響きは、恋よりも愛に近く。守護よりは庇護に似て、よく晴れた空に投げる祈りのような尊さで胸に下りてくる。
「湾ちゃん」
「……え」
「それがもし今でも、変わらないで告げられた言葉なら……昔から今までずっと、その言葉がそこにあるなら、それは誓いです」
きっと、とシェリは言った。
「あの人はあなたという存在そのものに、なにか誓ったんだと思います。それが言葉の通り、守るということなのか、なにかを守護するという誓いなのかは私には分かりませんが……『オランダ』さんは、それを守ろうとしてる。けど、でも……でもね、湾ちゃん。『オランダ』さんは、湾ちゃんを好きですよ。愛してる。だってそれは」
紛れもなく愛の言葉で。そうでなければ紡げない言葉で。何度も、何度も繰り返す意味があるとしたら、それは胸にある誓いと恋を確かめる為のもので。
「蘭は……」
「うん。……うん」
「私のこと、好きでいてくれてる、の……?」
うん、と強く頷いて、シェリは湾をぎゅっと抱きしめた。息苦しく呼吸をして、湾は信じられない気持ちで目を見開く。その目から、涙が零れた。
「じゃあ、なんで……」
返す言葉を、シェリは持っていない。それを持つのはただ一人、湾をここまで傷つけた本人のみで、そのことがシェリにはとても腹立たしかった。この場に誰も居なくてよかった、と心から思う。香もピーターもそうだし、観光客にしても同じことだった。涙なんてきっと、誰にも見せたくないに違いない。抱き締めていてよかった、とシェリは思う。一人ではないと分からせてあげられるし、泣き顔は、見ようと思わなければ見られない。
「なんで、好きって受け入れてくれないのヨー……」
「……聞きましょう」
教えてくれないヨ、と否定しかかる湾に首を振り、シェリは何度でも、と言葉を重ねた。何度でも、何度でも、諦めないで聞けばいい。そのたびに否定もされず、沈黙で跳ねのけられれば心は痛いだろうけれど、でも。大丈夫、と言ってシェリは少女を抱きしめた。
「教えてくれなかったら、その時は私の所に来てください。こうやって、ぎゅってするくらいしか出来ませんが、もう一回聞きに行く勇気をあげられる……気がします」
「……セイちゃんは、どうしてそんな風にしてくれるヨ?」
涙の滲む瞳でぼんやりと視線をやりながら、湾は当たり前の疑問を口にした。二人は同じ『国』で島国であるという共通点を持っていたが、それだけで、深く関わったのすらこれが初めてである筈だった。シェリはすこしばかり困った顔つきで沈黙した後、涙が零れそうな湾に手を伸ばし、よしよしと頭を撫でてくる。
「実は、カオルからずっと話を聞いてて。湾ちゃんの」
「……香から?」
「うい。私とカオルはアーサーの所で百年ちょっと、一緒に居たんですけど。その頃からずっと、亜細亜にも女の子の島国が居て、とか……色々聞いていて、ですね。それで……会えるのをずっと、楽しみにしていたんです」
どんな子だろうってずっと考えてました、と言って『セーシェル』は笑う。まさか鎖国していないからと言って、私たち『国』が勝手にその『国』に会いに行って挨拶する訳にもいきませんし、と。だからずっと、ずっと待っていたんです。希望のきらめきを編み込んだ声で、最後の楽園はくすくすと笑う。
「湾ちゃんが会議に出てきてくれて、会える日を……私はずっと、ずーっと待ってたんです。……はじめまして、『台湾』。私は『セーシェル』です。あなたにずっと会いたかった。会えて嬉しいです。お友達に、なってくれますか?」
差し出された手を、取らないなんていう選択は何処にも無かった。涙を拭いて服で手を擦り、湾は自然と笑みを浮かべながら握手を交わす。
「……ありがとう。私も、会えて嬉しいヨ。ずっと……」
蘭。ねえ、蘭。今すぐ会って聞いて欲しいことができたよ。そう思って、湾は息を吸い込む。思い出に沈めた古い時の中に留まっていたら、きっとこの少女に会えないままだった。はじめて、思い出が思い出にできる。あのまま、閉じた二人に留まっていなくてよかった。あの時だけに戻りたいと、思わないでいられるようになったことを喜びたかった。
「ずっと、会えなくてごめんね……? お友達になろうヨ。私も、セーちゃんとお友達になりたいヨ」
「はい! よろしくね、湾ちゃん」
恋の相談とかいっぱいしましょうね、と満面の笑みで手を握り返してくるシェリに、湾は勇気をもらった気持ちで頷いた。きっと、次に蘭に会った時に、ちゃんと笑顔でいられる。そんな気がした。
針のむしろの会議を終えて、『オランダ』は早足に立ち去って行く。留まれば亜細亜に捕まることは目に見えていたし、先日のように『ベラルーシ』が襲撃に来る可能性もあったからだ。隣国でもある妹は国に帰ったからとて完全に逃れられる訳でもないが、それでも通常の兄妹のように、家で顔を合わせる訳でもない。わざわざ電話してまで文句を言う程暇な者も居ないだろう。『オランダ』はホテルを出た所で煙草を取り出し、ライターで火を付けて息を吸い込む。煙を肺の奥まで吸い込めば、吐きだす息は白く染まり、青空へゆるく立ち上って行く。舌に甘く、毒の味が広がった。
「……どうしたもんかの」
ポケットに手を突っ込んで歩きだす。人目につかないポケットの底で、桃花の髪飾りが涼しげな音を立てていた。