真夜中から振りだした冷たい雨は、朝を迎えても上がることがなかった。なんとも言えない気持ちで空を見上げたのは『セーシェル』だが、きっと『台湾』も同じ気持ちだっただろう。あまりに晴れていてもそれはそれで気に入らないが、雨が降っていて嬉しい気持ちになれるのは珍しい。落ち込んでいる気分を上向かせようとしているなら、なおさらのことだった。『国』を招く会議は世界中で行われ、特にきまりや法則性もなく各国を巡っている。今回はイギリスで行われる会議だったから、雨は我慢しなくてはいけなかったのかも知れないが、『セーシェル』は朝起きて一番に、『イギリス』に電話をして文句を言った。
「どうして晴れにしてくれなかったんです?」
魔法とかでアーサーならどうにかなる筈じゃないんですか、と会議を数時間後に控えた状態であるからこその人の名前で、少女はこの『国』そのものに文句を言ったが、いいがかりそのものであることなど自分が一番よく分かっていた。アーサーは寝起きのハッキリとしない声で挨拶より先に文句を言い放った少女をやんわりと叱りつけ、電話口の向こうであくび交じりの言葉を返す。あまり寝ぼけて電話に出るひとでもないので、もしかすれば昨夜は遅かったのかも知れない。
『お前なぁ……天候操作はそうやたらに使うもんじゃねぇって前々から言ってあんだろ? なんだよ。雨具忘れて来たのか?』
「持ってきましたよ。アーサーもちゃんと傘さして来てくださいね。会議前にホストが雨にぬれて風邪引きかけてるなんて英連邦で笑い話にしちゃますよ? そうじゃなくて、だってピクニックの時は晴れにしてくれたじゃないですか」
『そんなこと言ってもな……ピクニックはピクニック、会議は会議だろ』
ふあ、と時間に追いかけられていないのんびりとした空気をまとって、アーサーがあくびをしているのが分かる。電話の向こうではそれなりにばたばたと動きまわっている気配がするので、屋敷の者と秘書が朝食の準備と会議の資料点検、今日の服装ワンセットのチェックなどをしているに違いなかった。こんなことなら英国観光がしたいので当日までの宿を街中に取ってください、なんてワガママを言わなければよかった、とシェリは思う。いつものようにアーサーの家に泊まっていれば、直接の抗議もできたし、なにより朝食がおいしかっただろう。あんまり長電話してると朝ご飯できちゃいますよ、と遠くから笑い交じりにかけられたのは英連邦の長女の声で、カークランド家の食卓にはパンケーキが並んでいることだろう。メイプルとバターのたっぷりかかった、きつね色のふわふわパンケーキ。想像して切なく息を吐き、少女はホテルの窓から英国の街を見下ろした。静かに歴史を刻んで来た古い街に、透明な雨粒が降り注いでいる。
「そうですけど。だって今日は、湾ちゃんが来るんですよ?」
『……それがなんだよ。ん? ああ、そうだな。イングリッシュ・ブレックファストで。濃い目に。ミルクたっぷり砂糖はナシ。で、シェリ? 来るからなんだって?』
「晴れにしてくれればよかったって言ってるんですー。乙女心が可哀想じゃないですかー。これだからイギリスはロマンスの舞台には向かないとか言われるんですよー。じめじめして雨ばーっかり降ってるからー」
朝食に淹れる紅茶の指示を飛ばしながら言葉を繋げ、アーサーはシェリに語尾を伸ばすな、と言ってきた。腹立たしかったので完璧な発音でウィムッシュと言い返してやると、鼻で笑う気配がしたのでさらにムカついた。
『で? お前はそんな文句を言う為に、朝から電話してきたのか?』
「そうですよ?」
『……朝食は食べたのか?』
見つめていると不思議に憂鬱になってくる景色から視線を引きはがし、シェリはベッドサイドの時計に視線をやった。七時十二分。会議まであと三時間くらいだ。すでに着替えていたので、あとは朝食を取って鞄を持って会議場へ向かうだけだった。荷物は手配してあるので送ってもらえるし、会議場はここから歩いて十分程度の近さである。特に急ぐ理由は見当たらなかった。
「まだですよ。でも、安心してください。文句を言う時間はたっぷりあります」
『……文句言わないなら、朝食の席に案内してやる』
「どうやってです?」
決まっている。魔法で、だ。分かっていながら問いかけたシェリに、アーサーが深々と溜息をつき、その後ろでマシューが笑う声が聞こえた。
『なあ、機嫌直せよ』
「どうしましょうねー。天気によりますけどー。あとメイプルシロップとバターたっぷりのパンケーキとスープと、飲み物はカフェオレが良いです」
『ああもうお前はー……』
とてつもなく困った声で息を吐くアーサーの顔が、目に浮かぶような囁きだった。シェリは窓硝子に顔を移して髪を手で整えると、鞄を持ち、会議に必要なものが全部入っているかを確かめる。
『……インスタントしかないぞ?』
「我慢しましょう」
『会議までに晴れなくても……雨が止んでれば、機嫌直すな?』
まあ、それくらいで妥協するべきなのだろう。なんだかんだとワガママを許してくれるアーサーに幸せな気持ちになりながら、シェリはサービスの気持ちで言い放った。
「イエス・サー! 準備出来ました」
『了解。目を閉じてろワガママ娘』
言われる通りに瞼を下ろしながら電話を切って、シェリは鞄の持ち手をぎゅぅと握り締める。ぶわっ、と足元から翡翠の光が立ち上ったのを瞼の裏に感じたが、眩さはすぐに消えてしまった。慣れたもので、シェリは目を閉じたままスカートを指先でつまみあげ、叩きこまれた英国式の正式な一礼を、気配のする方へと送った。
「おはようございます、アーサーさん」
「おはよう、シェリ」
目を開ければそこは見慣れたカークランドの屋敷で、忙しく動き回っていた執事やメイドが、一瞬だけ動きを留めて『セーシェル』に挨拶をしてくる。それらにぺこりとお辞儀をしてから、少女は目を瞬かせてアーサーを見る。まったく、と苦いものを噛んだ表情で首を傾げながら、アーサーは手の中からエンジェルステッキを消す所だった。
「どうしてお前が『台湾』? だっけ? そんなに気にするんだよ」
「仲良くなったからですよー。あと、島国なので助け合おうと思いまして」
「……お前、俺も島国だって忘れてないか?」
あと『日本』も島国だし、『オーストラリア』とかもそうなるんじゃないのか、とぶつぶつ文句を言ってくるアーサーに、『セーシェル』は最後の楽園らしくとびきりの笑みを浮かべて言い放った。
「女の子同盟です」
「……そうか」
「そうです。あと、私のお友達なんですよ」
アーサーは意外そうな表情になった後、もう一度そうか、と言った。一度目よりずっと嬉しそうな響きにそうなんですと笑いながら、シェリは窓の外へ目をやる。雨が先程より、弱まってきているようだった。これなら会議場へ向かう頃には止んでいるかもしれないと思いつつ、シェリはパンケーキの待つ食卓へ、足取りも軽く歩み寄って行った。
メールが届いたのは、空港から会議場へ向かう車の中だった。ここ最近聞き慣れた着信音に思わず笑顔になりながら画面を見ると、会議が始まるまでには雨が上がることと、アーサーたちと一緒に会議場へ行くので始まる前に会いに行けそうにないことについての謝罪。会議が終わったらいっぱいおしゃべりしようね、という文字と共に頑張れ、と書かれていたので、湾は無言でぎゅっと手を握り、頷いた。ありがとう、頑張るね、とだけ返信をして携帯電話を閉じると、ちょうど会議の催されるホテルの前に到着する。
運転手にお礼を言いながら降りて、湾はふと空港で別れた保護者たちが心配になった。空港に下りた時点で忘れ物をしたとその場にくず折れた『日本』と、落ち着けある今から戻ってももう絶対に間に合わねえあるっ、と説得する『中国』は、果たして会議の開始に間に合うのだろうか。遅刻するのは死に等しいくらいに思っている『日本』なので、なんとか立ち直って何としてでも間に合わせてくるのだろうが、心配なことは心配だった。
先行ってやることあるんだろ、と背を押してくれた『韓国』の、とびきりのウインクを思い出す。兄貴たちを任せられる起源は俺なんだぜ、だから湾は頑張って笑ってくるんだぜ、と頭を撫でてくれた『韓国』がどこまで事情を知っているかは分からなかったが、勇気を貰えたのは確かだった。よし、と息を吸い込んで湾はホテルへ足を踏み入れる。その瞬間、息を吸い込んだのはまっすぐに向けられる視線に気がついたからだ。『韓国』の言葉にも、『セーシェル』からのメールにも耐えた涙が、それだけで零れ落ちそうになる。
ただ胸がいっぱいだった。そこに居るだけで、感情を上手く扱うことができなくなる。
「……蘭」
呼び声はあまりにちいさく、届かなかっただろう。届いていたとしたら、名を呼び返されないということはあり得ないからだ。『オランダ』はエントランスが見えるラウンジの一角に陣取っていて、机の上には書類があった。それを手に持っているのに、千年も前からそうしていたように、視線はまっすぐ『台湾』を見つめている。その直線を遮って、一人の少女が湾の前に立った。
「……こっち」
「え……えっと」
「『ベラルーシ』。ナターリヤでもどちらでも、好きに呼べ」
手首を掴んでぐいと引っ張って歩きながら、『ベラルーシ』は戸惑う湾の声にそっけなく言った。呼び方や名前で悩んだのではないのだが、瞬間的な混乱に上手く言葉がついて行かない。とっさに蘭の方を向いてしまう湾に、『ベラルーシ』はわずかに振り返り、眉を寄せながら言った。
「『セーシェル』と……『日本』から頼まれてるのよ。気持ちが落ち着いて、ちゃんと覚悟できるまで離しておいてくださいって」
だからこっち、と視線の束縛から湾を遠ざける『ベラルーシ』が先に告げたのは南国の少女の名だったが、どちらの指示に従ったかは、告げられる口調で明白だった。きっと、遅刻しないで到着できるだろう。思わず肩から力を抜いてしまいながら、『台湾』は手首を掴んで引いて歩く少女の横顔を眺める。すぐに視線に気がついたのだろう。ちらりと向けられた瞳は温かくはなかったが、それなりに思いやりに満ちていた。
「なに?」
「……どこに行くのかな、と思ったヨ」
「あの男が視界に入らない場所ならどこでもいいんでしょ? ……もうすこし。もう見えてる。その扉の中、入って」
別にあの男があなたのストーカーしてるとか嫌いとかぶちのめしたいから遠ざけてるんじゃないっていうのは分かってるから、と言い添えて、『ベラルーシ』は会議室にほど近い一室に、『台湾』の体をぽいと投げいれた。『台湾』が体を支え切れずにたたらを踏んで体をふらふらさせるのと、『ベラルーシ』がばたりと音を立てて扉を閉めてしまうのが同時だった。鍵をかけたがる表情で鍵穴を睨んだ『ベラルーシ』は、しかしドアノブが存在する限り、そんなものは無意味にすぎると己の経験から判断したらしい。まあ、追いかけてくるなら迎撃すればいいか、と戦時中のような呟きを発し、視線をなんとか立ち直した『台湾』へ向ける。
『台湾』が思わず背を伸ばしてしまったのは、『ベラルーシ』のことがすこし怖かったからだ。少女は『台湾』よりすこしだけ年が上の外見をしていて、冷たい美貌と鋭利に響く声を持っていた。なにより一度『日本』を介して紹介されただけで、そこまで親しい訳ではなかった。すくなくとも、『セーシェル』のようには。助けてもらったのに、なんとなく、追い詰められた気分だった。
どうしよう、と言葉を探す『台湾』に構わず、『ベラルーシ』は適当にソファに腰かけ、机に放り出してあった書類を手に取って読み始めてしまう。『ベラルーシ』の興味と関心が書類にのみ向けられていることを確認して、『台湾』はそっと部屋を見回してみる。接待の為の机とソファがいくつかと、あとは棚があるだけの小さな部屋だ。荷物が置いてある所を見ると、会議開始までの控室なのかも知れない。
手持ちぶさたにうろうろと視線を彷徨わせていると、『ベラルーシ』は視線だけを持ち上げ、やや不思議そうに言った。
「座らないの?」
「す……座っていい、ヨ?」
「立たせておく趣味はないわ。立っていたくなければ、座りなさい。もう少しして姉さんが来たら私は会議に行くけど、この部屋は好きに使っていいわ」
お茶はそこ、お湯はそこ、お菓子はそこ、と言いながら無造作に指差した先を見れば、確かに棚に用意があった。さすがに茶葉の缶ではなくティーバックだったが、ホテルメイドの焼き菓子は食欲をそそった。迷ってマドレーヌを二つ手に取り、『台湾』は『ベラルーシ』の隣に腰かけると、ひとつを持って少女の横顔を見つめる。やはり視線だけを動かして、『ベラルーシ』はなに、と言った。
「『ベラルーシ』ちゃ……さんの、だヨー」
「……さんでもちゃんでも、好きな方で呼べばいいわ」
うっすらと眉を寄せ、『ベラルーシ』はちいさな声でありがとうと囁くと、『台湾』から焼き菓子を受け取った。書類を机に置いてくれたのは、少女なりの気遣いだろう。ビニールを破いて指が汚れないように持ちながら、『ベラルーシ』はマドレーヌに一口分、歯を立てて顎を動かす。飲み物もあればよかったな、と思いながらも席を立つ気はせず、『台湾』も焼き菓子に口をつける。美味しかった。あの日、作って行ったパウンドケーキより、ずっとずっと美味しい気がした。それでも、苦しいくらいの胸の高鳴りはなかった。
マドレーヌを口にしたまま泣きそうに顔を歪める『台湾』を横目で眺め、『ベラルーシ』はゆるく目を細める。扉に視線を向けたのは、そこが開かないのを確認したのかも知れない。無言で『台湾』に視線を戻し、『ベラルーシ』はなにをするでもなく、ただそこに座っていた。話していい、という許可だと受け止めて、『台湾』は息を吸い込む。
「……好きな気持ちだけで、どうして居られなくなっちゃったのかな」
好きで、好きで。好きな気持ちだけで入られれば、きっとこんなには苦しくなかった。会いたいと思ってしまってから、気持ちが、相手にもそれを求め出してしまった。好きだと思って、それを分かってもらって、好きで居て欲しい。
「『ベラルーシ』ちゃんは……そういうこと、あるヨ?」
「……私には、よく分からない」
「そうですね。貴方は私が恋に落としましたから」
そういう苦しみは与えなかった筈です、と続く言葉に『ベラルーシ』は顔をしかめ、『台湾』は思わず口を手で押さえて扉を見た。『台湾』の膝の上に転がってしまったマドレーヌを見て、おやおやと苦笑しながら『日本』が扉を閉め、歩んでくる。威嚇するように睨みつけながら、『ベラルーシ』はしっし、と『日本』に向かって手を振った。
「出て行け、馬鹿。こっち来るな」
「否定されないのが貴女の可愛い所ですよ、ナターリヤ。……と、湾さん。ご無事でなによりでした」
忘れ物は手配したので明日にはこちらに届くことになりました、と空港の騒ぎの顛末を伝え、『日本』は絶句する『ベラルーシ』の頭をよしよしと撫でた。『日本』が女性に対して名を呼び捨てるところを初めて聞いた『台湾』は、なんだか衝撃を受けて見つめてしまい、そしてようやく、意味に気が付く。瞬間的に頬を赤くして、湾はあの、と声を上げた。
「きっ……菊さん! 菊さんは、『ベラルーシ』ちゃんの、こっ……恋人さん、なの」
「ええ。結婚を希望しながら付き合っております。ね?」
「もうお前口を開くな! やだ、兄さんと結婚する」
撫でる手をぐいぐいと押して遠ざけながら言うナターリヤに、菊は眉を寄せて身を傾けた。口唇が押し当てられたのは捕らえられた少女の手首だったが、唇にそうされたように、ナターリヤは全身にきゅうと力を入れて息を留めてしまう。視線を重ねてから口唇を離し、掴んで引き寄せた手首も開放して、菊は腕組みをしながら首を傾げた。
「全く。駄目ですよ、と言っているでしょう」
「……娘の前でこういうことしていいのか」
「ですから、唇には触れなかったでしょう。それくらいの自制はしますよ、私だってね。それで、湾さん? 気が付きませんでした?」
ですから紹介したつもりだったのですが、と言葉を添えられて、『台湾』はもうどうすることもなく頷いた。『日本』は仕方がないんでしょうけれどね、と苦笑しながら、警戒の眼差しで睨んでくる『ベラルーシ』にちちち、と人差し指を振った。
「あなたは『オランダ』さんで精一杯のようでしたし、気がついたということは……すこしは余裕が出来たのであれば良いのですが」
『ベラルーシ』は口元を引きつらせながら手で『日本』の人差し指を叩き退ける。ひょいと手を引っ込め、『日本』は複雑そうな顔で元父親の戯れを見ている『台湾』に苦笑した。
「ナターリヤがここに連れてきた、ということは……それとはすこし違うようですね」
「なんでお前が普通に会話できるのか理解できない」
「……蘭見たら動けなくなっちゃってたの、ナターリヤちゃん、ここまで連れて来てくれたんだヨー」
慎ましやかに視線を反らしながらそう答え、『台湾』は膝の上からマドレーヌを拾い上げ、表面をしげしげと見つめた。汚れていないのでこのままでも食べられるだろうが、もう一口を食べる気持ちにはなれなかった。溜息をつきながら袋に戻し、机に置いてしまった『台湾』は、ふと扉が静かに開閉したのに気がついて目をやった。入って来た女性は、あら、と微笑んで立ち止まる。
「『ベラルーシ』ちゃん、『日本』さん。おはようございます。……そちらは、『台湾』さん? はじめまして、『ウクライナ』です。よろしくね?」
「はじめまして、『台湾』です。湾と呼んでくださいですヨー。『ウクライナ』さんは、お迎え? ですか?」
「そのつもりだったんだけど……もう、二人とも。お話の邪魔しないで、お外でやりなさい。あとはお姉ちゃんが任されるから、ね?」
会議に遅刻しちゃダメよー、とほのぼのとした口調で告げながらも、有無を言わさぬ態度で『ウクライナ』は二人を部屋の外へと押し出してしまった。思わずほっとして、『台湾』は息を吐いてしまう。親密な戯れを見て嫌な気持ちになる訳ではないが、なんとなく心臓に悪いものがあったのである。ごめんねえ、と苦笑しながら戻ってきて、『ウクライナ』は自然な態度で『ベラルーシ』が座っていた場所に腰かけた。
「別に、そういうつもりはなかったと思うの。二人とも。許してあげてね?」
「だ、大丈夫だヨー」
「ふふ。……大丈夫?」
改めて問われた言葉はあんまり自然でさりげなく響いたものだったから、一瞬『台湾』はそれがなんのことだか分からなかった。しかし気遣わしげに見つめてくる表情で、それが『オランダ』とのことを聞かれているのだと理解して、恥ずかしさに息を飲みこんでしまう。うろうろと、視線が定められずに彷徨った。
「どうして……知ってるんですか……?」
「え? だって、『オランダ』さんがあんなに見せつけちゃったんですもの。皆、知ってるわよ?」
「見せ、つ……え?」
その言葉はとてつもない衝撃を持っていたが、それがすごすぎて、『台湾』には上手く受け止めきれなかった。現実のなにかとして理解できなかったのである。なにを言われているのか分からない、という『台湾』の表情をしげしげと眺め、『ウクライナ』はあら、と不思議そうに呟いた。
「ああ、でも……『台湾』ちゃん、眠っていたものね」
「あの……蘭、が、なにをした、ヨ?」
「『台湾』ちゃんをお姫さま抱っこして運んであげたり、お膝の上に乗せて周りを睨んだりかしら」
許容量の限界が突破したので、湾はなんだか泣きたくなった。前半はもちろん記憶にないし、後半はなんとなく覚えがあるからこそ恥ずかしさに転がりたくなってくる。そう言えば、いつも蘭が居たのは会議に来る『国』の玄関口として機能しているロビーで、そこからはエントランスがよく見えた。エントランスがよく見えるということは、入って来た者からも、そこに居る誰かの姿がよく見えるということなのだ。蘭は必ず、湾がすぐ見つけられるような、分かりやすい位置に座っていてくれた。息を吸い込んで、湾はどうにか口を開く。
「蘭は……蘭が、睨む、ヨ?」
「ええ。私はなにもされなかったけど、『アメリカ』くんは威嚇されてたわ」
「……蘭が?」
どうしよう、と思う。泣きそうだった。こんなことで期待したくないのに、それでも胸がドキドキ高鳴っている。だってそれはなんだか、とても好きだと言われているようで。誰にも渡したくないのだと見せびらかされていたようで、それに気が付けないでいたことも、気がつかないようにそうされていたことも、とても恥ずかしい。目を潤ませてしまう『台湾』に微笑して頷き、『ウクライナ』は申し訳なさそうに頷いた。
「ええ、もちろん。会議で会うことも多いけど、あんな風な『オランダ』さんは初めて見たわ。……きっと、あなたがとても大事なのね。……ごめんなさいね、そろそろ会議に行かなくちゃ」
また今度ゆっくりお話しましょうね、と告げる『ウクライナ』に頷きながら、『台湾』は椅子から腰を浮かして声をあげる。
「あの……!」
「……あのね」
そんな少女を落ち着かせるように、『ウクライナ』は微笑んで『台湾』の頬を撫でた。農耕のせいだろうか。すこしだけ荒れた手は温かく、柔らかく少女に触れて引いて行く。
「私たちは人より長く生きるでしょう? だからね。……その分、たくさんのことを考えてしまって、動けないこともあるの。好きでも、愛していても……恋をしても、だからこそ、動けないこともあるのよ」
「……嫌いじゃ、なくても?」
「好きでも、よ。いえ……好きだからこそ」
自分からは動けないこともあるのよ、と囁いて『ウクライナ』は笑った。もう一度ごめんね、と言い残し、『ウクライナ』は会議へ向かう為に部屋を出て行ってしまう。廊下に出た『ウクライナ』をエスコートするように手を差し出す、ジャケットを着た『国』が一瞬だけ見えたが、確認する前に扉は閉まってしまう。『ウクライナ』は、あの手を取って行ったのだろうか。そうに違いなかった。光景に、胸がどきどきと高鳴る。告げられた事実に気持ちが混乱するが、嫌な気持ちにはならなかった。『台湾』はソファに腰を下ろし、けれど座ってはいられず、すぐにそわそわと立ち上がった。
『オランダ』はまだ、あの場所に居るだろうか。それとも、『台湾』が来ないから居なくなってしまっただろうか。どちらでもよかった。胸がきゅぅっとして、息が苦しい。顔が熱くて、湾は頬に両手を押しあてた。どうしても、会議が始まる前に蘭に会いたかった。終わるまで、待ってなんていられない。時計に視線を走らせ、湾は部屋から飛び出した。
時間に余裕は残されていなかった。走ってロビーへ向かう『台湾』をすれ違った何カ国かが不思議そうな目で見送るが、挨拶もできないし、一声かけることさえしなかった。相手の『国』としての名を正確に一致させることのできる者すら少なく、そこで初めて『台湾』は、どれだけ『オランダ』しか見ていなかったかを思い知る。『ウクライナ』が言っていたことを信じるのであれば、『台湾』は知らずとも、相手は少女の顔を名前を一致させているに違いなかった。
大体からして、見知らぬ『国』が居ればそれは『台湾』として良いくらいの状況なのだ。恥ずかしさで顔から火が出る想いだが、過去の行いに後悔するよりも、今は現実で『オランダ』に会いたかった。息を切らしてロビーに走り込み、入って来た時に『オランダ』が座っていた辺りを見る。そこには誰も居なかった。落胆する暇すら惜しんで、『台湾』はくるりと身を翻した。大丈夫だ。諦めていない。気持ちを強く持てていることを確認して、少女は会議室へ向かって走って行く。
その中に少女は入れない。できるのは覗き込むくらいだ。例え中に入って行ったとしても咎められることはしないだろうが、その前に、『台湾』は『オランダ』を捕まえてしまいたかった。先程すれ違った『国』を追い越して、走って行く。がんばれー、と応援の声に勇気をもらいながら、『台湾』は息を吸い込んだ。視線の先に、煙草をふかしながら歩く『オランダ』の姿が見えた。
「蘭っ……蘭! 待って、蘭……! 待ってヨ!」
声にぎょっとして振り返ったのは『オランダ』だけではなかったが、『台湾』が見つめていたのは一人だけだった。とうとう辿りついたと思ったのに、伸ばした手をすり抜けて、『オランダ』は会議室に入ってしまおうとする。必死に走ってマフラーの端を握り締め、少女は泣きそうな声で呼びかける。
「蘭……」
「……会議や。離し」
「すぐ、すぐ終わるヨ。言いたいこと、言いに来ただけだよ」
だからお願い、こっちを向いて。吐き出す息に乗せて囁いた『台湾』に、そむけられていた『オランダ』の視線がゆっくりと振り返ってくる。腰をかがめてくれないので、湾は精一杯背伸びをして、蘭の顔を覗き込んだ。今まで、こんなに苦労したことはなかった。どれだけ優しく気遣われていたのか、思い知る。扉の前で立ち止まっている二人に、『国』たちは各々視線を向けながらも無言で傍を通り過ぎ、次々と室内へ入って行く。
苛立ったようにそれらを睨み、『オランダ』はやがて、ゆるゆると息を吐きだした。
「なんやざ、湾」
一言でいい。たった一言に、四百五十年。会えなかった気持ちを込める自信が、少女にはあった。
「好き」
それは呼吸の為だったかも知れない。開きかけた『オランダ』の口唇を、『台湾』は強い視線で制止した。
「好き」
「……湾」
「好き、好き。……好き!」
心の底から、その気持ちだけでいっぱいになる。言いきって、『台湾』は掴んでいたマフラーから手を離した。マフラーは滑り落ちるように離れて行き、『オランダ』の服を打って動かなくなる。視線を外してそれを見つめ、少女は息を吸い込んだ。
「蘭は、私のこと好きでしょう……?」
「……なんでやの」
「『ベラルーシ』ちゃんと『ウクライナ』さんと、『日本』さんと。『セーシェル』ちゃんに、聞いちゃったヨ。……蘭、私が寝てる時、抱っこしたヨ?」
国名を告げるのは一息に流れるように言って、あとはぎこちなく、『台湾』は言葉を紡ぎあげた。わずかに『オランダ』から視線を反らした先、両手を胸の前で握り締める『セーシェル』を見つけて、泣きたい気持ちになりながらも勇気をもらう。聞こえてきた舌打ちに思わず顔をあげれば、視線が近いことに気がついて狼狽する。
「……蘭」
腰を、屈めていつものように。いつもと同じ視線の高さにしてくれながら、『オランダ』は不機嫌そうに顔を歪め、頬をうっすらと紅に染めていた。
「あと」
「まだあんのか」
「……睨んだって、聞いたヨ」
それは、実際にそうされた者の口から聞いた言葉ではなかったが故に、不安定な戸惑いとして紡がれる。けれどあまりに顔の距離が近かったから、事の真偽を見抜くのは容易かった。
「蘭」
「……ん?」
まだなにかあるのか、とげっそりした視線に、『台湾』は覚悟を決めて言い放った。
「セーちゃんに、意味聞いたヨ」
「……おま」
動揺のあまり絶句する蘭、というものを、少女はうまれて初めて目の当たりにした。ふらりと揺れ動いた体が、がくんと高さを低くする。それは『オランダ』が廊下に両膝をついてしまったからで、あまりの動揺の激しさに、少女はすこしだけ心配になった。
「……嫌だった?」
「嫌っちゅーか……。そーけ、知ったやざ」
「うん。だから……だから、蘭が私のこと好きだって、そうだったら良いって、思ってるヨ。私は蘭が好き。四百五十年、ずっと蘭が恋しかったヨ。ずっと、ずっと、ずーっとだよ。今もだよ。……蘭、私ね、成長したよ。ちゃんと見てほしいヨ」
マフラーに触れたくて手を伸ばせば、指先は布に触れる前に絡め取られた。片手の指先を絡め取り、『オランダ』は溜息をつきながら立ち上がる。視線の距離は、そう離れはしなかった。
「蘭」
「ん?」
「蘭が守りたかったのは、私?」
それとも全く別の、他のなにかだったのか。まっすぐな問いかけに、『オランダ』は眉を寄せて沈黙した。答えを知りたい気持ちを持ちながら、少女はふと微笑する。
「言わなくても良いの。ただ、蘭、分かって欲しいヨ。私がどれだけ……あなたを、好きか。どんなに、恋して、好きでいたのか……!」
たった一言。離れたくないと求めて、それに返された言葉を耳の奥にずっと響かせて。繰り返して、繰り返して覚えてしまったくらいに。どれ程、求めていたのか。分かって、と言って、少女は言葉を切った。
「蘭」
「……湾」
「蘭、蘭。……らん」
たった一人が恋しかった。たった一人を、特別に好きでいた。
「……愛してるって言って、いい……?」
その気持ちを恋と呼ぶのにためらいは無く、その想いはきっと愛になる。誰より、なにより、好きでいた。それだけだった。
「それだけなの」
「湾」
「言いたいの、それだけ。だから……っ!」
会議に行って、と告げる筈の唇が震える。視線の先に、なにを見ればいいのか分からなかった。体がすこしも動かせない。抱き締める腕が強すぎて、背中が痛かった。
「ら……蘭? 蘭、どうしたの……」
「好きや」
体中を、突風が吹き過ぎて行ったような気持ちで、息を吸い込んだ。
「好きや。もういい。分かったわ、諦める」
「ら、らん? 蘭?」
「昔っから愛しい。お前だけや」
ぎゅうう、と音が聞こえてしまうくらい抱き締められて、湾の足が床から浮いてしまう。混乱の息を吸い込んで、『台湾』はあのっ、と叫んだ。
「蘭! みんな見てるヨ!」
「今更やざ。見させておき」
「な、納得できないヨ! 蘭、なに? なんで? なんでっ?」
なにが納得できないのかと問われたら、即座に全部と答えるくらいの用意があった。それは持って当然の疑問だと思うのだが、『オランダ』はやや面倒くさそうな表情で息を吐くばかりで、答えてくれそうにはない。それどころかますます強く抱きしめられたので、『台湾』はきゅうと眉を寄せ、『オランダ』の背を手で叩いた。
「ちょっと痛いヨ……!」
「離しとおない。我慢せ」
「嫌ヨ! 分かんない、から、嫌! 蘭、なんでっ?」
だんだん本気で腹立たしくなってきた『台湾』は、ばしばしと手加減なく『オランダ』を叩いた。さすがに痛かったのだろう。なにやらものすごく嫌そうな顔をして腕を緩め、『オランダ』は『台湾』の顔を覗き込む。
「言うてもええけど、怒るやろ」
「今もう怒ってるヨ」
「……手放しとおない」
もう、二度と。呟いて、『オランダ』は少女の頬を撫でた。
「あん時も、お前んこと離しとおなかったんやざ。もういっぺん手に入れたら、今度こそ離しとおなくなる。……二度も、失うのは嫌やざ」
「……だから、好きって言っても受け入れてくれなかったの?」
「さすがに、閉じ込めるのはどうかと思っての」
ことばの意味を考えて理解するのに、少女が要した時間は実に十五秒だった。それが遠回しの肯定であり、さらに失いたくないという気持ちのあまりどうこうしたい、という答えに辿りつき、『台湾』はぎこちない動きで『オランダ』を見つめる。
「……蘭」
「なんや」
「私、もうお城に閉じ込めておけるくらい、小さい女の子じゃないヨ」
そう告げると、『オランダ』はこの上なく残念そうな溜息をついた。世界をよく知らないままの幼女なら、それはもう容易く軟禁できたのに、という意思表示だった。それくらい昔から今も同じくらい愛されている、という事実に眩暈を感じながら、少女は男を睨みつける。
「蘭は、ちいさい方が好きだったかも知れないヨ。でも、私は……離されたら、もう、蘭の所に行けるのよ」
「……ああ」
「……蘭のものにしてくれたら、蘭のところに戻ってくるよ」
どうするの、と言わんばかりに拗ねた口調で訪ねてくる『台湾』に息を吐いて、『オランダ』は後ろ手に、無造作に会議室の扉を閉めてしまった。見守っていた者たちから一斉に抗議の声が上がる。
「……蘭?」
「見せつけるんは今度やざ」
なにを、と言いかけた唇が盗まれる。息を留めて目を見開いた少女の頬を両手で包み込んで引き寄せ、『オランダ』は優しく、目を細めて笑った。
「『フォルモサ』」
呼称はどこまでも甘く低く、穏やかに響く。動けなくなってしまった少女の瞼に手をあてて、『オランダ』は楽しげに、喉の奥で笑った。
閉められた扉を蹴り開けた『中国』が見たのは、しれっとした顔で立ち上がりマフラーを巻きなおす『オランダ』と、口元に手をあてて真っ赤な顔でしゃがみ込む『台湾』の姿だった。楽しげに視線を寄こす『オランダ』に恨めしそうな顔つきをして、『台湾』は足元をふらつかせながら立ち上がる。しかし、そのままよろよろと壁にもたれに行ってしまう少女を見送り、男はくっと口唇をつり上げた。
「ねんねやの」
「……蘭はこどもにああいうことするヨ。ロリコンだヨ」
「覚悟しねま。そこまでは待ったやざ」
城で一緒だった頃はしなかったろう、と唇に指を押し当てながら囁かれ、『台湾』は顔を真っ赤にしたまま息を吸い込む。しかし言葉が紡がれるより早く、顎を指先で攫われ、頬に口唇が押し当てられる。足にも力が入らなくなって座り込んだ少女に、『オランダ』はひらひらと手を振った。
「会議が終わるまでに覚悟決めや」
「な、なんの? なんの覚悟ヨ?」
「保護者の前で言えんわ」
さあ会議や会議、と集まっていた『国』を部屋に押し込みながら、『オランダ』は良い子で待っとれの、と『台湾』に言い聞かせて扉を閉めてしまった。『中国』も凍りついたまま『日本』に腕を引きずられ、同じく会議室の中へと消えてしまう。茫然としながら唇に指を押し当て、湾は即座に手を遠くへ離した。触れられた感触が、まだ残っていた。消えてくれそうにはなかった。
今見た光景を友人として喜んであげればいいのか、女子として『湾ちゃん逃げて超逃げて!』と言ってあげればいいのか分からず、『セーシェル』は様々な理由で混乱したまま落ち着きを取り戻さない会議場の中、頭を抱えて机に突っ伏した。『セーシェル』の横では『イギリス』が、今日の夜だな、と呟きを発してニヤニヤしているので、少女は足を伸ばして元宗主国を蹴飛ばした。
「下品なこと言わないでください……!」
「蹴るな馬鹿。いや、だって。どう考えても」
「ぎゃあああ! 湾ちゃんっ、やっぱり逃げて超逃げて!」
例え何百年思い続けていたとしても、『国』として長くを生きてきたとしても、それはそれ、『セーシェル』たちは少女なのだ。想いが通じ合った数時間後にアレなんて、乙女的にひどすぎる。『セーシェル』は、『お前もっと可愛い悲鳴あげろよ。な?』といっそ優しく言い聞かせてくるような『イギリス』の視線を無視して携帯電話を取り出すと、素早くメールを打ちこんで送信した。『セーシェル』が今日泊まる部屋のセキュリティは万全だ。どうしようもなくなったら逃げてきて良いから、立て篭もろうねっ、と告げた『セーシェル』の元に、すぐ返信がかえってくる。少女はドキドキしながら文面に目を落とし、よし、と頷いて椅子から立ち上がった。騒ぎを起こすなよ、と言いたげな『イギリス』の視線を無視して、涙目の『中国』と笑顔の『日本』、呆れ顔の『韓国』に取り囲まれて文句を言われているらしい『オランダ』を勢いよく指差し、言い放つ。
「『オランダ』さんっ!」
「……あぁ?」
返事の声は訝しげで、向けられた表情もなんだかとても怖かった。どうしたのかと言わんばかり、亜細亜の三カ国も視線を向けてくるが、『セーシェル』は怯まない。怯むわけにはいかなかった。なにせ乙女の危機だ。ものすごく危機だ。ぎゅぅっと手に力を込め、息を吸い込む。
「湾ちゃんは……湾ちゃんは、私が守りますっ!」
男の身勝手で好き勝手にできると思わないでくださいっ、と一息に叫んだ『セーシェル』に、女性陣からよく言ったとばかり賞賛する拍手が送られる。ふふんと鼻を鳴らして笑いながら椅子に座り直し、『セーシェル』は頭を抱えて突っ伏した『イギリス』に、不思議そうな目を向けた。
「で、なんで『イギリス』さんまでダメージ受けてるんですか?」
「……お前の子育てどこで間違えたのかと思って。『フランス』か? 『フランス』だな? 『フランス』だよな? よし」
「違いますよどっちかって言うとアンタです。あと、まあ……私だって、その、色々頑張ってるもので、湾ちゃんの気持ちはすっごくよく! 分かると言うか!」
だって好きって言うのだって本当は女の子にはすごく大変なんですよ、と主張する『セーシェル』にちらりと視線を持ち上げ、『イギリス』は穏やかな表情で言った。『香港』に俺から言っておいてやろうか、と。なにをどう予測してもそれが良い方面に向くとは考えにくかったので、『セーシェル』はにっこりと笑って、机の下で足を振りかぶった。がつん、と音がするくらい足を蹴ってやれば、今度こそ『イギリス』は倒れて動けなくなる。避けようと思えば簡単にそうできる相手なのに、受け入れてくれるのは愛情なのか甘やかしなのかをしばし考え、『セーシェル』は深々と息を吐きだした。