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 0 『ものがたり』

 頬に走った乾いた痛みを、騎士は甘んじて受け入れました。そうされることが、分かっていたからです。そうされるべきだとも、思ったからです。歯を噛んで呻きを堪えた騎士よりも、騎士を叩いた少年の方が、よほど痛そうな顔をしていました。泣きそうな顔でした。少年は騎士の親友で、喧嘩をしたことはありましたが、こんな風に、どちらも痛いような行いをしたことはありませんでした。少年は騎士を睨み、震える声で言いました。
「なに、して……なにしてるんよ!」
「守って、るんだよ」
 行いを嘲るような声で、騎士は言いました。それでいて、そう信じたがっているようにも、言いました。騎士は確かにお姫さまを守りたくて、だからこそ、なにものも傷つけることのないように、箱庭の中に咲く花のように、高い塔の上に閉じ込めたのです。少年は激しく首を振り、騎士に掴みかかるようにして叫びます。
「違うし! そんなん……そんなん! お前のやってることは、守るとかそういうんじゃないし! なんで、なんでだよ! 好きだって言ってたし!」
「好きだよ」
 掴みかかる手に、そっと手を添えて。騎士は幸せそうに微笑みました。そしてお姫さまのことがどんなに好きかを、森を吹き抜けて行く春風のような声で、少年に囁きました。お姫さまのことならばいくらでも、騎士は語ることができます。少年もそれを、知っている筈でした。知っていた筈の言葉ばかりが並べられます。少年は悲しげに、悲しげに首を振りました。
「お前は、間違っとるんよ……。そんなことしても、好きにはなってもらえんし」
「俺は」
 そっと、そっと、少年の手を撫でて落ち着かせながら、騎士は言います。
「俺は、好きだよ。俺が、彼女を好きなんだよ。だから……それに、彼女が俺を好きじゃないことなんて、俺が一番よく知ってる」
 だから、それで、良いのだと。微笑む騎士に、少年はかける言葉を持ちませんでした。少年の瞳から、ころりと涙がこぼれ落ち、騎士のてのひらを、濡らしました。



 3 宝石は深く隠されている

 休憩を告げる声に背を押されるように、ナターリヤは会議室から廊下へと出た。どうしても空気がこもってしまう室内と違い、廊下はそれなりに新鮮な空気を保っているようだった。すっと息を吸い込みながら歩き出し、ナターリヤは喉に手を当ててごく軽く眉を寄せた。数日前の風邪は、もうすっかり治っている筈だった。元より『国』の体は自己治癒能力が高く、ちょっとした風邪くらいなら、三日もあれば完全回復するのが常だ。
 ナターリヤも例にもれず回復し終わっている筈なのだが、会議室の乾燥してこもった空気が、喉にはよくなかったらしい。喉が渇いている気もしたので、ナターリヤはふらりと自動販売機の立ち並ぶ一角へと足を進める。少女の後を追う者はなかった。会議室の出入り口はいくつもあり、ナターリヤはそのうちでも最も利用頻度の少なそうな扉を選んで出てきたからだった。ホスト国が用意した休憩の為の部屋に、行く気になれない。
 多人数のざわめきを避けて休みたいのに、その場所がうるさいのでは本末転倒だ。場がざわめいていても会議とは関係ない会話なら気が休むという者もあるだろうが、あいにくとナターリヤは純粋な静寂を好むのだった。また、数日前までの体調不良で、周囲がすこし過保護気味なのもためらいの理由の一つだった。イヴァンやライナのみならず、バルトの二国やギルベルト、エリザベータまでが気にかけてくるのである。
 イヴァンに心配されるのは申し訳なくとも純粋に嬉しいし、ライナがあれこれ世話を焼いて来るのはうっとおしくもこそばゆいが、なにかあると性格上の問題でめんどうくさいバルトの二国にはどう対応していいのか分からなかった。ギルベルトとエリザベータに関しては、その二人が心配するせいで一時はヨーロッパ中の関係ない国々、果ては亜細亜の面々までもがナターリヤに目を向け、どうしたのかと首を傾げる始末だった。
 とてもではないが、やっていられない。会議中の、一応の私語厳禁をこれほど感謝したこともないと思いながら、ナターリヤは煌々と明かりがきらめくばかりの、自動販売機が立ち並ぶ一角で足を止めた。飲み物を一定の温度に保つ機械音が、捻じれた低音となって鼓膜を揺らす。あまり聞いていたい音ではないと思いながら、ナターリヤは視線をうろつかせた。温かいものを飲むか、冷たいものを飲むか、気分も定まらない。
 休憩時間は、一時間半。悩む時間はたっぷりあれども、こんなことに時間を費やしたいとも思えなかった。特に飲みたくないものがある訳ではない。溜息をついて服のポケットを探り、指先でコインを探ると取り出した。挿入口に入れようとした瞬間、ナターリヤの背後から腕が伸びる。
「よ、っと」
 チャリン、と音を立ててコインが自動販売機の中に落ち、青年の指が温かいミルクティーのボタンを押す。ほどなくガコン、と音を立てて落ちて来た缶を背を屈めて取り出し、『アメリカ』はにっこりと笑いながら、それをナターリヤに向かって差し出した。
「はい、どうぞ。喉が痛い時にはミルクティーが良いんだぞ! 俺は、そういう時でもコーラだけどね」
「……受け取る理由がない。あと、なぜここに居る」
「ヒーローは浮かない顔をしている美少女を放っておかないものなのさ!」
 ぱちん、とウインクを決めた『アメリカ』に、ナターリヤはうろんな目を向けた。なにを馬鹿なことを言っているのかとも思うが、青年の言動は基本的にいつもこんな感じで、ラインを決めているかのように一定から逸脱することはない。あるいは大きく軌道を外れることもあるのかも知れないが、ナターリヤはそれを知らなかったし、見たこともなかった。『アメリカ』はにこにこ笑って、受け取られることだけを信じながら缶を差し出している。
 その無垢な幼子の信頼を裏切るのが、なんだかとても悪い気がして、ナターリヤは仕方がなくミルクティーの缶を受け取ってやった。じわりと指先を熱くする程の熱を持った缶が、青年から少女へと受け渡される。顔をいっぱいに使って喜びを表すような笑顔を浮かべ、『アメリカ』は嬉しげに缶を見つめた。それからコインを数枚取り出し、自動販売機に入れてボタンを押す。購入したのはコーラではなく、温かいコーヒーだった。
 なんとなく動きを見てしまうナターリヤにまたウインクをして、『アメリカ』は少女の背をごく軽く押した。
「さ、休憩中なんだから。座ろうじゃないか!」
「うざいうるさいやかましい。……育て親に、異性の前では静かにしろと教わらなかったのか? 『アメリカ』」
「あんな変態紳士がそんな素敵なことを教えてくれるわけないじゃないか。それと、今日は会議だけど今は休憩中。だから『アメリカ』じゃなくて、アルフレッドって呼んでおくれよ。ナターリヤ」
 『国』が、国名とは別にひとの名前を持つようになってから生まれた、それは習慣で暗黙のルールのひとつだった。公的な場、国の思惑が動くような仕事の場では互いを『国』の名で呼び合い、それ以外の場では人と同じ存在として、ひとの名を呼び合うこと。古くにはなかったマナーだ。いつからそうなり、いつからそれが当たり前のような顔をしていたのか、ナターリヤは覚えていない。どちらかといえば、馴染みが薄かった。
 存在を確立してまだ若いアルフレッドと違い、ナターリヤは『国』として、それ以外ではないものとして長くを生きた。ひとの名を持つようになったのは比較的近代になってからで、耳にも、舌にも、親しく馴染んでいるとは言い難い。呼ぶ時につっかえてしまいそうなのも嫌だったので、ナターリヤは不快と拒絶をしかめつらをすることで表した。しかしアルフレッドは意に介さず、ナターリヤ、と温かく響く声で少女の名を呼んで来る。
「別に、いいじゃないか。休憩中なんだし」
「……お前が呼ぶのは、好きにすれば良い。私も、私の好きなようにする」
「うん。好きにするよ。さ、こっち。こっちなんだぞ!」
 ぱし、とアルフレッドは勢いよくナターリヤの手を取って、引っ張りながら歩き出した。あまりに突然だったのでなすがままに数歩を歩き、ナターリヤはハッとしてその手を振りほどこうとした。しかし意外とがっしりとした大人の男の手を持つアルフレッドは、そんな些細な抵抗で自由を取り戻せる相手ではない。ちょっと待て、とかみつく声も楽しげに笑い、アルフレッドはまあまあ、と少女のかんしゃくをいなしながら、中庭に出る。
 良い天気だった。空の色は薄いが、天がごく高くにある。空気は澄み切っていて、降りてくる光の帯は輝きのざわめきと静寂を帯び、大地に生える背の高い草を愛おしく包み込んでいた。小鳥の声が響く。リラックス効果とエコの観点から通常より多くの緑を生やしてある中庭は、よく整備され、開けた森のようだった。季節の花が、等間隔で植えられている。足元を草木の露で濡らしながら、二人はゆっくり歩いて行った。
 アルフレッドがナターリヤを連れて来たのは人の視線からわずかに隠れる位置に置かれたちいさなベンチで、三人程度がゆったりかけられる大きさをしていた。簡単に手で汚れを払った後、アルフレッドは舞台的な仕草で着ていたジャケットを脱ぎ、それをベンチにためらいもなく敷く。恭しく着席を促されたので、ナターリヤはぷ、と軽く笑ってからジャケットの上に腰かけてやった。ふふん、と笑ってアルフレッドが胸を張る。
「どうだい? 俺だって、ちゃんとエスコートくらいできるんだからな!」
「そうだな、意外だった。……なんだその顔は」
「え、君が俺のこと褒めるだなんて、そっちの方が以外だったからさ。驚いたんだよ」
 そこで、思ったことを言うのが実にアルフレッドである。世界の超大国は、超KYなのだった。ああそう言えばコイツ本当空気読めないアホなんだった、と白い目でごく軽く睨み、ナターリヤは不思議そうな顔をしているアルフレッドに、ベンチの、一人分空間を開けた場所を指差してみせた。座れ、という無言の仕草に、アルフレッドは嬉しそうな顔をして腰かけてくる。二人は同時にプルトップを開け、缶を斜めにして口につけた。
 出てきた時は熱いくらいだったミルクティーは、ちょうど飲みやすく温くなっていて、甘くナターリヤの喉を潤していく。ふう、と息を吐きだして缶から唇を離し、ナターリヤは目の前の緑に目を向ける。都会の中心部に立つホテルの、中庭とは到底思えない光景だった。緑の風景はまさしく懐かしい森の木陰に似ていて、仕事で会議をしに来ていることも、隣にアルフレッドがいることも忘れてしまいそうだった。風が心地良い。
「……なにかあったのかい?」
 風が梢を、心地よく歌わせて吹き抜けて行く。その合間に響いた素直な問いに、ナターリヤは穏やかな気持ちで視線を向けてやった。なにか、とナターリヤは声に出さず唇を動かす。確認するような動きだった。それきり声を響かせようとしないナターリヤに、アルフレッドは焦れたように眉を寄せ、だからさ、と言葉を重ねる。
「トーリスと、君。体調崩してたっていうし、その間になにかあったのかな、と思って」
「そうだとしても、お前にはなにも関係ないことだろう」
「あるよ。トーリスは俺の大切な友達だし、君は……」
 ざぁ、と天に抜けた風が、ナターリヤの長い髪をぐしゃぐしゃにしまう。あちこちに散らばった髪を、ごく自然に手を伸ばして整えてやりながら、アルフレッドはナターリヤを見ていた。ナターリヤは無言で、アルフレッドを見つめ返す。青年の指が意外な繊細さで動き、少女の長い髪を耳にかけた。一筋を指先で弄ぶようにくるりと巻きつけ、アルフレッドは少女と視線を交わしたまま、言う。
「君は、もっと笑顔で居るべきだと思うぞ」
「……笑顔」
「そうだよ。せっかく綺麗な美人なんだからさ! 笑ってごらんよ、ナターリヤ」
 君はきっと、とびきり笑顔の似合う女の子なんだぞ、と優しく微笑んで言うアルフレッドに、ナターリヤはくす、と喉を震わせて笑った。微笑にさえならない、か細く途切れそうな、それでいて純粋な優しさから生まれてきた笑みだった。ワオ、と大げさに目を見開いてアルフレッドが喜ぶ。
「うん、そうだよ。やっぱりそうだ。笑ってる方がずっといい!」
「……なんで」
「うん?」
 コーヒーで喉をうるおしながら首を傾げるアルフレッドに、ナターリヤはとても素直な気持ちで問いかける。
「なんで、リ……トーリスと、なにかあったと思うんだ」
「決まってるよ。彼、君のことが好きだからさ」
 あっさりと、なんの気負いもなく告げられた言葉に、ナターリヤは思わず息を吸い込んでいた。ぎゅうぅ、と眉間にしわが寄ったのは無意識であり、それでいて半ば意識的な否定で、抗議だった。あれ、と目を瞬かせるアルフレッドは少女の反応を本当に不思議がっていて、二人の間にある過去も、その関係も知る様子がない。だからこそなお荒れた気持ちで、ナターリヤは言葉を吐き捨てる。
「どうして、そんな馬鹿なことを」
「馬鹿なんかじゃないさ。君の方がどうかしてるよ。……トーリス、すこしだけ俺の家に居たことあるんだけど、その時、本当に嬉しそうに君のことを話してくれたんだぞ? 好きなんだって、恋してるんだって。こっちが嬉しくなってくるくらい、たくさん君のことを、俺は聞いたよ」
「……嘘だ」
 否定したがっているより、深く傷ついている声でナターリヤは首を振った。
「嘘だ! お前は嘘吐きだっ! そんなこと……絶対、ある訳ない!」
「ど、どうしてだい? 彼が君のこと好きなんて、誰でも分かることじゃないか」
「違う! そんなことある筈ないっ! そんなこと……絶対、ぜったいっ!」
 高ぶった感情に、喉がついて行かなかったのだろう。ひっ、と悲鳴のように引きつった音を立てて、ナターリヤは体を折って大きく咳き込んだ。慌てて体を支えて背を撫でてやりながら、アルフレッドは体調不良から回復したばかりの少女を、ひどく興奮させてしまったことに罪悪感を覚える。ごめん、と気持ちをこめて背を撫でていれば、すぐに反射的な咳き込みは収まったのだろう。息に肩を上下させながら、ナターリヤが言う。
「じゃあ……なんで、あの時」
「……あの時?」
「っ、見つけたしー!」
 なんでお前らこんな所に引きこもってるんよーっ、と不満でいっぱいの絶叫が、森に似た空間の静寂を、木端微塵に破壊した。意図せず左右対称の動きで視線を向けてくる二人に、道を走ってやって来たのは『ポーランド』であるフェリクスだった。フェリクスは木漏れ日に反射して純金にすら近い輝きを持つ髪を振り乱し、だんっ、と強く足を踏みしめて歩みを止める。
「ナターリヤ!」
「ちょ……フェリクス、彼女は!」
「お前! リトになんもされてないなっ? 大丈夫なんっ?」
 挑みかかるような強い眼差しにアルフレッドが少女を庇いかけるが、フェリクスが叫んだのは真逆の言葉だった。は、と思わず気の抜けた呟きでまばたきをするアルフレッドに一切構わず、フェリクスはナターリヤとの距離をつめ、腕を手で掴んで顔を寄せている。そのまま、衝動的にキスさえ出来そうな顔の近さだった。近い、と死ぬほど嫌な顔で心から呟くナターリヤにすら構わず、フェリクスはあわあわと視線を動かしている。
 若干の人見知りを高ぶった感情で押さえこんでいるだけなので、挙動不審になっているらしい。感情で、自家中毒気味の涙をうっすら浮かべながら、フェリクスはナターリヤの顔を覗きこむ。
「なあ、大丈夫なん? リト、またなんかしたとかない……?」
「……また、って」
「俺、あの時期、リトがなにしたか知っとるんよ。だから」
 二人とも様子がおかしかったから、だからまた、もしかしてなにかしたのではないかと、そう思って。休憩になってから姿が見えないナターリヤを探して、会議場中を走り回って探していたのだという。マジつかれたしー、とぐったりするフェリクスの腕を外させながら、ナターリヤは呆れかえった表情で溜息をついた。
「なにも。……お前も、心配のしすぎだ」
「そんなことないしー……リトがどんだけナターリヤに執着してるか、俺はホントよく知ってるしー」
 さすがに現代であんなこと出来るとも思わないし、するとも思えないけれど、それでも心配で、心配で。顔を見るまで安心できなかったのだ、としゃがみ込むフェリクスに、ナターリヤは物言いたげな視線を向けた。それからなんだか居心地が悪そうにしているアルフレッドに、疑念に満ちた表情で向き合う。
「コイツも、お前も……なにを勘違いしているのか知らないが。ひとつ言っておく」
 視界の端に、置き去りにされたミルクティーの缶が映る。その中身がもうすっかり冷たくなってしまっていることが、とても残念だった。
「アイツが私を好きだということは、絶対にない」
「……アルフレッド、コイツなに言ってるん? 俺にはよく分からんしー」
「俺にもよく分からないんだぞ……。え? なんだいそれ。新手のジョークかい?」
 全然面白くないから止めた方がいいよ、というアルフレッドと、なんだか可哀想なものを見る目を向けてくるフェリクスに、ナターリヤは腕組みをしてふんと鼻を鳴らした。
「『もう終わり』って言った」
「誰が。いつ?」
「……結婚の、終わりに。アイツがそう言って、指輪を抜いたんだ」
 私は、と。吐き捨てるように視線を落として、ナターリヤは言った。
「どうしてって、言ったのに。アイツは指輪を私の指から抜いて、『もう終わり。付き合ってくれてありがとう』って言って」
「……ばっ……ばか! リト、ばか、だし……ばかとしか言いようのない馬鹿だしー!」
「そ、そうだね……それは、もしかしたら、色んな条件が重なると、そこで、そういう意味で……終わりだと思っちゃうかも知れない、んだぞ」
 頭を抱えてしゃがみ込む二人を極めて冷たい目で眺め、ナターリヤは左手を平手打ち準備のようにひらつかせた。そこに、指輪はない。どの指にも、それはない。たった七ヶ月の『国』の結婚は、『国』としての体に、歴史としての影響すら残さなかった。左手の薬指に、かつてあった指輪の名残はなく、それは『リトアニア』も同じことだった。あの日、終わりを迎えてから、トーリスは一度も指輪を身に付けていないのだった。
 いつ見てもトーリスの左手の薬指は空いていて、指輪をはめる習慣すらないようだった。眩暈で倒れそうな様子で頭を抱えながら、フェリクスが信じらんない馬鹿だしー、と呟いて顔をあげる。真正面から睨みつけると、フェリクスは力ない頷きをみせ、ナターリヤの主張に同意してやった。
「ナタがそう思うのも無理ないしー……でも、でもな」
「……指輪って、もしかして金で出来た指輪かい? 石はそれぞれ、紫と緑の」
 ナターリヤの瞳の色と、トーリスの瞳の色を、それぞれの飾り石に。作られた指輪は、金で出来ていた筈だった。ものすごく不本意そうな顔でこくりと頷くナターリヤに、アルフレッドはあー、と全力で脱力しながら、ものすごく納得した風に頷いている。なんでお前が知っとるん、と訝しげなフェリクスの眼差しに、アルフレッドは額に指先を押し当て、なにかを堪えながら言い放った。
「俺、それ見たことあるよ」
「は?」
「指輪。多分その、君たちの、結婚指輪? ふたつとも、トーリスが持ってる」
 俺の家に居る時、時々キスしてるの見たことある、と言ったアルフレッドの言葉を、ナターリヤは数秒間、全く理解できなかった。じわじわと、言葉が、意味が、脳に染み込んでくる。突然驚かされたように、ナターリヤは体をびくっと跳ねさせた。唇に手が押し当てられる。驚きに見開いた瞳は、まさか、と言っていた。信じない、という意思はしかし先程のように強烈な拒絶ではなく、フェリクスはそれを見ながら溜息をつく。
「……ナターリヤ。まさか、リトの指ばっきばきにしてたの、それが理由だったりするん……?」
「ち……ちが……うっ!」
「ばっきばきにしておけば、リト、指輪はめられんしなー……。分かりにくいにも程があるしー」
 ちがうっ、というナターリヤ渾身の否定は、二人に微塵も受け入れられなかった。はいはい、と互いに受け流す仕草で頷かれ、違う、絶対、それはない、という否定は全て空気を揺らす音として発せられるばかりだった。ぐぅっ、とついに言葉につまってしまったナターリヤに、立ち上がったフェリクスが、苦笑しながら言う。
「リト、確かに指にははめてないけど、ちゃんといつも持っとるんよ。指輪」
「そうそう。ペンダントトップにして、肌身離さず、ね。金の、綺麗なチェーンに指輪を通して下げてる筈だぞ。ただ、服の中に隠してるから、外からは見えないと思うけど」
「……今日もか?」
 確認に込められた意思を読み取れない程、二人とも鈍い訳ではない。リトは部屋で休むって言ってたしー、と笑いながらフェリクスは道を開け、アルフレッドがぽん、とナターリヤの背を押した。
「確認しておいでよ、ナターリヤ」
「……アメリカ」
「うん。トーリスは君のこと、すごく好きだと思うんだぞ。俺はね。だから、確かめておいでよ」
 それで君は、もっと笑うようになればいい。ね、と笑いながらナターリヤを見送ろうとするアルフレッドを、少女の瞳がじっと見つめた。ふ、とその表情が和む。
「アルフレッド。……フェリクスも」
 トン、と身軽く、少女の靴が大地を蹴る。
「感謝する」
 そのままぐん、とスプリンターのような踏み切りで走って行ったナターリヤを見送り、フェリクスは深い溜息をついて脱力した。ちら、とアルフレッドを見て、フェリクスはぷす、と笑いに吹き出す。
「お前……顔真っ赤だしー」
「見なかったことにしておくれよ……。あの二人、会議再開に間に会うと思うかい?」
「多分。リト、あれで真面目なんよー」
 ぐぅっと太陽に向かって体を伸ばして、フェリクスは気持ちよさそうに笑った。同じく体のコリをほぐしながら、アルフレッドはすっかり冷めてしまった缶コーヒーを、一息に喉に通してしまう。苦くて、甘い味だった。



 脇目もふらず。息せききって相手のことだけを考えてかけて行く、そのこと自体が、とてもよく恋に似ていた。弾む息をなんだかおかしく思いながら廊下を駆け抜け、驚きや問いの目を向けてくる『国』の視線を振り切って、ナターリヤはトーリスに割り当てられた部屋の前に立った。休憩室ではない。他国から出てくる『国』の為、ホスト国が用意する宿泊の為の一室だった。鍵が開いていること確かめ、ノックもせずに開ける。
 トーリスは、ぼんやりと姿見の前に立っていた。突然の来訪者に一瞬だけ身を震わせて警戒の意思を宿しながら振り返ったが、それがナターリヤであると分かるとすぐに、穏やかな微笑みを浮かべて鋭い意思を消してしまう。無作法を咎めるでもなく、どうしたの、と問う笑みは、声は甘かった。会議で問題でも起きた、と首を傾げるさまはイヴァンが呼んでいるのかと、トーリスが思っていることを扉を閉めた少女に伝えてくる。
 本当に、まったく。憤りに近い想いで口元に笑みを浮かばせながら、ナターリヤは騎士に向かって足を踏み出した。なんでもないことなら、考えていることも、本当に容易く分かってしまう相手だというのに。単純な隠しごとひとつ、見抜くことが出来なかっただなんて。なんということだ。無言で数歩の距離をつめ、正面で立ち止まったナターリヤに、トーリスは困惑の強い表情で沈黙した。ナターリヤが、なにも言わなかったからだ。
 簡素な言葉で用件だけを告げ、ふいと立ち去ってしまうのが常である相手だ。視線は交わされることの方がすくなく、触れ合えば熱と痛みで傷つけあうだけの関係が長く、続いている。こんな風に傍によって来られると、だから、どうしていいか分からない。そっと目を伏せ苦笑して、トーリスはナターリヤの髪に触れようとした。美しい少女の髪一筋に口付けを贈ることさえ叶えば、それはまたとない幸福となることだろう。
 それを強く思っているのに、トーリスの手は少女に触れる直前、振り払われたかのように静止する。ナターリヤがごく軽い拒絶の意味を乗せ、視線を合わせて睨みつけたからだ。うん、とトーリスは悲しげに、ごく穏やかに微笑する。うん、分かっているよ、と手のひらは少女との空白を埋めることなく、中途半端に宙で静止した。騎士は、少女の望みを叶えてしまう。どんな時でも、どんなことでも。それが二人の間の常だった。
 気が付けばトーリスはナターリヤに対してそんな風で、『リトアニア』は、ベラルーシを受け入れながら遠ざけることで慈しみ、守り、恋をしていた。トーリスは髪の流れにそうように手を動かし、やんわりと目を細めて笑う。
「どうしたの? ナターリヤちゃん。……部屋、間違えた?」
 イヴァンさんのお部屋は三つ左に向こうだよ、と囁かれて、ナターリヤはかっと胸が熱くなるのを感じる。衝動のままに手を伸ばして襟を掴めば、トーリスはやや苦しげに眉を寄せただけで、微笑みを崩さなかった。びくん、と少女の指先が震える。それは微笑まれたことに対してではなく、ワイシャツの下にアルフレットたちが言ったような、鎖の感触を指が見つけたからだった。ナターリヤはじっと、服に隠された首元を見つめる。
 ぷちん、と少女の指先が、ひとつめのボタンを外した。わぁっ、と慌てた声をあげながら少女の手を止めようとする騎士を、ナターリヤは不快げな視線ひとつで縫いとめる。トーリスはとうとうこの日がやって来たのか、という諦め顔で苦笑して手を引き、すぐに少女のなすがままになった。ナターリヤは、舌打ちして叫び出したい気分だった。トーリスはこうしていつも、ナターリヤの意思を受け入れてしまう。包みこんでしまう。
 いつも、いつもそうだった。拒絶されたのは、たった二度だけ。あの石造りの塔から外に出すことは叶えられず、そして終わりの日に、指輪の拒絶は叶えられなかった。ぷちん、と釦を外して、あらわになって行く肌をナターリヤは睨む。指輪くらい、残してもかまわなかったのに。嫌だ、と手を隠そうとする少女の手を取って、騎士はごく穏やかに、その指から指輪を引き抜いたのだった。七ヶ月だけ親しく、体温を分けた金色の輪。
 そのものと、その片割れが、トーリスが首から下げた細い金の鎖の、先端で重なり合って揺れていた。
「……バレちゃった」
 対して反省すらしていないような軽い声が、ナタ−リヤの意識を揺らす。指が、腕が、体ががくがくと震えた。もう、我慢できなかった。ナターリヤはトーリスに掴みかかるように服を握り締め、泣きだす寸前の表情で言葉を投げつける。
「どうして……」
「うん?」
「どうして、持ってるんだ……っ!」
 受け答える騎士の言葉は、穏やかだった。額が重なるほど顔が近く寄せられ、ごめんね、と囁く吐息がナターリヤの肌に触れる。少女は目を見開いて、荒れる感情を堪えていた。どうしても、許せなかった。ふざけるな、と眼光を鋭くして、唇を噛む。
「返せ! 私のだ!」
「……え」
「指輪! 私のだ! これは……私の、ものだ! お前のじゃないっ!」
 胸が熱くて、とても痛い。感情を処理しきれずに浮かんで来る涙が、邪魔だった。ぶんぶんと首を振って涙を散らせば、触れる事をためらって静止した、トーリスの指先がひどく滑稽に見えた。昔は、ためらいなどしなかったくせに。触れて、抱きしめさえしたくせに。いつからかトーリスは、ナターリヤに触れなくなった。あの日が最後だった。指輪を引き抜く為に触れたのが、きっと最後のことだった。それきり、触れないままだった。
 それが嫌だと、嫌だったと、一度も言ったことはないのに。
「その指輪は私のものだ! お前が贈った、私の……お前のじゃない!」
「ナターリヤ、ちゃん……でも」
「でもじゃない。お前の言葉は聞かない。お前は……私を、もういいって、言った、お前の言うことなんか聞かない」
 返せ、と指輪をぎゅぅと握り締め、ナターリヤはトーリスを下から睨みつけるようにして言う。返せ、これは私のものだ、と。トーリスはひどい眩暈を堪えているように額に指先を押し当て、えええー、と響かないうめき声をあげた。そろそろと、視線が少女の元へ降りてくる。春摘み苺の葉の色をした、穏やかで優しい熱を灯した瞳が、しっかりと少女を映し出した。
「もういい、だなんて……いつ言ったの。俺」
「……最後の日に、指輪を抜いて。言っただろう、お前。『もう終わり。付き合ってくれてありがとう』って」
「違う。それはそういう意味で言ったんじゃないよ。指輪も……あんなに帰りたがってた君の、重荷に……鎖になるんじゃないかって、それで。君は……律儀だから、ほおっておけば指輪も付けたままで居てくれるかも知れなかったけど、でもそんな風に付けて欲しかったわけじゃなかったから。外したのは、俺のワガママだね。ごめん。……ごめんね、ナターリヤ」
 ごめん、と謝るトーリスを睨みつけ、ナターリヤは両手を持ち上げた。ぱんっ、と音を立ててトーリスの頬を両側から手で挟めば、青年の瞳には劇的な混乱が広がる。あの日から、トーリスはナターリヤに触れなくなった。それと同じくらい、ナターリヤが傷つけること以外で、きちんとトーリスに触れることは滅多になかった。痛みと、ぬくもりを与えながら指先に力を込め、ナターリヤはトーリスを正面から睨みつける。近かった。
 キスさえ、できそうな距離だった。
「お前、本当にふざけるんじゃない……!」
「な……ナターリヤ?」
「私は、確かに帰せと言った。あの塔から出せとも言った。けど……でも、一度も、お前が嫌だと、だから帰ると、だからここから出たいと、そう言ったことはないだろう! お前なんか簡単に刺せるんだ! でも私は一回も……一回も!」
 あの期間は、傷つけることなんてしなかった。苦い感情を噛み殺しながら叫ぶナターリヤに、トーリスは不意に顔を赤くした。視線が落ち着かなく、彷徨う。明らかな挙動不審に、ナターリヤの視線が険しくなった。
「トーリス」
「え、いや……ごめん。なんか、俺今すごい幸せな勘違いとかしてそうで……と、とりあえずちょっと離れて貰っても」
「お前、このまま首絞めて落とされたいのか……!」
 ぎり、と服を掴んだ手を交差させて首を圧迫するナターリヤは、それなりに本気だった。それなのに、ごめん、と甘く笑ってトーリスは手を外させてしまう。腕を掴んでいた手は離されて、ごく自然に、てのひらが繋ぎあわされる。切なげに目を細めて、トーリスは笑った。
「ごめん。でも……勘違いしそう」
「……そうか」
「手。……嫌なら振りほどいて良いよ。そんなに力は、入れてないから」
 こどもが蝶を捕らえるよりよほど繊細に込められた力は、ナターリヤがすこしでも身動きをすれば、手が外れてしまう程だった。きゅ、と唇を噛んで、ナターリヤは繋がれた手に力を込める。驚きに、トーリスの目が開かれた。
「……折らないの?」
「必要ない。……指輪を、返せ」
「……ねえ、ナターリヤ」
 ぐい、と腰が引き寄せられる。片手を繋ぎ合せたままで、トーリスはナターリヤの腰を引き寄せ、体をぴったりと触れ合わせた。もぞ、と収まりの良い場所を探して身動きしただけで、ナターリヤは抵抗しない。力を抜いた体は腕の中におさまって、トン、と頭がトーリスの肩に寄せられる。
「……なんだ」
「指輪は返さない。……返すんじゃなくて、贈らせて欲しいから。手を、借りていい?」
 ナターリヤは深々と息を吐きだし、迷わず左手を持ち上げた。トーリスの視線に見せびらかすようにして、顔の前で静止させる。ぎろ、と嫌そうな視線が、睨みとなって向けられた。
「そうやって」
「うん」
「一々聞かないと分からないのか。馬鹿」
 トーリスは微笑みながら、少女の左手を取った。ごめんね、と囁いて鎖から緑の石がついた指輪を外し、ナターリヤの薬指を見つめる。衝動的に爪に口付けたトーリスに、ナターリヤはなにも言わなかった。恥ずかしげに噛まれた唇が、少女が現した反応の全てだった。騎士はそっと、少女の指に指輪を通して行く。長く通されなかったことを感じさせない動きで、しっかりと、指輪は少女の指に収まった。あまく、光を弾いて輝く。
 ナターリヤはそれを見て、ごく穏やかに微笑んだ。

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